1. 輪は まるいからよく回るのであって よく回るから丸いのではない。
2. ひとは 自由であるゆえに その否定のウゴキに対してあらがうのであって 抵抗して自由になるということでは――じっさいにそう行動するのだが 自由を位置づける順序の話として――ない。
3. ところが 輪がまるいのは 人間がつくったのである。けれども 自由は 人間がつくったものではない。
▲ 天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず。
4. 自由であることは 人間が互いにそうであることにおいて互いに平等であることだ。
5. 自由と平等を保ちつづけるのは ユヅリ愛による。ひとの意志行為でありその努力による。
6. 自由は ユヅリ愛の実行の以前に それ自体に答責性を帯びる。すすんで帯びる。
7. 自由は 平等を侵さないかとおそれる。他の自由を侵さないかとおそれる自由を ふんだんに有している。
8. 自由は 黙秘権を恥ぢとする。(レティサンスとは 別物である)。
9. ・・・
☆ よろしくご教授ください。
A 回答 (50件中41~50件)
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No.10
- 回答日時:
最後の回答(というより単純な素朴なつっこみ)をどうかお許しください。
哲学的には「人は自由である」とのブラジュ先生の結論をいただきました。
それでは、たとえば、こういう現実的つっこみにはどう回答されますでしょうか?
1.じゃあ、クリスチャンでも「不倫してもいいのか?」
2.じゃあ、クリスチャンでも「人をぶっ殺してもいいのか?」
と、現実的で愚直な質問をされた場合です。
それでも「人は自由なのか?おかしくないか?」と、愚かなクリスチャンがいた場合です。
アホな質問と自覚しつつ(理論でも哲学でもないかも知れません)、そういうクリスチャンがいた場合はどのようにブラジュ先生なら諭されますでしょうか?
やはり現実的な質問には現実的(常識的)な回答をされるのでしょうか?
個人的にはそれしかないと思うのですが・・・
よろしくお願いいたします。m(..)m
★ 哲学的には「人は自由である」とのブラジュ先生の結論をいただきました。
☆ ええ。その理論をめぐって実践編が来て なお具体的な細かい問題が起きるでしょうし 問い求めがなお繰り広げられます。
というわけで:
★ それでは、たとえば、こういう現実的つっこみにはどう回答されますでしょうか?
1.じゃあ、クリスチャンでも「不倫してもいいのか?」
2.じゃあ、クリスチャンでも「人をぶっ殺してもいいのか?」
と、現実的で愚直な質問をされた場合です。
☆ まづあらためて理論編ですが 結論から言って 自由意志の自由度には人間の想像のおよぶあらゆる事柄が含まれます。
エワとアダムによるウソ・イツハリから始まって
カインによるひとごろし(これも じつはウソに起因する。ヤマシサ反応があったはずゆえ)
そして裏切り(不倫。これも ウソ・イツハリの問題)。
ウソ・イツハリとは 心にさからい 意志を踏みにじることです。
〇 図1
信じる:非思考の庭・・良心; ヒラメキ
ーーーーーーーーーーーー↓ーーーーーー↓ーーー
感じる:感性の原野・・ヤマシサ反応; 直感
考える:思考の緑野・・恥ぢの意識; 直観
これらと同時に 神を想定した場合には――つまり 想定しているのですが・そしてそれは 《有る神》派と《無い神》派とを許容する同じひとつの普遍神ですが―― ひとの身(感性)や心(精神)に生命体(霊性)のチカラが 信じるを通して及んで 無茶はしない(考えることはあっても 実行に移しはしない)となります。理論としてはです。
★ それでも「人は自由なのか?おかしくないか?」と、愚かなクリスチャンがいた場合です。
☆ これは 或る意味 かんたんです。人間の自由は 相対的なものでその自由度には ヘンなものもある。という捉え方です。
★ どのように諭すか
☆ これが 実践編の真骨頂になりますね。
匿名さんなら どのように諭されますか?
★☆ よろしくお願いいたします。m(..)m
☆ 偽ったアダム夫婦は エデンの園から追放されたが さらに生きた。
アベルをころしたカインをころす者は 七倍の復讐を受けると神は言
った。
――なあんて話では 諭せないでしょうから どうしましょう。
その人それぞれと対面してその人の考えなどを知って わたしなら考えます。
No.7
- 回答日時:
詳細なお礼を頂きまして誠にありがとうございます。
m(..)m>イワンの思想の弱点は 《不自由だ》という規定が 人間によって成されているところにあります。
この一文が私には難しく感じられました。
シンプルに考えると、聖書では神がモーセに十戒を授けられました。
当然、ご存じでしょうが、その中に「汝、殺すなかれ」とあります。
これはブラジュ先生的に解説すると、やはり<不自由だ>という規定が「人間によって(*ここがわかりません)」成されているとの解釈でよろしいのでしょうか?
まぁ、それは置いておいて、大変勉強になりました。
少し自分なりに納得と理解ができますようにじっくりと考えてみます。
誠にご教授をくださり、ありがとうございました。感謝申し上げます。m(..)m
PS.ところで、午前中、古書店へ行き、ブラジュ先生と英語先生の影響を受け、久しぶりに実存主義でも再勉強してみるかなと思い、カミュの短編集「転落・追放と王国」を買ってきましたよ。(^^)
サルトルは思想家としては天才であると思いますが、小説のおもしろさに限ればカミュの方が個人的にはおもしろく感じる次第です。(^^;)
サルトルの小説は一冊読んだことがありますが、私の頭ではおもしろさが理解できませんでした。難解過ぎて・・・m(..)m
☆☆ >イワンの思想の弱点は 《不自由だ》という規定が 人間によって成されているところにあります。
★ この一文が私には難しく感じられました。
☆ 前提とした条件(または理由)が 《想定(仮説:アブダクション)》によっているか そうでないかです。
仮説でないとすると その前提となっている《神がいるから(信じるから)》は その内容があたかも経験事象であると見なされていて あたまの中で思考され想像されていることになります。
そして同じく帰結も その思考や想像に応じて 《人は不自由である》とあたまで判定されています。
そういう人間の理性の問題であるなら 帰結はその反対の《人は自由である》という判定も まったく同じように同時に共存するかたちでみとめられます。
――という意味ですが。
★ シンプルに考えると、聖書では神がモーセに十戒を授けられました。
その中に「汝、殺すなかれ」とあります。
これはブラジュ先生的に解説すると、やはり<不自由だ>という規定が「人間によって(*ここがわかりません)」成されているとの解釈でよろしいのでしょうか?
☆ 結論はそうです。《汝、殺すなかれ》という思考の問題であるからには 人間の判断がかかわっています。
アブラハムは 長男イサクをいけにえに捧げなさいと神に言われ 悩みに悩みました。苦しみに苦しんで苦しみ抜いたすえ 神のみこころのままにとして従うことに決めました。生け贄にして刀を振り下ろそうとしたときに 神はイサクの命をすくいました。
アブラハムの得た生命のオシへは 《もし人は〔神の下にあるなら=〕人として自由であるなら 自分も他人もひとをころすことはない》でした。
これを モーセは 倫理規範としたのです。掟あるいは法としました。罰則つきです。
モーセは 個人としてはアブラハムと同じように信仰としての或る種の声を聞いていますが 集団としてその秩序と安全のために 法律(律法)をもうけることとしたのです。
経験思考と非思考との違いになります。
人間どうしのヨコの関係と 神とわれとのタテの関係と。
★ カミュ / サルトル
☆ どうぞ。
No.6
- 回答日時:
「自由」と言うことに対して勝手気ままな持論(ブラジュ先生のテーマである「答責性」「黙秘権」といった命題とは異なり、究極的な「自由」ということに関して「殺人行為」というテーマを例に挙げて2点ほど申し上げたいと思います。
お礼欄にて回答とご教授をお願いいたします。m(..)m1.自己責任において人は究極的に自由である。
自分の言動に責任を取る覚悟があるなら「人は究極的に(極限状態でも)自由である」という立場を私は取ります。
では、殺人はどうか?(究極的な自由の極端事例として)
「殺人すら自己責任において自由である」という立場を取ります。つまり、簡潔に言うと、「自分が死刑になっても良い」あるいは「自分は死刑になる覚悟がある」なら「その者の殺人行為」を止めることはできない・不可能であるとの立場を哲学者である永井均はニーチェを論拠に肯定しております。また、余談になりますが、永井均は「これがニーチェだ」の中で、「もし、あなたが相手を殺すことで自分の人生を肯定できるのであれば、ニーチェだったら殺せと言うだろう」とのニーチェ解釈をしておりました。この解釈・永井の見解は賛否両論と多くの批判を巻き起こしました。つまり簡潔に申し上げると「自分が殺されてもいい(死んでもいい)なら人殺しも「自由である」)。「自分が殺されたくない(死にたくない)のなら人は殺すな」ということです。
2.「神さえ存在しなければ、人間の行為はすべて(革命や殺人行為ですら)許される」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」イワンの思想)。
無神論者イワンの台詞・思想であります(イワンは最後、裁判の際に発狂します)。つまり、ここで問題になるのは「神がいるから(信じるから)人は自由なのか?」あるいは「神がいるから(信じるから)人は不自由であるのか?」という問題ですが、ドストエフスキーの思想では後者であるようです。イワンは革命家志望で無神論者でありました。そして、無神論者であるからこそ「神さえいなければ人はすべての行為(革命や殺人ですらも)許される」という思想でした(「大審問」の章)。イワンの思想は「法律」うんぬんよりも「神の存在を論拠」にしております。そして、ゴシマ神父の弟子であった主人公アリョーシャは求道者であり、神父志願者でありました。ですが、この「カラマーゾフの兄弟」には続編が予定されていると「あとがき」にあり、「神の存在を信じていた主人公のアリョーシャが神を捨て、革命家になる」という続編をドストエフスキーは予定していたというメモが発見されております。個人的な感想として(誤解でしたら申し訳ありません)、ブラジュ先生は「神がいるから(神もしくはキリスト・イエスへ対する信仰があるから)人は自由である」との見解かと感想を抱きました。しかし、ドストエフスキーの立場はどうやらそれとは真逆であるようなのです。すなわち「人は神がいるから完全に自由ではない」との立場を取っております。その解釈の違いはいかなる理由からなのか、私にはまだ、よく理解・消化できずにおります。
長くなり申し訳なく思いますが、どうか、未熟者である私にブラジュ先生の御意見・ご見解をご教授くださいませ。疑問に思い、気になる「自由」というテーマでした。m(..)m
ご回答をありがとうございます。
★ 究極的な「自由」ということに関して「殺人行為」というテーマを例に挙げて
★ 1.自己責任において人は究極的に自由である。
★ 自分の言動に責任を取る覚悟があるなら「人は究極的に(極限状態でも)自由である」という立場を私は取ります。
☆ あぁ それは 理論そのものではないですね。実践編になると思います。
いえ 理論として見立てるなら 《自由》は 現象――おのれの心的現象および社会現象――としてのみ問うことが出来るのであって 存在論ないし人間論なる純粋理論として成り立つという立ち場は採らない。ということになるかと考えます。
★ では、殺人はどうか?(究極的な自由の極端事例として)
☆ あらかじめコメントするなら 同じく主観主義のような立ち場かと。
主観の思考し認識する概念――つまりその《自由》――が 《究極として》と言いますかむしろ《人間の現実として》と言ったほうが分かりやすいですかね 問うべき主題であり問題だと。
したがって:
★ 「殺人すら自己責任において自由である」という立場を取ります。
☆ と帰結されるでしょうね。
そのように主観が或る確固とした内容の主観として生きているからには ほかに人間の現実はないと。世界を分析してその要素や要素間の成り立ちから抽象思考によって編集するような理論は 現実世界のお呼びではないと。
これで だいたい コメントし得たでしょうか。以下はかんたんになります。
★ 「自分が死刑になっても良い」なら「その者の殺人行為」を止めることはできないとの立場を永井均はニーチェを論拠に肯定しております。
☆ 論拠はなくても 主観主義の思想としては 成り立つでしょうね。
言いかえると 人間の自由には そういった主観の内的形成を許容する自由度があります。
★ 「もし、あなたが相手を殺すことで自分の人生を肯定できるのであれば、ニーチェだったら殺せと言うだろう」
☆ そうですね。『バッコスの信女たち』なる虚構作品の中でですが ディオニュソス神は 復讐として仇を討つ(ころす)ことを肯定し容認しています。その思想と呼応していると思います。
という批判を持ちます。なぜなら これは オウム真理教の《ポア》と同じ思想です。
つづく
No.5
- 回答日時:
自由度は責任の重さに比例する
自由の反対は不自由であり、奴隷に象徴される
奴隷は自由がない代わりに責任もない
責任のない自由人は存在しない
勝手、気ままに生きる人を自由人とは言わず
本能で生きる動物と言う
ご回答をありがとうございます。
★ 自由度は責任の重さに比例する
☆ そうでしょうか。異見を持ちます。
自由は 初めから大前提だと見ます。どうでしょう?
責任やそれを果たす義務は 具体的な意志行為のそのつど その行為に応じて発生するものと見ました。
言いかえると 自由は すでに初めに理論じょうあたかも無限にある。その自由度は じっさいの意志行為にかかわってその内容に応じて発生するのではないかと。発生は 制限される場合を含みます。
★ 自由の反対は不自由であり、奴隷に象徴される
奴隷は自由がない代わりに責任もない
☆ そうでしょうか。奴隷であろうと 人間です。人間には 無条件で自由がそなわっています。
そのオールマイティのような自由が 相手もしくは自分の行為によって――戦争奴隷や債務奴隷として――その実際の自由度としては 制限される。――と言うに過ぎないと見ます。
ひとは だれも無条件にまた無根拠にて 自由人です。現象として 制約が加えられます。
★ 責任のない自由人は存在しない
☆ げんみつには 答責性は 個々の意志行為(その表現した内容)にしたがってそのつど・その応分のものが 生じます。
★ 勝手、気ままに生きる人を自由人とは言わず
本能で生きる動物と言う
☆ まぁ 無条件に自由人であるのですが 説明責任を果たさなかったなら 自由人であることが 傷つきそこなわれますね。
No.3
- 回答日時:
人間は社会生活を円滑に進める為に、憲法や法律、社会的マナーや常識を備えて無ければアカンどす。
なので質問者はんの言われる自由が何を仰ってはるのか、理解に苦しみますが、人間は、義務を果たさなければ、最小限の自由も手に入れることは出来ません。
ご回答をありがとうございます。
★ 人間は社会生活を円滑に進める為に、憲法や法律、社会的マナーや常識を備えて無ければアカンどす。
☆ そうでしょうね。
そしてまた 倫理規範やルールだけでは 秩序を保てないかも知れず よき常識やナラハシを形成することがむつかしいかも知れないですね。
★ なので質問者はんの言われる自由が何を仰ってはるのか、理解に苦しみますが、
☆ 哲学のつもりですが。
★ 人間は、義務を果たさなければ、最小限の自由も手に入れることは出来ません。
☆ 義務は 基本として 自由な発言ないし表現の自由につきものである答責性にあると考えます。
(約束したという場合に 約束の内容を果たさねばいけないといったことは 省きましたが)。
つまり 言いたかったことは 《倫理規範をまもり 義務を果たしてこそ・そこで初めて ひとは 自由になるし 自由である・・・》 こういった考え方を批判しています。
順序が――時間的にではなく考え方の上で――ぎゃくである。すなわち 自由であるからこそ 答責性を持ちこれを果たし 常識をわきまえ 義務を果たしもする。・・・これでした。
No.1
- 回答日時:
譲り愛とムスヒ=結び、博愛、これなくして自由、平等は未熟な成立ではないでしょうか。
自由、平等、博愛、どれも欠かせないどれも同じ意味の三位一体概念でしょうか。ゆづり、あい、むすひ。日本式、三位一体概念です。笑ご回答をありがとうございます。
★ 譲り愛とムスヒ=結び、博愛、これなくして自由、平等は未熟な成立ではないでしょうか。
☆ つまり 純粋な理論にとどまる と言えるでしょうか。
★ 自由、平等、博愛、どれも欠かせないどれも同じ意味の三位一体概念でしょうか。ゆづり、あい、むすひ。日本式、三位一体概念です。笑
☆ そうですね。
ちょっと飛躍させてしまうなら 中で 自由が――生命体として・その自然本性として―― 自由であろうとし 自由であり続けるチカラを秘めている かも知れません。
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№6つづき1
★ 2.「神さえ存在しなければ、人間の行為はすべて(革命や殺人行為ですら)許される」(「カラマーゾフの兄弟」)。
☆ いまNHKの《100分で名著》でやっていますね。
★ ここで問題になるのは「神がいるから(信じるから)人は自由なのか?」あるいは「神がいるから(信じるから)人は不自由であるのか?」という問題ですが、ドストエフスキーの思想では後者であるようです。
☆ わたしの質問の趣旨説明は かぎりなく前者に近いです。
後者の弱点は 《不自由だ》という規定が 人間によって成されているところにあります。
前者とて同じではないか?
つづく
№6つづき2
イワンの思想の弱点は 《不自由だ》という規定が 人間によって成されているところにあります。
前者とて同じではないか?
じつは《自由》だというのは 何も規定していないのと同じだと言えます。神――相対的な存在である人に対して絶対性――を前提しないなら 人間が経験世界の中で自分の思考能力によって勝手に規定しているに過ぎないのですが そうではなく《自由は 人間がつくったものではない》と言っているなら それは神のもとにあって 《何も規定していない》のと同じになります。
だから 《自由であるから自由である》という愚にもつかないトートロジーで表わすしかない。
《不自由だ》と 人・間・が 規定しうるなら 他の人が 《自由だ》と規定するのも 同じように認められます。主観が主観として何を思おうとかまわない。不自由だと規定する主観は じつは自由なのだと言おうとしている。
№6つづき3
この匿名さんの回答は おもしろいテーマでしたね。
二つ目のドストエフスキーの件で おぎないます。イワンにしても:
★ 「神がいるから(信じるから)人は不自由であるのか?」
☆ と言っているではないか? という反論が予想されます。つまり 《神がいるから(信じるから)》という前提をはっきり言っている!!! と。
これは 困るのですが まづ:
① 神の存在のもとに 人は自由
② 神の存在のもとに 人は不自由
③ 神は存在しないゆえ 人は自由
☆ と分けたとき 三つは じつは同じ内容です。絶対性なる神は 経験事象としての有る無しを超えていますから 前提条件が 同じであり 帰結も 相対性の世界を自由・不自由のいづれに規定しても ―― 一様にそうなら――変わりないんです。
ところが:
つづく
№6つづき4
ところが:
②a 神がいるから(信じるから)人は不自由
☆ の場合は 《いる》を思考している。《信じる》を思考しつつ条件としている。すなわち 帰結のほうも――その条件をあたまの中に入れつつ考慮しつつ――人間が 規定している。
ということは 帰結の中の《不自由》は 必ずしも《一様にそうである》場合ではなくなります。
②b 神がいるから(信じるから)人は自由
☆ というふうにも 規定しうる。のではないですか?
すべては 《カラスの勝手でしょ?》となります。《主観の勝手》であり 主観主義です。m(..)m
☆☆ (№13お礼欄) ~~~
★ あの問題は
☆ 圭氏が 仕事がうまくゆかず 破れかぶれにならないかと心配しています。(なって 立ち上がることを期待するという意味でもありますが)。
~~~
☆ これは 恩人との面会が――解決金は解決しましたが―― ついぞわだかまりは消えなかったようなんで そう考えました。
恩人が 一方的に婚約を解消したこと そしてあとで 打ち明け話をメディアに流したことを 圭氏は悲しんでいるそうです。恨みがあるようです。
婚約者にお金を無心しつづけることには あやまちは無かったという認識だと見られます。
№24つづき1
★ すでに地獄の底にいて、這い上がれないとわかっている。鼻をへし折っても無駄でしょうね。鼻をへし折っても、あの人はあの人のままでしょう。・・・あの人の人生はすでに終了しているのだと思います。ただ、肉体的に死んでいないから生きているだけではないか?自殺という手段がありますが、いかんせんNYの高級マンションではそれはできません・・・とにかく結婚生活はかなりの(極度の)不幸ではないかと・・・
☆ そうですね。
★ あの人の人生はすでに終了している
☆ 言えるかと思います。
ただし かの人は 人間であると同時に 生命のチカラを発揮して 誰れ彼れにかかわらず 個人的にもメールを送ってくれていると思います。受け取るかどうか 読む(読める)かどうかですが 終了からのよみがえりも さづかるかも知れません。パウロの例があります。
つづく
№24つづき2
★ あわれというか、かわいそうというか、とにかく悲惨な人に見えます。
☆ そうですね。以下は 割愛させてください。閲覧者は じっくり読んで考えるところをご自分でまとめると思います。
恩人との面会のとき 一度もけっきょくニコッともしなかったそうです。心が凍ってしまっているのでしょうか。なかなかむつかしい情況なように思えます。
★ もう、この世にはあの人を救える人は誰もいないのではないかと・・・
☆ 言っちゃいましたね。
みなさんへ。《人間は 自由の刑に処せられている》か。
サルトルのこの命題をめぐって何かありましたら せっかくですから このスレッドに書き込みください。
№46つづき
★ 同調圧力的な差別を無くしたい
☆ は 別種のおおきな問題です。
★ 白人の女の子が黄色人種だから手を繋ぐのを嫌がったのか?・・・
☆ 咄嗟の感覚的な判断でそうしたと考えます。発展途上の段階であると。
★ 自由って( ̄~ ̄;)なんだろうねぇ~
☆ 答責性をともなう我がままです。
★☆ 自由であるからこそ、自由である
☆ これは 理論の根拠を説明したものです。すなわち 無根拠に拠っていると。
補足スペースの最後ですが みなさんに問い求めます。
《自由〔および平等〕》という概念だけをいぢって 次のように社会の制度を区別分類することができますか?
α 民主自由主義
β 自由民主主義
γ 民主社会主義
δ 社会主義
ε 共産主義
☆ α の民主自由主義が 渋沢栄一の合本主義と呼応するかどうか いかがでしょうか?