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もういちど問い求めたいですね。どうでしょう。

質問者からの補足コメント

  • №21つづき

    ムハンマドの場合が ややこしいと思います。アル・クルアーンは オシへだと言ってよいはずですが しかも――信徒にとっては―― 神の言葉そのものです。

    アラビア語は 人間の言葉だと思うのですが 神の言語だとされます。

    こうなると 何とも――哲学としても――口出しするのは むつかしい。そういう特殊絶対性としての神観であり神学であり宗教(神のオシへ)なんだと思います。



    ★ キリストは ただ単なる、ユダヤ原理主義者だけだったのだろうか??
    ☆ この議論は はっきりしています。民衆は イエスに絶大な信頼を寄せ イスラエルのローマ帝国からの独立をみちびいてくれると思っていました。

    つまりイエスは 政治的指導者ではなかったということです。


    ★ それぞれに於いて『神』の取り扱いが事なっている点です。
    ☆ どうでしょう。わたしの中では 神はまったく同じ扱いなのですが。

    No.21の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/07 09:51
  • №77

    ★ 神の根拠を説く宗教なんかは
    あくまでも、その宗教の信者や教えてな根拠でしかなく
    ☆ まづ宗教ではなく 個人に置きかえるなら 表現の自由でまもられます。問題は その根拠の中身です。

    宗教が そうする場合は 他の人に宛ててだと 意味がないです。《思考や感覚を超えて無条件に何かを受け容れる》という意味での《信じる》は 他者から根拠なりを説かれて そうすることはあり得ないからです。

    神をではなくその説を受け容れることは あるかも知れないけれどそれは 思考の問題であり信仰とは別です。

    その説教にうながされ信仰を持つかも知れないのですがそれでもそれは 因果関係があるのなら 一定の思考と理解という条件によって受け容れるということですから 信じるではなく 前者と同じ思考の問題にとどまります。 

    ★ 赤の他人の根拠・・・
    ☆ いえ これは 吟味し検証すればよいんです。

    No.77の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/20 10:45
  • №78

    ★ 宗教とは思想である
    ☆ この信仰を オシへに表わして集団的なものとしたのが 宗教です。あり得ない。つまり あり得ているのは 思想の集団なんです。

    生命体と大いなる生命とのタテの関係が 信仰であり 信仰は 人と人とのヨコの関係で共同化するのは 無理です。出来たとしたら 信仰ないし神についての思想を共有したに過ぎない。


    ★ 歴史から宗教をこうさつしてみると
    ・・・
    わかりやすく言えば
    食べる事が出来ないラーメンの味を
    美味しいと言い切ってしまってるような状態なのかとも個人的には思えるんですけどね
    ☆ おもしろい。ぎゃくに言うと もし言い切ってしまわないなら その集まりは 同好会だとか生活共同会みたいになって 無害です。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/20 18:15
  • いい説明法があるのを忘れていました。


    神を 問題をめぐる正解に譬えると 宗教のオシへや神学やら何やらは 補助線です。

    補助線を引くと 分かりやすくなります。


     ほら あの月をみてごらん。まんまるい。

    と言って指差したとき だれもその指を見る者はいません。というタトヘで言って 月が 神であり 指は オシへです。オシへは 経験思想ですね。

    No.79の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/21 09:08
  • №88つづき


    ⑥ ギリシャ人が バルバロイと呼んで田舎者扱いをしたアフリカ(前身はカルタゴの地)の人間です。


    ⑦ 愛人の話が出ていますが 一点の擁護としては 《わたしは閨(ねや)の信実をつくした》と言っているとおり パートナーへの裏切りはしなかったようです。


    ⓼ 《悪は存在しない。ただそう呼ぶ現象が――負の善として――あるのみだ》という倫理観です。


    ⑨ 時間論は 《永遠の現在》説です。過去は 記憶として現在にあり 未来は予期としてやはり現在にある。いま社会生活の中で何らかの価値創造――ま ふつうに言う仕事ですが――をおこなっているというその幅を持った時間過程が 現在時である。この現在時に集中するという恰好です。


    ☆ 取りあえずこんな感じですかね。

    No.88の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/12/26 12:53

A 回答 (86件中1~10件)

神は「愛」

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ですが その命題は どこから・どうやって導きましたか?

お礼日時:2021/12/07 05:20

普遍神ならば、宇宙の根拠を創造する側にいるので、我々宇宙のアバターが、神の根拠を語るのは、おかしい話です。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あなたには 思いっきりいぢわるぢいさんになりますが:
★ 我々宇宙のアバター
☆ は その本体について――勝手になのか・あるいはふつうに自然になのか――いろいろ忖度しますね。

根拠についても 語りたがるのではないですか?





ただし 推論の構成が 必ずしもうまく行っていないかも知れない。つまり:
★ 我々宇宙のアバター
☆ であるとすでに規定しているのなら すでに本体はアバターの根拠であると言ったも同然ではないかと。




たぶん:
★ 普遍神ならば、宇宙の根拠を創造する側にいる
☆ というふうに 普遍神を擬人化し物語化して《創造主》だと規定するかたちが――それは 単なる条件づけでの推論ではありますが―― いま懸案の《根拠かどうか》の問いを(いや 答えを)先取りしていることになりますまいか。

お礼日時:2021/12/07 05:29

ですが その命題は どこから・どうやって導きましたか?」←?



命題でも無いが・・?

あなたは 誰から産まれたの?

親でしょ・・

親も親(あなたから見れば 祖父母)・そうやって 祖先を辿っても 変わらないものが 愛・・

だったら 創造主は 愛
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この回答へのお礼

ひとが生まれたこと その根拠が 愛だということですか。

そうだとしまして では その愛は どこから来たのですか?

★ 創造主
☆ からだというわけですか?

では そう言える根拠は なんでしょう?


そのように創造されているからだ ということになるのですか?

では そう言える根拠は?


――こういった問いが つづきますね。

お礼日時:2021/12/07 05:39

神とは、問いである。

或いは、弁証である。

人が問う時、神と対峙します。対話します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 神とは、問いである。或いは、弁証である。
☆ ・・・ということは こういうことでしょうか?

つまり 神があるなら なんで世界に悲惨なことが絶えないのか? といった問いが生じる。この問い自体が 神のことをしめしているのだと。

つまりは その問いについて 今度は神を弁護する答えもしめされる。

そういった人間の現実の思索の過程に神のことは 垣間見られると。



★ 人が問う時、神と対峙します。対話します。
☆ ははぁ なるほど。

つまり 神についてそれは有るか無いかとか その本質は何かといった探究よりは――その探究をないがしろにせよということではないが それよりも―― じっさいの生活上 ひとはその生について問いを持つ。

その場合 時として 神と対峙し対話までを行なうことがある。のだから そのような実存の姿をとおして 神が むしろ親しき存在であるように思われている。それで充分だと。


さらにそこから――わたしが勝手に展開すれば―― だから神の根拠がどうかなどと問う必要は必ずしもないのではないか。と。


だとすれば 神は 無根拠である ですかね。つまり 強弁していますが そうなるようです。

お礼日時:2021/12/07 06:38

アバターってcreaturesのことです。

被造物です。神はcreatorです。けれど我々は神の派生者ですので神なんでしょうね。それを神の子と言ったりしてるんでしょうね。
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この回答へのお礼

つまりは 自同律であり 自同律〔と派生命題と〕で済むのだと。

それは そうだと思います。無根拠ということですが。

お礼日時:2021/12/07 06:41

根拠、無根拠って存在証明ですので、そこに神学要らないな。

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この回答へのお礼

★ 存在証明
☆ は 要るのですか? おこなえますか? (出来ないと思いますが)。

お礼日時:2021/12/07 06:43

お礼について。



無根拠である、という証明は人の業ですよ。不存在の証明というものが、無根拠の証明というものが、可能であればなさればよろしい。

そういう、「問い」と対峙することが、神との対峙であると。人が何かを「問う」時、それ自体が神との対話であると。

神があるなら、世界は平和って、んなアホなこと誰が思うんでしょうか?
神がこの世の平和を担うんですか?んなアホな。それは、人の務めでしょ?
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この回答へのお礼

★ 無根拠である、という証明は人の業ですよ。
☆ まったく論理がないというわけでないですが 無根拠だというのは だいたい自同律です。(必ずしも証明しえていないという意味です)。


ですからこの命題は:
★ 人の業
☆ です。ただし いま言いましたように:
★ 証明
☆ を主目的にしているわけでも むしろ ありません。

言わば共通感覚のようなこととして 問い求めている恰好です。



★ 不存在の証明というものが、無根拠の証明というものが、可能であればなさればよろしい。
☆ 取りあえず 前項のお応えまでと いまは します。


あっ。一言ですが 神は:
★ 不存在(☆ つまり 無い)
☆ のではなく 非存在である でしょうね。
(存在するに非ず 存在しないに非ず。有るとも無いとも決めかねる。またぎゃくに 有るとも無いとも どちらとでも――同時に――言える)。


★ そういう、「問い」と対峙することが、神との対峙であると。人が何かを「問う」時、それ自体が神との対話であると。
☆ この点は 前回に確認し得たと思います。



★ 神があるなら、世界は平和って、んなアホなこと誰が思うんでしょうか?
神がこの世の平和を担うんですか?んなアホな。それは、人の務めでしょ?
☆ というふうに 対極にまで振り子が振り切ってしまうと また議論がややこしくなりませんか?


神は――無根拠にて―― 世界の平和とはいっさいカカハリがないと言えるはずですし また同時に 人びとの平和への努力に対して 何らかのハタラキカケを ひそかに おこなっているかも知れない。

どちらも言い難く またどちらとも 同時に 言える。のではないでしょうか。

どちらか一方に決め得たとすれば その人はすでに神であると成りますまいか。

お礼日時:2021/12/07 08:26

根拠を問う、は学問です。

学問は合理です。しかし信仰は学問ではないです。不合理です。この不合理ごとに、神学の根拠を問う合理性はそもそも必要ないでしょう。
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この回答へのお礼

★ 根拠を問う、は学問です。
☆ つまり 特に経験科学です。

その故にも:
★ 学問は合理です。
☆ となります。経験合理性にもとづくのでないならば 科学とは言えないと見なされます。一般に。


★ しかし信仰は学問ではないです。
☆ ですね。しかも できるだけ分かりやすいように 経験合理性にもとづいて説明しようとはしますし 取り分け形而上学は それがあるとしたなら 神論であり信仰論であると思います。

学問から 信仰という中核の点で 飛躍して神について述べるのが 神観であり神学です。



★ 不合理です。
☆ いえ。超合理です。合理ではない(不合理)なのではなく 合理か不合理かが分からない(人間には決められない) という意味で 非合理です。

アブサードの一語におさまるのかも知れませんが。


★ この不合理ごとに、神学の根拠を問う合理性はそもそも必要ないでしょう。
☆ ですから 《超合理・非合理》という表現で説明するのも 哲学のつとめではないかと考えます。少しでも分かりやすく。

お礼日時:2021/12/07 08:51

――こういった問いが つづきますね」←だから 無根拠なのか?



でも・・愛って 形にも変える事が出来る・・プレゼント等・・

あなたの無根拠には 形は無い・・

形が無い無根拠から どうやって 形のある宇宙が生まれたの?

他人に問うて 他人を言い負かそうとするのなら  此処を説明 して御覧?
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この回答へのお礼

☆☆ (№3お礼欄) ~~~
ひとが生まれたこと その根拠が 愛だということですか。

そうだとしまして では その愛は どこから来たのですか?

 ★ 創造主
 ☆ からだというわけですか?

では そう言える根拠は なんでしょう?


そのように創造されているからだ ということになるのですか?

では そう言える根拠は?


――こういった問いが つづきますね。
~~~
☆ この判断内容についてのお応えだとは 思いがたいですね。




ひとこと お返ししましょう。
★★ 創造主
☆ は
★ 形は無い
☆ ですか? 形は有る ですか?

お礼日時:2021/12/07 08:55

人類は過去に、『神に会った』、もしくは『神の声を聞いた』という人間が、《私の知る限りでは》3人存在します。


(※実際にはもっと数多くの人がいるのかも知れませんが、、、)

もちろん、質問者様も良くご存知の方だと思います。

この3人の方は、神に会いもしくは神の声を聞いて自分以外の民を導き、そして後に『宗教』として成立します。

・釈尊、モーセ、ムハンマド、、、です。

この辺りを紐解いていくと、何かの神に対する根拠に繋がるのだと思います。もしくは、既に質問者様はそうした研究・解析はお済みかも知れませんが、、、。

★ここに、キリスト(ナザレのイエス)がいないのは何故なのだろう??
実は、キリストは神には会っていないのだろうか??
ただ単なる、ユダヤ原理主義者だけだったのだろうか??
こういった疑問が持ち上がります。

★そして、この3人から広がるものは『宗教』であり、それぞれに於いて『神』の取り扱いが事なっている点です。(ここを毎回申し上げています。)

★はたして3人は、同じ神に会ったのか、それとも別の神に会ったのかも謎です。『神に会った』という啓示をされているのは、釈尊、モーセですが、おそらく彼等は『別の神』に会っているでしょう。モーセはヤハウェで釈尊は鬼子母神と書いてありますから。

この辺りは、逆に質問者様の方が見識が深いでしょうから、簡単に判別できると思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。来ましたね 重い質問が。

ええっとですね。重い割りには 説明すべき内容は けっこうあっさりしています。しかも じつにその説明の仕方は ややこしいです。(詭弁だと言われても仕方がない)。

と自分に勇気をふるわせるようにしてですが かんたんなところからすすめます。:


★ 実は、キリストは神には会っていないのだろうか??
☆ 物語に関する限り 人間イエスは 自分がキリストであると言いました。キリストとは神〔の独り子であり かつみづからも神〕です。

ですから 《会う》も何もないと――表現の上で――なります。


★ モーセ ムハンマド
☆ は いづれも神の言葉を預かる預言者だと言われます。

モーセに到っては 《顔と顔を合わせて神と語り合った》と書いてあります。

ムハンマドは 神の代弁をしています。神は ムハンマドの口を借りたのであって すべて神の語りだとなっています。


★ 釈尊
☆ は 《過去七仏》の内の七番目ですね。ブッダですね。

ブッダについて 特にはっきりさせるなら 法報応の三身があります。

法身(ダルマ・カーヤ)は 何ものにも拠らずひとり満ち足りている存在であり 絶対性です。つまり 神です。神を見たというより 神です。


▲ 久遠元初の自受用報身如来
☆ これも 神です。これは 法身ではなく報身ですが 知恵の属性で表わしているようで 同じだと思います。応身は 生身の人そのものですね。

つまり 日蓮は この自受用身仏であって まさしく 神 なのではないでしょうか? そう言っているとしか読めませんが? 寿量品のブッダの文底の意味において。

★ 鬼子母神
☆ などの神は 分身でしょう〔から 別だと思います〕。




☆ あれぇ。意外にあっさり行きました。と思いますが どうですかね。 


★ この3人の方は、神に会いもしくは神の声を聞いて自分以外の民を導き、そして後に『宗教』として成立します。
☆ キリスト・イエスにかんしては オシへ(じつは 人間の言葉で表現した思想である)は むろん神ではありません。

モーセは アブラハムとともに のちのちのイエスの登場を気長に俟っていた人物です。


つづく

お礼日時:2021/12/07 09:48
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