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道徳とは違って

A 回答 (6件)

道徳はそうですが、倫理は自己裁量の生き方です。

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倫理が普遍妥当性を持たないと 他所の国へもいけなくなります



日本の中でも普遍妥当しないと日本の中でもトラブルが絶えません

実際に裁判所で毎日裁判をやっています。

裁判をしても結局は時間とお金の無駄です

倫理が普遍すれば何処に行っても人と仲良く自分のやりたいことも出来るかもしれません。
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倫理が普遍妥当性を求めるとは


どういうことですか?
 ↑
何時の時代でも、立ち位置が違っても
妥当する倫理が、普遍妥当性のある
倫理です。

現代の価値観で評価すれば、歴史の英雄の
多くは侵略者、殺人鬼、独裁者です。

ワシントンは米国では英雄ですが
英国では反逆者です。

これでは、普遍妥当性のある倫理
とは言えません。



道徳とは違って
 ↑
道徳てのは、倫理に比べると
主観的な意味合いが強いのでは
ないですか。

だから、人に寄って、あるいは属する集団によって
変わることが予定されています。
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「学問を学ぶ」ということは、二つの意味を含んでいます。

その一つは、学ぶ人自身がその学問を自ら「する」ことができるようになることです。もう一つの意味は、その学問について語れるようになること、いいかえれば、その学問で使われる言葉(術語)の意味を覚えて使えるようになることや、今日に至るその学問の歴史のなかで議論され蓄積されてきた内容について語れるようになることです。
 この二つの内容を分けて取り出すことは、実際にはそう簡単ではないのですが、それでも区別することが重要です。なぜなら倫理学の場合、術語や学界での議論を知らなくても「倫理学する」ことができるからです。
 たとえば、なぜ嘘をついてはいけないのか、という素朴な疑問を発して、一生懸命その理由を考えている子どもは、倫理学という既成の学問の内容をまったく知らなくても、すでに立派に「倫理学して」います。倫理学について初めて学ぶみなさんも、同じように日常生活の中で「倫理学している」ときがあるはずです。
 また逆に、私のようないわゆる倫理学者が、その学術的研究においていつも「倫理学している」とは限りません。倫理学界において議論されている内容は、過去の「倫理学した」人々がどんなことを考えていたのか、という、倫理思想の解釈であることがしばしばです。
 倫理学について語れるようになることは、倫理学の研究者になろうとする人にとっては必要ですが、そうでない人にとってはそれほど必要なことではありません。むしろ、どうすることが「倫理学する」ことなのか、ということを知ることこそ、倫理学を学ぶ上で一番大切なことといえましょう。
 この授業を受けているみなさんの大部分は、倫理学研究者を目指しているわけではないと思います。そこで、この授業は、倫理学について語れるようになることよりは、倫理学できるようになることに重点をおきます。もっとも、倫理学について語れるようになるために知らなければならないことを完全に排除して倫理学できるようになるのは困難なので、ある程度は倫理学について語れるための知識についても講義しますが、それは必要最小限にとどめるつもりです。

●「倫理学する」とはどういうことか
 倫理学というのは、規範の根拠について考える学問です。
 規範とは「~はわるい」「~はよい」「~してはいけない」「~してもよい」「~すべきだ」「~すべきではない」といった文で表現されることがらであり、規則、ルール、戒め、金言、法律、倫理、道徳などの内容をなしています。
 規範の根拠について考えるとは、どうして「~はわるい」のか、なぜ「~はよい」のか、どうして「~してはいけない」のか、なんで「~してもよい」のか、なぜ「~すべき」なのか、なんで「~すべきではない」のか、というようなことを考えることです。
 学問であるとは、その問いと答えが、単なる個人的な好みなどのように自分だけにわかり他の人には共有できないようなものなのではなく、他の人も納得できる理由がある、ということです。学問とは、ある問いについて、さまざまな人が集まって議論する営みです。ですから、学問であるためには、自分だけが理解できる言葉ではなくて、他の人にもわかる言葉で説明し、それについて他の人と話し合うことが必要です。
 他の人も納得できる理由の筋道のことを「論理」といいます。論理的であるとは、納得できる理由に基づいている、ということです。ですから、学問には、言葉と論理がとても重要です。
 要するに、倫理学するとは、さまざまな規範の根拠、すなわち、どうして「~はわるい」のか、「~はよい」のか、「~してはいけない」のか、「~してもよい」のか、「~すべき」なのか、「~すべきではない」のか、という理由を、他の人にも納得できるように、筋道を立てて示そうすることなのです。

普遍妥当性の語の意味は、ある事柄が、関係する対象に関して例外なく、いつでもだれにでも有効であることである。したがって一般に真理は普遍妥当性を要求する。しかし、現実に、絶対的な意味で普遍妥当的な真理をみつけるのは容易ではなく、多くの哲学者がこれを確立したと主張しながら、つねに後続者たちによって覆されてきた。カントは、そのような普遍妥当性を与えるものは先天的認識しかありえないと主張したが、同時に、デカルトらのいわゆる本有(ほんゆう)観念という形を否定し、先天性を主観の形式にのみ限定することによって新しい立場を樹立したのである。

主として認識論,論理学などの用語。ある判断が真として成立するとき「妥当する」というが,時間と空間とに制約された個々の具体的,経験的,心理的事実性をこえて常に必然的に成り立つ場合,普遍妥当性を有するといわれる。普遍妥当性を有する判断があるかどうか,またその根拠は何であるかについては各学派によって大きく異なる。広く概念,理論,行為などについていわれる場合もある。
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倫理が学問であろうとしている、という事です。



普遍妥当性のない道徳は学問にはなれないからね。
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1. 道徳とは 一定の時代における一定の単位社会で通用しているナラハシを言います。



2. その規範力は その時その場その情況に応じてまちまちですが 或る程度は 人びとみなに知られていて 一般にまもられています。

3. 倫理とは 人と人とのあいだとしての二角関係を基礎(単位体)としてそのマジハリのあり方を――つねに――問い求めるその行為または内容を言います。

4. その経験事例についてあたかも判例集としてまとめ上げそこから合理的で妥当だと見なされる共通事項を取り出してこれらを やはり規範として持つことはあります。

5. 倫理は 道徳の場合にくらべて より一層《普遍妥当性を求める》というのは どちらかと言うと 理論あるいは理念として思索し構築しようとするねらいがつよいのだと思われます。

6. つまり 道徳は ナラハシとして成り行きのごとく成り立った共通の取り決めのような内容です。

7. かつてスパルタでは うまく盗みをすることが徳のあることだと見なされていました。子どもの時からそのようにおしえられ訓練を受けていたとか。――これは 道徳です。



      *




☆ おまけです。

8. ひとの話す言葉は 大きく二つの種類に分かれると思われます。

S 語: あやまちうるスサノヲ人間語 (生活日常のことば)

A 語: あやまたない〔とされる〕アマテラス普遍語

 A語a:価値自由な認識にもとづくアマテラス科学語
 A語b:良し悪しの価値判断をまじえ倫理規範性を帯びるアマテラス人格語

 A語c:普遍語をしゃべりつつ二枚舌であった場合:アマテラス方言語

9. 倫理も道徳も いやしくも社会一般(または おほやけ)のものだとすれば どちらも A 語(アマテラス普遍語)です。そして 二角関係の良し悪しを問題にしますから やはりともに A 語 b (アマテラス人格語)です。

10. けれども 道徳は A 語 a(アマテラス科学語)の検証をあまり受けていないまま・したがって内容があまり合理的でなくとも 人びと共通のナラハシとなったものです。

11. 倫理は みづからの合理性について論証につとめるのでありその結果内容のことになります。実践から離れるほどに理論として追究する場合も出て来ます。
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