牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

私達人間は、自分が何者なのか、ここが何処なのか何も分からずにある文明の中に生まれてきます。
そして、その文明の中で教育をされ、また自らの吸収力で物事を学んでゆき一人前の人間になります。

しかし、自分が何者なのかとか、ここがどこなのかとか、人間とは何かなどと言う本質的なことは、大人達から教えられることはまずありません。科学・常識等では分からないからです。
そこで、個々の人間はそれぞれに、世界観、人間観、人生観などの「哲学」を自分の中に設定するものと考えます。そして、それらのことは確たる根拠がないので、論理的帰結によって設定されるのではなく、「信ずる」ことによって設定されるものと思います。

であるならば、人間は何ものかを信じていて、それがなければ人間としての行動が始まらない、ということが言えると思います。

1.人間とは、必ず何かを信じているものであるという哲学について、どうお考えでしょうか?

2.神仏を信ずることと、愛や正義などの人間の善性を信ずることと、ゼニカネを信ずることとの根本的相違は何だと思いますか?

3.あなたは、結局何を信じているのだと思いますか?

A 回答 (8件)

家族は重要な存在ですが、身近過ぎてその重要性が見失われがちでもあります。

ですが、最重要な存在は、自ら、その人が自分にとって最重要であると定めた時に決定されることであり、生まれながらに決まっているわけではないと思います。

神仏を信じる以上に大事なことは人(自分を含めて)を信じることだと思っています。

愛と誠と言う物語りは知りませんが、縁は不可思議なものだと思います。それが必然であったと見ることも、偶然出会ったと見ることも、適切にそれを見たことにはなりませんが、その縁は、その心の成就した時に、その縁が誠に、大切な愛をもたらした縁として認められる。その意味でこれは結果論です。
人は目覚めて人に成る。それまでは人は人でも、卵の様なものだと思います。

卵からは何が孵化するかは分かりません。人に成った時、初めて自分は人であったと心から認めることが出来、同時に人の何たるかも知ることになる。

鳥が巣立って初めて空を飛び、その自分の領域を体感した時に、自分の何たるか=生き方 を知るようなものではないでしょうか。

そこで、人は予め正しいことを信じるのではなく、信じるに値することを信じて、それを正しいものにすることが出来るのであると、私は思います。

信じるに値することとは、それが、大事なものであると言う確かな思い知りによって認められるものです。

きっと、大丈夫です。

このようなことを言うのはおこがましいかもしれませんが、ニャンポコさんもきっと、哲学や信念を超えた、確かな真を身に宿すことが出来るでしょうし、それの通りに生き切ることも、出来ると、わたしは期待しております。
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この回答へのお礼

人間の哲学=信念=正義は、仰る通り自分で決めるものです。

「愛と誠」という物語は私の子供のころにあったものですが、一度も見たことがなく、たまたまテレビドラマ版をYou Tubeで見て、そして、コミックスを買って読み、大感動したのがついひと月ほど前のことなのです。

大財閥のご令嬢である、早乙女愛が子供のころに「魔のスロープ」と呼ばれる危険な場所でスキーをしていて、危ういところで大けがをして命を救ってくれたのが大賀誠少年でした。
その後、ひょんなことで再会を果たした二人でしたが、大賀誠はとんでもない不良になっていました。

早乙女愛はどんなひどい目にあっても、その恩を償おうとします。それは純粋な恋愛とも言えると思います。

思うに、早乙女愛にとって、大賀誠少年のその行為が、人間として最高に崇高なものであるとし、そういう男性を愛するということが人間として最高に尊いことであるとであると決定し、それに殉じようとしたのだと思います。

この物語のラストシーンは、二人の愛が幾多の試練の後にようやく実り、早乙女愛は至福に包まれます。しかし、その時に大賀誠は致命傷を負っていて、抱き合ったまま死ぬことになります(死は描かれていませんが)。
おそらく、早乙女愛は後を追ったことでしょう。それが、悲しくてなりません。

お礼日時:2022/06/11 22:18

現代のお金は、愛を覚えられなかった人間のための特殊な道具でもあると私は思っています。

感謝される、有り難がられることのない生き方しかできなくても、交換価値のあるもので自己の我儘な生存を維持できるからです。
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この回答へのお礼

特殊な道具、言い得て妙。

お礼日時:2022/06/09 21:53

1.人にやさしくされたり、大切な人を裏切って、何が人として生きていくことの条件なのか、大事にするとはどういうことか、を経験して、信じるべきものが何か明らかになるものだと思います。



2.神仏は人の補助的な役割であり、常に応援してくれる存在ではあるけれど、主役ではありません。信じるべきは人であり、自分自身だと思います。
お金は、本来は感謝の印のようなもので、貴重なものですが、その姿が変わり、交換価値として利用されるようになってからは、便利なものでもありますが、人を逆に支配するというヘンテコな側面を持つようになってしまいました。お金がなければ生きていけないというのは、まるであべこべな世界だと思います。

3.自分が大切に思う人との縁あって、その大切な人から教えてもらった"やさしさ"を、信じていて、私はそれの通りに生きようと、正(まさ)しく信じているのです。
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この回答へのお礼

1.当たり前なことかも知れませんが、あほなさんにとって最重要な存在は家族なんですね?
私にとっては必ずしもそうではないのです。

2.その通りですね。神仏主義は間違いであり、人間主義でなければなりません。
人間がお金に支配されているのは、宗教の権威に支配されているのに、さも似たり。

3.愛と誠?

お礼日時:2022/06/09 21:52

わずかばかりのお金があって


幸せになることはあるが
神様を拝んで
幸せになった人を知らない。
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この回答へのお礼

僅かばかりのお金で得られる幸せは知っています。

神様は実に様々なものがあります。宗教はたくさんあり、教えがそれぞれ違います。
宗教では幸せにはなれないと結論づけたいのならば、少なくとも主要なもののデータが必要になります。

それが提示できないのならば、宗教では幸せになれないということを信じている、ということになります。

お礼日時:2022/06/09 21:28

人間とは、信じて行動、信じて行動の反復堆積なのですね


学習してから行動していると言っても、信じて学んでいるのです
人間の特権である、夢や希望やロマンも、信じてこそ前に踏み出せるのです

信は  結合 善 勇気 幸福 平和に通じ 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争に通じ 可能を不可能にします

「以信代慧(いしんだいえ)(信を以って慧に代う)」と仏典にあります
「幸福への知恵」「勝利への知恵」は、信のなかに含まれているのです
 
道理を説く宗教なら、信じるのは道理です。・・「変身しない」

人間の善性や愛や正義やゼニカネは、善悪両面があり
哲学により縁により憎しみや悪にも・・・・・・・「変身する」
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この回答へのお礼

夢・希望・ロマンなどは、そうですね、信じる人の心に成り立つのですね。
信じない人の心には「できあがらない」ですね。

形而上の概念はすべからく、信じるところに可能性が生まれる。うむ、深い哲学ですね。

道理を説く宗教…「仏法は道理」という言葉があります。ならば、信じているのは「道理」であると。道理であるから変わらない、と。

お礼日時:2022/06/09 21:22

1.何も信じないと怖くて歩けませんね。

道路が陥没しないと信じて歩いているのでしょう。

2.神仏を信じるのは信条の自由ですねえ、しかし愛や正義(全員の)はあってほしいと信じたいです。銭金もやはりないと困るし、「これは偽札だ!」

とか言われたら吃驚しますねえ。信頼に足る札であって欲しいです。

3.私は結局は 自分の理論を信じています。納得しています。
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この回答へのお礼

子どものころは社会のことを100%信じていましたが、今は不安も疑いもありますね。人間に対してもそうですね。

お金の力は分かっているつもりです。「大したことはない」です。

コンピュータの力、科学の力も分かっているつもりです。やはり大したことはないです。

計り知れないのが人間の力とか、人間の社会を作っている力とかです。どちらも、宇宙規模の力だと思うんです。

お礼日時:2022/06/09 21:11

あなたの質問の答えになっているかは


わからないけど

神を信じる には2種類あります

1つは ゴシック体で書かれた
  大きな『神』

もう一つは 手書きの小さな
    「かみさま」

前者は人間の生き方や価値観の上に君臨し
自分がそれに支配されるような巨大な存在
それは言うなれば色々な人間の思惑や意図によって
作られ保持されてきた概念です

でも「かみさま」は違います
言葉なんかでは言えない
ふんわりしてあったかくていつもそばにいてくれる
『信仰』なんて仰々しいものではなく
守るものでもなく
訴えるものでもない
それがただの「かみさま」

哲学も
『哲学』にしてしまうから
複雑でややこしくて頭でっかちなものになる

「わたしがいきていること」
このぐらいでいい
これで十分だし
余計な説明はいらない
邪魔な解説はいらない
ただ毎日触れるものみたいな感じ
ただ毎日触れられるもののほうがずっといい

愛や正義も同じです
ゴシック体の巨大で仰々しい
『愛』『正義』にしてしまうから
どれが一番正しいかで争いになります

「すき」とか「いいこと」ぐらいで
十分です
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この回答へのお礼

形而上の概念をどう持っているか?そういうことを仰っていると思います。

宇宙規模のことを考えたがる人もいれば、家庭の中のことしか考えない人もいます。
それは、おそらくその人の生来の性質であろうと思います。

大は小を兼ねる場合がありますが、小を考えられない人もいる。一方、小は大を兼ねないと思う。

大と小をよく理解する人を大事にするべきだと思います。

お礼日時:2022/06/09 21:02

1 何も信じてなくても


笑って生きていける。

2 目の前のかねは見えるし
数えられる。
神や愛は目にみえない。

3 よって目の前の金だけは嘘をつかない。
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この回答へのお礼

神仏などは存在しない、人間の善性はあてにならないものだ、金は確かに存在し、その価値の普遍性のみが人間の幸せに繋がる、と信じているのではないですか?

お礼日時:2022/06/06 12:07

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