江戸時代の武家の官位は複雑です。
位階が低くて官職が高いのと位階が高くて官職が低いのが存在しているようです。どっちが上ですか。
1)従三位中納言(水戸家)と正三位参議(典厩家)
2)正四位下参議(前田家)と従三位中将(尾張、紀伊初官)
3)従四位上中将(島津、伊達極官)と正四位下少将(水戸、前田家初官)
4)従四位下少将(国持大名極官)と従四位上侍従(越前松平家初官)

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A 回答 (4件)

こんにちは。


簡単に言うと、
位階=身分
官職=職名
ですので、位階が上のほうが「えらい」ことになります。
ちなみに、位階は功労に応じて昇進があり、位階に対応した官職に就くことを原則としていましたが、官職には定員がありますので、位階が上がっても官職は据え置きの場合があったようです。
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他の方も言われていますが、「位階」が「官職」より重要であったはずです。



ところで、質問者様が書かれている「典厩家」というのは初めて聞いたのですが、どの大名家のことですか?よろしければお教え下さい。
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この回答へのお礼

「典厩家」は甲府、館林家のことです。左馬頭、右馬頭なので典厩家と称されています。

お礼日時:2005/05/05 21:23

詳しいことはわかりませんが、位階(身分)が上がるとそれに相応しい官職(立場)になります。


逆は有り得ないので、正三位と従三位では正三位の方が身分は上ということになります。
ただこれは朝廷上の身分です。

ちなみに代が変われば位階の変動もあります。
例えば水戸家は従三位ですが、初代藩主は徳川正三位権中納言頼房です。
幕末の例外を除き、家によって決まった官職というのもありますし、その時代の老中と同じ官職には就けないという決まりもあったと記憶しています。
ご参考までに。
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文禄元年、肥前警護のために出張、同三年帰陣して伏見に館す。

慶長五年の関ヶ原の戦の際には、関東にあって上杉氏の西上を防ぎ、こののち松平姓に復して。越前北荘、すなわち福井六十七万石をもらう。同八年従三位参議、同十年正三位中納言となる。

との記述がありますので「正三位参議」の方が上かと。
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この回答へのお礼

結城秀康の系譜ですね。ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/05 21:17

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名文として後に有名になったのは
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2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

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ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

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こんばんは。

まずは、太政官の官位の流れです。

左大臣⇒右大臣⇒内大臣⇒大納言⇒中納言⇒参議⇒左大弁⇒右大弁⇒少納言

大納言ですが、貴族だけが任命されるのではなく、氏族他も任命されています。人数は時期によって様々ですが、少ないときで2人。多いときで8人ほどいたとの記録が残っています。後鳥羽天皇の時代以降になると、6人で固められました。ただし、後年、大納言のほかに権大納言(例えば、豊臣秀吉などが任命された。)という職が出来、大納言がなかなか任命されなくなります。大納言は、上官である大臣と共に国政に務めます。その他、大臣の仕事の補佐にまわる事も多かったようです。時たま大臣が不在の時がありましたので、その際は国政の中心をなしました。

中納言は大納言につぐ官位で、大納言の仕事を補います。大臣や大納言と共に国政の会議に出席します。人数は変動(多いときは10人!)を経て、後鳥羽以降8人に定められます。水戸黄門さまで知られる光圀は中納言に該当しますね。

少納言は当初は、大納言につぐ官位でしたが、中途に中納言等の職が置かれ、国政での影響力は持たなくなります。3名がその職にあたります。(国政に影響力があったのは、基本的には参議以上でしょう。)詔勅・宣旨などの清書、叙位などの儀式・印の管理などなどを担当します。少納言に関しては、名前の響きやインパクトはありますが、そこまで重要な職とはいえないかもしれません。

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徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

Aベストアンサー

綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。


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