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はじめまして。

江戸時代は「太平の世」と呼ばれる戦乱の無い時代(由井正雪やら大塩平八郎やらはありましたが・・・)が200年以上も続いているのは、一体どういう背景が原因だったのでしょうか?
平安時代も400年近く続いていますが、それとは全く別種の200年だと思うのです。

ろくに勉強もしていない私の個人的な意見ですが、
列強さえ来なければ、あと100年以上続いていてもおかしくないのでは?と思っています・・・


以下、私がいくつか推測したものです
・儒教理念の援用による封建的身分秩序の確立から、反乱因子を減らした
・鎖国政策のため情報が寡占化され、愚民化が推し進められた
・参勤交代などで、軍事動員権の周知・更新を図っていた

的外れの予想かもしれません、どなたかご教授いただけると嬉しいです。

A 回答 (6件)

参勤交代制度の徹底で、交戦力を殺いだのが、最大の効果でしょう。

鎖国はおまけです。
鎖国により、より島国根性は発達し、いまだに日本の常識は、世界の非常識となっています。
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 いくさなどする気がない中、何らかの形で抑え込み、体制側のみが情報技術を独占する。

特に軍事。
現在の国際社会も、米がでてくる中東のものや東欧のことなどはあれ、世界大戦がないまま60年以上続いている。
 「戦争する気などない」というのが日本をはじめ多くの国にあるのではないか。そして、軍事大国欧米主導の欧米の都合に、その他の安全保障理事国ロシア中国という軍事大国の顔色都合。その大衝突がない限りこのままの体制で世界大戦のない時代が続くだろう。
 江戸時代同様それが本当に良いのかどうか。結局軍事力で劣る国の弾圧、不正の横行、堕落腐敗した世界は、経済文化の発展はあれども限界もある。
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それは徳川氏が「日本を二度と戦国時代に戻さない」ことを最大のスローガンにして、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代を徹底分析して、成功した政策を継承し、失敗した政策を改善したからなのです。

江戸時代の基本的な基盤は徳川三代で確立しています。後の代は前例踏襲主義を徹底しました。幕末の混乱は前例踏襲主義の破綻が原因です。前例の無い事態が発生すると、それを処理する能力が無いのです。

戦国時代は下克上の風潮がもたらしました。だから下克上は絶対に許さないと厳格に身分秩序を定めました。馬に乗るのも、刀を持つのも武士の特権にしました。農民の武装は許さない。ひたすら米作りに励めというわけ。親藩、譜代、外様と大名を格付けし、石高で厳格に序列を定める。徳川将軍家の家臣として大名、旗本、御家人を定義して、全国の武士を主従関係で序列づけました。すなわち封建制度を完成させたわけです。徳川氏は鎌倉時代、室町時代の封建制度が中途半端な未完成なものだったと考えたのです。

以前は家督相続のルールが明確でなく、それが当主死後の家督相続争いを度々招いた原因でした。だから徳川幕府は家督相続のルールを明確に規定し、大名の家督相続を管理しました。徳川将軍家の家督相続争いが起きないように、また将軍家断絶に備えて、徳川御三家を制度化しました。

大名が将軍家を超える実力が持たないように、参勤交代で散財させ、普請工事を命じ、清や李氏朝鮮の貿易の窓口も管理しました。大名の妻子を人質として江戸の大名屋敷の居住を義務付けたのは反乱を防ぐためでした。

戦国時代に没落した名家を高家旗本に取り立てて、相応に処遇しました。それは残党が御家再興の悲願で戦を起さないためです。

鎖国・禁教したのは、キリシタン大名がキリスト教国と勝手に貿易したり、外国と軍事同盟を結ばせないためです。愚民化というわけではありません。オランダ商人経由で蘭学書の取り寄せは許しました。だから蘭学者が育った訳です。

その他にも、主要街道に関所を設けて、武器の持ち込みを監視し、川に橋を架けさせなかったり、大型船の建造を禁止したりしたのは大名に反乱の野望を持たせないためでした。

徳川幕府のほとんど全ての政策は「日本を二度と戦国時代に戻さない」ためのものだったのです。

例えば、徳川幕府が寺社奉行を置いて、全国の寺社を統制したのは、寺社に反乱軍が結集するのを防ぐためでもあり、人々が心の平安を取り戻して、血気に逸る風潮を失くさせる為でした。

今日の歴史界は鎖国のせいで近代化が遅れたかのようにいいふらしていますが、鎖国のおかげで海外からの病害虫の流入を防いで日本人は守られたのです。その証拠に開国した途端にペストやコレラが流行しました。それが大流行にまで至らなかったのは蘭学者の活躍によるものです。そういうことに気づかない歴史学者を愚民と呼ぶのです。
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1,大名などに対して


(1)参勤交代制度
(2)改易制度をうまく利用した。
   改易とは大名を取り潰すことですが、形式的理由は
   跡継ぎがいない、などが多いのですが、実質は異なります。
   統治能力の有無で改易を決定した、というのが大部分です。
   つまり、皆が納得する政治を行った、ということです。

2,庶民に対して
(1)士農工商・・という身分制度を上手く利用した。
(2)最近の研究では、武士が一方的に押しつけたという
   事例はほとんどなく、農工商と充分に話し合い、納得
   してから導入した、ということが解っております。
(3)意外と豊かだった庶民。
   これも最近の研究で解ったことですが、武士の方が
   困窮している事例が多かったようです。
   「古文書にも、百姓は年貢さえ納めていればいいから
    気楽なものだ」という百姓の手記まで見つかっています。
   工商もしかりです。
   百姓の年貢は、江戸時代終わりごろには3公7民となっていました。

ご指摘の通り、列強さえ介入しなければ、まだ続いた可能性は
高かったと思います。

なお、江戸時代の庶民は愚民ではありませんでしたよ。
町人出身の学者がいかに多かったか。識字率なんかも
たぶん、世界一ではないですか。

そこら辺りの寺小屋で、対数計算をやっていましたよ。
江戸時代で、現在の国民で持っている日本が醸成されたのだ
と思っております。
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要因はいくつかあると思いますが、



・大坂の陣で、圧倒的な軍事動員体制を確立。軍事国家としての権威確立。
・争乱を抑止するために、武家諸法度などを制定。
・外様大名を幕政に参加させない。大名領国の治世にも幕府は基本的に干渉しない。
・将軍のカリスマに依存しなくても幕政に支障を来さない体制の確立。
・海禁による対外勢力の排除。

あたりをあげたいと思います。
列強の進出によって
・列強の武力に対抗せず、武威が低下。
・外様大名の幕政参加を容認し、国内政治における雄藩の存在が浮上。
・幕府権威の低下を防ぐために、大政委任論を押し、結果的に天皇権威もを高める。
など長期政権を支えていた根本的な部分が崩壊しました。

儒教は、朱子学の大義名分論によって、天皇権威をさせ尊王論を普及させていましたので、倒幕へと至る素地を作ったと考えています。
ご存じかもしれませんが、近年は徳川幕府の対外政策を「鎖国」ではなく対外接触を「四つの口」のみに絞った「海禁」とするのが有力で一般的になりつつあるようです。
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質問者さんは国内の要因だけに目を向けているし、他の回答者も同様のようですね。


しかし、外的要因も見落としてはいけません。
つまり、日本が島国で外国からの侵略を受けにくいという点と極東と呼ばれていたように欧米列強国から遠くに位置していたという、地理的な条件が、200年間の太平をもたらしたと言えると思います。
また、大した資源もない国なので列強の関心を買わなかったという点も挙げておきましょう。
17~18世紀というのは西、葡、英、仏等の列強が植民地政策を繰り広げ、激しい戦争を繰り広げておりました。
日本も、列強に狙われていたら国内で英、仏等が争奪戦を繰り広げ、諸藩も英派、仏派に分かれて戦争していたでしょう。
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