推しミネラルウォーターはありますか?

ドーキンスの名前は「利己的な遺伝子」で、生物学の部外者(私もそう)から広く知られていると思います。

生物は命を落として、なぜ利他的な行動をとるのか。 

という疑問に答えるためなのでしょうか、随分無理のある(自己矛盾であって強引なこじつけだが、思い切った)説を展開したし、実際に世間に受け入れられ・知られるようになりました。 教えていただきたい事ですが、

(1)なぜこのような”考え”が門外漢の間で広まるのでしょうか。 やはり進化論とは社会科学感想文の範囲内のものであって、生物学的な観察事実と科学検証には耐えられない”はやりの”事例報告でしかないのでしょうか?

(2)自然淘汰とは必ず「ある品種・又は種目が滅んだのは必然」であって、だから目的論的に人類種が創作された。 という様な自己矛盾した無茶な考えでしかないのでしょうか。 それとも科学的に真といえるだけの理由があるのでしょうか?

尚、私は一般的(かもしれない)な日本人であって特定の宗教に熱心な者ではありません。 生物学の難しい用語はわかりませんので、宜しくお願い致します。

A 回答 (6件)

以下の参考ページはご存知でしょうか?



私も参考にさせていただいていますが、ドーキンスについても、取り上げています。

ご質問の意図を、取り違えているかもしれませんが、

アダムスミスの「利己心」だけが、受け入れられたことと欲にているような気がします。

単純な解釈は、安心して使えますから、かな?

参考URL:http://www.obihiro.ac.jp/~rhythms/future/Futures …
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この回答へのお礼

確かfishbowl66さんは良く哲学カテで投稿されますよね。 なるほど、良いURLを紹介していただきました。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/04/16 16:21

>(1)なぜこのような”考え”が門外漢の間で広まるのでしょうか。


自然科学には、一般の人々に人気のある分野とない分野があるようです。進化論は、理論の詳細はともかくとして人々の興味をひきつけやすい上に、哲学や宗教もからんで議論の対象になりやすいため、世の関心が高いのです。
また、一般の人々に科学知識を紹介するときは、さまざまなたとえや脚色によってわかりやすく面白くすることが行われますし、そうしなければ一般向けの本は売れません。当然、誤解やゆがんだイメージも広がりますが、それは副作用としてしかたのないことです。

したがって、
>やはり進化論とは社会科学感想文の範囲内のものであって、生物学的な観察事実と科学検証には耐えられない
というような議論をするときに、「一般向けの本によって一般の人に広がった進化論のイメージ」をもとにしても、意味が無いことに注意する必要があります。

>(2)自然淘汰とは必ず「ある品種・又は種目が滅んだのは必然」であって、だから目的論的に人類種が創作された。 という様な自己矛盾した無茶な考えでしかないのでしょうか。 それとも科学的に真といえるだけの理由があるのでしょうか?

目的論ではありません。進化は自然現象であって、目的とか意志とかいったものはありません。

[1]生物体の形態と機能は遺伝子により支配されています。
[2]遺伝子の本体はDNAと呼ばれる物質です。
[3]DNAはさまざまな要因によりランダムに変化します。
[4]この変化は、何の影響もない場合もあれば致死的な場合も含めて生物体にいろいろな影響を生じる場合もあります。その生物だけでなく、生物と生物の関係(生態系)、環境にも影響を及ぼします。
[5]したがって、生物界では下手な鉄砲数打てば当たる式に膨大な「実験、試作」が常に行われ、そのうちいくつかが成功します。また、生物が変化すればそれに伴う生態系と環境の変化が起こります。
[6]さらに、大陸の移動や気温の変化といった環境の変化が、生物に影響を与えます。たとえば、気温が下がったときに低温に強い「試作品」がたまたまあればよく繁殖するかもしれません。
[7]これらの生物間、生物と環境の相互作用の中で、ある生物が子孫を残しある生物が滅びます。また、一つの生物の子孫がそれぞれ変化して異なる種類の生物に分かれることが起こります。

このぐらいのところが入り口となり、化石の研究から現生生物の観察・DNAの比較、分子生物学からの検討、計算による進化のシミュレーションに至るまで動員して、生物の進化に関してできる限りの合理的な説明を試みることになります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は科学的なるものの意味が良くわからずにいるせいもあると思いますが、
>目的論ではありません。進化は自然現象であって、目的とか意志とかいったものはありません。

科学的には地球上の進化を再現することは不可能でしょうから一般的な科学手法から、一種の”必然性”を読み取る概念を抽出した結果、進化・自然という概念ができていると思います。 概念定義をしようとすると「その時、その時代の人間社会一般の常識」が強く繁栄しますが、これが ”まず間違い” なのですよね。

ところで、私の"進化”論概念なのですが
1)「神はサイコロを振らない」
2)生物は絶えず生死を賭けたサイコロを振ってきた
3)「”発生”」は組合せ爆発と多様な集合中心を発生させる
4)生物が作り変異してきた地球環境は、集合中心の優位選択が変動的

結果、確率的に発生する集合に対して働く優位選択(環境に対する適者)というもの自体変動する。
これが進化なのですよね。

これって科学検証の対象になるものなのでしょうか?

お礼日時:2005/04/16 16:58

自然科学は生物や環境などの様々な要素が複雑に絡み合って相互作用している一部を切り取って観察・検証・考察などを行う学問です。

したがって、全体論的なテーマになると、どうがんばっても推測の域を出ない面が生じるのは仕方がないとも言えます。

言い換えればスキがある論理や学説が展開されがちなので、(1)にあるような門外漢にとっても立ち入りやすいと言えるかもしれません。
ドーキンス氏が著したストーリーを信じるか信じないかは個々の自由であって、利己的遺伝子説が絶対に正しいと捉える必要は全くありません。しかし、信じる人、信じない人がそれぞれ物証や意見を持って論議することも「学問」ではないでしょうか?

(2)については、#1さんの回答にあるように、目的論として人類が生じたわけではなく、淘汰や進化が起きた結果として人類が繁栄したと考えるのが妥当と思われます。
繁栄を是とし、絶滅を非とするならば、人類種は決して成功を収めた生き物であるとは言えません。何をもって優劣をつけるかにもよりますが、自己複製が生命の本質であり絶対数を以って勝負するならば、例えば微生物などには到底かないません。
人類は、知恵や道具を使う能力を獲得したために、環境にも大きく影響するほどの力を得ただけです。これが生物学的に成功した種であると言えるかどうか、疑問です。地球上第1位の生命である、と勝手に勘違いしているだけかもしれません。そもそも、生命に優劣は無いと思います。。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

一般常識「自然淘汰->優勝劣敗->必然」、これが良くない、というより誤りなのですよね。
有効範囲の規定がされれば、一般常識も必然性があって科学検証可能な事実と捉えることができる様に思えますが、(物理時間的に不可塑な)自然現象が相手となると条件設定が難しい気がします。

>目的論として人類が生じたわけではなく、淘汰や進化が起きた結果として人類が繁栄したと考えるのが妥当と思われます。
「神はサイコロを振らない」(某氏)と私も思うのですが、必然は無いのでしょうか?

お礼日時:2005/04/16 16:36

完全には,質問の意味が捉えられないのですが,ちょっと書かせていただきます。

存在理由という言葉がありますが,存在理由がないものが利己的で,存在理由があるものが利他的といえます。ですからドーキンスがいう利己的遺伝子のほとんどは利他的遺伝子です。核酸が核酸として(つまり利己的に)存在している事例があるかどうか分かりませんが,この点注意が必要だと思います。ちょうど我々(の自我意識)に存在理由がないのと同じですが,我々は社会のためになるとされる知識や能力を自分のものとして我々の存在理由として代用していることと同じだと思います。
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この回答へのお礼

なるほど納得。 一般人向けに説得力ありますもんね。
今回の存在理由は「存在意義」に置き換えることができますね。

(環境)共生生物であることは学問もかわりませんか。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/04/16 16:08

少々ご質問の意味がつかめないのですが、もし勘違をしていましたら申し訳ありません。



(1)なぜ『利己的な遺伝子』という言葉が広まったのか
『利己的な遺伝子』という言葉の意味が捉えやすく、またショッキングだからではないでしょうか。
難しい単語なわけではない。横文字なわけでもない。けれど、言葉の意味をそのまま捉えると衝撃的である、という理由です。
そして、利己的という言葉から、開き直りができるという面もあるでしょう。
ただ、多くの人は誤解をしているようです。「我々は乗り物(ヴィークル)である」「恐るべき遺伝子の策略」なんて言葉も、誤解を助長している気がします。これを聞いて自分の存在に絶望してしまった子も居るとか……そんな意味ではないんですがね。

そもそもこの言葉の問題は、あたかも遺伝子が意志を持っているかのように捉えられてしまっていることです。
遺伝子なんて、デオキシリボ核酸という、ただの化学物質であって、ただの情報です。意志を持っているなんてことは、ないのですから。

そして、利他的≠利己的ではありません。
情けは人の為ならず、とでも言いましょうか。
日常生活においても、利他的=利己的であることが、往々にしてあるでしょう。
例えば、誰かに何かをして喜んでもらえたら嬉しい……というのは利他的な行動のようですが、喜びを得たいという気持ちは利己的ですよね。
利己的な遺伝子というのは(擬人化すると誤解をさせてしまうかもしれませんが)、自分の複製を作り、次代に継いで行くことが目的なのです。自分だけが大事なのではなくて、自分と共有するもののある存在が大事とでも言いましょうか。
話が逸れてしまいましたので、こちらはこのへんで。

(2)自然淘汰や人間という種が存在することは必然か
生物の進化も絶滅も全て、偶然の重なりでしかないのです。
よって、結果であって必然性はありません。
どんなことでもそうかもしれませんが、幾つかの選択肢のうち、たまたまAに行ったから恐竜は絶滅した、人間が繁栄している……という結果論でしかないのです。
Bに行ったらBの、Cに行ったらCの現在があったでしょう。

説明が難しいですね……。
どれを取っても、現在の主な学説や、いろいろな人の考え方であって、それが正しいとは限りません。
仮説や学説、そういう範囲の考え方なのです。
ダーウィン然り、コペルニクス然り、今でこそ検証がなされていますが、この問題を検証する術は無いかもしれません。結果から推測しただけで、その域を出ていないとも考えられます(ただ説明できれば間接的であろうと定説になるでしょうが)。
今後も新しい説が出てくる可能性は大いにあります。

こんなところでしょうか。参考になれば嬉しいです。
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この回答へのお礼

そのように語られてしまいますと納得せざるを得ない、という気がします。

>偶然の重なりでしかないのです
私の性格なのでしょうか、「自然淘汰は偶然なのか?」という課題は、一種の不可知論に置き換える必要がありそうです。

回答ありがとうございます

お礼日時:2005/04/18 00:16

なぜ淘汰の意味と,ドーギンスを結びつけようとされているのかが全くわかりません。



ドーギンスが正しくても正しくなくても,またダーウィンが正しくても正しくなくても,
淘汰は現実に起こっているもので,進化論と淘汰は別物です。
「淘汰が起こるから,それが要因の1つとして,進化というものがあるのではなかろうか。」
というのが進化論というあくまでも論であって,淘汰は論ではなく,現実の現象です。

例えばゴキブリが1ピキ死んだとします。
病気か環境の変化か寿命か何かはわかりませんが,そういう原因があったために死んだのです。
そのゴキブリの死をきっかけに他の個体,または他の種が繁栄するかもしれません。
でもそれはゴキブリが死んだという原因による結果であって,
他の個体や,他の種を繁栄させるために死んだわけではないです。

ゴキブリ1ピキが死ぬことがありうるのであれば,ゴキブリ全部が死ぬこともあるでしょう。
病気か環境かたまたま一斉に寿命を迎えたか何かの原因があったためにゴキブリ全てが死ぬのです。
その全てのゴキブリの死をきっかけに他の種が繁栄するかもしれません。
でもそれは全てのゴキブリが死んだという原因による結果であって,
他の種を繁栄させるために死んだわけではないです。

ただ,自分自身を犠牲にしてまで,他の生命を救ったりする行動が生物界には見られます。
言いかえると他者の繁栄のために,自己を滅ぼす現象が。
「これは,本当に利他的なのかな? 本当は利己的ではないのかな?」
「善を装った"偽善者"的行動ではないのかな?」
「本当はみんな偽善者かもしれないよ,遺伝子を視点にして考えるとね,フフフ。」
と,ほくそ笑みながら,世界の人に問いかけたのが,ドーギンスだと思います。
まさに「情けは人の為ならず」=「情けは自分の為にある」ですね。

淘汰は単なる現実に起こっている現象です。
また,人が(種が)いる存在理由や淘汰の意味について,ドーギンスは語っているのではありません。
人の(種の)存在理由を否定も肯定もしていません
人が(種が)いる存在理由や淘汰の意味を否定しているわけではなく,元からそのことについては書いていないだけのことです。
ぜんぜん違うことを言っていると思います。

料理の作り方の本,テレビ番組の紹介雑誌,経済新聞,などなど…
これらも人が(種が)いる存在理由や淘汰について書かれた本ではないです。
利己的遺伝子論もこれらと同じです。
「利己的遺伝子」が語っているのは過去のもしくは現在の生物の行動事例です。
過去や現在の事例から,自己の行動を見つめ直す1つの考え方を示しているにすぎないと思います。

最後に,これは自己論。
ゴキブリが絶滅したとして,
「ヒト(または他者)を喜ばせたかった。だからゴキブリは絶滅した。」
そう考えるのは変でしょう。
「ゴキブリが絶滅した。だからヒト(他者)は喜んだ。」
これが自然な考え方,というか自然な流れです。
「ヒト(他者)を喜ばせたかった。だからゴキブリは絶滅した。」
こういう風に考えようとするとどうしても矛盾が起きて,神などの存在が必要になってくるわけです。
神が存在するかしないか,淘汰の意味はあるかないか。そんなことはしりません。
「原因があるから結果がある。」
ただ,当たり前のことを当たり前の順序で考えていれば,別に神も淘汰の意味も必要ありません。
私の頭の中には,神も淘汰の理由も元から出てきませんし,考える必要性も見つけられません。
注:神は存在しないとは言っていません。
  進化の思考に神は必要ないと言っているだけです。
  リンゴの皮むき法,ゴルフクラブの振り方などの思考に神が必要ないのと同じ事です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>淘汰は論ではなく,現実の現象です。
現実の現象って何でしょう。

知人の説でしたが
「人類種の役割は、ゴキブリを宇宙に連れてゆき、そこで、重力の制限から逃れたゴキブリ達を進化させることにある。」 という話を聞いたことがあります。
SF的で面白い話と思いました。

お礼日時:2005/04/19 08:12

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