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歴史や文学なども実学とは言えないのでしょうか?

例えば昨今の新型コロナウイルス問題やロシア・ウクライナ戦争に関する報道などを見ても、偏った情報が多く、それに人々が流されて偏った経済活動にシフトしていたりなど、誤った情報に市民が踊らされるという状況が多くあります。

そういう時、歴史や文学に通じた人は物事の成り行きや様々な思想、文化などを理解できる知恵を持ち、事の本質を求め思索し、表面的な情報のみに流されず、そういった人たちが増えてくればまた社会の在り方も変わり、世界が変わり、

その点では歴史や文学といったものも実学と言えるのではないでしょうか?

A 回答 (7件)

回答を2カ所訂正いたします。


杜甫は科挙に不合格でしたが白楽天(白居易)は合格して出世もした人でした。よって、「杜甫のような大詩人でも、科挙の脱落者でした」に訂正します。
また、「移民国家アメリカの繫栄は」は誤字でした。「移民国家アメリカの繁栄は」に訂正します。
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そもそも辞典を引けば、歴史や文学は実学でないと分かります。

その反対の虚学です。むしろ、虚学としての矜持を持ってもいいでしょう。実学を名乗るのは身を落とすことであり、偽りです。
ご質問者が、「誤った情報に市民が踊らされるという状況が多くあり」「そういう時、歴史や文学に通じた人は物事の成り行きや様々な思想、文化などを理解できる知恵を持ち、事の本質を求め思索し、表面的な情報のみに流されず」とおっしゃるのは、愚かな幻想ではないでしょうか。「歴史や文学に通じた」最高クラスの知識人であろうとも、物事の成り行きに流され、表面的な情報に踊らされ、事の本質を見誤るのです。
前回の2点に加え、もう2点ほど申し添えます。

第3に、三好達治の光と影を見ましょう。言うまでもなく近代日本最高の詩人のひとりです。名作がいくつもありますが、たとえば「甃のうへ」(初出は1927年らしい。1930年『測量船』に収録)の美しさには涙が出ます。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
〔引用終り〕

しかし彼は、1941年12月の真珠湾攻撃の報に接し、有頂天になりました。手の舞い足の踏むところを知らず、「捷報臻る」という俗悪な詩を書いてしまうのです。

捷報いたる
捷報いたる
冬まだき空玲瓏と
かげりなき大和島根に
捷報いたる
真珠湾頭に米艦くつがへり
馬来沖合に英艦覆滅せり
東亜百歳の賊
ああ紅毛碧眼の賤商ら
何ぞ汝らの物欲と恫喝との逞しくして
何ぞ汝らの艨艟の他愛もなく脆弱なるや
而して明日香港落ち
而して明後日フイリッピンは降らん
シンガポールまた次の日に第三の白旗を掲げんとせるなり
〔後略〕(旧字を新字にあらためました)

どんどん侵略しろと時勢に阿り、英米には讒謗の限りを尽くしているんですよ。
しかし戦局は暗転して無条件降伏に至りました。戦後の彼は、深い後悔を象徴的な詩に表すのです。「駱駝の瘤にまたがって」(1952年、https://www.aozora.gr.jp/cards/001749/files/5908 …)から抜粋してみましょう。

〔前略〕
おれはふらふらやつてきた仲間の一人だ
何といふ目あてもなしに
ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし兒だ
ててなし兒だ
合鍵つくりをふり出しに
拔取り騙り掻拂ひ樽ころがしまでやつてきた
〔中略〕
おれの思想はにぎやかな祭のやうに華やかで派手で陽氣で無鐵砲で
斷つておく 哲學はかいもく無學だ
〔中略〕
駱駝の瘤にまたがつて 貧しい毛布にくるまつて
かうしてはるばるやつてきた遠い地方の國々で
いつたいおれは何を見てきたことだらう
〔中略〕
そんな下界の天上で
星のとぶ 束の間は
無理もない若かつた
あとの祭はとにもあれ
間拔けな驢馬が夢を見た
ああいやだ いやにもなるさ
――それからずつと稼業は落ち目だ
煙突くぐり棟渡り 空巣狙ひも籠拔けも牛泥棒も腕がなまつた
氣象がくじけた
かうなると不覺な話だ
思ふに無學のせゐだらう
今ぢやもうここらの國の大臣ほどの能もない
いつさいがつさいこんな始末だ
――さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな
〔後略〕

それでも、反省した三好はまだいい方ですよ。
第4の論点になりますが、小林秀雄の如きは開き直って、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放ちました(「近代文学」1946年2月号の座談会)。そんな小林がこの日本では最高の知識人扱いされているのです。
戦後詩の巨人・鮎川信夫は小林について、「反省しない人間など人間ではない」と激越な批判を加えました。鮎川は右寄りで冷戦思考の人でしたが(冷戦終結を見ずに亡くなった)、その保守派の鮎川でさえ、です。
このように、歴史や文学はやはり虚学であって、実生活や政治的判断などの役には立ちにくいでしょう。いわば昼行灯(ひるあんどん)です。昼間はぼんやりしていて、日が暮れてようやく闇の中の知性の一灯となります。いや、ぼんやりなら無害ですが、逆に時代をリードしてペダンチックに踊ってみせる有害なインテリもいるでしょう。

「人手不足を、移民で解決した国は、その後衰退、滅亡」なんていう、いかにも歴史の知恵を装った説も、役に立ちませんね。そもそも、帝国や大国は多民族国家になるのが普通でしょう。ローマ帝国でもオスマン帝国でも。前者は(西ローマ帝国の滅亡までに)1200年、後者は600年も続いたのだから、大したものですよ。
帝国のくせに単一民族国家を標榜するのは矛盾であり、ナチスドイツは数十年で破綻しました。大日本帝国もです。
帝国じゃなく、比較的穏当に単一民族的な(的であって厳密には単一民族ではない)国も見られますが、小国のたぐいでしょう。そのまま大国になろうとしても、今の日本のように頭打ちになってしまうのが落ちです。

戦後の歴史を振り返りますと、西ヨーロッパは旧植民地などから多数の移民を受け入れて、その労働力が戦後復興と高度経済成長を支えました(たとえばフランスの「栄光の三十年間」)。移民が国力を伸長させたのです。移民国家アメリカの繫栄は、言うまでもありません。
しかし、1970年代のオイルショックで高度成長が止まると、移民受け入れもかなり減りました(その後またちょっと増えたり変遷がある)。低成長の世の中で、移民とその子弟に対する反感も再燃しました。残念ながら、犯罪に走ったり軋轢を生んだりする人もいます。
それでも、先進国は軒並み出生率が低下していて、そこの所を移民とその子孫がカバーしてくれています。ヨーロッパ各国の、人口の1割2割にものぼる移民との共存は、功罪相半ばする感がありますが、結局それで国力が維持できているのです。
一方、日本はそうではありません。移民・難民受け入れが比較的少なく、すでに国力の衰退の兆しが出てきています。労働生産性についても、移民人口が多い先進国より、日本のほうがむしろ低いです。
結論として、似非歴史知識などより科学的思考(社会科学も含む)の「人たちが増えてくればまた社会の在り方も変わり、世界が変わり」、将来の希望も持てるでしょう。
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でも、特に戦争に関しては、勝者に寄り添った解釈以外は廃棄される。


それにベースにあるのが事実かどうかの検証に科学的な解釈が必須。

何千年後かに、氷の下というだけでロシアの文献だけが発見されたら、プーチンが民主主義の悪と戦った・・という歴史になり、
日本にはネコ型ロボットが活躍してた・・が歴史的事実となる。
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歴史や文学なども実学とは言えないのでしょうか?


  ↑
実生活の役に立つか、という意味なら
実学ですね。

歴史や古典が何の役に立つのか、と
否定的な人がいますが
これは大きな誤解です。

直接的な金儲けのためには
役に立たないかもしれませんが、
人生においても、また御指摘の通り
政治的判断をする場合にも
役に立ちます。




その点では歴史や文学といったものも実学と
言えるのではないでしょうか?
 ↑
例えば移民問題です。

人手不足を、移民で解決した国は、その後
衰退、滅亡している場合が多いです。
アケメネス朝ペルシア
ローマ帝国、ムガール帝国などがその例です。
移民に頼る結果、労働生産性を上げる努力を怠り
国力が衰退するのです。

こういうことを知っていれば
マスコミや世間の風潮に惑わされることなく、
少なくとも移民には慎重になるべきだ
ということが判るでしょう。
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それは実学と言えないでしょう。

2点ほどお話しさせていただきます。

第1に、昔の中国を考えてみましょう。士大夫(したいふ)や科挙の伝統がありました。政府のお偉いさんは文人でもあったのです。万巻の古典を読み「歴史や文学に通じた人」が、科挙という試験地獄を勝ち抜いて登用され、皇帝の下で巨大な官僚機構を形成し、天下人民を領導しました。
ちなみに、私たちも知ってる杜甫や白楽天など綺羅星のような大詩人でも、科挙の脱落者だった人は少なくないんですよ。脱落者でもあれほどの知識教養があったのです。

つまり、ご質問のように「様々な思想、文化などを理解できる知恵を持ち、事の本質を求め思索」する人が、為政者になってたわけで、理想的な状態だったでしょうか?
いいえ、そういう文人政治家は実務的ではなかったようです。大官になった文人はいわゆる琴棋書画をたしなみ、その部下の(あんまり文人でもない)中間管理職の役人でさえ、実務を軽蔑していたそうです。
それじゃあ役所仕事は誰がするのか。役人がポケットマネーを出して、実務能力のある人(科挙には合格してない)を非正規で雇い、仕事をさせていたようです。役人は地主階級が多かったし、賄賂も多少あっただろうし、お金持ちだったのでポケットマネーを出せました。

何てこったい。そんなのがご質問者の理想ですか? まあ昔の中国は一つの例に過ぎませんが、やはり「歴史や文学」と政・経その他の実務との間には、懸隔があるんですよ。
そこで、第2にオランダの物理学者ローレンツ(1853~1928年)の奮闘を見ましょう。彼はノーベル物理学賞の受賞者だったし、たとえばローレンツ変換は、アインシュタイン(1879~1955年)の特殊相対性理論のもとになった偉大な業績です。アインシュタインもローレンツを尊敬していました。

そのローレンツが、晩年に巨大堤防の科学委員会の委員長を務めたんです。オランダの国土は干拓で作り出されたもので、堤防による治水は国家の命運がかかっています。
とはいえ、彼は理論物理学者で土木や水の工学は専門外だし、すでにノーベル賞も受けて(1902年)、功成り名遂げた人だから、お飾りとしての委員長でも良かったじゃないですか。
しかし彼は、椅子にふんぞり返ってるようなお偉いさんではなく、みずから頭脳をフル回転させて現下の大問題を解こうとしました。物理の方程式から出発して、熟考のうえに近似計算を駆使して、コンピュータもなかった時代に膨大なシミュレーションをやり遂げました。それに基づき実際に工事がおこなわれ、正しさが実証されたのです。

ご質問が言及している「偏った情報」「誤った情報」を正すのは、やはり理工学その他の探求ではないでしょうか。それには一人の天才だけでなく大勢が力を合わせることになるので、研究マネジメントの達人も必要です。
オランダの例を挙げましたが、もっとすごいのはアメリカで、たとえばジェイムス・コナント(1893~1978年)という卓越した科学行政家がいました。もともとはハーバード出の化学者ですが、母校の教授からハーバード総長となり、戦時中は国防に深くかかわりました。原爆の生みの親の一人と言われています。

日本では「アインシュタインが大統領に手紙を書いて、原爆開発が始まった」と思ってる人が多いようです。しかし、アインシュタインは敵国ドイツからの亡命者であり、ドイツにいた時もアメリカへ来た後も、政府にすり寄ったりしない人でした。「アインシュタインの鶴の一声でマンハッタン計画がスタートした」と思ってるなら勘違いですよ。アメリカ上層部は、「本当にそんなものが出来るのか」と半信半疑だったようです。
そのころ、イギリスの委員会から「原爆は実現性がある」という情報がアメリカにもたらされ(イギリスは核物理学が発達していた)、大統領顧問となっていたコナントも原爆開発を熱心に働きかけました。そうしてルーズベルト大統領は、巨大プロジェクトのマンハッタン計画にゴーサインを出したと言われています。

原爆を落とされた側の日本人としては、胸糞悪い話です。「何が卓越した科学行政家だ」と思う人もいるでしょう。それでも私がこの駄文で申し上げたいのは、偏った情報・誤った情報に踊らされるのを憂慮して、歴史や文学といったものに言及するよりも、科学探求の深化や研究マネジメントの指導力のほうが、事態を切り開くだろうということです。
ヘーゲルは「ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ」と言っています。哲学者は昼間は不活発なのです。人文的な教養は、昼間の混乱に対してあまり有効ではありません。日が暮れるまで、人々は事態を切り開いたり失敗したり、さんざん奮闘します。
その後になって、闇の中で実学を超えた知性が羽ばたくのでしょう。次の朝、新しい時代が始まります。
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確かにそうだと言えるのかもしれませんが、それは~の分野が実学かどうかの話ではなく、それらの知識や経験等を実際的に運用できる能力を持つ人かそうでないかによって決まるものだと思いますので、それが科学に関わる者であろうと文学に関わる者であろうと、実用的という意味ではどちらも同様に変わらないものだと思います。



たとえば私は軽い読字障害もちのため、長々とした文章を長時間読み続けることを好みませんが、それでも下記のリンク先の情報のように、人にはそのデメリット故の長所的な能力や利点等が必ずあるものですので、そういった人達にとっては、それらをも有益に活かすことが出来るのだと思うのです、、、。

https://ondyslexia.blogspot.com/2013/03/blog-pos …
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歴史や文学は実学であると言えます。

歴史や文学に触れることで、過去の出来事や人々の考え方、社会の構造や文化などを学び、現在の社会を理解することができます。また、歴史や文学には、深い思想や哲学が含まれており、それらを学ぶことで、自分自身の人生観や世界観を深めることができます。

さらに、偏った情報に流されず、事の本質を求め、独自の思考力や判断力を持つことができるようになることも、歴史や文学を学ぶことで身に付けられるスキルの一つです。そのようなスキルを持った人々が増えることで、社会全体の質が向上し、より健全な社会が築かれる可能性があります。

ただし、歴史や文学には膨大な情報があり、全てを学ぶことは困難です。また、情報の解釈や評価には主観的な側面があるため、完全な客観性を求めることはできません。しかし、適切な情報収集や批判的思考力を養い、歴史や文学を学ぶことで、より多角的な視点で物事を見ることができるようになると言えます。
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