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1. なぜ 即身成仏(凡夫成仏)ないし即得往生ではないのか? なぜ一気にさとりを得るのでないのか?

2. だって 《一切衆生 悉有仏性》であり 仏性とは 絶対性ではないのか?

3. 相対存在であるわれわれ人間が おのおの絶対性にカカハリを持つのなら 一瞬のうちにでないのがおかしい。

4. 億歩ゆづって 現実におけるみづからの修行も必要だ――つまり 《竪超(じゅちょう)》だ――というのなら その一気の成仏のあとの過程のことではないのか?

5. 有限なる人間の自力による聖道門が 無限なる仏性よりも先に来るというのは おかしい。

質問者からの補足コメント

  • №7-1

    ★ 横超説の根拠はここら辺にあるのだと思いますが、如何でしょう。
    ☆ ゴータマ・ブッダの見解を批判しその権威を剥いだとき生まれたのだと思っています。

    ★ しかし、仏性がある事と成仏していることとの間には、ギャップがあるようにも思います。
    ☆ それは 理論と実践とですね。一般絶対性――梵我一如なる理論――は 一人ひとりの個別絶対性として実践され現実となります。

    ★ bragelloneさんご自身も、ご自分の仏性は認めても、ご自分をブッダであるとは言い切れないでしょう?
    ☆ いえ。次のように つとに問うています。
    【Q:われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7526932.html?from=m …

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/18 03:55

A 回答 (16件中1~10件)

そうですね


その通りですね
貴方の言う通りですね
間違いありません
感服致しましたから
ベストアンサー下さい。
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横超で覚った人がいないからではないでしょうか。

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この回答へのお礼

なるほど。って言いたいんですけど ほかの方法でさとりを得た人も けっきょくのところ いないと思うんですが?


ご回答をありがとうございます。


問題は 《仏性》の普遍性説に立つなら その絶対性であることをどう処理したか ではないでしょうか。

その場合には 横超説以外に可能性はない と考えられますまいか。

お礼日時:2023/04/17 19:43

確かにそうなんですよね。


なので、横超も竪超も、実は間違っているのかなと言う気がします。
いずれにせよ、覚った人が極端に少ないとか、殆どいないとか、開祖を除いていないと思われるとか、そういう事実があるので、○○で覚れるみたいなものは存在しないと思っています。自称ブッダは沢山いますけれど、客観的にそれを判断する基準もよく分かりません。怒らないとか、苦しみから解脱しているとか言うのは、本人にしか分からないことですから。
その意味で、覚りはユニークなもので自他に立証できるような普遍性は客観的にはなく、一方で、仏性には普遍性があると言えるのかもしれません。

何故なら、仏性の普遍性と言うのは、人間ならだれでも仏性がある、と言う事だからです。
そしてそれも、神の如き絶対的な普遍性を持っているわけでは無いと思います。つまり、人類がこの世から絶滅した場合は、仏性もなくなるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

★ 確かにそうなんですよね。
なので、横超も竪超も、実は間違っているのかなと言う気がします。
☆ あぁ。そちらに行きますか。

★ いずれにせよ、覚った人が極端に少ないとか、開祖を除いていないと思われるとか、そういう事実
☆ 【Q:《わたし》】のほうで法華経の引用をかかげていますが 開祖さんも じっさいにさとりを得たかどうか 分からないですよね。

やはり法華経で 《大化城》といった説法の仕方を明らかにしています。

かんたんに言うと 《さとりの雰囲気》だけでいいんだというゴータマ・マジックのことなはずです。世の中の常識にしたがえば これを詐欺と言います。


★ ○○で覚れるみたいなものは存在しないと思っています。自称ブッダは沢山いますけれど、客観的にそれを判断する基準もよく分かりません。・・・解脱しているとか言うのは、本人にしか分からないことですから。
☆ マジックには 都合がいいわけなんです。二千有余年のあいだですよ。


★ その意味で、覚りはユニークなもので自他に立証できるような普遍性は客観的にはなく、一方で、仏性には普遍性があると言えるのかもしれません。
☆ 後半は 想定です。仮説演繹法です。

★ 何故なら、仏性の普遍性と言うのは、人間ならだれでも仏性がある、と言う事だからです。
そしてそれも、神の如き絶対的な普遍性を持っているわけでは無いと思います。つまり、人類がこの世から絶滅した場合は、仏性もなくなるのではないでしょうか。
☆ 《人知を超えたところ すなわち 超自然また超経験の場ないしチカラ》 これを 《神》と名づけているはずです。

概念で説明するなら 《絶対性・無限》です。

仏性ないし神性(霊性・生命性)は そのものとして絶対性です。

そしてその分身あるいは〔すでに想定じょうですが〕神からの〔部分的な〕現象としてのハタラキということであれば 話が違ってきます。

ただし ハタラキが起きること自体は 絶対性であるという想定でしょう。

ということは けっきょくやはり 神とわれとのカカハリ あるいはつまり われにやどる仏性の普遍性じたいについて 客観性をうたがう理由は 生じていない。こう言えるはずです。

具体的なハタラキ――その現象――については 有限で部分的なものなのかも知れません。

☆ なお横超説――想定のかぎり―― 有効でしょう。

お礼日時:2023/04/17 21:06

ブッダまでが覚っていないと言い出すと、じゃあブッダは誰なんだ、覚りと言う言葉だけが宙に浮いてしまい、謎な議論になってしまうのでそれはしない方が良いと思います。

自称であろうとも、ブッダになりましたと言って仏教が始まったわけですので。

それ言い出したら、神についても、神?誰も見たことないじゃん、そんなの居ないって。で、すべて話が終わってしまいますからね。

やはり仏と言う言葉がある以上覚りはあって、覚った人も少なくとも一人はいたとしないと話が成立しないと思います。

神についても、神と言う言葉があるのだから、神に接見した人とか、啓示を受けた人の話については、認めなければ話が始まらない。

それとも覚りも神も、仮想、想定の存在や事象であると言う事でしょうか?
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この回答へのお礼

★ ブッダまでが覚っていないと言い出すと、じゃあブッダは誰なんだ、覚りと言う言葉だけが宙に浮いてしまい、
☆ いえ。《ブッダター(仏性)》は 生きます。

 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタガルバ(如来蔵)ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケーコスムー)世界霊魂(アニマ
    ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性)

 G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

 H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

 I. タオイズム:道人一如
   道:(法?)
   人:われ



★ ブッダ
☆ ロシア語で ブディルニクとは 目覚まし時計のことです。ブディーチ=目覚めるであり その系統でのブッダは 過去分詞です。

★ 神
★ それとも覚りも神も、仮想、想定の存在や事象であると言う事でしょうか?
☆ 神は 認識論から行けば 《非知》として定義できます。

 経験事象
   可知
    既知
    未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
   不可知(知り得ないと証明し得た未知)

 非経験の場(経験事象を超えたところ)
   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
      incomprehensible incomprehensiblity

☆ 《さとり》については 《梵我一如》類型で――想定上――普遍的な事態だと言えましょう。《無梵無我一如や 仏仏一如・霊霊一如》と言い換えても 普遍性に変わりないはずです。

お礼日時:2023/04/17 22:10

目覚める、と言うのは比喩表現で、生活上で朝起きたと言う意味では無いです。


迷い惑わなくなった、分からない状態を脱した、というのが実態の意味でしょう。なので、形而上学的意味でもありません。

要するに、人生に悩んでいたが、(解がわかったので)悩まなくなった。と言う事です。

当然人生は人さまざまであるから、御釈迦さんの覚りが、他の人にそのまま援用できるわけではないでしょう。ただ、人生と言う意味では共通する本質的な部分(一人で生きてはいないと言う事)もあるだろうから、そういう人の話を、聴きたいと言う人もいる。なので、一般化して説いたものが教えとなり、後世に仏教として伝わったのだと思います。
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この回答へのお礼

★ 目覚める、と言うのは比喩表現で、生活上で朝起きたと言う意味では無いです。
☆ もちろんそうです。ただ 日常語だということを言いたかっただけです。

空(シューニャター)も 《空っぽ》という意味の言葉です。


★ 迷い惑わなくなった、分からない状態を脱した、というのが実態の意味でしょう。なので、形而上学的意味でもありません。
☆ むろん  哲学用語に成り得ます。

★ ブッダには 形而上学的意味があるか?
☆ 過去七仏といったように ゴータマ氏の時代だけではなく全歴史をつうじて いろんなブッダが現われるというところまで展開されています。

そこに 普遍的なすぐれた究極の人間性たるブッダター(仏性)を捉えるなら ますます形而上学に接近します。


★ 要するに、人生に悩んでいたが、(解がわかったので)悩まなくなった。と言う事です。
☆ ですから それが――なぜなら ごくふつうの人生における出来事のようですから――どうして ブッダのオシへなのか? だと思います。


★ 当然人生は人さまざまであるから、御釈迦さんの覚りが、他の人にそのまま援用できるわけではないでしょう。ただ、人生と言う意味では共通する本質的な部分(一人で生きてはいないと言う事)もあるだろうから、そういう人の話を、聴きたいと言う人もいる。なので、一般化して説いたものが教えとなり、後世に仏教として伝わったのだと思います。
☆ いえいえ。ブッダのオシへ以外は 外道だと言うのですよ。《正論者から見て異論邪説を唱える人たちのこと(ヰキぺ)》だそうです。

ブッダならブッダについて ブディズムならそれについて きちんとした定義がのぞまれます。

お礼日時:2023/04/17 23:08

引用1:普遍的なすぐれた究極の人間性



そんなものあるんでしょうかね?私自身も人間性の究極が仏だと思っていましたが、人間性と究極と言う言葉のマッチングがどうもしっくりきません。求めるべきは、もっとおおらかなもののように思います。おおらかな人間性、と言うなら分かりやすいではないですか。

引用2:ブッダのオシへ以外は 外道だと言うのですよ。

このニュアンスとしては、例えば祭事でヤギなどを生贄にして火の神を祀るとか言うのは、外道である、つまり、人間としておかしいって意味だと思います。私もそれはおかしいと思う。苦行するのも間違っているでしょう。カーストで人間性が決定するのも間違ってるし、そう言うようなことに対する否定だと思います。

ブッダの教えは徳の道、正しい道と言う事を示していますから、それは言い直せば、人間として正しい道、正しい言論、正しい行い、正しい諸々は何か、と言う事だと思います。

引用3:ブッダならブッダについて ブディズムならそれについて きちんとした定義がのぞまれます。

ブッダとは、多分、人生で悩まなくなった人、くらいの感じで良いと思いますよ。
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この回答へのお礼

☆☆ 引用1:普遍的なすぐれた究極の人間性

★ そんなものあるんでしょうかね?私自身も人間性の究極が仏だと思っていましたが、人間性と究極と言う言葉のマッチングがどうもしっくりきません。
☆ 表現の問題 おそれいります。おっしゃるとおりです。

けっきょく言いたかったことは 過去七仏といったふうにブッダを並べるのなら そこに共通の属性を捉え得て 絶対性なるブッダターに――けっして同じではないけれど――近づくかたちにはなる これですね。


★ 求めるべきは、もっとおおらかなもののように思います。おおらかな人間性、と言うなら分かりやすいではないですか。
☆ そのことに物言いをつけるいわれはないですね。問題は 仏性の位置づけになるかと。



☆☆ 引用2:ブッダのオシへ以外は 外道だと言うのですよ。

★ このニュアンスとしては、例えば祭事でヤギなどを生贄にして火の神を祀るとか言うのは、外道である、つまり、人間としておかしいって意味だと思います。
☆ いえ。《正論者から見て》です。仏教から見てであり 独り善がりであり得ます


★ 私もそれはおかしいと思う。苦行するのも間違っているでしょう。カーストで人間性が決定するのも間違ってるし、そう言うようなことに対する否定だと思います。
☆ むろん 《外道》視に 妥当な部分もあります。


★ ブッダの教えは徳の道、正しい道と言う事を示していますから、それは言い直せば、人間として正しい道、正しい言論、正しい行い、正しい諸々は何か、と言う事だと思います。
☆ 四諦八正道ですね。ですが こういったオシへは 極端に言えば どの道徳どの倫理でも 似たり寄ったりではないですか?

じつは 《ただしい》の定義がないと 足りないと思います。



☆☆ 引用3:ブッダならブッダについて ブディズムならそれについて きちんとした定義がのぞまれます。

★ ブッダとは、多分、人生で悩まなくなった人、くらいの感じで良いと思いますよ。
☆ それでは ほかのオシへをしりぞけて《ブッダ》を推し出す理由や必要はないと思いますよ。


ブッダだけではなく ブッダターを言うのならその限りで そのさとりとは 横超説よりほかにない。こういう仮説について問うています。

お礼日時:2023/04/17 23:46

引用:過去七仏について



わたしも過去七仏には興味がありますが、あまりまだ調べていません。
 
引用:どの道徳どの倫理でも 似たり寄ったりではないですか?

実際に比較をすると、似ているところと異なるところ、補完し合うところなどがあるのだと思います。ギリシャで言われてた徳分と、中国で言われているものと、イスラムとかキリスト教で言われているものと、仏教で言われているもの、日本で言われているもの、比較すると色々発見があると思います。

何が正しいかと言うのは、人間的に正しいと言う事くらいしか私には表現できないですが、正しいと言う事は定まっていることだと思います。例えば、力で圧倒して殺してはならない、と言うのは正しいと思います。挙げれば幾らでもあるでしょう。定義する必要は無いと思います。人であれば分かることと言うのが前提なのではないでしょうか。それが分からない人のための仏教という言い方も出来るでしょう。

引用:☆ それでは ほかのオシへをしりぞけて《ブッダ》を推し出す理由や必要はないと思いますよ。

実際、御釈迦さん自身は布教には消極的で、むしろ教えさえ説かないつもりでいたが、梵天という者が懇願して、説くことになったと聞きます。ブッダを推し出したのは、没後の人々であるでしょう。
宗教が、他の教えを退けて自分達こそ正しいのだと主張するのはよくある事です。一方で、互いに融和的である宗教人も存在します。なので、推し出されるかどうかは場合によるとしか言えません。為政者の都合に使われる場合もあります。その時に、教えが歪むこともあるでしょう。逆に、善政の元で正されることもあります。

引用:ブッダだけではなく ブッダターを言うのならその限りで そのさとりとは 横超説よりほかにない。こういう仮説について問うています。

昔、仏は誓願を立てて、人々が皆私と異なるところが無いようにしようとした。そしてそれは成就した。と、法華経にはありますが、これは、人々皆に仏性を備えさせた、という意味ではないかと思います。

横超説の根拠はここら辺にあるのだと思いますが、如何でしょう。

しかし、仏性がある事と成仏していることとの間には、ギャップがあるようにも思います。

bragelloneさんご自身も、ご自分の仏性は認めても、ご自分をブッダであるとは言い切れないでしょう?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ わたしも過去七仏には興味がありますが、あまりまだ調べていません。
☆ はい。
 
☆☆ 引用:どの道徳どの倫理でも 似たり寄ったりではないですか?
★ 実際に比較をすると、似ているところと異なるところ、補完し合うところなどがあるのだと思います。
☆ はい。

★ ギリシャで言われてた徳分と、中国で言われているものと、・・・比較すると色々発見があると思います。
☆ ころすなかれと不殺生戒。

盗むなかれと不偸盗戒。ただし 古代スパルタでは 上手に盗めという道徳律。

★ 何が正しいか
☆ 相手の意志また心を踏みにじらないこと。意志の主体である人という存在をないがしろにしないこと(ころすなかれ)。――これが 《ただしい》倫理規範だとわたしは思っていますが 必ずしもしっかりとは決まっていません。

★ 定義する必要は無いと思います。人であれば分かることと言うのが前提なのではないでしょうか。
☆ プーチンもシーチンピンもキムジョンウンも それぞれ《ただしい》ことをやっている。定義も議論・対話も必要だと思います。

★ それが分からない人のための仏教という言い方も出来るでしょう。
☆ むつかしいと思います。

☆ 引用:☆ それでは ほかのオシへをしりぞけて《ブッダ》を推し出す理由や必要はないと思いますよ。

★ 実際、御釈迦さん自身は布教には消極的で
☆ いえいえ。初転法輪のあとは 死ぬまで宣教――必要な托鉢とともに――しまくりました。


☆☆ 引用:ブッダだけではなく ブッダターを言うのならその限りで そのさとりとは 横超説よりほかにない。こういう仮説について問うています。

★ 昔、仏は誓願を立てて、人々が皆私と異なるところが無いようにしようとした。そしてそれは成就した。と、法華経にはありますが、これは、人々皆に仏性を備えさせた、という意味ではないかと思います。
☆ あっ。すみません。知らないのですが どこにありますか? 悉有仏性なる説は 庶民らの生きる息吹きから生まれたとすら思っていました。

つづく

お礼日時:2023/04/18 03:52

この部分ですね。

方便品第二の中の記述です。
http://srkw-buddha.main.jp/houbennponn.htm

舎利弗よ、正に知れ。私は昔、誓願を立て、一切の生ける者達を、私と等 しく、異なるところがない様にしようとした。 私の昔の願いは、今既に満足し、一切の生ける者達を教化して、皆、仏の道に入らしめた。 もし私が生ける者 達に遇えば、悉く教えるのに仏道をもってする。無智な者は錯乱し、迷い惑うて教えを受けない。 私はこれらの生ける者達が、未だかつて善の本を修めた事が ないのを知っている。堅く五欲に執着して、無智と生存意欲の故に悩みを生じ、諸々の欲の因縁によって三種の悪しき世界に堕ち六種の世界を輪廻して、つぶさ に諸々の苦の毒を受け、受胎する微小な形は、世を重ねる毎に増長し、徳うすく福少ない人間として多くの苦しみに迫られ、邪見の深い林に入り、あるとか、な いとか言いあらそい、この諸々の見解に頼って六十二種も備えている。 深く虚妄の教えに執着して、堅く受持して捨てず、我執がふかく、自ら誇り、偽善であ り、心は不実である。千万億劫においても仏の名を聞こうとしない。また正しい教えを聞かず、この様な人は救いようがない。 この故に、舎利弗よ、私は方便 を設けて、諸々の苦しみをなくす道を説き、永遠の平安を示す。 私は永遠の平安を説くが、これは真の悟りではない。存在するものは、本来、常に自ら寂滅す る性質のものだからである。仏の子は道を修行し終れば、来世に仏となるであろう。 私には方便力があって、三つの立場の教えを教え示した。しかし一切の諸 々の世尊は皆、一なる立場の道を説かれる。 今、この諸々の大衆は皆、正に疑惑を除け。諸仏の言葉は異なるところがなく、ただ一つであって第二の立場はな い。


引用☆ プーチンもシーチンピンもキムジョンウンも それぞれ《ただしい》ことをやっている。定義も議論・対話も必要だと思います。

その議論や対話は利害関係の調節であって、正義の話にはならないと思います。なぜなら、アメリカも日本もイスラム諸国も、あらゆる国や集団を含め、戦争には初めから正義など無いからです。彼らはそれぞれの立場においてさえ、正しいことをやっていません。彼らの言う正義はプロパガンダに過ぎないのでは?

引用:☆ それは 理論と実践とですね。一般絶対性――梵我一如なる理論――は 一人ひとりの個別絶対性として実践され現実となります。

その実践とは如何なるものですか?

引用:☆ いえ。次のように つとに問うています。

つまり、貴方(bragelloneさん)はブッダなのですか?
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この回答へのお礼

★ この部分ですね。方便品第二の中の記述です。
☆ けっきょく 予告編があるだけです。

効能書きが延々とつづくだけです。

心的現象をめぐって外形的な分析をなし そのすぐれた状態を規定し その枠組みが さとりの中身であると言うのみでしょう。

四諦八正道が おそらく基本的な答えなのでしょう。しかもそれは 前書きです。

四諦とは 苦諦・集諦・滅諦・道諦であり やはり苦が問題であり しかも《生》の苦なんです。

生苦からの解脱が さとりなんです。そういった分析の枠組みが説かれて さとりの外形的な(枠組みにもとづいた)説明もなされるが ついぞそのじっさいの中身は 明かされない。


☆ 引用☆ プーチンもシーチンピンもキムジョンウンも それぞれ《ただしい》ことをやっている。定義も議論・対話も必要だと思います。

★ その議論や対話は利害関係の調節であって、正義の話にはならないと思います。なぜなら、アメリカも日本もイスラム諸国も、あらゆる国や集団を含め、戦争には初めから正義など無いからです。
☆ いえ。そもそも《正義》という言葉が 死語だと言いたかったのです。


★ 彼らはそれぞれの立場においてさえ、正しいことをやっていません。彼らの言う正義はプロパガンダに過ぎないのでは?
☆ むろん そうです。それぞれの考える正義です。しかもそれらを われわれは批判し切れないです。対話で結着をつけきれない。


☆ 引用:☆ それは 理論と実践とですね。一般絶対性――梵我一如なる理論――は 一人ひとりの個別絶対性として実践され現実となります。
★ その実践とは如何なるものですか? 
☆ 信仰のことです。

その神論を 質問として挙げます。

☆ 引用:☆ いえ。次のように つとに問うています。
★ つまり、貴方(bragelloneさん)はブッダなのですか?
☆ あなたもです。

お礼日時:2023/04/18 13:36

私がブッダだとしても、日常、さまざまに悩んだりするのは何故でしょう?ブッダなのに悩みがあるのはおかしくないですか?

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この回答へのお礼

trigger_note さんには 次の議論だけで答えは済むでしょう。

▲ (中村元:龍樹)~~~~~~~~

  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたもの
  なるものは 存在しない。
  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたもの
  なるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。

われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
  (中村元『龍樹』2002 pp.225-226 )
~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2023/04/18 14:15

そうでしょうか。


我欲を離れたやさしさや思いやり、慈しみなどは現実に人間に存在します。それを仏性と言うのでしょう?
龍樹の論理だと、仏性なるものは無いと言うことになる。
その点について、龍樹はどう考えているのでしょう?
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この回答へのお礼

★ そうでしょうか。
☆ はい そうです。わたしは ナーガㇽジュナを支持しています。

★ 我欲を離れたやさしさや思いやり、慈しみなどは現実に人間に存在します。それを仏性と言うのでしょう?
☆ 《仏性》だけを取り上げ取り出すなら そうです。

けれども わたしたちは おのおのその身と心に仏性を宿す・・・わけです。

それこそ 根本的な生存欲が旺盛であり我執も盛んです。

それら全体がわたしなる存在です。

言ってみれば ふつうに実存志向なのだと思います 庶民のブディズムは。


★ 龍樹の論理だと、仏性なるものは無いと言うことになる。
その点について、龍樹はどう考えているのでしょう?
☆ ええっと 出したことがあるでしょうか。ヘーゲルです。

▲ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~

☆ これで お答えできたと思うのですが。

お礼日時:2023/04/18 15:31

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