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京都祗園には甲部とか乙部とかがあるそうですがどういう風に区別してあるのですか?また先斗町も祗園にはいるのですか?それと色町と花町は同じような意味なのですか?
祗園の歴史をおしえて下さい。

A 回答 (3件)

祇園は八坂神社の門前に開けた茶屋町で、今のような一大歓楽地のルーツとなったのは江戸時代からとされています。



>>京都祗園には甲部とか乙部とかがあるそうですがどういう風に区別してあるのですか?

祇園のあたりの地図を見ながら読んでいただくと判りやすくなりますが、八坂神社を突き当たりとして、西に四条通が伸びており、その付近一帯が祇園になるわけですが、この四条通の北を「乙部」、南側を「甲部」としたのです。ただし、この区分けは戦前までで、現在、乙部は「祇園東」となります。
これもかなり大雑把で、厳密には四条通に垂直に交わる花見小路通とで4つに分けると、その北東の部分のみを「東」とし、のこりを「甲部」とする考え方もあるそうです。が、大まかには四条通が境界といっていいと思います。

>>先斗町も祗園にはいるのですか?
入りません。先斗町は鴨川の西岸、三条と四条を結ぶ川べりの細い通りのことを指します。他に、上七軒、宮川町などの花街があります。

>>色町と花町は同じような意味なのですか?
似たような意味で使われることもありますが、芸事を中心におく場合を花街とする使い方もありますので、時と場合に拠ると思います。
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 京の五花街(ごかがい)は北から南に向って、上七軒(かみひちけん)、


先斗町(ぽんとちょう)、祇園甲部(ぎおんこうぶ)、祇園東(ぎおん
ひがし)=祇園乙部(ぎおんおつぶ)、宮川町(みやがわちょう)。
 
 西陣の旦那衆が五花街の座敷なら、職人たちは五番町(ごばんちょう)
遊郭(ゆうかく)で遊んだ。島原遊郭(しまばらゆうかく)は廃業し、
もっぱら観光用の花魁道中(おいらんどうちゅう)で知られる。
 
 京の人は、色町(いろまち)廓(くるわ)と呼ぶこともあるが、花町
(はなまち)遊郭(ゆうかく)とは云わない。
 とりわけ遊郭は、売春禁止法以後うらぶれて最盛期の面影もない。
 
 五条大橋より川下にある、五条楽園(ごじょうらくえん)、七条新地
(ひっじょうしんち)、伏見深草にある中書島(ちゅうしょじま)など
の遊郭は“橋下(はしした)”と蔑称された。
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はじめまして



基本的には四条通りといいたいところですが
入り組んでおります

先斗町は祇園には入りません
http://www.gionhisaki.com/html/history/history.h …

http://www.tanteifile.com/rensai/nashimoto/14.html

http://www.gionkaikan.com/

http://www.kyoto-gion.sakura.ne.jp/archives/2004 …
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