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アーメン。

A 回答 (7件)

人間は、善悪、双方を持っています。



善を基本とした社会にするか
悪を基本とした社会にするかの
違いでしょう。

例えば中国です。
識者三人が討論する、という番組が
あります。

「日本人は誠実だな」
「そうだな」
「君たち、そんなに日本人を褒めるなら
 どうして誠実に振る舞わないんだ」
「バカ言うな。中国で誠実に振る舞ったら
 身ぐるみ剥がされてしまわ」
「そうだな」
「そうだな」


日本は性善説の社会でしょう。
人々は善である、という前提の
社会が基本になっていると思われます。


北京で。
お婆さんが転んだ。
手助けしようと駆け寄ったら
怒鳴られた。
「泥棒!」
中国では、そんな親切な人間はいないので
悪者だと誤解された。

これが日本だったらどうでしょう。
泥棒、と騒ぐ人は、まずいないんじゃ
ないですか。
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性善説と思いたいけど性悪説のようです残念ながら

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性悪説です(^^♪

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大人に限らず、すべての人間に性善、 性悪、両方あるのが正しいです



少々おさらいをしましよう
人間の本性を善と見るか悪と見るかということは、古来、宗教・哲学の重要なテーマでした。現今では、心理学において、この問題が、しばしば避けられない課題となっています。
 周知のように、儒教では荀子が性悪説、孟子が性善説を唱えています。キリスト教では“原罪説”を説きますが、これは性悪説に近い考え方ではないかと思います。また、心理学では、フロイトは性悪説に傾いているのに対し、ユングは性善説に近いように思われます。マスローなどは、明確に性善説を唱えています。

それをふまえて(東洋哲学)仏教では
一人の生命の中に性善・性悪が、本来、ともに具わっていると捉え、(人格者)仏という最高の生命状態においてさえも、性善と性悪が包含されていると説いています。したがって、人は常に自己の生命に内在する善なるものを伸ばし、強化するとともに、悪の面を抑制する努力をしなければならない、というのが基本的な考え方になります。
 しかも、この仏教(東洋哲学)の特質は、悪なるものの抑制は、外からなされるのでなく、個々の生命の内側から主体的に行われなければならない、と考える点にあります。つまり、悪をコントロールする力を、各個人が養っていくことが肝要であるとするのです

一般に、自己の悪い面を抑制する手段としては道徳が考えられますが、道徳的知識はどんなにたくさん積んでも、そのままでは行動の規範にはなりえないと思います。その理由は、人間の行動が、理性に従う以上に、感情・情動によって左右されるからです。主として理性に支えられている倫理的な意識を情動の力が踏みにじってしまうことは、日常的にも経験されるところです。
 私は、倫理的意識のはるか内奥から突き上げてくる情動の嵐を、どのように克服していくかという問題こそ、哲学や宗教の課題であり、倫理を支える基盤となるところに、宗教や哲学の役割の一つがあると考えるのです。

アーメン。
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性同一説も作る必要があるかもしれません。


善か悪かは、性自認も認めなければならないのか?
法律家の判断だけではなくて、自らの判断での善と悪も尊重されなければならない。とか?
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基本的には性善説だと思います♪

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性悪説を使っとけば確実。

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