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言論の自由と表現の自由と云う、二つの言葉の扱い方の違いを知りたいです。

他のカテで罵声は言論か?という質問をしているので、関連しての回答が望みです。

また、罵声は表現の自由という枠内で扱われますか?

質問者からの補足コメント

  • 回答を下さった皆様、有り難うございました。

    漠然とした疑問が多少は見えてきたかな、とは思うのですが馬鹿だからなぁ。
    ホントーに、情けない。

    もう一度、質問し直したいほどです。

      補足日時:2023/06/24 18:54

A 回答 (4件)

「表現の自由」と「言論の自由」の差は他の方も回答されている通りで、「言論の自由」は「表現の自由」の一部です。


ただ、「言論」は他の表現に比べると、基本的に誰もが使えるものであること、それから議会制民主主義の基本である「議論」を含むことなどから、「表現の自由」の中でも特筆される「自由」ですね。


>他のカテで罵声は言論か?という質問をしているので、関連しての回答が望みです。
>また、罵声は表現の自由という枠内で扱われますか?

以後はこの部分について回答します。


まず結論から、「罵声」は「言論」のうちに含まれます。当然「表現」にもですね。
でも、この場もそうであるように、「罵声」「罵倒」が許容されない場はたくさんあります。これをどう解釈するかを論じてみたいと思います。


■ 「罵声」の自由は許さなくていい、という話

いきなりですが、サッカーはお好きですか?サッカーって、キーパー以外は手でボールを扱っちゃいけないことになっていますよね。そのことを、「基本的人権の侵害だ」という人はまあいないだろうし、いたら「お前サッカーすんな」という話になると思います。

つまり、憲法は色々な自由を保障しているんですが、ローカルにはそれを制限するルールを作ってもいいし、それに人を従わせてもいいんです。
それが憲法違反にならないのは、「ローカルルールに参加しない自由」が保証されているからですね。

サッカーでは手を使ってはいけない。サッカーに参加する者には、手でボールを扱う権利がない。
でも、サッカーに参加しない権利は誰にでも与えられているので、誰も「手でボールを扱う自由」を本当に奪われてはいないわけです。

同じように、例えば議論の場、言論の場、相談の場においても、有形無形のローカルルールがあって、そのローカルルールが「罵声」を許さないことは別に構わない。守れないなら出て行け、あるいは嫌われたり、自分も罵倒されたりする覚悟をしてやれ、と言えばいいし、出て行く権利も担保されているので、「罵声を飛ばす権利」は誰も奪われていません。

政治家が失言をして失脚すること、ありますよね。あれは、「政治家には言論の自由がない」わけではありません。政治家を含め、誰にでも言論の自由はあるんですが、「自らの言論の自由を制限する能力と意志がある人間しか、国民は信頼して政治を委託しない」からです。
つまり、言論の自由は確かに全員にある。でも、好きなことを言いたいなら下野して勝手に言っておけ、ということですね。


■ 「罵声」の自由は許さなければならない、という話

ここから、正反対のことを書きます。

私自身は、「罵声を発する人間」に耳を傾けることはほぼない人間です。冷静な論調ではなく罵声を発している時点で「聞く価値なし」と判断することが多いです。でも、実はこれは明確な「差別」です。

何故ならば、この考えは「冷静な主張ができる能力を持たない人間の発言は認めない」と言っているのに等しいからです。例えば、両親が罵声を浴びせてくる毒親で、十分な教育も受けさせてもらえず、「冷静に話す能力」自体を培えなかった人はどうか。あるいは、あまりにも辛くてパニックになり、冷静に言葉を選べない状況にある人はどうか。

「罵声以外に表現できない人」を一切合切、話し合いの土俵に上がることすら許さない価値観なんですね。なので、これは「差別」です。

ただ、「差別」と明確に理解しつつ、私がこの価値観を取り下げないのは、個人的に「楽をしたいから」です。そして、その怠慢が許されると考えているのは、私が誰かにとって、「致命的な権力の持ち主」であるケースは少ないから。つまり、私が話を聞かなくても、他の誰かが聞くだろうし、他の誰かが聞くことを私は一切制限しないからです。逆に、自分が権力を持っている場合、つまり罵声を挙げているのが自分の部下である場合などには、基本的に耳を傾ける義務があると思っていますし、実際話はちゃんと聞きます。


そもそも、「言論の自由」がどうして大事なのかというと、これが権力と戦う道具だからです。力ではとても敵わない強大な権力に対して、言論ならば戦える、という余地を残すために、「権力が」言論を統制することを禁じたのが「言論の自由」なんですね。

なので、権力として機能しない個人が、どのような言論に耳を貸さなかったところで、それ自体は問題ではありません。

ただし、個人の集団が疑似的に権力として機能してしまう場合はあります。例えば炎上騒ぎなどですね。炎上している場合は、私は主張の正否に関係なく、炎上に与する側の意見は言わないことにしています。


「権力」が罵声を許さないことには注意しなければならないし、自分がローカルにではあっても「権力」の側に回る場合は罵声を許容しなければならない、というお話でした。
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この回答へのお礼

例えとして話されたことは、当事者対部外者という設定をしている、ように思えました。
当事者ならばルールは守らなければならないが、部外者がそれを守る必要はない、と云っているようです。

※ たくさん回答を頂いて思ったこと。

言葉の暴力とも云えるような「罵声・罵倒」は、表現の自由には当たらない、と云うものでした。

また、国会や講演や街頭演説はそれぞれ形態?趣旨?が違うので「罵声・罵倒」と云う行為が、表現の自由という盾や鉾を使える場合もある、とも。

お礼日時:2023/06/24 15:30

表現の自由とは、言論の自由プラス絵画・映像等非言語的表現のすべての自由を含む概念でしょう。



罵声も表現のひとつであり、言論の自由なのか表現の自由なのかという区分には意味はありません。

ただ、表現の自由(言論の自由も含む)とは、無制限の自由ではありません。

法的、倫理的、社会通念的に制限されている、または制限される可能性のあるものです。
罵声も、内容や状況によっては、訴えられ、罰せられる可能性はあるでしょう。
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この回答へのお礼

罵声を浴びせるという行為が、表現の自由と云う法を適用して“盾や鉾”として使えるかと云うと、それは状況や内容次第による、ということですね。

お礼日時:2023/06/24 14:12

言論の自由



Wikipedia
https://ja.wikipedia.org › wiki › 言論の自由
言論の自由(げんろんのじゆう、英: Freedom of speech)は、検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指す。自由権の一種である。


表現の自由(ひょうげんのじゆう)とは、すべての見解を検閲されたり規制されたりすることもなく表明する権利[1]。外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表したりする自由[2]。個人におけるそうした自由だけでなく、報道・出版・放送・映画の(組織による)自由などを含む


この違いは
言論=口頭、言葉
表現=口頭、言葉、印刷物、出版物、報道、歌、映像、舞台等…
の差でしかないと言えます。




罵声は「表現の自由」「言論の自由」には当てはまりません。
ただし、「それなりの責任をとる」という場合は当てはまるかと思います。

もしそれが当てはまるとしたら、「何を言っても許される」ということになります。

言葉の暴力で犯罪になる例

01.傷害罪
02.名誉毀損罪
03.侮辱罪
04.脅迫罪
05.強要罪
06.恐喝罪
07.軽犯罪法違反
08.威力業務妨害罪

「罵声」とは「口ぎたなくののしる」という意味ですが、その中に上記に触れるものも含まれます。

これらを行った場合、刑に服す…というなら「自由」と言えるかもしれません。
しかし大抵の場合は刑に服すのを良しとしないので「当てはまらない」と言えます。

もちろん上記犯罪に至らない場合でも「周囲の人に悪く思われる」ということを容認するなら「自由」と言えますが、容認しないなら「当てはまらない」と言えます。

よって「当てはまらない」が一応の答えとなります。
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この回答へのお礼

“リスク”を受け入れるのだから「自由」に相当するはず、と云うのはチョット疑問がのこりました。なんか、開き直ったような感じで。
周囲からの批判を、浴びせかけられそうです。

視点・観点にも依るとは思いますが。
おおむね法的な意見か、人道的な観点からの意見になるのでは、と思いました。

お礼日時:2023/06/24 14:05

辞書で引いてみました。



言論ー言語や文章によって思想を表現し発表すること。
表現ー心に思うこと、感ずることを、色・音・言語・所作などの形によって、表し出すこと。その、表した形。

ですので「言論の自由」は特に表現の自由の中で「言語、文章」によって表されたものといえます。

罵声は表現の自由とはいえないですよ。
「馬鹿野郎」「死んでしまえ」「韓国に帰れ」などは表現ではありますが、相手に恐怖感を与え、むしろ表現の自由、言論の自由を脅かしています。
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この回答へのお礼

表現の一つの手段として言葉がある、という事ですね。
なるほど。

罵声は言葉での意思表示、あるいは表現ではあるけれど、相手に恐怖感を与える言葉なので“表現の自由”とは云えない、と捉えました。

お礼日時:2023/06/24 07:52

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