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隋、唐は拓跋国家として有名ですが、隋がなぜ拓跋国家なのか分かりません。唐の李氏は拓跋部ですが、隋の楊氏は拓跋部じゃないですよね?
どういうことでしょうか。

A 回答 (4件)

高校の教科書には、


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とくに4~5世紀,華北では遊牧民(漢人から胡とよばれた)と漢人が入り乱れて抗争するとともに,混血や文化の融合がみられた。そして北魏から隋・唐にいたる一連の王朝では,遊牧民の鮮卑のなかの一派拓跋氏出身者を中心に,それと協力した漢人貴族が支配層を形成し,胡漢勢力の融合した政権をきずいた。そのもとで,遊牧民や漢人など多様な人々を統治する胡漢融合帝国が形成された。その典型が唐帝国である。

まもなく帝位をめぐる一族の争い(八王の乱)がおこって晋の支配をゆるがし, この内乱のなかで兵力として活躍した遊牧諸民族(「五胡」と総称される)が勢力をのばして各地で蜂起した。山西で挙兵した甸奴は晋の首都洛陽をおとしいれ,晋は滅んだが,その一族の司馬春が江南の建康(現在の南京)で即位し,晋を復興した(東晋)。その後,華北ではおもに遊牧諸民族によってたてられた多くの政権が興亡したが(五胡十六国), 5世紀前半に,鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝が華北を統一した。
魏晋南北朝の動乱時代は, 国家の統制も弱まり,多民族がまじりあう状況のなかで,多様な思想・文化が花開いた時期であった。
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王朝の支配者の祖先の出身・系統が、支配をする上で重要と考え、どうアピールしたのかということが、大事なことだとは思えません。
単に、事実の出身を追うのであれば、確実なことまでは分からないとしか言いようがないでしょう。
たぶん、遊牧民、鮮卑と言われた民族の有力者の系統が血統的には強く継がれていたのでしょうが、政権支配者としては、多民族/多文化の糾合とともに、漢人が大量にいて、漢文化の正統性を堅持するってことも、大事だったのでしょう。

天皇が万世一系であるようにいうことが大事だったという時期だってあったのです。
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-035.html
「拓跋国家」の回答画像4
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隋 唐 漢人の支配者であるか、征服民の後継が支配者か、それほど大事なことのようには思えませんが、


どの道、漢の後継という立場は堅持したのでしょう。
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-035.html
「拓跋国家」の回答画像3
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隋も唐も北魏の流れを汲む統一王朝です。


北魏は鮮卑拓跋部が建国した国ですから、隋も唐も一括りにして「拓跋国家」と呼ぶようになったのです。
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楊氏が拓跋部かどうかはわかっていないんじゃないかなぁ, というかここまでいくともう「何が本当か」すらわからないような気もするんだけど....



ただ, 「拓跋部かどうか」はともかく「関隴集団」の一員ではあるよね.
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