No.6ベストアンサー
- 回答日時:
北条が望んで、その道を選んだとは必ずしも言えません。
実際には名胡桃城事件が原因で北条は秀吉と戦わざるを得なくなったのです。武田家滅亡後に真田昌幸と北条との間で沼田領を巡る紛争が生じていました。秀吉は北条氏政と氏直に何度も書状を出して上洛を要請しており、北条家内部では主戦派と穏健派が対立していましたが、ついに秀吉に使者を送って従属する旨を伝えたのです。北条家は氏政の弟である氏規を京に派遣して秀吉との折衝を行わせます。交渉の焦点は、いつ北条氏政と氏直が上洛して秀吉に拝謁し、臣下の礼を取るかという問題に移ります。この交渉に当たって、北条側は先に述べた真田家との間に生じていた沼田領問題を条件に入れ、そこで何らかの取り決めが行われたと推測されます。
その結果、秀吉は北条と真田に対し関東惣無事令を遵守して停戦をするよう命じます。さらに、詳細な事情を聞くため北条家の家臣を秀吉の元に派遣することを要請します。北条は重臣の板部岡江雪斎を京に送り、沼田の領有に関する北条の主張を伝えます。真田の主張は昌幸が上洛して在京していた時点で既に秀吉の耳に入っていたと考えられ、両者の言い分を聞いた秀吉は1589年7月に以下の裁定を下します。
一.沼田城を含む沼田領の3分の2は北条のものとする。
二、沼田領の3分の1は真田のものとする。
三、真田が割譲した領地に相当する替地を家康が真田に与える。
四、吾妻領に関しては一部の地域(中之条郷)を除き真田のものとする。
この秀吉の裁定によって真田は沼田城を失い、非常に残念な結果となります。逆に北条にとっては有利な裁定でした。しかし、北条家の主戦派にとっては納得のいく裁定ではなかったようで、真田、北条共に不満の残る結果となりますが、秀吉の裁定に従って、沼田城は真田から北条に引き渡されます。そして北条の沼田城城代に任じられたのが猪俣邦憲でした。
この引き渡しから4ヶ月後に、最初に書いた名胡桃城事件が発生するのです。秀吉の裁定により真田が領有した名胡桃城を北条家の猪俣邦憲が奪ってしまったのです。猪俣邦憲は家臣の竹内孫八左衛門に命じて名胡桃城城代、鈴木主水の義弟、中山九郎兵衛を調略し、鈴木主水の留守に名胡桃城を奪ってしまうのです。これを知った城代の鈴木主水は自害して果てます。
名胡桃城を奪われた真田家では騒然となり、直ちに真田信之から徳川家康に連絡が行き、更に家康から秀吉に知らせが届けられます。この一件を知った秀吉は激怒し、北条氏直に詰問城を送ると共に、真田に対して国境の守りを固めるよう命じます。
秀吉は1587年12月に大名間の私闘を禁じた「関東・奥羽惣無事令」を発していました。この「惣無事令」は、関白となった秀吉が天皇の名代として発した命令であり、これに反する行為は天下への反逆と位置づけられ、討伐の対象とされたのです。氏政、氏直の上洛がいまだ実現していない中で、北条がこれに違反する暴挙を起こしたことで、秀吉は北条討伐を決断したのです。
そして、公卿の今出川晴季に北条への宣戦布告城を作成させ、北条氏直に送り、更に全国の諸大名に対しても、この宣戦布告状がが届けられて、北条に天罰を与えるための戦いであるとして出陣したのです。
宣戦布告状を受け取った北条氏直は蒼白となり、秀吉の家臣に弁明書を送り、名胡桃城の一件について、自分は知らなかったと弁解します。また重臣を上洛させて名胡桃城のことは北条の与り知らぬ事で、猪俣が勝手にやったことですとと重ねて弁明します。しかし、秀吉がこのような弁明を受け入れることはなく、もはや応戦するしかなくなってしまったのです。
家臣、猪俣邦憲の行動によって北条は滅亡への道を歩むことになってしまったわけです。猪俣の行動が単独の意志で行われたかどうかは疑問で、北条氏邦などが関わっていた可能性が高いと考えられます。北条家内部で秀吉恭順派と主戦派の二つに割れていたことで、こうした結果を招いたと考えられます。その後も恭順派が秀吉と交渉を行う一方で、主戦派は戦に向けて大がかりな準備を行うわけです。
No.8
- 回答日時:
追記
〉なぜ武田・上杉と豊臣秀吉は、違うということに気付かなかったのですか?
データ不足の時代、感ピュータで判断した時代だからです。
毛利や上杉は、織田軍に追い詰められた経験があった。
その後の秀吉の強さも判ったから軍門に下った。
島津や伊達は、実際に戦ったことも無いから侮っていた。
北条は信長死後、織田の滝川軍が逃げ去ったから、完全に舐めていた。
次いでに、外様の徳川や上杉が秀吉に従って、本気で攻めてはこないだろうとも考えていたでしょう。
つまり、信長がもう少し長生きして、北条も織田軍に追い詰めらる経験があれば、毛利や上杉のように素直に上洛したでしょう。
No.7
- 回答日時:
たぶん No.6の回答がごく普通の回答の一つだろうと思います。
ただ、「戦争して戦う道を避けないで」となるのは、それほど単純には決まらないように思います。
日本軍も、アメリカに戦いを決意させるような攻撃をしています。 勝てると誤解したとか、どこかで妥協停戦に持ち込めるとか思った可能性も否定できないですし、軍事・武力攻撃・戦闘というのは興奮や激情が優先してはじめる要素が大きいから、「人間てのはそういうときもあるんだ」という方が良いのかもしれません。
秀吉の威力・勢いは分かっていても、自軍の勢いに酔っていれば、、南部氏一族の有力者である九戸政実の例もあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8 …
ベトナムでは、アメリカ軍を追い出したということもあるのですから、戦う道を選ぶのは、弱小勢力がやるべきではないとは決まらないのでしょう。
この先どうなるかわかりませんが、ウクライナにはクリミアのようにロシアに近いところはあっても、ポーランドなどヨーロッパに近いところはロシアと戦う道を選んだようです。
成功体験があるからというようなものは全くない状態でも、彼此(ひし)の勢力武力差をみることは重要なことではあっても、それだけで決めるのでは「安っぽいAIに決めてもらえばそれで良い」のと同様になってしまうように思います。
人間って、喧嘩し・腹を立てて、退職したり、袖を分かったり、離婚したり、同盟を解消したりもするものでしょう。 利に聡いばかりではないと思います。
No.5
- 回答日時:
確かに、北条氏政が強大な秀吉を相手に渡り合おうしたのは、小田原城の守りに自信があったからだと言われていますね。
小田原城はもともと落とすのが難しいことで知られており、武田信玄や上杉謙信も攻略できなかったうえ、さらに小田原城を改修したことで、秀吉に攻められても、すぐには落ちないという過信につながった可能性はあります。しかし、氏政が秀吉との戦いに踏み切ったのは、北条家に代々語り継がれた理念の為でしょう。 その理念とは、「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは天地格別である」です。
最終的に氏政が選んだのは「義を守りての滅亡」の道でした。
秀吉との戦いで滅亡して自害したのは、数多いる戦国武将のなかで、北条氏政、ただ1人でした。
No.4
- 回答日時:
風魔小太郎の情報が正確でなかったのでしょう、関東以北は注視していたが
関西方面は注視していなかったからと思います。
武田信玄が強かったのは、くノ一の頭領 望月千代女の情報が正確だった
からです、そうでなければ、正確な地図なかった時代に、三方ヶ原での
作戦行動は出来ないかと。
桶狭間の戦い以降は頭数を揃えて攻めかかる時代は終わり、情報を集めて
周到な用意をして戦う時代に成って居たのです。
No.3
- 回答日時:
〉なぜ武田・上杉と豊臣秀吉は、違うということに気付かなかったのですか?
写真も映像も無い時代だからです。
当時はすべて伝聞だから、実際に目にしないと信じられない。
島津と伊達がその証拠。
島津も秀吉の実力なんて噂の半分しか信じなかったから、噂以上の大軍に負けた。
伊達も秀吉の実力を信じていなかったが、実際に北条がピンチで慌てた。
No.2
- 回答日時:
戦国時代の合戦、特に守護の配下の武将が領主に対する異議申し立てが上手く行かなかった場合に交渉を有利にするために城に立て籠って戦いを辞せずという姿勢を見せることはよくありました。
今で云えば労働組合がストライキして経営側に対抗するのと同じような感覚です。本気で戦おうとはあまり思っていない。
例えば、上杉謙信が若い頃は守護代の兄に代わって方々のそういうストライキ的な諸将の反乱鎮圧に兵を率いて出向きましたが、謙信は問答無用的に交渉しても交渉はそこそこにいきなり攻め込む戦法を多用し、真面目に殺し合いをするとは思っていなかった諸将はあっさりと降参するという場面が多かったようです。
北条父子も、戦いは籠城戦になって本格的な戦いは起きないという前提で、どんな大軍に囲まれようと難攻不落の小田原城に立て籠もり続けながら、交渉を進めようとしたわけです。真面目に攻められても秀吉側の兵が多く死ぬだけのことと思っていたわけです。
確かに秀吉は、大軍で囲みながらも城を落とそうと攻め寄せることはしませんでした。
しかし、秀吉は攻めもしませんでしたが、交渉もしなかったのです。
悠然と、関東一円の北条方を制圧しながら、自分は本陣で遊興にふけるわ、城を急造するわと、「私はそちらが折れるまでいつまでも待ち続けますよ」という余裕綽々の態度しか見せなかった。
この心理戦に北条父子は耐えられなかったということでしょうか。
No.1
- 回答日時:
少し前に家康が、小牧長久手で、秀吉と一戦し、優勢なまま停戦しそのまま和平交渉に成功。
そのパターンを狙ったのでしょう。小田原城は落とせないと証明したうえで、秀吉と交渉しようとした。
それに対し秀吉は、大軍で包囲して、戦力差をみせつけた。
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