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C1)該戦争でこんな悲惨な地獄の体験をしたとかいう記事は、戦後、無数にある。
朝日新聞等多くのマスコミは、戦後70年以上何回も同じ写真を使い、同じ記事を掲載し続けてきた。
しかしそういう悲惨な戦争を起し、継続させた責任者についての記事が殆どない。
半藤一利、保坂正康らの本を読んだ事があるが。戦争での出来事を細かく書いているが、その戦争責任は殆ど触れてない。なぜかと思っていたが。それは政府と関係機関が言論弾圧して押さえている為ではないかと思う。
安倍首相が国会答弁で、「あの戦争は正しかった」と答弁し、その真偽は後世の人達が判断する事だといって討論は逃げていた。東京裁判に関しても、「あの裁判は不当な裁判だった」、というような記事が多く、日本の軍国侵略戦争を擁護する記事が多いし。自虐史記事は止めろ、という記事が多い。
村山談話は、日本の侵略戦争を謝罪するが、その責任の所在を追及しない。誰が侵略戦争を推進したのかは語らない。該戦争の責任に関する発言は、gooの削除対象になりますか?

C2)・東条英機は太平洋戦争を開始し、日本を壊滅させ、東京裁判で死刑となり、絞首刑になった。彼を首相に指名したのは木戸幸一の強い推薦とそれをうのみにした昭和天皇であり、最終的には天皇に任命責任がある。
・東条内閣が、該戦争を決断し、天皇に上奏した時、天皇はそれを採用して、戦争開始になった。
戦争開始を止められる人は、天皇しかいない政治体制で、天皇は開戦を止めず、採択した。その責任もある。
・1944・7・22、サイパン島陥落、武器弾薬が底をつく状態で、これ以上の戦争続行は不可能という状況で、東条内閣は辞職に追込まれた。戦争停止を進める内閣が発足したにも関らず、戦争を継続した。その原因も天皇が敗戦を嫌がった為か。
1945・2・14、近衛文麿は和紙8枚に自筆した「近衛上奏文」を持ち、昭和天皇に上奏した。「敗戦はもはや必至。この上は一日も早く戦争を終結すべきです」と。しかし天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」として、この進言を拒否し、戦争を継続した。
これを採用していれば、その後の1945・3・26からの沖縄戦、ソ連兵による満州での日本人の虐殺、婦女子への強姦、広島、長崎の原爆被害、シベリア抑留、東京、名古屋、大阪、福岡などの多くの都市への大規模な空爆の被害を避けられた。これらで何十万人、何百万人の日本国民が殺され、苦しめられた。この責任は、それを拒否した昭和天皇にある。
こういう事が分っていながら、天皇の戦争責任を追及する事は、日本の国体を崩壊させるから、そういう議論は一切、言論弾圧する、というのが、戦後の政治体制ですか?


C3)日本は伊藤博文が作った憲法で、天皇の下に日本軍を置いたから、軍は国会の制約を受けず、軍に命令できるのは天皇のみ、という政治体制を作った。ここに責任を押し付けると、日本の諸悪の根源は、伊藤博文、という事になるが。軍人が違法な事をしても、内閣の管轄下にある警察は、軍人を取り締まれず、軍人は警察を無視してやりたい放題だった。

C4)戦時中は朝日新聞等のマスコミは、戦争をあおり、支援する記事を書き続けていた。それが敗戦すると、コロッと態度を一変させ、戦争被害を中心に多くの記事を書くが、戦争責任については殆ど語らない。これも言論統制がある為ですか?

質問者からの補足コメント

  • C7)「教えてgooは言論弾圧をしていないか?」、という私の質問には、誰も答えない。
    という事は、「やっている」という事かな。
    「太平洋戦争の責任」については、戦後ずっとかん口令が敷かれ、マスコミが話題にする事はタブーだった、と見える。回答を見ると、「そんなものを明らかにして、今更どうするんだ。うやむやのままでよいのだ」という主旨の回答。現在も、今後も永遠に該問題はタブーだ、という事ですな。
    福島原発事故の原因も責任もうやむやでいいのだ。国民は黙って政府方針に従っていればよいのだ、という事ですな。

      補足日時:2023/11/07 11:33
  • C7)訂正。
    正しくは、C1)の
    「該戦争の責任に関する発言は、gooの削除対象になりますか? 」 です。

      補足日時:2023/11/07 19:31
  • C3)の補足。
    「国王は君臨すれども統治せず」といったのは16CのPolandの大臣。英国がこの形を取り、独は国王が大権を持つ憲法を作った。伊藤博文は独の憲法を採用。それで日本の戦前の天皇は大権を持った。天皇大権制である。それ故、1941・10・18、天皇は、開戦を強硬に主張し、戦争回避派の近衛首相を退陣させた東条英機を首相に任命し、1944・2、日本の全軍を指揮する参謀総長にも任命した。
    太平洋戦争も昭和天皇のご聖断で終結した。
    2・26事件が起きたのも、警察は動けず、軍隊がやり放題の体制で起きた事件であった。天皇の鎮圧命令で海軍が鎮圧した。戦後の天皇は、英国型になった。

      補足日時:2023/11/09 11:08
  • 補足。
    C8)近衛上奏文は、陸軍の上層部の1部にソ連と通じる共産主義者がいてその排除を求める等、分り難い。
    東京が米軍の空襲を受け、驚いた天皇に、山本五十六は、米海軍を壊滅するのでご覧あれといい、
    Midwayを奇襲する海戦を行った。しかし待ち受けた米軍に、空母4隻とその艦載機約290機、兵士ら3057名を失い、大敗。残りの兵器、兵力では米に互角に戦う兵力はなかった。1年の短期決戦で決着をつけるという戦前の計画は壊滅。この時点で、大本営は切腹物である。
    更にマリアナ海戦で残りの空母と艦載機の総てを失い、制海権と制空権を失い、既に戦えない状態。それでも軍の重役達は誰1人、責任を取らず、国民は竹やりで戦い、1億総玉砕だ、と叫ぶ。重役達が辞任すれば、天皇も驚いて降伏を決意したであろう。当時、近衛文麿、吉田茂らと共に戦争の早期終結を模索していた小林大将は、次期首班候補の一人として浮上していた。

      補足日時:2023/11/10 22:20
  • 続き。
    近衛は、小林大将に、後継首班を引き受け、「赤に魅せられた陸軍の上層部」を速やかに粛清する事を要請していた。Midway海戦は1942・6・5~7、マリアナ海戦は1944・6・19~20。

      補足日時:2023/11/10 22:38
  • C10)「吉田反戦」Groupは、第2次世界大戦末期の日本で活動していた吉田茂を中心とする戦争早期終結工作Group。該上奏文の共同制作の吉田は、1945・4・15、憲兵隊に逮捕され投獄された。
    吉田茂は、1941・12の日米開戦以前から、「親英米派」として開戦の回避、戦争の早期終結を目指していた。

    C11)降伏した後、1945・8・17、皇族の陸軍大将、東久邇宮稔彦が首相。首相は国民に対し〈1億総ざんげせよ〉を主張して戦争責任の追及を免れようとした。「国民全部が悪くて戦争に負けたのだから、1億国民は敗戦した事を天皇にお詫びしよう」と呼びかけた。
    1945・10・4、これに対しGHQは怒り,言論の自由(天皇批判の自由等。これは後に憲法で規定された),政治犯の釈放,特高警察の廃止,山崎巌内相の罷免等を命じた。
    GHQが与えたくれた政治に対する言論の自由は法的に守るべきである。

      補足日時:2023/11/11 16:32
  • C11)上奏文提出で吉田反戦Groupの3人が逮捕され投獄された事から、政府に降伏の意思がない事が判明。1億総玉砕を叫ぶ徹底抗戦路線となる。しかし、日本軍は追い詰められ、1945・6から日本政府は敵国のソ連へ和平の仲介を打診するが。相手にされず返事なし。1945・8・7、突然、ソ連が日本に宣戦布告し満州に侵攻。これで日本は万事休す、で降伏を決意。
    東条は41・8・27、総力戦研究所より「日米戦争は日本必敗」との報告を受けていたにも拘らず、それを却下して開戦を決めたが、その判断ミスの代償は大きかった。支那の全域に戦線を拡大して泥沼化し、それだけでも大変な状況で、新たに米英に宣戦布告したのはキチガイである。
    戦争したいから戦争をしたというアホ達。アホな政権を持つと国民は地獄だ、の手本だね。
    https://president.jp/articles/-/60463?page=1

      補足日時:2023/11/12 21:10

A 回答 (10件)

我々が責任追及のエネルギーを投入するべきは、過去の、何の利益も得られない事柄に対してではなく、現在の、利益を得られる事柄に対して責任追及のエネルギーを投入するべきである。

具体的には自民党の責任を追及し、政権交代を実現する事である。

この観点から見れば、過去の、何の利益も得られない事柄に対して責任追及のエネルギーを投じている者を見れば、愚か者に見える。
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この回答へのお礼

そういう特定の政治的工作員同士が工作活動しあうと、けんかや怒鳴り合いが多発しないかね。私は、気軽に談話できる談話室、位にしか思ってませんが。

お礼日時:2023/11/09 15:18

>C7)「教えてgooは言論弾圧をしていないか?」、という私の質問には、誰も答えない。



どこから湧いて出たんだ? 存在しない質問には応えられる人なんかいない。答えじゃないよ、応えだ。

君の質問は後出しでどんどん増えるエンドレスだから、飽きられているだろうな。少なくとも私は飽きているから、後出し無限追加質問には付き合わない。
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そんなことより、北方領土の返還、これには千島全島・樺太も含める。



竹島も日本に返す。

拉致被害者も生存者は確実に早期に日本に還らせる。

これを着実に実行してほしい。
どこもかしこも有名無実でただの時間切れを待つだけである。
何もしていない。無進展である。遺族はどんどん無念の昇天。
岸田を含め、何をしているのか
佛作って魂入れず、無意味。

天皇要らぬとか馬鹿げた非国民を生産することなかれ。

負けて戦争責任問いても負けて
日本は自由と平和を得た。
この方が大事である。

しかし、蛍の光の本当の意味を知らない人が増え、
これこそ弊害というべきである。
ただの追い出し閉店ソングではない。
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昭和天皇の戦争責任については、戦後の「巡幸」によって、国民の審判を受けたと言って良いだろう。

占領軍は、天皇は国民によって暗殺されると確信し、それを望んでもいたので、全く警備をしなかった。しかし、そうはならなかったので呆気に取られてしまった。
______________
昭和天皇の戦後巡幸は、戦後(第二次世界大戦における日本の降伏後)の混乱期と復興期に当たる1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に、第124代天皇の昭和天皇が行幸して各地を巡った(巡幸)ことである。

概要
第二次世界大戦の終結後、昭和天皇自身の発案により[1]、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸した。

当初は日帰り又は短い旅程であったが、次第に10日~数週間に及ぶ長い旅程のものに変化した。行幸は天皇単独で行われることが多く、香淳皇后が同伴したのは1947年(昭和22年)の栃木県行幸、1954年(昭和29年)の北海道行幸の際の2回のみである(静岡県へは同一旅程であるが、皇后単独で沼津市に行啓)。

行幸先各地では、奉迎場(学校・公営グラウンド・駅前など大勢が集える広場)や特産品天覧会場が準備された。行在所(宿泊先)も、各地の公的機関や旧家の邸宅のみならず、保養地の温泉旅館・ホテル等も選ばれている。

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この回答へのお礼

C6)沖縄はかつて琉球王国という独自の国家を形成していた。それが日本に征服され、天皇の名の下で太平洋戦争になり、沖縄は本土決戦までの「捨て石」にされ、壊滅的被害をうけた。その後、天皇の沖縄切り捨て提案で、沖縄は27年間、米軍統治になった。こういう歴史を踏まえ、県民の昭和天皇に対する反発心が強い。
こうした沖縄の苦難に対して「深い悲しみと痛みを覚えますといってねぎらった」が謝罪はしなかった。
あなた自身が沖縄県に行って、沖縄県民の意見を聞き討論され、自説が通じるかを確認するとよい。
沖縄県民から見ると、自分達の王=天皇、が滅ばされ、外国の王に支配される体制になり、多大な被害を受け、怒っている状況。皇太子への下記の火炎瓶投げ付け事件があり、結局治安上の理由で、昭和天皇の沖縄訪問は1回も実現しなかった事実がある。
昭和天皇の本土の行幸には、襲う事が不可能な厳重な警備が付いていただけじゃありませんか。
英国を訪問した時は、投石されていた。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220428/k10013 …

お礼日時:2023/11/06 13:30

戦争責任といいますが、勝っていたら


そんなのは問題にならなかったでしょうね。

つまり、戦争責任、というのは
負けた責任のことです。

従って、それは日本の問題です。

外国にとやかくいわれる問題では
ありません。

侵略が問題になるなら、英仏は
どうなんでしょう。
侵略を始めたのは西洋列強でした。

彼等はなぜ裁かれないのか。

勝ったからです。


つまり、戦争責任をどうするかは
日本人が決めれば良いのです。

あれから80年。
日本は、責任を追及しないことに
決めたのではないですか。

責任を追及すれば、どうしても天皇に
行き着きますから、
それはやめておこう、ということにした
のだと思います。
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当時の時代背景を加味すれば、帝国主義は誤りではないし、同盟も干渉も誤りではない。


失敗した戦略、戦術、作戦は個々に評価されるべきだろう。沖縄戦、ソ連の満州侵攻、空襲、原爆投下などは、戦争の進捗と相手の作戦ありきの話なので、そこまで制御できるものではなく、その責任を問うというのは無茶。
天皇は実際の話、君臨すれども統治せずの機関であったから、そこに責任を集約するのは恣意性さえ感じる。

事後に他人事で語るのは簡単。議論したいのであれば一つ一つの戦略、戦術、作戦に君なりの論評を加えて意見を表明することだ。論壇は開かれているから、そこに投稿すればいい。劣った意見は採用されない。採用されないのはそういう理由。
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あなたの言うちゃんとした、教訓とは、何だ?戦後に生まれ、戦後教育を受け、周りからその当時の常識を教えられ、凝り固まった人間が、我が国が戦争へ突き進んだ、理由も理解せず戦勝国のマインドコントロールにハマり上手く洗脳され、負けたから日本を叩き偉そうにのたまう!片腹痛いな。

もしこの戦争、我が国が大勝ちしてたなら、あなたの今の評価は、正反対で戦争賛成派なのは間違い無いだろ。今回はたまたま負けただけだ!もし次があるなら必ず勝つ。現在どの国も持っていない兵器の開発中だ。しっかり反省し今の自衛隊に反映している過去の出来事をグズグズ言うのはナンセンス!戦国時代は人殺しが常識で辻斬りは、仕事熱心な良い人!常識と言うものは時代によって変わるもの!それを考慮しない物言いは価値が無いざれごとと同じ。に
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今さら、太平洋戦争の責任は問えないでしょう。

責任者はみんな死んでますから。しかし、福島第一原発事故の責任は問えます。私は裁判制度が悪いと思う。アメリカのように裁判員に有罪無罪の判決を出させるべきです。日本は裁判官が出すので、政府に忖度して、有罪判決を出さないのです。
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この回答へのお礼

C6)責任者がみんな死んだから、こういう意見も言えるのではないか。昭和天皇が生きてる時にこういうことを言うと、袋叩きに会ったのではありませんか。

お礼日時:2023/11/06 21:02

先の戦争は誰か数人の責任で初めてわけではない



そもそも明治維新から始まっている考えるべきでしょう
日露戦争に勝ち、日中戦争に勝ち、満州事変があり
太平洋戦争があった
このどれか一つでも無かったら戦争は起きなかったかもしれません

>戦時中は朝日新聞等のマスコミは、戦争をあおり

当時の国民が望んだ記事だと思います
事実だけを記事にしていたら新聞は売れませんでした

明治維新があり文明開花があり、日本も大国と並んだ
戦争こそが経済と植民地を獲得する手段との考えで

戦争は当時の国民が望んだことだと思います
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メディアが戦争中に戦争を煽る記事を書き、戦後は戦争を否定する姿勢に一変したとして、それって言論統制と関係なくないですか?


むしろ言論統制が撤廃され、メディアは自分たちの思うことが好きに書けるようになったと認識していますけど?

また、メディアが手のひらを返すことに何か問題があるんですかね?
戦争中に戦争賛美の記事を書き続けたら、戦争が終わってもずっとその姿勢を崩すなというほうが無理があると思いますし、むしろそうなってくれないとやばくないですか?

あと、太平洋戦争の責任追及に関しても、「私が元凶です」という人が出てきたとして、今更どうすればいいんですかね?

まあ、こういう話は同じような話が好きな人とだけやった方がいいと思います
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この回答へのお礼

基本は、大きな事件が起きれば、事件が起きた原因を明確にし、今後、そういう過ちを2度としない為の教訓とする事です。福島原発事故も結局は会長、社長、副社長等、誰も責任は取らず、うやむやにして逃げてました。結局、日本のTopには責任感がない。今後も、それでいいのだ、という事ですか?

歴史に対して、ちゃんとした教訓を残してほしいと思います。

お礼日時:2023/11/05 14:06

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