
備後叢書第四巻所収「行水之記」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1243424/1/62
についての質問です。
「行水之記」は荻重富が寛永十七年、備後福山藩鞆町の初代奉行を命じられて着任したときのことを記したもののようです。ここで、「せきの濱」は、現在、鞆交流館のある場所です。
「かくて鞆せきの濱につきけれは、人こそり、さしむかひ是へかれへと云。年久しく住慣し所さり來て、蜘手に物おもふなれは、耳にたも不入。磯のむろの木、みることになと、おもひ出テ
あひ馴し、ともに別て、又友を、求めにけると、くる我は何。」の一節中、「みることになと、おもひ出テ」の意味が分かりません。
「みることになと、おもひ出テ」をどう、解釈すればよろしいのでしょうか? もし、分かれば、なぜ、そのように解釈するか理由、根拠を教えていただけると幸いです。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
>「かくて鞆せきの濱につきけれは、人こそり、さしむかひ是へかれへと云。
年久しく住慣し所さり來て、蜘手に物おもふなれは、耳にたも不入。磯のむろの木、みることになと、おもひ出テあひ馴し、ともに別て、又友を、求めにけると、くる我は何。」通釈「こうして鞆せき(友を堰く)の濱に着いたところ、人が集まって、差し向かいこっちへあっちへ(おいでなさい)と言う。長年住み慣れたところを離れ来て、蜘手のように乱れて物思いをするので、耳にさえ入らない。磯のむろの木を見ることになどと思い出して互いに慣れ親しんだ友と別れて、また友を求めることだよと(思うなんて)、ここまでくる来る私は一体何者なのか(自分が分からなくなる)。」
「磯のむろの木」は大友旅人の故事を引用したものです。
我妹子(わぎもこ)が 見し鞆(とも)の浦の むろの木は 常世(とこよ)にあれど 見し人ぞなき
https://fukuyama.hiroshima-u.ac.jp/fsm/data/42ne …
早速、ご回答いただきありがとうございます。
現在、地元では、むろの木は、鞆町内か、あるいは、鞆の近くに生えていたと考えられていますが、具体的に(微視的に)どこに生えていたのか、また、いつ枯れたのかは、分からないということになっています。
根拠は①木下長嘯子が文禄元年に鞆を訪れて記した、「九州道の記」https://note.com/kyohaku_/n/n5ba24229285d 「むかしはこのうらにありつといひりたへたれと、今はあとかたもはへらねは、さたかにしる人もさふらはす。」と、②天和三年、脱稿の「あくた川の巻」https://dl.ndl.go.jp/pid/1243424/1/96 に記された、「たえて久しきむろの木の、あとさへしらぬもあなるは、いと口惜しきに」のようです。
ところが、ご回答いただいた内容、「磯のむろの木を見ることになどと思い出して」によりますと、荻重富は、枯れたむろの木か、株だけになったむろの木かはわからないものの、実際にむろの木を見たのではないかと考えられます。
この、一文だけで、実際に見たかどうか断定するのは難しいと思いますが、荻重富がむろの木を見た可能性は高い、すなわち、寛永十七年まで、むろの木の一部は残っていた可能性は高いということになります。
この点においてdaa-さんのご回答は貴重であり、重要なものと思っております。大変、ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
>「鞆せきの濱につきけれは」の文には「ば」の濁点が省かれて「は」となっています。
濁らないでの表現は知っていましたが、ここまで徹底は初めて?。
部分的ではなく、全体でとらえることも重要ですね。
今回、お二方の回答により私の得た結論は、寛永十七年まで、むろの木の一部は残っていた可能性が高いということです。としますと、「九州道の記」、「あくた川の巻」の記述は誤りということになります。
昭和48年発行の「広島県近世資料集Ⅰ水野記十三」に、吉田秀元の記した次の記述があります。
「天和年の比秀元鞆津に住する、磯のむろの木の跡を鞆の浦人に尋ぬ、名のみ残りて今しる人まれなり、関町の浜泉水嶋の小垣といふ所の向に関町の浜に田嶋屋といふ者近頃蔵をたてし所、彼のむろの木のありし跡のよし申伝はへる、とし四五十年已前迄(寛永正保の比迄)此蔵の所に森あり、初春朝にはみきをそなへ火をともしたるよしおいたるもの申つたふ、いかなることにてありつらんいぶかし、扨室木ハ関の浜より泉水嶋のはとり迄枝はびこれりと語伝、」
秀元は、「あくた川の巻」を読んでいます。「あくた川の巻」は「九州道の記」をおそらく参照しています。秀元は「おいたるもの申つたふ」ことを「いぶかし」としています。しかしながら、いぶかしいのは、「九州道の記」、「あくた川の巻」であって、「おいたるもの申つたふ」ことは、全くいぶかしくない。「おいたるもの」の申した、田嶋屋こそが、むろの木の生えていた場所ということになります。
吉田秀元は、当時、鞆目付をしていた、水野家の重臣です。水野記は水野家が突如、無嗣改易になった後、秀元が京都伏見にて隠棲中、水野家顕彰のため記した書物のようです。それが、戦前活躍された、郷土史家、得能正通氏、濱本鶴賓氏の目に留まらず瑞源院に眠っていた。本資料集発行後、気づいた人も、「いぶかし」としているために、本気で検討しなかったのが、どこに生えていたかわからないという原因になっていると思います。
田嶋屋の敷地は、「鞆の浦の歴史 福山市鞆町の伝統的町並に関する調査研究報告書Ⅰ」より、現在、ニューともせんが建っている、東南の角、GPS座標、34.384466445275976, 133.38350335817893 から、北北西に10.2間、東北東に13.3間の、ほぼ四角い敷地です。私は、ここが、むろの木の生えていた場所で間違いないと考えます。
ご協力、誠にありがとうございました。
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