チョコミントアイス

少し痛いかもしれませんが自分はよく鏡やスマホの自撮り他撮りをみて自分の顔をみてそこそこかっこいいのでは?とか思ったりしちゃいます。しかしここ最近たまに鏡や写真などをみた時、よくよくみると鼻でかいし左右非対称だし全然醜いんじゃん。と思い鬱みたいになって何もできない日がありました。その次の日ぐらいには鏡を見てやっぱり大丈夫かと普段通りに過ごせるのですが、こういうことって誰しもある事なのでしょうか?それとも醜形恐怖症という病気でしょうか?

A 回答 (2件)

醜形恐怖症は神経症の症状の中の一つです、神経症には様々な症状が在ります、上がり症とか様々な恐怖症とか様々な不安症もあります。

湧き上がる人間の感情とか考えとかがその症状に当たる事を意味します。

そうして行動もその症状に含まれています、吃音とか書痙等です、強迫行為も強迫観念もそうです。湧き上がる人間の想いが全てその症状として成立するようです。そしてあの人は綺麗だとか、あの人は恐そうとか何歳だとかも全て湧き上がる感情とか考えに乗って湧き上る事になっています。

自分が綺麗に見えるとか綺麗に見え無いとかもそうですがこの事を問題にする場合を『醜形恐怖症』と云います。

と云う事で人間の感情が湧き上る時や、考えが湧き上る時や、外部の情報が心の中に入ってくる瞬間によって自我意識である、自分の心が何を思うのかと云う時、神経症の症状が発症するきっかけを作っています。

そう云う事から神経症の治療という意味に置いて、根本治療をするとか、根本解決をするという意味に置いては症状別な治療方法は存在していない事を意味します。

そう云う事で、どの段階とか如何いったメカニズムから神経症が成立するのかと、どの段階から神経症が症状として成立しなくなるのかとか、治って行って何処からが寛解を通り越して完治なのかと云う事を詳しく説明したいと思いますので、自分からも進んで神経症のメカニズムとか治って行くためのメカニズムなども考えたり学んでゆく事をお勧めしたいと思います。

神経症の原因は分っていません、が今の精神医学の常識(立ち位置)のようですが、神経症に長い間苦しめられて、その苦しみから解放された人間には『神経症のからくりと、人間は如何して苦しまなくてはいけないのか?と、如何したらその苦しみから解放されるのかが分かる様になります。』

と云う理由で、治って解放された立場からの視点で書いてみたいと思います。

神経症は意識する事が原因で、苦しみが始まっている現象です。それは湧き上がった感情とか、考えとかが気に入らないと云う理由で嫌う事で心の中から追い出しを図る事によって、自分の心の中で重要な位置を占める為です。

嫌な事が何時までも心を占領していると云った事が原因という意味です。

ストレスとかトラウマという場合では、嫌な事なら忘れ果てて楽しい事を考え始める事が得策と思われるのですが、苦しみが始まる常が人間たる者かも知れません。

そういった嫌な事を深く考え始めてしまって、予期不安まで働かせる事で意識地獄にまで発展させる場合がありま、神経症の一歩手前の状態です。

此処でやめて置くならこれで終わりですが、やめられない事で段々と神経症の症状に近くなって行きます。

そうして神経症の症状にまで発展する時、症状を取り除こうとやっきになり始めています。

此処まで来ると、中々後戻りが出来なくなるようです。そうなると又強く症状が気になり、苦になる様になっています。

この負の連鎖によって、症状が固く心に食い込んでしまって、戻る事が出来なくなっています。是で神経症の症状が完成になってしまって、抜け出す事が出来なくなってしまいます。

症状が意識の大部分を占めるようになります、まるで『意識地獄状態』になっています。

心から取り除こうとする事で、固く心に深く固定ををされてしまいます。此処まで来た時完全な症状となって人間の心を苦しめています。

従って症状は、何であっても症状になり得るものと云えます。上がってしまう事でも、吃音が出てしまう事でも、不安を感じてしまう事で増々不安になると云う事でも、恐怖を感じて苦しむ場合でも皆同じです。

意識地獄の状態で苦しむ事が神経症の辛さとか苦しさとか生き難さになっています。

処が治った後で振り返ってみた時、症状がきつかった事で、もう治らないと諦めている部分があります。その為に詰まらない症状に関わり合って、5年でも10年でも15年でも20年でも何も進歩しない月日が続くようになっています。

神経症の治し方に移ります。本当の意味では『症状に関わるな!』が第一ですが、症状を無くしたいと思う心が神経症と云うもので、無くしたいと強く願う場合では強く願う程治れなくなっています。

一生掛かっても治そうと強く決意した場合では、一生治らない事は確定します。その逆に『もう治らなくても良いや』となった場合ではそれで治っています。

治し方は『森田療法の基本を守る事』でOKです。実に簡単な事です。それは『症状の事を口にしないでいる事だけです。』それを『不問』と云います。

たったこれだけを後生大事に、守って生きて行くだけで神経症は治って行きます。では治ってゆく過程を書いてみたいと思います。

症状を口にしない生活態度が出来上がって来た場合では、症状が出たとしても、症状が出なくなったとしても、そんなことはもうどっちだっても構わない、と云う風になって来ます。此処まで来た場合ではもう治ったと同じようなものです。

神経症には完治が在ります、それは症状が出なくなって完璧に治った場合では、症状が出なくなったとしてもちっとも嬉しくなくなっています。

あれほど症状を忌み嫌っていたものです、症状が無くなったならどれほど嬉しいのかと夢にまで見た健常者としての生活ですが、症状が無くなったとしても嬉しいと云った気持ちさえも湧き上がらなくなっています。

この現象は、沸き上がった自身の感情とか、感覚とか或いはこう云った類似したもの等に付いて、自分が好き嫌いして、分別する心が生み出していた事が理解出来ます。

人間は何時か死ぬ事が分かっています、生まれた時から『死刑の執行日が未定と云うだけで、死刑が確定しています。』

こう云う事に苦しむ事が人間が苦しむ原因になっています。処がこう云った苦しみにも救いがあります。それが釈迦の偉い処だと思います。

人間が苦しむ原因は『人間が如何して苦しまなくてはいけないのか』を知らない事に拠っていると説いています。それは自分自身の事に無明の故と云っています。

人間の心の中にその苦しみの原因がある事を知らないが故の苦しみと云っています。その無明の闇を解き明かす時、人間の自由が解放されると説いています。生きる事も死んでゆく事にも自由になれるという意味です。

それは禅を学ぶ中に在ると説いています。自身の中に存在している宝物に気が付くだけだと云う事です。

それに気が付く時を『悟』と説いています。神経症に苦しんでいる人には気が付く機会が与えられています、何故ならば症状を起こしている相手に気が付くと云った意味になっています。

苦しんでいる自分は自我意識です、感情や考えを湧き上がらせている者が出逢う相手だからです。その出会いを悟りと表現しています。

出会う時、自意識は左脳の人格であり、もう一人の自分は右脳の人格と分かります、その者は『無意識の意識』として自分を守っています。

脳梁の中で出会う時、化学反応が起こります。哲学的な表現をするなら『絶対に折り合える筈のない者同士が自己の中で一つになる』rと云う事です。

それは左脳と右脳を繋いでいる脳梁の中での出逢いですが、ホットラインが開通すると云う化学反応が起きています。禅ではこの事を『生死の問題が解決する』と云っています。

鈴木知準先生は、ノイローゼは悟りを開かないと治らないと常々言っていました。神経症が治る時自分の無意識にも意識がある事を体験出来たらそれが悟りです。

又そうなる為に自分でも参考にしていたものが在りますのでご紹介して置きます。鈴木大拙博士の著作集です。大変参考になると思いますので、大いに学んで下さい。
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自分も同じです。

病気ではなく、自分は目の錯覚か何かだと思っています。周りと比較して優劣をつける、だからこういう現象が起こるのかな と思います。ごめんなさい、回答になってないかもしれないです。そんなに怖かったら一度 カウンセリングか何か受けてみたりしてみたらいかがですか?次の日には普通に過ごせるのであれば、ただの思い過ごしだと思えばいいと思いますよ?
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