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こんにちは!初・投稿です♪今日本史を勉強しているものです。
飛鳥時代&奈良時代で疑問がいくつかあるので質問しに来ました☆
わかるものをわかる範囲でいいので教えていただけるとうれしいです!

1.飛鳥時代&奈良時代の始まり・終わりはいつですか?
  具体的な出来事などがあったら教えてください。

2.蘇我馬子vs物部守屋で蘇我馬子が勝って天皇に推古天皇がなったのはなぜ  ですか?馬子と推古天皇はどういう関係ですか?

3.聖徳太子が死んだ後に蘇我蝦夷&入鹿が権力をふるったと…ならったので  すがなぜですか?聖徳太子は仏教賛成で見方だったのでは…?

です。もしよければ答えていただけると嬉しいです♪

A 回答 (7件)

教科書の日本古代史は、根本的に間違っています。


通説の解釈では、藤原京までは飛鳥宮があった飛鳥地方に作られましたから平城京に都が置かれた710年からが奈良時代でしょう。
しかし、真実は藤原京が作られるまでは、ヤマト王権は地方の豪族に過ぎませんでした。ヤマト王権が確立したのは695年ですから、695年を時代の区切りにするのが良いと思います。

馬子vs守屋は、物部氏も九州の豪族と考えられますから、九州王朝の内紛のことと考えられます。
日本書紀は改ざんが酷くて推古天皇の存在は明らかではありませんが、この時代、女帝が多いのは九州王朝からヤマト王権への権力の移行に関係があると考えられます。
蘇我氏は九州王朝の天皇家と考えられますから、女帝も蘇我氏の一門だったのでしょう。ヤマト王権は入婿のような形で政権を引継いだとも考えられます。

聖徳太子は、九州王朝の天皇「聖徳大師」ではなかったのかと考えられます。
蘇我氏は九州王朝の天皇家と考えられますから権力があって当然です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E% …
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ごめんなさい。


僕は蘇我入鹿大好き人間ですので、ものすごく私見ですけれど。

3.
聖徳太子は仏教賛成です。
でもって蘇我氏も仏教賛成ですよ。
反対していたのは、物部氏です。ごっちゃになったのかな?

聖徳太子が魏の王に文書を送りました。結構強気な(これは諸説あるのですよ。小野妹子が文書でっちあげたとか)
それで、まあ、表向きには日本と魏が並ぶ形になったわけです。
ところが、聖徳太子の死後、様子が変わります。
というか、以前の形に戻っちゃったんですね。
あくまで日本側は魏の下に立つ、という。
せっかく聖徳太子が対等な関係を結んだって言うのに、次の王様(詳しくないのでゴメンナサイっ)は自ら奴隷(言葉悪いけど、下ッパってこと)に立ったわけです。
で、それに憤慨したのが、蘇我氏だったとか。
蘇我入鹿は、特に。
権力を振るった、とありますが、カリスマ性の高い聖徳太子を無くした当時、誰かが日本をぐいぐい引っ張る人が必要でした。
それで蘇我氏が槍玉に上がったわけです。

さて、聖徳太子が死ぬちょっと前。日本は、百済の味方をして、高句麗と言う国と海戦をしました。敗退。
日本を自国にすごすご引き戻りましたが、いつ、高句麗の軍勢がやってくるかわかりません。
それに備えて、防人というものを九州に配置しました。
で、国際人のイルカさん(面倒なのです、打つのが)はもしものために、軍を整えたり、自分の屋敷などでいつ戦闘が起こってもいいよう門をこしらえたりしました。
それが当時の貴族様には異様に映ったのでしょう。
次第にイルカを非難する声があがってきました。
これが、「蘇我氏は権力を振るった」という非難に変わるのは、すぐのことです。

ここで登場するのが中大兄皇子です!
彼は王位からかなり遠くにいたのですが、今チャンスってことで大化の改新……って、この辺はいいですね。

こんな感じですけれど、いかがでしょー。
やっぱわかりにいくいですねぇ……。
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3 についてですが:


蘇我入鹿について不思議なのが, 聖徳太子の子である山背大兄王を攻め, 上宮王家を滅ぼしてしまったこと. 実際のところ用明天皇-聖徳太子-山背大兄王という上宮王家の系統は蘇我系 (用明天皇の母は蘇我系, 山背大兄王の母も同じく蘇我系) なので, むしろ滅ぼすのは蘇我氏にとって不利益なんですね.
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1・2に関しては、既に回答が出そろっているので3だけ・・・。



聖徳太子と蘇我氏は仏教布教の面で意見が一致していたため味方同士でいましたが、それは表向きのことで、実際は権力を拡大させようと契機をはかっているのを太子が牽制していた形となりました。それをより確実にするために自分が天皇にはならず摂政の地位につき、伯母の推古女帝を即位させて蘇我氏の独裁を抑えていたわけです。

ということは、太子が死ねば、こりゃまた邪魔者がいなくなってウハウハの、蝦夷&入鹿親子になりますわなぁ。

それがエスカレートして、大化の改新になっちゃうわけです。

もっと詳しくその時代が知りたいなら、

『日出処の天子』山岸涼子著
をオススメします。

飛鳥後期~奈良初期の変動が知りたいなら
『天上の虹』里中真智子著
をオススメします。

マンガで多少脚色もありますが、大まかな史実は再現されており、わかりやすく読めると思います。
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2 だけ:


推古天皇が即位した背景として, 崇峻天皇の没後, 本当なら欽明天皇の孫の中から天皇を選ぶはずが, 有力な皇子が 2人いたためどちらとも決められなかったことが挙げられます.
そこで,
・欽明天皇の娘で,
・敏達天皇の皇后となっており,
・用明天皇即位に功績があって
・皇族の中でも経済力がある
ということで, いわば「中継ぎ」として即位しました.
が, 37年に及ぶ治世が終わったときには既に欽明天皇の孫世代は誰も残らなかったのでした.
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1.


592年 ― 推古帝、飛鳥豊浦宮
710年 ― 元明帝、平城京
784年 ― 桓武帝、長岡京
794年 ― 桓武帝、平安京

2.
推古天皇は馬子の姪

3.
聖徳太子の味方だと権力を掌握するのはおかしいですか?
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質問1.は嘘でしょ?というくらいあまりに基本問題なので、自分で調べてください^^;



質問2:推古天皇は蘇我馬子の妹の娘です。

質問3:
(1)その頃の蘇我氏は調停の財政や主な政務を握り影響力が大
(2)物部氏、穴穂部皇子、祟峻天皇を殺し、敵がいなかった
(3)上記(2)の理由により仏教に関する味方はすでに必要ではなかった

という感じでしょうか。

★ところで、こういう質問には、あなたが今何年生で、何故この質問が必要なのか書いてくださいね。マナーです。
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