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日蓮宗の開祖である日蓮上人の教えの良さがさっぱり理解できません。
キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒という認識にたどりつけたのですが、今回はどうも自信がありません。
 日蓮上人の教えの優れているところ、良いところ、絶対的なところなど、
わかりやすく語っていただければ嬉しいです。

★親鸞の説いた絶対他力の教えに対して、『法華経』による現世での救いを説いたのはもっともな事のようにも思えるのですが、それにより他宗を徹底的に攻撃したことがひっかかります。
 現代においても『末法の世』と解釈する事により、日蓮系を名乗る極端な宗派が活動する事は、日蓮上人の是認される事なのでしょうか。

*当方は、我が宗こそ日蓮上人の教えと名乗る団体(複数です。)と関わったことがあり、それが偏見につながっている可能性も否定できません。
質問に他意はありません。

歴史的背景・思想的背景・正当な解釈、切り口はなんでもかまいません。
どうか、日蓮上人を肯定していただけないでしょうか。

A 回答 (17件中11~17件)

私は日蓮上人について特に詳しくはないのですが、一つだけ明らかなことを知っています。



それは、「法華経は仏陀が説いたお経では無い」という事です。これは日本の仏教学界および欧米諸国の宗教研究家にとって周知の事実であり疑いの余地はありません。

では仏陀の説いた教典とは?
それは「アーガマ」または「阿含経」と呼ばているものです。

なぜならば仏陀の死後約1ヶ月程経ってから、第一結集(だいいちけつじゅう)により直弟子たちが集まって釈迦の説法を互いに思い出し、確認し合って編集したのが
「アーガマ」だからです。
結集はこの一回限りで第二結集などというものは、存在しません。

インドでは仏教は「上座部仏教」と「大衆部仏教」に分裂し、[上座部仏教」が「アーガマ」を奉持し、この教えは南伝仏教として守られ、伝えられてきました。

「大衆部仏教」は「アーガマ」を待たないので「法華経」等の経典を編み出し、「仏教を信じる事の大切さ」を教え、広めてきました。
その後、インドでは仏教は消滅してしまいました。

「アーガマ」には仏陀になるための修行方法(六道輪廻から逃れ、因縁解脱するための)が説かれています。
それに対し、その他の経典には「仏教を信仰することによるご利益」が書かれています。

ところで、日蓮上人はこの事実を知らず、「法華経」が仏陀直説の経典と信じ、これを奉じ、大衆救済に生涯を賭けたのでした。

上人の教えの意義は仏教に縁のなかった一般大衆に仏教による救いを広め、精神的に救済したことです。

今日まで、日本において仏教が維持されて来たことに於ける上人の貢献は大変大きく、現在の新たな仏教の研究に繋がっています。

余談ですが、インドの最後の「大衆部仏教」は現在、[密教」と呼ばれているものです。
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この回答へのお礼

回答 ありがとうございます。
●この件に関しての解説に感謝します。

仏典の成立に関しては勉強不足なので細かいコメントは出来ないのですが、
仏陀の布教期間はイエスのそれと比べて長期にわたっていますし、
何を持って正典と位置づけるかも、解釈が多々あることと思います。
(仏陀もイエスも正典を直接書いたわけではないですから仕方のない事です。)

 『法華経』においては、その内容が仏陀の思想と精神を受け継いでいるかが重要なのだと思います。
 この辺は、まだコメント出来ません。

上人の功績と貢献に対しては、依存ありません。

お礼日時:2005/08/14 16:56

「人間はお互いを神の子供だと認めましょうという事ですが、仏教での切り口はどうなるのでしょうか?」


法華経は、釈尊が霊鷲山で説いた晩年の教えです、法華経には「弟子たちよ、私は、今まで全てのものに仏性が宿っていると教えてきた。全てのものは修行ししていけば仏になれるということをだ。しかし、仏陀は修行して今世初めて仏陀になったのではないのだよ、遠い過去から何度も仏として生まれ何度も仏陀として弟子を教化してきた久遠実状の仏なのだ。」というような教えなのですね。仏陀が実は久遠実状の仏陀「西洋的には全知全能の神という意味」であることを明らかにしたのが法華経ということで過去の僧たちがりっはな経典だとしているのですね。この経典には「仏性」がはっきり書かれています。仏性というのは人間を含む全てのものが共通にもつ仏の性質なのですね。仏が自身の魂の一部を切り取って作ったということです。この仏性こそが人間仏の子、神の子の証明なんです。これはイエスでさえ明確に説ききれていないポイントなんですね。人間みな仏の子ですから互いに誹謗中傷するようなことはやめましょう。差別はやめましょう。互いの仏性合い等しきことを喜びあいましょう。というのが法華経の本当の意味です。どうしてこれほどにずれてしまったのでしょうかね。各宗派はもう一度、久遠実状の仏陀への帰依に立ち戻るべきでしょうね。
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この回答へのお礼

続いての回答に感謝します。

>法華経には「弟子たちよ、私は、今まで全てのものに仏性が宿って
>いると教えてきた。全てのものは修行ししていけば仏になれるということをだ。しかし、仏陀は修行して今世初めて仏陀になったのではないのだよ、
遠い過去から何度も仏として生まれ何度も仏陀として弟子を教化してきた久遠実状の仏なのだ。」・・・
>この仏性こそが人間仏の子、神の子の証明なんです。これはイエスでさえ
明確に説ききれていないポイントなんですね。人間みな仏の子ですから
>互いに誹謗中傷するようなことはやめましょう。差別はやめましょう。
>互いの仏性合い等しきことを喜びあいましょう。というのが法華経の本当の意味です。

●法華経の解説に感謝します。愛に満ちた温かい教えですね。日蓮上人が信念を持って布教したのも頷けます。
 キリスト教世界において、『イエスでさえ明確に説ききれていない。』というポイントも仰る通りだと思います。聖典は、毒にも薬にもなるものであり、読み解くには理性と知力と信仰心と、全て必要なのだと思います。

お礼日時:2005/08/14 16:50

いつもお世話になっております。


あまりふれられることがないので日蓮の人柄を表す手紙を。
同郷の息子をなくした女性信者へ
「老いたる母は留まって、若い子が先立つほど情けないことはない。神も仏もうらめしい。なぜ、親を先に行かせてくれず、嘆かせるのかと思うと、心
悲しい」
次男をなくした女性信者へ
「母親であるあなたにとって、どんなにかお嘆きの事であろう、つぼみの
花が風のために、もろくもしぼみ、満月が雲の中に急に隠れてしまったようだ。本当に亡くなったとは思えず、この手紙を書き付ける気にもならない」
佐渡流罪中の書(;;)
「うれしきにも涙、つらきにも涙なり。涙は善悪に通ずるものなり」
「現在の大難を思い続けるにも涙、未来の成仏を思うて喜ぶにも涙を
とどめえない。鳥と虫は鳴けども涙おちず、日蓮は泣かねども涙ひまなし」

伝えきれないとは思いますが、日蓮は同悲同苦の人であり、温かく情にもろく涙もろい人であったという事も知っていただきたいと思います。(;;)
そして激しく情熱的で純粋な人である、肉身の菩薩が仏法流布に命を賭して活動した事は認めなければならない、と思います。これを認めないと
かなり偏った見かたになる、のではないでしょうか。
初期のカルト性はイエス様と共通するところ多数あり、(変な意味ではありません)狂信性、排他性、独善性、閉鎖性、そして、正しいものは試される、法難が現われる、苦しみの礼讃性、(変な意味ではありません)。けっこう似てます。
奇跡により、十字架に架からなかっただけですね。
他宗排撃については、真理が広げるときはあふれ出る熱意がなければ、
広がる事はないでしょう。真理を会得した、悟りを確信したその確信が強ければ強いほど他宗が邪教に見えてくるのはキリスト教とほぼ同じです。
当時のユダヤ教の熱心な信者ほど、イエスはカルトの教祖様に見えた事でしょうし許せなかったのでしょうね。(変な意味ではありません)
一概に言えませんが他宗排撃を比較した場合、実際の被害そのものは対象にならないほど小さなものでしょう。

本来の釈迦の教えには全ての真理が含まれていたのです。釈迦とは教えそのものであり、教えが法そのものであり、宇宙を統べるその法が地上の人間にも理解できるように、人の姿に宿り、応身佛となって教えを説いたのです。
キリスト教的愛(浄土系)、禅宗的智慧、真言密教的神秘性、
日蓮的信仰心、すべての価値を弟子達には全ては理解できないのですね。
自分の認識する範囲がどうしてもあるのですね。日蓮にも認識の限界が
あったのでしょう、弟子はいつの時代も100点は取れないのですね。
しかし精一杯、伝道した一生でした。奇跡を巻き起こしながら、精一杯の
情熱と、精一杯の勇気、そして精一杯の信仰心で生き切った肉身の菩薩
でした。法華経には菩薩とは「闇を照らす日月」「泥沼の中の蓮華」と
たとえてますがこの菩薩の自覚があったからこそ 日、蓮、と
名乗ったのですね。

上求菩提を捨てて、下化衆生を選択した思想が時を経て、慈悲から堕落へと変わる事はたやすい事のようですね(;;)
思想的には天台本覚思想を若いときにかなり学び、これに影響された事が、
後々の南無妙法蓮華経を発明させてしまいました。この題目だけ唱えておけば救われるとした教えが、本佛の御心から遠く離れてしまっている事は、
その後数百年、その木が実らせた果実を観れば、お分かりの事と思います。
最大の弱点がここです。ここにつけ込んで布教活動をやったところ、
思いのほか資金が集まったのでサ○金屋から宗○屋へ乗り換え大成功してしまったのが××○○ですね。(;;)
この免罪符がある限り、愛も、慈悲も戒律も反省もいらぬものなのです。
努力も精進も、悟りも、宗教の核の部分が脱落した状態でも
問題ないと、どれほどの闇に包まれて、どれほどの害毒を垂れ流しても
わからない、おおいに悲しい事です。(;;)
日蓮主義があんいな政治イデオロギーとして利用されるとき、
転落型天台本覚思想が政治勢力と一体化した時、目的のためには手段を
えらばぬ狂信主義的全体主義へと変わっていく事は明らかです。

悟りと智慧が仏教の核であり、悟り即救済、智慧即救済、ですから、
仏教の救済とは教えを学び、考え、実践してこその信仰心に基づくもの
と考えていただければとおもいます。
この信仰心をこそ、この尊さをこそ日蓮は伝えたかったのではないでしょうか。中間の智慧の立場は取らなかった、悟りの立場は取らなかった、という事でしょうか。
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この回答へのお礼

いつも回答、ありがとうございます。

●日蓮上人の人柄について教えて頂き、ありがとうございます。
 迷い、喜び、悲しみ、そういう人間的な面を捨てずに信念を持っていた方だったのだと思うと、すこしわかるような気がします。

●初期のカルト性に関するキリスト教との比較は非常にわかり易くありがたいです。
>真理が広げるときはあふれ出る熱意がなければ、
>広がる事はないでしょう。真理を会得した、悟りを確信したその確信が
>強ければ強いほど他宗が邪教に見えてくるのはキリスト教とほぼ同じです。

まさにその通りだと思います。
カルト性というのは、自宗の肯定イコール他宗を否定することにならざるを得ない初期の伝道においては必須であることは、歴史的に見ても明らかに思います。しかしながら、歴史を紐解いて考える時、すぐれた思想であれば受け入れられ、カルトの蛇は毒を弱め、牙を失ってきました。(他宗にしてみれば蛇(サタン)だったものが、普遍的な神仏に成り代わる事こそ、真理を肯定する事のようにも思います。

>…後々の南無妙法蓮華経を発明させてしまいました。
>この題目だけ唱えておけば救われるとした教えが、
>本佛の御心から遠く離れてしまっている事は、
>その後数百年、その木が実らせた果実を観れば、
お分かりの事と思います。

●以下に続く文も含めて、その団体に関わっていない者が言及するにはデリケートな問題です。名が伏せてありますので、わかりませんということでご勘弁願います。
*ここのところは、現代の信者の方に語ってもらいたい部分であります。
日蓮上人を本当の意味で立てておられる信者の方の投稿が少ないのは残念な事です。

>この信仰心をこそ、この尊さをこそ日蓮は伝えたかったのではないでしょうか。
>中間の智慧の立場は取らなかった、悟りの立場は取らなかった、という事でしょうか。

◆揺るぎない信仰心を示す尊さ・・・これならば理解出来ます。
だからこそ混沌の時代に『末法の世』を見出し、強い姿勢で教えを説いたのでしょうか。

お礼日時:2005/08/14 16:21

#1です。

訂正。
不授不施ーーー>不受不施
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この回答へのお礼

丁寧にありがとうございます。
不勉強なもので、こういう訂正は非常に助かります。

お礼日時:2005/08/13 15:11

日蓮上人には確かに功罪がありますね。

仏教を掲げて国を治めるということを考え一生懸命実行したその情熱は見習うべきですね。でも、日蓮上人はそんなに頭がよくなかったのでしょうね。法華経も中身が理解できなかったのではなかったと思いますよ。だから、一向宗や真言宗の南無阿弥陀仏を「かえるの合唱」と揶揄して攻撃したけれども人気に勝てないので自らも
お題目「南無妙法蓮華経」になってしまったというところですね。何故、日蓮上人が他宗教を攻撃したかについては、嫉妬もあったと思いますね。千葉の猟師の子供が中央の京都、叡山に出て、学んだけれども上には上がいて、宗派の祖はみんなお公家や侍の子供で、優秀で人気もあったのでしょうね。「南無阿弥陀仏」の信仰を広めた親鸞にしても叡山で非常に勉強した「現代で言えば東大トップ」のお方だったのですね。
それを関東の地から見れば、何だ中央のやつはと思ってもいたしかたないですね。そういう個人的な負い目が攻撃的にしたのでしょうね。仏教では、知恵で怒りを抑えるといいますが知恵が足りなかったのでしょう。でもほとばしる情熱はすばらしいものがあったということでしょうね。開祖の悪しきところを真似ることは開祖の品位を落とすだけですね。上人もあの世で、泣いていると思いますよ。

この回答への補足

◎広宣流布

×光点流布

NO2の補足訂正です。(^^;

補足日時:2005/08/13 20:47
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

◆非常に斬新な切り口で、興味深く読ませて頂きました。

ただ、内容が過激なもので、細かいレスはあまり出来ませんがご容赦下さい。
>仏教では、知恵で怒りを抑えるといいますが…でもほとばしる情熱は
>すばらしいものがあったということでしょうね。開祖の悪しきところを
>真似ることは開祖の品位を落とすだけですね。上人もあの世で、泣いていると思いますよ。

●まさにここの『悪しきところを真似ること開祖の品位を落とす。』ということをなんとかうまく解釈して、排他性の壁を超えられないものでしょうか。
キリスト教世界でいえば、『アルファであり、オメガである絶対なる主』を、つまんないことにこだわって憎しみ、否定しあうならば、『絶対なる主』を貶めているという事になるから、人間はお互いを神の子供だと認めましょうという事ですが、仏教での切り口はどうなるのでしょうか?

お礼日時:2005/08/13 15:09

こんにちは、私ながらの意見を述べさせていただきます。

全然勉強不足でつっこまれてもしっかり答えることは微妙です。^^;

>キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、
キリスト教の良い所ってどこでしょうか?!確かに、汝自身を・・・とか、頬をぶたれたら・・・とか神が・・・とかありますが、すべてのものに備わる因果関係をあやふやにしてると思います。つまり、それは、なぜ?と牧師に聞いても、神がどうたらこうたら・・・と言う感じです。それに比べ、日蓮は因果関係をしっかり持ってるのではないでしょうか?自分自身というところです。全ては自力で困難を乗り越える。ここが、他の宗にはない優れている所だと思います。

>親鸞の説いた絶対他力の教えに対して
親鸞が説く他力(=神頼みに近い!?)とは、全く正反対です。
>他宗を徹底的に攻撃したことがひっかかります。
気持ちは分かります。ですが、法華経の中に他人に広めることが、一番難しい故に一番自他共に幸福になれるとしたら、広めませんか?逆に、宗祖が広めないわけがありません。一番難しい(=折伏、しゃくふく、というらしいです。)ため、ことごとく批判されてきたと思います。当時、幸せになれると思ってた信者が日蓮は全然幸せでないし、流罪されてるし、自分も幸せでない等の理由で離れていく人もいました。それも日蓮の弟子でも日蓮が死んでから有り得たわけで、その弟子がバラバラになりいろいろ宗派を作り日蓮系が現在でも何個か存在することになったのでしょう。

>日蓮系を名乗る極端な宗派が活動する事は、日蓮上人の是認される事なのでしょうか。
是認はされていないでしょう。(ここは憶測です。)ただ、予想はしてたのではないでしょうか?!(ここも憶測です。すみません。)
 昔は、日蓮正宗が一番日蓮の教えを守っていたのですが、今では日蓮正宗はボロボロです。僧侶は金と酒と女に狂ってるみたいです。今、まさしく日蓮の意を受け継いでいる団体を出すなら、創価学会だけでしょう。
 また、最後に個人の意見ですが・・・。
先ほどあげた団体の第2代会長が言ってた言葉です。京都大学?!の宗教専攻の教授が法華経の研究をしたみたいです。ですが、一向に幸せになれないと感じており、第2代会長も研究しても意味がない。というようなことを言った本を読んだことがあります。その理由としては、日蓮(といえども1人の人間)が一生を懸けて説いた法華経を文字だけで真に理解できるはずがない。また、幸せになるには、法華経の読み書きを何千回行おうと経験(=折伏等)にはかなわない、と説いてある。とありました。では、どうすれば理解できるか?上記の通り、実際にやってみるしかないと思います。何も質問者様をとやかくいう権利はありません。
 折伏ではありませんが、創価学会はネットや雑誌で叩かれているのを見かけると思いますが、全く情報があやふやです。もちろん私の意見も参考程度に見るのと同様、ネット情報も参考程度で真に肯定するなら実際創価学会のみに触れてみるのがいいと思います。入退会も自由みたいです。
 最後にこの意見もいろいろ批判もあるかと思います。また、私の答えれる範囲で機会あれば書かせて頂きたいと思います。

この回答への補足

お礼では、おもわず戸田城聖第二会長に反応してしまい、e410さんの回答といささかピントがずれてしまったように思いますので、もう一度考えてみたいと思います。

>幸せになるには、法華経の読み書きを何千回行おうと経験(=折伏等)
>にはかなわない、と説いてある。とありました。では、どうすれば理解
>できるか?上記の通り、実際にやってみるしかないと思います。

●折伏は、光点流布『教えを広める』という事ですから、それ自体は宗教の持つ普遍的なテーマであり、他宗が是非を問えるものではないように思います。しかし疑問として、『法華経』を広める=幸せになるという説明はよくわかりません。広める=『法華経』への理解につながるのでしょうか。
それとも、本質的に広めれば現世での救いがあるという教えなのでしょうか。 どなたかわかりやすく教えていただければ嬉しいです。

補足日時:2005/08/13 20:29
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
創価学会の方でしょうか。対話できて嬉しく思います。

>第2代会長が言ってた言葉です。京都大学?!の宗教専攻の教授が法華経の>研究をしたみたいです。ですが、一向に幸せになれないと感じており、
>第2代会長も研究しても意味がない。というようなことを…その理由
>としては、日蓮(といえども1人の人間)が一生を懸けて説いた法華経を>文字だけで真に理解できるはずがない。また、幸せになるには、
>法華経の読み書きを何千回行おうと経験(=折伏等)にはかなわない、と>説いてある。とありました。では、どうすれば理解できるか?上記の通
>り、実際にやってみるしかないと思います。

●池田大作氏による対談集『宇宙と地球と人間』(PP246~246)によれば、戸田城聖第二会長は下記のようにも語っていたようです。
『釈尊やキリストやモハメットが一堂に会したならば、大きい慈愛の心で語り合い、譲り合い、尊重し合っていくであろう。そして根本的目的である人類の恒久の幸福に向かって、戦争・暴力・紛争を断じて食い止めようと、ともに手を携えて立ち上がっていくことだろう。』

◆現代において彼らの教えを受け継ぐものは、彼らのように振舞うべきだと考えます。第二会長の言ではないですが、『ともに手を携えて立ち上がる』ことはできない道なのでしょうか。
 『法華経』が正しいならば、大きい慈愛の心で語る懐の深さがありるのではないでしょうか。キリスト教世界でも排他性が問題になっていますし、第二会長やその思想を受け継ぐ者が日蓮上人の教えを第一に考えるのは当然のことでしょう。しかしながら、大きい慈愛を示し、どちらかが歩み寄ったほうが良いならば、正法を名乗るものが懐の深さを示すべきのような気もします。

意見をお聞かせください。

お礼日時:2005/08/13 14:30

>キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒という認識にたどりつけたのですが



というのがそもそも外部の非信者の考え方なんですね。宗教を信じる人において、そもそも信心というのはこの世の外にあるものを信ずるものですからその「真理性」というものは自分にとっては証明不要の明らかなものです。ですから他宗派・他宗教などというものを肯定することは本来不可能だと思います。

ところが、現実問題他宗派・他宗教を信仰する人、団体がそこにいるときどうするか、といことです。
宗教の共存は近世の政治的概念だと思います。思想の自由もそうです。結局違うものが社会を構成するとき、必要以上に争わないように決めた、ということでしかありません。
本心から他宗派や他宗教の存在を肯定する、というのはもしかしたら将来宗教が生き延びていくには必要なのかもしれませんが、今までの歴史において内心の自由=心の中での力いっぱいの否定、であったのが実情です。
キリスト教でも、実際に有力な宗教団体というものはむしろ他に対して戦闘的ないし否定的です。よしあしは別にして、何かを積極的に信ずることは、それと対立する考え、物を積極的に否定することにつながります。
そういう意味で親鸞にしても大変戦闘的だったと思います。
ただその後の時代に生き延びていく上で、どうしても妥協、というよりも共存の必要がでてきます。日蓮宗とて江戸時代は結局内心はどうあれ、数ある宗派のひとつでしかなかった。それを否定して宗教的な純粋さを求めた一派は、不授不施派として大弾圧をこうむったわけですね。

イエスにしたって神殿に乱入して、商人をたたきだしたりしています。私も日蓮というひとはあまり好きではないのですが、ただ何かをひたすら信ずる、ということはもしかしたらこういうことなのではないか、という気はします。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
(何度か投稿を読ませて頂いた事があります。)
>宗教を信じる人において、そもそも信心というのはこの世の外に
>あるものを信ずるものですからその「真理性」というものは
>自分にとっては証明不要の明らかなものです。ですから他宗派・他宗教な>どというものを肯定することは本来不可能だと思います。

●>他宗教の肯定というのは本来不可能である。
これは、仰る通りだと思います。ですが現代社会において、他宗を無視してわが道を行くことにより様々な弊害が生じ、相互理解を妨げていることも事実です。私の人間関係にもありますので今回の問いになりました。

>イエスにしたって神殿に乱入して、商人をたたき出しています
営利目的の商人をたたき出すのはかまわないようにも思いますが、キリスト教において多宗を偶像礼拝として否定する面も事実ですね。
 ただ、新約聖書はテーマがはっきりとしていますので、マクロな視点で他の宗派・宗教を肯定することもできるのです。
これについては長くなりますので下記をお読み下さい。http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1482950

>本心から他宗派や他宗教の存在を肯定する、というのはもしかしたら将来>宗教が生き延びていくには必要なのかもしれませんが、今までの歴史にお>いて内心の自由=心の中での力いっぱいの否定、であったのが実情です。

◆まさに仰るとおりです。
『これまで』は排他的で良かったし、またそうでなければ自己保全が出来なかったけれど、『これから』もそうなのか。
日蓮上人の教えにもっと広い道は見出せないのか?
というのが私の問いです。

pyon1956様のお陰で、問題点がより明確になってきたように思います。
しかしながら信じることは否定する事、という結末はあまりにも悲しいと感じます。
また、ご意見下さい。

お礼日時:2005/08/13 15:01

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