プロが教えるわが家の防犯対策術!

日蓮宗の開祖である日蓮上人の教えの良さがさっぱり理解できません。
キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒という認識にたどりつけたのですが、今回はどうも自信がありません。
 日蓮上人の教えの優れているところ、良いところ、絶対的なところなど、
わかりやすく語っていただければ嬉しいです。

★親鸞の説いた絶対他力の教えに対して、『法華経』による現世での救いを説いたのはもっともな事のようにも思えるのですが、それにより他宗を徹底的に攻撃したことがひっかかります。
 現代においても『末法の世』と解釈する事により、日蓮系を名乗る極端な宗派が活動する事は、日蓮上人の是認される事なのでしょうか。

*当方は、我が宗こそ日蓮上人の教えと名乗る団体(複数です。)と関わったことがあり、それが偏見につながっている可能性も否定できません。
質問に他意はありません。

歴史的背景・思想的背景・正当な解釈、切り口はなんでもかまいません。
どうか、日蓮上人を肯定していただけないでしょうか。

A 回答 (17件中1~10件)

>キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒という認識にたどりつけたのですが



というのがそもそも外部の非信者の考え方なんですね。宗教を信じる人において、そもそも信心というのはこの世の外にあるものを信ずるものですからその「真理性」というものは自分にとっては証明不要の明らかなものです。ですから他宗派・他宗教などというものを肯定することは本来不可能だと思います。

ところが、現実問題他宗派・他宗教を信仰する人、団体がそこにいるときどうするか、といことです。
宗教の共存は近世の政治的概念だと思います。思想の自由もそうです。結局違うものが社会を構成するとき、必要以上に争わないように決めた、ということでしかありません。
本心から他宗派や他宗教の存在を肯定する、というのはもしかしたら将来宗教が生き延びていくには必要なのかもしれませんが、今までの歴史において内心の自由=心の中での力いっぱいの否定、であったのが実情です。
キリスト教でも、実際に有力な宗教団体というものはむしろ他に対して戦闘的ないし否定的です。よしあしは別にして、何かを積極的に信ずることは、それと対立する考え、物を積極的に否定することにつながります。
そういう意味で親鸞にしても大変戦闘的だったと思います。
ただその後の時代に生き延びていく上で、どうしても妥協、というよりも共存の必要がでてきます。日蓮宗とて江戸時代は結局内心はどうあれ、数ある宗派のひとつでしかなかった。それを否定して宗教的な純粋さを求めた一派は、不授不施派として大弾圧をこうむったわけですね。

イエスにしたって神殿に乱入して、商人をたたきだしたりしています。私も日蓮というひとはあまり好きではないのですが、ただ何かをひたすら信ずる、ということはもしかしたらこういうことなのではないか、という気はします。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
(何度か投稿を読ませて頂いた事があります。)
>宗教を信じる人において、そもそも信心というのはこの世の外に
>あるものを信ずるものですからその「真理性」というものは
>自分にとっては証明不要の明らかなものです。ですから他宗派・他宗教な>どというものを肯定することは本来不可能だと思います。

●>他宗教の肯定というのは本来不可能である。
これは、仰る通りだと思います。ですが現代社会において、他宗を無視してわが道を行くことにより様々な弊害が生じ、相互理解を妨げていることも事実です。私の人間関係にもありますので今回の問いになりました。

>イエスにしたって神殿に乱入して、商人をたたき出しています
営利目的の商人をたたき出すのはかまわないようにも思いますが、キリスト教において多宗を偶像礼拝として否定する面も事実ですね。
 ただ、新約聖書はテーマがはっきりとしていますので、マクロな視点で他の宗派・宗教を肯定することもできるのです。
これについては長くなりますので下記をお読み下さい。http://okweb.jp/kotaeru.php3?q=1482950

>本心から他宗派や他宗教の存在を肯定する、というのはもしかしたら将来>宗教が生き延びていくには必要なのかもしれませんが、今までの歴史にお>いて内心の自由=心の中での力いっぱいの否定、であったのが実情です。

◆まさに仰るとおりです。
『これまで』は排他的で良かったし、またそうでなければ自己保全が出来なかったけれど、『これから』もそうなのか。
日蓮上人の教えにもっと広い道は見出せないのか?
というのが私の問いです。

pyon1956様のお陰で、問題点がより明確になってきたように思います。
しかしながら信じることは否定する事、という結末はあまりにも悲しいと感じます。
また、ご意見下さい。

お礼日時:2005/08/13 15:01

こんにちは、私ながらの意見を述べさせていただきます。

全然勉強不足でつっこまれてもしっかり答えることは微妙です。^^;

>キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、
キリスト教の良い所ってどこでしょうか?!確かに、汝自身を・・・とか、頬をぶたれたら・・・とか神が・・・とかありますが、すべてのものに備わる因果関係をあやふやにしてると思います。つまり、それは、なぜ?と牧師に聞いても、神がどうたらこうたら・・・と言う感じです。それに比べ、日蓮は因果関係をしっかり持ってるのではないでしょうか?自分自身というところです。全ては自力で困難を乗り越える。ここが、他の宗にはない優れている所だと思います。

>親鸞の説いた絶対他力の教えに対して
親鸞が説く他力(=神頼みに近い!?)とは、全く正反対です。
>他宗を徹底的に攻撃したことがひっかかります。
気持ちは分かります。ですが、法華経の中に他人に広めることが、一番難しい故に一番自他共に幸福になれるとしたら、広めませんか?逆に、宗祖が広めないわけがありません。一番難しい(=折伏、しゃくふく、というらしいです。)ため、ことごとく批判されてきたと思います。当時、幸せになれると思ってた信者が日蓮は全然幸せでないし、流罪されてるし、自分も幸せでない等の理由で離れていく人もいました。それも日蓮の弟子でも日蓮が死んでから有り得たわけで、その弟子がバラバラになりいろいろ宗派を作り日蓮系が現在でも何個か存在することになったのでしょう。

>日蓮系を名乗る極端な宗派が活動する事は、日蓮上人の是認される事なのでしょうか。
是認はされていないでしょう。(ここは憶測です。)ただ、予想はしてたのではないでしょうか?!(ここも憶測です。すみません。)
 昔は、日蓮正宗が一番日蓮の教えを守っていたのですが、今では日蓮正宗はボロボロです。僧侶は金と酒と女に狂ってるみたいです。今、まさしく日蓮の意を受け継いでいる団体を出すなら、創価学会だけでしょう。
 また、最後に個人の意見ですが・・・。
先ほどあげた団体の第2代会長が言ってた言葉です。京都大学?!の宗教専攻の教授が法華経の研究をしたみたいです。ですが、一向に幸せになれないと感じており、第2代会長も研究しても意味がない。というようなことを言った本を読んだことがあります。その理由としては、日蓮(といえども1人の人間)が一生を懸けて説いた法華経を文字だけで真に理解できるはずがない。また、幸せになるには、法華経の読み書きを何千回行おうと経験(=折伏等)にはかなわない、と説いてある。とありました。では、どうすれば理解できるか?上記の通り、実際にやってみるしかないと思います。何も質問者様をとやかくいう権利はありません。
 折伏ではありませんが、創価学会はネットや雑誌で叩かれているのを見かけると思いますが、全く情報があやふやです。もちろん私の意見も参考程度に見るのと同様、ネット情報も参考程度で真に肯定するなら実際創価学会のみに触れてみるのがいいと思います。入退会も自由みたいです。
 最後にこの意見もいろいろ批判もあるかと思います。また、私の答えれる範囲で機会あれば書かせて頂きたいと思います。

この回答への補足

お礼では、おもわず戸田城聖第二会長に反応してしまい、e410さんの回答といささかピントがずれてしまったように思いますので、もう一度考えてみたいと思います。

>幸せになるには、法華経の読み書きを何千回行おうと経験(=折伏等)
>にはかなわない、と説いてある。とありました。では、どうすれば理解
>できるか?上記の通り、実際にやってみるしかないと思います。

●折伏は、光点流布『教えを広める』という事ですから、それ自体は宗教の持つ普遍的なテーマであり、他宗が是非を問えるものではないように思います。しかし疑問として、『法華経』を広める=幸せになるという説明はよくわかりません。広める=『法華経』への理解につながるのでしょうか。
それとも、本質的に広めれば現世での救いがあるという教えなのでしょうか。 どなたかわかりやすく教えていただければ嬉しいです。

補足日時:2005/08/13 20:29
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
創価学会の方でしょうか。対話できて嬉しく思います。

>第2代会長が言ってた言葉です。京都大学?!の宗教専攻の教授が法華経の>研究をしたみたいです。ですが、一向に幸せになれないと感じており、
>第2代会長も研究しても意味がない。というようなことを…その理由
>としては、日蓮(といえども1人の人間)が一生を懸けて説いた法華経を>文字だけで真に理解できるはずがない。また、幸せになるには、
>法華経の読み書きを何千回行おうと経験(=折伏等)にはかなわない、と>説いてある。とありました。では、どうすれば理解できるか?上記の通
>り、実際にやってみるしかないと思います。

●池田大作氏による対談集『宇宙と地球と人間』(PP246~246)によれば、戸田城聖第二会長は下記のようにも語っていたようです。
『釈尊やキリストやモハメットが一堂に会したならば、大きい慈愛の心で語り合い、譲り合い、尊重し合っていくであろう。そして根本的目的である人類の恒久の幸福に向かって、戦争・暴力・紛争を断じて食い止めようと、ともに手を携えて立ち上がっていくことだろう。』

◆現代において彼らの教えを受け継ぐものは、彼らのように振舞うべきだと考えます。第二会長の言ではないですが、『ともに手を携えて立ち上がる』ことはできない道なのでしょうか。
 『法華経』が正しいならば、大きい慈愛の心で語る懐の深さがありるのではないでしょうか。キリスト教世界でも排他性が問題になっていますし、第二会長やその思想を受け継ぐ者が日蓮上人の教えを第一に考えるのは当然のことでしょう。しかしながら、大きい慈愛を示し、どちらかが歩み寄ったほうが良いならば、正法を名乗るものが懐の深さを示すべきのような気もします。

意見をお聞かせください。

お礼日時:2005/08/13 14:30

日蓮上人には確かに功罪がありますね。

仏教を掲げて国を治めるということを考え一生懸命実行したその情熱は見習うべきですね。でも、日蓮上人はそんなに頭がよくなかったのでしょうね。法華経も中身が理解できなかったのではなかったと思いますよ。だから、一向宗や真言宗の南無阿弥陀仏を「かえるの合唱」と揶揄して攻撃したけれども人気に勝てないので自らも
お題目「南無妙法蓮華経」になってしまったというところですね。何故、日蓮上人が他宗教を攻撃したかについては、嫉妬もあったと思いますね。千葉の猟師の子供が中央の京都、叡山に出て、学んだけれども上には上がいて、宗派の祖はみんなお公家や侍の子供で、優秀で人気もあったのでしょうね。「南無阿弥陀仏」の信仰を広めた親鸞にしても叡山で非常に勉強した「現代で言えば東大トップ」のお方だったのですね。
それを関東の地から見れば、何だ中央のやつはと思ってもいたしかたないですね。そういう個人的な負い目が攻撃的にしたのでしょうね。仏教では、知恵で怒りを抑えるといいますが知恵が足りなかったのでしょう。でもほとばしる情熱はすばらしいものがあったということでしょうね。開祖の悪しきところを真似ることは開祖の品位を落とすだけですね。上人もあの世で、泣いていると思いますよ。

この回答への補足

◎広宣流布

×光点流布

NO2の補足訂正です。(^^;

補足日時:2005/08/13 20:47
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

◆非常に斬新な切り口で、興味深く読ませて頂きました。

ただ、内容が過激なもので、細かいレスはあまり出来ませんがご容赦下さい。
>仏教では、知恵で怒りを抑えるといいますが…でもほとばしる情熱は
>すばらしいものがあったということでしょうね。開祖の悪しきところを
>真似ることは開祖の品位を落とすだけですね。上人もあの世で、泣いていると思いますよ。

●まさにここの『悪しきところを真似ること開祖の品位を落とす。』ということをなんとかうまく解釈して、排他性の壁を超えられないものでしょうか。
キリスト教世界でいえば、『アルファであり、オメガである絶対なる主』を、つまんないことにこだわって憎しみ、否定しあうならば、『絶対なる主』を貶めているという事になるから、人間はお互いを神の子供だと認めましょうという事ですが、仏教での切り口はどうなるのでしょうか?

お礼日時:2005/08/13 15:09

#1です。

訂正。
不授不施ーーー>不受不施
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この回答へのお礼

丁寧にありがとうございます。
不勉強なもので、こういう訂正は非常に助かります。

お礼日時:2005/08/13 15:11

いつもお世話になっております。


あまりふれられることがないので日蓮の人柄を表す手紙を。
同郷の息子をなくした女性信者へ
「老いたる母は留まって、若い子が先立つほど情けないことはない。神も仏もうらめしい。なぜ、親を先に行かせてくれず、嘆かせるのかと思うと、心
悲しい」
次男をなくした女性信者へ
「母親であるあなたにとって、どんなにかお嘆きの事であろう、つぼみの
花が風のために、もろくもしぼみ、満月が雲の中に急に隠れてしまったようだ。本当に亡くなったとは思えず、この手紙を書き付ける気にもならない」
佐渡流罪中の書(;;)
「うれしきにも涙、つらきにも涙なり。涙は善悪に通ずるものなり」
「現在の大難を思い続けるにも涙、未来の成仏を思うて喜ぶにも涙を
とどめえない。鳥と虫は鳴けども涙おちず、日蓮は泣かねども涙ひまなし」

伝えきれないとは思いますが、日蓮は同悲同苦の人であり、温かく情にもろく涙もろい人であったという事も知っていただきたいと思います。(;;)
そして激しく情熱的で純粋な人である、肉身の菩薩が仏法流布に命を賭して活動した事は認めなければならない、と思います。これを認めないと
かなり偏った見かたになる、のではないでしょうか。
初期のカルト性はイエス様と共通するところ多数あり、(変な意味ではありません)狂信性、排他性、独善性、閉鎖性、そして、正しいものは試される、法難が現われる、苦しみの礼讃性、(変な意味ではありません)。けっこう似てます。
奇跡により、十字架に架からなかっただけですね。
他宗排撃については、真理が広げるときはあふれ出る熱意がなければ、
広がる事はないでしょう。真理を会得した、悟りを確信したその確信が強ければ強いほど他宗が邪教に見えてくるのはキリスト教とほぼ同じです。
当時のユダヤ教の熱心な信者ほど、イエスはカルトの教祖様に見えた事でしょうし許せなかったのでしょうね。(変な意味ではありません)
一概に言えませんが他宗排撃を比較した場合、実際の被害そのものは対象にならないほど小さなものでしょう。

本来の釈迦の教えには全ての真理が含まれていたのです。釈迦とは教えそのものであり、教えが法そのものであり、宇宙を統べるその法が地上の人間にも理解できるように、人の姿に宿り、応身佛となって教えを説いたのです。
キリスト教的愛(浄土系)、禅宗的智慧、真言密教的神秘性、
日蓮的信仰心、すべての価値を弟子達には全ては理解できないのですね。
自分の認識する範囲がどうしてもあるのですね。日蓮にも認識の限界が
あったのでしょう、弟子はいつの時代も100点は取れないのですね。
しかし精一杯、伝道した一生でした。奇跡を巻き起こしながら、精一杯の
情熱と、精一杯の勇気、そして精一杯の信仰心で生き切った肉身の菩薩
でした。法華経には菩薩とは「闇を照らす日月」「泥沼の中の蓮華」と
たとえてますがこの菩薩の自覚があったからこそ 日、蓮、と
名乗ったのですね。

上求菩提を捨てて、下化衆生を選択した思想が時を経て、慈悲から堕落へと変わる事はたやすい事のようですね(;;)
思想的には天台本覚思想を若いときにかなり学び、これに影響された事が、
後々の南無妙法蓮華経を発明させてしまいました。この題目だけ唱えておけば救われるとした教えが、本佛の御心から遠く離れてしまっている事は、
その後数百年、その木が実らせた果実を観れば、お分かりの事と思います。
最大の弱点がここです。ここにつけ込んで布教活動をやったところ、
思いのほか資金が集まったのでサ○金屋から宗○屋へ乗り換え大成功してしまったのが××○○ですね。(;;)
この免罪符がある限り、愛も、慈悲も戒律も反省もいらぬものなのです。
努力も精進も、悟りも、宗教の核の部分が脱落した状態でも
問題ないと、どれほどの闇に包まれて、どれほどの害毒を垂れ流しても
わからない、おおいに悲しい事です。(;;)
日蓮主義があんいな政治イデオロギーとして利用されるとき、
転落型天台本覚思想が政治勢力と一体化した時、目的のためには手段を
えらばぬ狂信主義的全体主義へと変わっていく事は明らかです。

悟りと智慧が仏教の核であり、悟り即救済、智慧即救済、ですから、
仏教の救済とは教えを学び、考え、実践してこその信仰心に基づくもの
と考えていただければとおもいます。
この信仰心をこそ、この尊さをこそ日蓮は伝えたかったのではないでしょうか。中間の智慧の立場は取らなかった、悟りの立場は取らなかった、という事でしょうか。
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この回答へのお礼

いつも回答、ありがとうございます。

●日蓮上人の人柄について教えて頂き、ありがとうございます。
 迷い、喜び、悲しみ、そういう人間的な面を捨てずに信念を持っていた方だったのだと思うと、すこしわかるような気がします。

●初期のカルト性に関するキリスト教との比較は非常にわかり易くありがたいです。
>真理が広げるときはあふれ出る熱意がなければ、
>広がる事はないでしょう。真理を会得した、悟りを確信したその確信が
>強ければ強いほど他宗が邪教に見えてくるのはキリスト教とほぼ同じです。

まさにその通りだと思います。
カルト性というのは、自宗の肯定イコール他宗を否定することにならざるを得ない初期の伝道においては必須であることは、歴史的に見ても明らかに思います。しかしながら、歴史を紐解いて考える時、すぐれた思想であれば受け入れられ、カルトの蛇は毒を弱め、牙を失ってきました。(他宗にしてみれば蛇(サタン)だったものが、普遍的な神仏に成り代わる事こそ、真理を肯定する事のようにも思います。

>…後々の南無妙法蓮華経を発明させてしまいました。
>この題目だけ唱えておけば救われるとした教えが、
>本佛の御心から遠く離れてしまっている事は、
>その後数百年、その木が実らせた果実を観れば、
お分かりの事と思います。

●以下に続く文も含めて、その団体に関わっていない者が言及するにはデリケートな問題です。名が伏せてありますので、わかりませんということでご勘弁願います。
*ここのところは、現代の信者の方に語ってもらいたい部分であります。
日蓮上人を本当の意味で立てておられる信者の方の投稿が少ないのは残念な事です。

>この信仰心をこそ、この尊さをこそ日蓮は伝えたかったのではないでしょうか。
>中間の智慧の立場は取らなかった、悟りの立場は取らなかった、という事でしょうか。

◆揺るぎない信仰心を示す尊さ・・・これならば理解出来ます。
だからこそ混沌の時代に『末法の世』を見出し、強い姿勢で教えを説いたのでしょうか。

お礼日時:2005/08/14 16:21

「人間はお互いを神の子供だと認めましょうという事ですが、仏教での切り口はどうなるのでしょうか?」


法華経は、釈尊が霊鷲山で説いた晩年の教えです、法華経には「弟子たちよ、私は、今まで全てのものに仏性が宿っていると教えてきた。全てのものは修行ししていけば仏になれるということをだ。しかし、仏陀は修行して今世初めて仏陀になったのではないのだよ、遠い過去から何度も仏として生まれ何度も仏陀として弟子を教化してきた久遠実状の仏なのだ。」というような教えなのですね。仏陀が実は久遠実状の仏陀「西洋的には全知全能の神という意味」であることを明らかにしたのが法華経ということで過去の僧たちがりっはな経典だとしているのですね。この経典には「仏性」がはっきり書かれています。仏性というのは人間を含む全てのものが共通にもつ仏の性質なのですね。仏が自身の魂の一部を切り取って作ったということです。この仏性こそが人間仏の子、神の子の証明なんです。これはイエスでさえ明確に説ききれていないポイントなんですね。人間みな仏の子ですから互いに誹謗中傷するようなことはやめましょう。差別はやめましょう。互いの仏性合い等しきことを喜びあいましょう。というのが法華経の本当の意味です。どうしてこれほどにずれてしまったのでしょうかね。各宗派はもう一度、久遠実状の仏陀への帰依に立ち戻るべきでしょうね。
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この回答へのお礼

続いての回答に感謝します。

>法華経には「弟子たちよ、私は、今まで全てのものに仏性が宿って
>いると教えてきた。全てのものは修行ししていけば仏になれるということをだ。しかし、仏陀は修行して今世初めて仏陀になったのではないのだよ、
遠い過去から何度も仏として生まれ何度も仏陀として弟子を教化してきた久遠実状の仏なのだ。」・・・
>この仏性こそが人間仏の子、神の子の証明なんです。これはイエスでさえ
明確に説ききれていないポイントなんですね。人間みな仏の子ですから
>互いに誹謗中傷するようなことはやめましょう。差別はやめましょう。
>互いの仏性合い等しきことを喜びあいましょう。というのが法華経の本当の意味です。

●法華経の解説に感謝します。愛に満ちた温かい教えですね。日蓮上人が信念を持って布教したのも頷けます。
 キリスト教世界において、『イエスでさえ明確に説ききれていない。』というポイントも仰る通りだと思います。聖典は、毒にも薬にもなるものであり、読み解くには理性と知力と信仰心と、全て必要なのだと思います。

お礼日時:2005/08/14 16:50

私は日蓮上人について特に詳しくはないのですが、一つだけ明らかなことを知っています。



それは、「法華経は仏陀が説いたお経では無い」という事です。これは日本の仏教学界および欧米諸国の宗教研究家にとって周知の事実であり疑いの余地はありません。

では仏陀の説いた教典とは?
それは「アーガマ」または「阿含経」と呼ばているものです。

なぜならば仏陀の死後約1ヶ月程経ってから、第一結集(だいいちけつじゅう)により直弟子たちが集まって釈迦の説法を互いに思い出し、確認し合って編集したのが
「アーガマ」だからです。
結集はこの一回限りで第二結集などというものは、存在しません。

インドでは仏教は「上座部仏教」と「大衆部仏教」に分裂し、[上座部仏教」が「アーガマ」を奉持し、この教えは南伝仏教として守られ、伝えられてきました。

「大衆部仏教」は「アーガマ」を待たないので「法華経」等の経典を編み出し、「仏教を信じる事の大切さ」を教え、広めてきました。
その後、インドでは仏教は消滅してしまいました。

「アーガマ」には仏陀になるための修行方法(六道輪廻から逃れ、因縁解脱するための)が説かれています。
それに対し、その他の経典には「仏教を信仰することによるご利益」が書かれています。

ところで、日蓮上人はこの事実を知らず、「法華経」が仏陀直説の経典と信じ、これを奉じ、大衆救済に生涯を賭けたのでした。

上人の教えの意義は仏教に縁のなかった一般大衆に仏教による救いを広め、精神的に救済したことです。

今日まで、日本において仏教が維持されて来たことに於ける上人の貢献は大変大きく、現在の新たな仏教の研究に繋がっています。

余談ですが、インドの最後の「大衆部仏教」は現在、[密教」と呼ばれているものです。
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この回答へのお礼

回答 ありがとうございます。
●この件に関しての解説に感謝します。

仏典の成立に関しては勉強不足なので細かいコメントは出来ないのですが、
仏陀の布教期間はイエスのそれと比べて長期にわたっていますし、
何を持って正典と位置づけるかも、解釈が多々あることと思います。
(仏陀もイエスも正典を直接書いたわけではないですから仕方のない事です。)

 『法華経』においては、その内容が仏陀の思想と精神を受け継いでいるかが重要なのだと思います。
 この辺は、まだコメント出来ません。

上人の功績と貢献に対しては、依存ありません。

お礼日時:2005/08/14 16:56

ちょっとまた違ったところでおじゃまです。


日蓮は戦い、勇気、奇跡、などを通じて仏法流布の使命を全うした方です。
天使や菩薩も長年の経験による魂の傾向性があり日蓮は(上記特色)を
役割として下生された方であります。
発する光の色が赤色光線なんです。(たとえです)
スケールはやや違うかもしれませんが、モーゼ様的な役割と言ったら
わかりやすいでしょうか。または、旧約のエリヤ的、な存在といっていいでしょうか。
戦う魂なのです。義を重んじ、貫く魂なのですね。宗教の中に
このような個性を持つ方が出て、教えに彩りを添えていく、のでしょう。
ちなみに仏陀は智慧と慈悲の光線、教えの光線は黄色光線、
イエス様は愛と救いの白色光線、正義、法戦の赤色光線、
ソクラテス様は智の青色光線、孔子様は秩序の紫光線、老子は自然の
緑光線、ニュートンは科学の銀色光線、
七色の教えがこの地球を虹色に輝かせているのです。
(たとえばっかですいませんでした)

この回答への補足

★★やってしまいました。

回答9に対する補足の聖句
 ×始めにロゴス(言葉)があった。
 
 ○初めにロゴス(言葉)があった。

聖句を間違えると、さすがに反省します。(^^;

補足日時:2005/08/18 23:52
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この回答へのお礼

続いての回答に感謝します。

hwさんはキリスト教世界になぞらえて分かり易く解説していただけるので助かります。モーゼと同じ赤色というのは、私にはこれ以上ないわかりやすさです。

>七色の教えがこの地球を虹色に輝かせているのです。

◆虹色は、7色集まってこそ虹色になりますね。
そして、降り注ぐ太陽の光も虹色のスペクトルの集積ですね。

様々な思想がより集まって、地球を輝かせるものであれば、これ以上の祝福はないですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/14 17:02

先日はご苦労さまでした。

(No.1580800の回答の件)。

>日蓮上人をたてている方からの回答がなく、困っています、、、
ということで、私の想える範囲で回答をしたいと思います。

まず、一つに当時(鎌倉時代)の日本の宗教の現況ですが、既存の宗派はもちろんのこと、これに加えて浄土、禅がブームになっていた。
日蓮大聖人は当時、12歳で稚児として天台宗「清澄寺」に登られ、16歳で得度されました。

その後、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の経蔵より始まり、比叡山を中心に、京都・奈良・大阪と「釈尊の本当の教え」を求めて、一切経を学び清澄寺に帰ります。
そして、32歳の4月28日に「四箇の格言」により他宗の教義の誤りを破折されるとともに、民衆救済の根本法である「南無妙法蓮華経」を初めて叫ばれました。

この時より、国家及び人々の不幸の現況となる他宗の誤りを否定することにより、多くの念仏の信者であった権力者に迫害をうけます。これは、キチンとした教義を理解せずに念仏に傾倒した、無知なる権力者の横暴であるといえます。

本題の、「日蓮大聖人の肯定」ということですが。

1.宗教の「正」「邪」を極めた点。
 釈尊の説かれた仏教が当時(現在も)幾宗もの宗派に別れ、民衆を救えずにいる現状を嘆かれ、「真の仏教とは何か?」という自問を解決すべく、日本にある一切経の中から、宗教の「正」「邪」を極め、「南無妙法蓮華経」を流布した。

2.末法の衆生のために、「御本尊」を御図顕された点。
 佐渡流罪の最中、初めて御本尊を顕した。その後、「熱原の法難」の時(弘安二年十月十二日)出世の本懐として本門戒壇の御本尊を顕されたこと。

3.宗教の「正」「邪」に関しては、一点も妥協をされなかった点。
 数々の大難を一身に受けられた生涯の中で、一点も妥協されず、「南無妙法蓮華経」流布のため生きられた生涯であったこと。

4.国主諫暁と「立正安国論」。
 国の亡国を憂い、人々の幸福を願い、文応元年時の権力者である北条時頼にたいし、「立正安国論」をもって国主諫暁をした。

5.全てを言論戦で戦いぬいた。
 鎌倉幕府をはじめ、あらゆる迫害にも怯むことなく、言論戦だけで戦われた。権力の迫害の裏にも、日蓮大聖人の人格と実力に怯え、幕府を騙し、利用した邪宗の僧侶がいた。

※総評として。
 絶対的な正を持って、悪を挫き、ただ一人民衆救済の為に行動された日蓮大聖人のお姿は、正義の味方の頂点に君臨するものと確信いたします。

P.S:
 私は、専門的に「日蓮大聖人」を研究する学者ではない為、細部にわたり回答不備な点もあるかと思いますが、ご了承いただきたいと思います。
 

この回答への補足

●法華経はもとより、仏法と他宗教とで共通認識があると思われるところを補足します。

>3.宗教の「正」「邪」に関しては、一点も妥協をされなかった点。
> 数々の大難を一身に受けられた生涯の中で、一点も妥協されず、
>「南無>妙法蓮華経」流布のため生きられた生涯であったこと。

●他宗教を否定する際に、教義ゆえの極端な行動について批判することが多々見受けられます。たとえば、○○テロはイスラム原理主義の過激派によるものだ。だからイスラムはダメだ…というような批判です。
相対的に、他宗を受け入れる寛容さをもっている日本の『ご都合主義』的な思想は平和的だ…というような論法も見られます。

私が提示している疑問は、日蓮様を立てている方に、波風が立たない『ご都合主義になれ』といっているのではありません。

★つまり法華経の理念を達成する為に歩みよるという事です。

キリスト教世界の言葉を借りて説明します。
『始めにロゴス(言葉)があった。 ロゴスは神とともにあった。ロゴスは神であった。』
 これは、ヨハネの福音書の冒頭の部分ですが、ロゴスというギリシャ語は宇宙を貫く秩序・法則というような意味があります。(カオスと相対的な意味で捉えてよいと思います。)

ロゴスは、法華経の思想と相容れないものでしょうか?
宇宙を貫く真理に沿った道とは、現代においてはどのような道なのでしょうか?

補足日時:2005/08/18 23:35
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この回答へのお礼

時間を頂きました。回答ありがとうございます。
日蓮様(私はこう表記したいと思います。)を信じる言葉に自信と、確信が満ちていて読んでいる私にも力が湧いて来るようです。
 『日蓮様の生き様は正義の味方の頂点に君臨するものである。』という見解に私も賛成します。信仰に硬く立って世の為に法華経を流布した生き様は誰にも否定できないものであると私も思います。
 そして、日蓮様が生きていた時代の正義は絶対的なものであり、相対的に他宗は邪宗であり、戦って(勿論言論によって)切り開いていったのも頷けます。

では、
●『現代の日蓮様とその道を信じる方たちの正義の道とはどのようなものか?』というのが何度もお礼で提示した疑問です。
現代という時代に法華経の理を具現する為には、マクロな視点で他宗と共に歩む事が必要なのではないかということです。

●たとえば、宇宙体験により排他的なクリスチャンであるにもかかわらず他宗を認めてしまったジーン・サーナンという人がいます。(彼はカトリック)
『(宇宙体験で変わったのは)・・・神の認識の存在だ。神の名は宗教によって違う。キリスト教・イスラム教・仏教・神道、みな違う名を神にあてている。しかし、その名前がどうあれ、それが指し示している、
「ある同一の至高の存在」がある。「それ」が存在するということだ。
宗教はすべて人間が作った。だから神に違う名がつけられた。名前は違うが、対象は同じなのだ。
 宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさに・・・こんな美しいものが、偶然の産物として生まれる筈がない。
ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。・・・』
「宇宙からの帰還」(中公文庫)立花隆著PP265抜粋

●あるいは、戸田城聖第二会長の言にあるように、『大きい慈愛の心で語り合い、譲り合い、尊重し合っていくであろう。そして根本的目的である人類の恒久の幸福に向かって、戦争・暴力・紛争を断じて食い止めようと、ともに手を携えて立ち上がっていくことだろう。』

という事を具体的に出来ないかということです。
正直な意見をお聞かせ下さい。

お礼日時:2005/08/18 23:30

#9ks5519です。



再度、回答させていただきます。

他宗教との共通認識という点ですが、、、

1.宗教で一番肝心なものに、『本尊』があります。
これは、「根本崇拝」していくものですが、日本の各宗派においては、全く違っています。
全てにおいて、この一点が歩み寄れない理由です。
日蓮大聖人も結局はこの一点で各宗派と戦われたのです。
宗教の「正」「邪」もこの一点なのです。

ですから、この一点だけは絶対に妥協出来ないのです。

その他は、貴方の仰る様に、他人の考え方の批判も、人間性の批判もしていないはずですよ。

またこれは、日蓮大聖人の時代も、創価学会創立以来、牧口初代会長、戸田第二代会長、池田名誉会長と受け継がれた、創価学会の根本的な意義だと思います。
「正しい本尊」に「お題目を唱える」から、一念が変わり、宿命転換できるのです。私どもの宗教の理念はこの一点だけだと思いますよ。

>『現代の日蓮様とその道を信じる方たちの正義の道とはどのようなものか?』
 日蓮大聖人のお心をそのままに、自他ともに「御本尊」を拝し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、絶対的幸福境涯を顕していくことでしょう。
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この回答へのお礼

●再度の回答ありがとうございます。
 お時間を頂いたこと、申し訳なくおもっています。

>日蓮大聖人のお心をそのままに、自他ともに「御本尊」を拝し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、絶対的幸福境涯を顕していくことでしょう。

●少しずつわかってきたように思います。
>自他ともに「御本尊」を拝し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、絶対的幸福境涯を顕していくこと
 これが、日蓮大聖人の道であるのか、私には判断できません。
是非がどうあれ、創価学会は仏教ではないのですね。
仏陀(悟りを得たもの)の思想ではないと思います。
それが悪いといっているのではありません。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 20:44

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