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日蓮宗の開祖である日蓮上人の教えの良さがさっぱり理解できません。
キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒という認識にたどりつけたのですが、今回はどうも自信がありません。
 日蓮上人の教えの優れているところ、良いところ、絶対的なところなど、
わかりやすく語っていただければ嬉しいです。

★親鸞の説いた絶対他力の教えに対して、『法華経』による現世での救いを説いたのはもっともな事のようにも思えるのですが、それにより他宗を徹底的に攻撃したことがひっかかります。
 現代においても『末法の世』と解釈する事により、日蓮系を名乗る極端な宗派が活動する事は、日蓮上人の是認される事なのでしょうか。

*当方は、我が宗こそ日蓮上人の教えと名乗る団体(複数です。)と関わったことがあり、それが偏見につながっている可能性も否定できません。
質問に他意はありません。

歴史的背景・思想的背景・正当な解釈、切り口はなんでもかまいません。
どうか、日蓮上人を肯定していただけないでしょうか。

A 回答 (17件中1~10件)

 私の思ったことですが、参考になればと思い投稿しました。



 日蓮は謙遜して「私は中国の天台大師の知恵には及ばない」と言っています。
 何故なら、仏教は既に天台に説き尽くされてしまったと言うのです。
 しかしながら、末法に入って釈尊の教えは今は何も残っていないとも言っています。

 私がきずいたことで、日蓮を肯定して立場を代弁します。

◎日蓮は、絶対的な真理である妙法で、宗教の統一を図ったこと。
◎日蓮は、大慈大悲を旨としたこと。(難に合うは慈悲の力・・)
◎今までの仏教を継承しつつも、既に釈尊の仏教を凌駕したこと。
◎日蓮の教学は、大変に緻密であること。    以上。

 
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日蓮の教義は、現代では通用しないところが多々あります。


そして、なかなか好人物のところもあるのですが、
自己顕示欲がはなはだ強く、自らを世間に認めさせるために、
一宗を立ち上げ、世に広めることを選んだ。
その具体的手段は、他宗を徹底的に攻撃することであった。
http://park5.wakwak.com/~soka/risshou.htm

後世の日蓮主義者という人物もやはり、大変に、自己顕示欲の強い人が多い。
それゆえに、何となく、日蓮に惹かれるのではないかと思います。

ただし、宮沢賢治のような形で、思想を表現しようとするならば良いのですが、
教団を設立して布教を始めますと、
日蓮思想に忠実であろうとすればするほど、その弊害を引き継ぐわけです。
その代表的な教団が、創価学会や顕正会です。

しかしながら、日蓮の問題点を自覚した上で、
教団に属さぬ個人信仰として日蓮を信望すると言うのであれば、
それは弊害は少ない。(あくまでも少ないという意味です)

たとえば、宮沢賢治も国柱会という日蓮系教団の信者ですが、
最終的には、教団とは、つかず離れずの関係をとっていたようです。
もし、国柱会べったりであったならば、
今日のような宮沢賢治の評価があったかどうか、疑問です。

ネガティブな日蓮論になりましたが、
「日蓮上人を肯定してください」との事ですので、ひとつだけ言います。

諸々の鎌倉祖師の中で、一番、社会変革の意欲が感じられるのが日蓮です。
もっとも、日蓮は直接、社会問題に関わろうとしたわけではなく、
あくまでも宗教を広めようとした。
実際に、社会問題に関わっていたのは、日蓮が宿敵とする、極楽寺良観(忍性)です。
日蓮は社会問題については、具体的に行動しなかった。
けれども、「世の中を変えたい」という情熱が一番、感じられるのが日蓮です。

少なくとも、この「情熱」だけは評価できるのではないでしょうか。

あえてもう一つだけ取り上げるならば、
一般大衆にとっては実践の困難な密教を、簡略化した事。

密教は、実に多くの真言をとなえ、真言によって印契という手遊びを行う。
そのために、身につけるには、かなりの修行が必要です。
基本的には、坊さんにならないと、実践は出来ない。

それを、真言を「南無妙法蓮華経」の一点に絞り、
印契を合掌印の一つにまとめたということで、誰でも実践できるようになった。

ただし、自らの法門は密教の単純化であるにも関わらず、
それを認めようとせず、かえって、密教を批判したというのは、
これは自己顕示欲から来る異常性としか、言いようがありません。

参考URL:http://park5.wakwak.com/~soka/risshou.htm
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「アーガマ」も釈尊滅後の紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて、徐々に作成されたものであると言われています。



経典結集もまた、五百結集、滅後100年後の七百結集、200年後の千人結集、紀元後2世紀頃の第四回結集があると言われてます。(第3、第4結集については、南伝、北伝で伝承が異なります)つまり、平たく言ってしまえば、すべからく「仏説非仏説」とも言えてしまうのが実情でしょう。

ご質問の本質に話を戻しますと、日蓮は「現実変革」を実現せしむる法華経に生き、また、その法華経の体現者として人生を全うされた事こそが最大の魅力と言えるのではないでしょうか。

彼の叫びは「立正安国」に尽きます。自身の一生を苦しむ衆生の為、安国の為に捧げ尽くした生き様は、多くの人間を感動させてやみません。

ちなみに他宗批判の精神ですが、これは日蓮のみならず、およそ仏教と名の付く教えにはどこにでも見受けられるものです。日蓮が有名になったのは、法論において不敗であったからからではないでしょうか。

真言においても「理同事勝」と法華経を批判しておりますし、浄土系も法華経を下す「捨閉閣抛」と言う教えが存在します。
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釈尊の説かれた仏道修行(七科三十七道品)は、南伝仏教(上座部仏教)の「阿含経典」にのみ記されています。

それは、瞑想を中心とした修行です。

法華経を含む全ての大乗仏教経典は、インドの後の人々によって創作されたもので、釈尊がお説きになったものではありません。(これは、世界および日本の宗教学で検証済みのことで、日本の大乗仏教の信者に知らされていないだけのことです。)

中国天台宗、智顗の五時教判は誤っていたのです。

お釈迦様の教えに、例えば、縁起の法(縁起説)と、苦集滅道とがあります。
縁起の法は、因縁によって物事が生じ、因縁によって物事が存在し、因縁によって物事が滅し、因縁によって不存在であり続けるというものです。即ち、全ての物事は無常であり、常なるものはないということです。
釈尊は、人生は「苦」(不満、不安、不安定の意味を含む)であると悟り、その原因は苦の種を「集」めているからだと悟り、苦を「滅」すればよい悟り、それには「道」(修行方法)があると悟ったのです。その修行方法を実践することによって、仏陀になることを勧め指導されたのです。

釈尊の瞑想を中心とした修行をすることによって、物事が因縁によって展開し、輪廻転生することをありのままに観察できるようになり、自分勝手な欲によって考えたり行動したりすることがなくなり、従って、人生に苦がなくなります。その修行によって、さらに、高度の智慧が身に付き、人格が高くなり、霊性が高くなり、性格が改善され、それとともに運が改善されます。そうでなければ仏陀になれませんし、そうでなければ仏教ではありません。

また、阿含経典で、釈尊は、お坊さんといえども、七科三十七道品の修行をしなければ仏陀になれない、と説かれています。

釈尊が、お題目を唱えなさいとおっしゃたり、仏を神様のように信仰しなさいとおっしゃったり、仏に現世利益を祈願したりすることを勧めたわけがありませんし、それによって修行することなく因縁解脱できるとか仏陀になれるなどど説かれたわけがありません。


大乗仏教で、仏を神様のように信仰して、現世利益(世俗的な、金、地位、名誉、権力、支配力、政治力)を願うのは、大乗仏教が、多神教のヒンズー教の影響を受けたせいのようです。

「妙法蓮華経方便品 第二」に「・・・此の諸の仏子の為に 是の大乗経を説く 我是の如き人 来世に仏道を成ぜんと記す」とある通り、法華経は、現世成仏ではなく「来世成仏」です。
釈尊は、阿含経典で説かれているように、現世で仏陀になる修行をするように指導されたのです。
法華経に従って、現世は我慢して修行せず、来世に修行をするとしても、そのときは阿含経典に基づいて修行をするしかないのです。なぜなら、仏道修行の方法は、阿含経典にしか説かれていないからです。
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お久しぶりです。

まだ、閉めてないのですね。

>創価学会は仏教ではないのですね。

・もとより、創価学会は「日蓮正宗」の一つの信徒団体として、誕生いたしました。
「日蓮正宗」は、日蓮大聖人の御意思を継いだ宗教団体です。
で、日蓮大聖人は、釈尊の説いた仏道修行の実践を、中国天台、日本天台の中から検証し、実生活の中に展開された方です。それまで、秘されていた自行化他の「南無妙法蓮華経」の題目と本尊を顕しました。
間違いなく、仏法ですよ。

>仏陀(悟りを得たもの)の思想ではないと思います。

・逆にお聞きしたいのですが、釈尊の得た「思想」とは、どういったものだとお考えなのですか?
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質問者様は「日蓮宗の開祖である日蓮上人の教えの良さがさっぱり理解できません。

キリスト教世界の各宗派を調べた時は、それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒という認識にたどりつけたのですが、今回はどうも自信がありません。」とおっしゃりながら、「日蓮上人を肯定してください」、「どうか、日蓮上人を肯定していただけないでしょうか。」と質問されています。このような質問の仕方は普遍的真理を求める哲学を志向する場としては不適切なのではないでしょうか?
 従って、質問は「日蓮上人の教えである日蓮宗の正当性を議論してください」とすべきです。
 また、全ての宗教・宗派が「それぞれ良い所があり、反目しあっていてもお互いにもたらされる普遍的な救いは一緒」とお考えでしょうか? このことが正しいかどうかを吟味することなく、前提として無条件に受け入れてしまうことは、誤っています。日本の宗派仏教、鎌倉時代に開かれた日蓮宗は、その時代背景があって、登場し、民衆に支持されました。その時代背景は、現在の状況とは異なっています。民衆が置かれた政治的背景、経済的・知識・知的レベル、自由度も異なり、苦しみも異なっています。従って、当時の宗教のありかたが、現代でも通じるとは限りませんし、普遍性をもっているとは限りません。マックスウェーバーによれば、人々が何を正統と考えるかは、「合理性」、「伝統性」、「カリスマ性」のいずれかであると論じていますが、これを当てはめれば、現代における「日蓮宗」の正統性は、「伝統性」(昔から信仰されてきたから)または或る宗教団体の指導者の「カリスマ性」(その人のいうことは信用できるから)であろうかと思われます。

 「日蓮上人」個人についていいますと、日蓮宗の信者でない限り、「日蓮上人」個人や人格や欠点を議論することをあえて避けて肯定することを目的として議論することは、不適切と思われます。「日蓮上人」は、彼が仏教と信じたところのものを信仰し日蓮宗を開き布教した開祖です。一方、仏教は、仏陀になるための修行方法を説く宗教(成仏陀教)です。日蓮上人は、仏陀になるための修行を行ったわけではありませんから、仏陀になっていないと思われます(転生後は分かりませんが)。しかし、日蓮上人個人は、日蓮宗を開き布教し亡くなられるまでの上人の生きざまについて、思想的な意義はあると思います。

日蓮宗についていいますと、法華経に基づいて宗派を建てたわけですが、そもそも法華経は、仏陀の教えなどでなく、仏教の正典になりえないものです。「法華経」(原始仏教経典「阿含経」以外の大乗経典)を「仏陀の教え」として信じて信仰しているのは、日本だけではないでしょうか?(これを改めるために、日本の全ての仏教宗派は南伝仏教(上座部仏教)を取り入れるべきでしょう。) 従って、日蓮上人の仏教観に思想的意義を見出すことはできるでしょうが、教義的には仏教的意義はありません。

 質問者様は、少なくとも日蓮宗の合理性の欠如にうすうす気が付かれているのではないでしょうか? それでよいのではないのでしょうか? まして、日蓮宗ではお題目「南無妙法蓮華経」を唱えるわけですが、これを、英語の勉強にたとえますと、英語の教科書を仏陀の説いた「阿含経典」(仏陀になるための修行方法が書かれている)とすると、「お題目」は「英語」に熟達していない日本人が作った受験英語の参考書の題名を唱えるようなものです。しかも、その参考書(法華経)には英語の勉強の効能(仏教信仰の効能)だけが書かれているだけで、勉強すべき英語(仏陀になるための修行法)が書かれていないのです。従って、日蓮宗に仏教として修行・信仰するに足る「合理性」などありません。質問者様は、もはや日蓮宗を必要としていないということです。質問者様は、その点で日蓮上人を越えています。日蓮上人も、後の人々が自分を越えて進むことに、喜びを感じていると思います。

一方、日蓮上人の思想的意義ですが、日蓮上人を人間としてとらえた場合、他に救いの手が差しのべられなかった当時の貧しい民衆を命がけで救済しようとした日蓮上人の志には、大変すばらしく尊いものがあると思います。現代の人々は、自己の利益追求ばかりに心が向いて、宗教団体の信者も現世的ご利益(地位、名誉、金、権力)を求める傾向にあります。日蓮上人の自分の立身出世を省みず、貧しい人々を精神的に救いたいという純粋な思いこそ、現代人が最も見習うべき点であり、上人の最も尊敬すべき点であると思います。この日蓮上人の思いこそが当時の人々を救ったのであり、その思いが現在まで日蓮宗として存続しているのだと思います。
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限られたスペースで、難しい質問ですね(^^;



>『法華経』による現世での救いを説いたのはもっともな事のようにも
>思えるのですが、それにより他宗を徹底的に攻撃したことがひっかかり

どうでしょう簡単に考えれば..
仏教とは、仏の教えですよね。この教えを説いた仏とは釈迦(釈尊)ですね
当たり前のことですが..

私なんかは逆に疑問なんですが、阿弥陀佛、大日如来、薬師如来..etc
釈迦(釈尊)は、どこへ行ってしまったんだろう
釈迦(釈尊)を教主としない宗教は、仏教なのだろうか..

日本に伝来した仏教が多岐にわたり肥大化し、そこで..あれ?
何かおかしいぞと感じられたのではないでしょうか

「一閻浮提第一の本尊を此の国に立つべし。月支、震旦にも未だ
此の本尊ましまさず。日本国の上宮、四天王寺を建立せしに、
未だ時来らざれば、阿弥陀佗方を以て本尊と為す。
聖武天王、東大寺を建立せしも、華厳経の教主なり。
未だ法華経の実義を顕はさず。伝教大師は粗ぼ法華経の実義を顕示す。」
-如来滅後後五百歳始観心本尊鈔-

と..なっていくのでありますが..
何故? 他の仏ではダメなのかは、同じ観心本尊鈔にかかれています。

「其れ始め寂滅道場華蔵世界より、沙羅林に終るまで、五十余年の間、
華蔵、密厳、三変、四見等の三土、四土は、皆成劫の上無常の土に
変化する所の方便、実報、寂光、安養、浄瑠璃、密厳等なり。
能変の教主涅槃に入りたまへば、所変の諸仏も随つて滅尽す。
土も又以て是の如し。」

西方浄土、東方浄土、密厳世界...さてさて有相に実在するのは
この娑婆世界のみって感じでしょうか
より現実的なお考えだったと思います。

>日蓮系を名乗る極端な宗派が活動する事は、日蓮上人の是認される
>事なのでしょうか。

「業」なんですかね?
霊山浄土の日蓮上人が何とおっしゃるやら..
いやいや、因果のことわりですから
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。お時間を頂きました。

>日本に伝来した仏教が多岐にわたり肥大化し、そこで..あれ?
何かおかしいぞと感じられたのではないでしょうか。

●まさにその通りです。
でも、このように多宗に分かれたことこそ、仏教の仏教たるゆえんであると思うのです。
 崇めるのは人格神でなく、仏陀(悟りを得た人)の思想を、模索した道を辿るのであれば、修行僧の展開したさまざまな思想の数だけ教えがあるのもわかります。

『業』ならば避けられないことなのかもしれませんが、それでもなんとかうまくやれる道を模索したいと私は思います。

レベルの高い回答(難しかったです。)ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 20:50

#9ks5519です。



再度、回答させていただきます。

他宗教との共通認識という点ですが、、、

1.宗教で一番肝心なものに、『本尊』があります。
これは、「根本崇拝」していくものですが、日本の各宗派においては、全く違っています。
全てにおいて、この一点が歩み寄れない理由です。
日蓮大聖人も結局はこの一点で各宗派と戦われたのです。
宗教の「正」「邪」もこの一点なのです。

ですから、この一点だけは絶対に妥協出来ないのです。

その他は、貴方の仰る様に、他人の考え方の批判も、人間性の批判もしていないはずですよ。

またこれは、日蓮大聖人の時代も、創価学会創立以来、牧口初代会長、戸田第二代会長、池田名誉会長と受け継がれた、創価学会の根本的な意義だと思います。
「正しい本尊」に「お題目を唱える」から、一念が変わり、宿命転換できるのです。私どもの宗教の理念はこの一点だけだと思いますよ。

>『現代の日蓮様とその道を信じる方たちの正義の道とはどのようなものか?』
 日蓮大聖人のお心をそのままに、自他ともに「御本尊」を拝し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、絶対的幸福境涯を顕していくことでしょう。
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この回答へのお礼

●再度の回答ありがとうございます。
 お時間を頂いたこと、申し訳なくおもっています。

>日蓮大聖人のお心をそのままに、自他ともに「御本尊」を拝し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、絶対的幸福境涯を顕していくことでしょう。

●少しずつわかってきたように思います。
>自他ともに「御本尊」を拝し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、絶対的幸福境涯を顕していくこと
 これが、日蓮大聖人の道であるのか、私には判断できません。
是非がどうあれ、創価学会は仏教ではないのですね。
仏陀(悟りを得たもの)の思想ではないと思います。
それが悪いといっているのではありません。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/10 20:44

先日はご苦労さまでした。

(No.1580800の回答の件)。

>日蓮上人をたてている方からの回答がなく、困っています、、、
ということで、私の想える範囲で回答をしたいと思います。

まず、一つに当時(鎌倉時代)の日本の宗教の現況ですが、既存の宗派はもちろんのこと、これに加えて浄土、禅がブームになっていた。
日蓮大聖人は当時、12歳で稚児として天台宗「清澄寺」に登られ、16歳で得度されました。

その後、鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の経蔵より始まり、比叡山を中心に、京都・奈良・大阪と「釈尊の本当の教え」を求めて、一切経を学び清澄寺に帰ります。
そして、32歳の4月28日に「四箇の格言」により他宗の教義の誤りを破折されるとともに、民衆救済の根本法である「南無妙法蓮華経」を初めて叫ばれました。

この時より、国家及び人々の不幸の現況となる他宗の誤りを否定することにより、多くの念仏の信者であった権力者に迫害をうけます。これは、キチンとした教義を理解せずに念仏に傾倒した、無知なる権力者の横暴であるといえます。

本題の、「日蓮大聖人の肯定」ということですが。

1.宗教の「正」「邪」を極めた点。
 釈尊の説かれた仏教が当時(現在も)幾宗もの宗派に別れ、民衆を救えずにいる現状を嘆かれ、「真の仏教とは何か?」という自問を解決すべく、日本にある一切経の中から、宗教の「正」「邪」を極め、「南無妙法蓮華経」を流布した。

2.末法の衆生のために、「御本尊」を御図顕された点。
 佐渡流罪の最中、初めて御本尊を顕した。その後、「熱原の法難」の時(弘安二年十月十二日)出世の本懐として本門戒壇の御本尊を顕されたこと。

3.宗教の「正」「邪」に関しては、一点も妥協をされなかった点。
 数々の大難を一身に受けられた生涯の中で、一点も妥協されず、「南無妙法蓮華経」流布のため生きられた生涯であったこと。

4.国主諫暁と「立正安国論」。
 国の亡国を憂い、人々の幸福を願い、文応元年時の権力者である北条時頼にたいし、「立正安国論」をもって国主諫暁をした。

5.全てを言論戦で戦いぬいた。
 鎌倉幕府をはじめ、あらゆる迫害にも怯むことなく、言論戦だけで戦われた。権力の迫害の裏にも、日蓮大聖人の人格と実力に怯え、幕府を騙し、利用した邪宗の僧侶がいた。

※総評として。
 絶対的な正を持って、悪を挫き、ただ一人民衆救済の為に行動された日蓮大聖人のお姿は、正義の味方の頂点に君臨するものと確信いたします。

P.S:
 私は、専門的に「日蓮大聖人」を研究する学者ではない為、細部にわたり回答不備な点もあるかと思いますが、ご了承いただきたいと思います。
 

この回答への補足

●法華経はもとより、仏法と他宗教とで共通認識があると思われるところを補足します。

>3.宗教の「正」「邪」に関しては、一点も妥協をされなかった点。
> 数々の大難を一身に受けられた生涯の中で、一点も妥協されず、
>「南無>妙法蓮華経」流布のため生きられた生涯であったこと。

●他宗教を否定する際に、教義ゆえの極端な行動について批判することが多々見受けられます。たとえば、○○テロはイスラム原理主義の過激派によるものだ。だからイスラムはダメだ…というような批判です。
相対的に、他宗を受け入れる寛容さをもっている日本の『ご都合主義』的な思想は平和的だ…というような論法も見られます。

私が提示している疑問は、日蓮様を立てている方に、波風が立たない『ご都合主義になれ』といっているのではありません。

★つまり法華経の理念を達成する為に歩みよるという事です。

キリスト教世界の言葉を借りて説明します。
『始めにロゴス(言葉)があった。 ロゴスは神とともにあった。ロゴスは神であった。』
 これは、ヨハネの福音書の冒頭の部分ですが、ロゴスというギリシャ語は宇宙を貫く秩序・法則というような意味があります。(カオスと相対的な意味で捉えてよいと思います。)

ロゴスは、法華経の思想と相容れないものでしょうか?
宇宙を貫く真理に沿った道とは、現代においてはどのような道なのでしょうか?

補足日時:2005/08/18 23:35
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この回答へのお礼

時間を頂きました。回答ありがとうございます。
日蓮様(私はこう表記したいと思います。)を信じる言葉に自信と、確信が満ちていて読んでいる私にも力が湧いて来るようです。
 『日蓮様の生き様は正義の味方の頂点に君臨するものである。』という見解に私も賛成します。信仰に硬く立って世の為に法華経を流布した生き様は誰にも否定できないものであると私も思います。
 そして、日蓮様が生きていた時代の正義は絶対的なものであり、相対的に他宗は邪宗であり、戦って(勿論言論によって)切り開いていったのも頷けます。

では、
●『現代の日蓮様とその道を信じる方たちの正義の道とはどのようなものか?』というのが何度もお礼で提示した疑問です。
現代という時代に法華経の理を具現する為には、マクロな視点で他宗と共に歩む事が必要なのではないかということです。

●たとえば、宇宙体験により排他的なクリスチャンであるにもかかわらず他宗を認めてしまったジーン・サーナンという人がいます。(彼はカトリック)
『(宇宙体験で変わったのは)・・・神の認識の存在だ。神の名は宗教によって違う。キリスト教・イスラム教・仏教・神道、みな違う名を神にあてている。しかし、その名前がどうあれ、それが指し示している、
「ある同一の至高の存在」がある。「それ」が存在するということだ。
宗教はすべて人間が作った。だから神に違う名がつけられた。名前は違うが、対象は同じなのだ。
 宇宙から地球を見るとき、そのあまりの美しさに・・・こんな美しいものが、偶然の産物として生まれる筈がない。
ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。・・・』
「宇宙からの帰還」(中公文庫)立花隆著PP265抜粋

●あるいは、戸田城聖第二会長の言にあるように、『大きい慈愛の心で語り合い、譲り合い、尊重し合っていくであろう。そして根本的目的である人類の恒久の幸福に向かって、戦争・暴力・紛争を断じて食い止めようと、ともに手を携えて立ち上がっていくことだろう。』

という事を具体的に出来ないかということです。
正直な意見をお聞かせ下さい。

お礼日時:2005/08/18 23:30

ちょっとまた違ったところでおじゃまです。


日蓮は戦い、勇気、奇跡、などを通じて仏法流布の使命を全うした方です。
天使や菩薩も長年の経験による魂の傾向性があり日蓮は(上記特色)を
役割として下生された方であります。
発する光の色が赤色光線なんです。(たとえです)
スケールはやや違うかもしれませんが、モーゼ様的な役割と言ったら
わかりやすいでしょうか。または、旧約のエリヤ的、な存在といっていいでしょうか。
戦う魂なのです。義を重んじ、貫く魂なのですね。宗教の中に
このような個性を持つ方が出て、教えに彩りを添えていく、のでしょう。
ちなみに仏陀は智慧と慈悲の光線、教えの光線は黄色光線、
イエス様は愛と救いの白色光線、正義、法戦の赤色光線、
ソクラテス様は智の青色光線、孔子様は秩序の紫光線、老子は自然の
緑光線、ニュートンは科学の銀色光線、
七色の教えがこの地球を虹色に輝かせているのです。
(たとえばっかですいませんでした)

この回答への補足

★★やってしまいました。

回答9に対する補足の聖句
 ×始めにロゴス(言葉)があった。
 
 ○初めにロゴス(言葉)があった。

聖句を間違えると、さすがに反省します。(^^;

補足日時:2005/08/18 23:52
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この回答へのお礼

続いての回答に感謝します。

hwさんはキリスト教世界になぞらえて分かり易く解説していただけるので助かります。モーゼと同じ赤色というのは、私にはこれ以上ないわかりやすさです。

>七色の教えがこの地球を虹色に輝かせているのです。

◆虹色は、7色集まってこそ虹色になりますね。
そして、降り注ぐ太陽の光も虹色のスペクトルの集積ですね。

様々な思想がより集まって、地球を輝かせるものであれば、これ以上の祝福はないですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/14 17:02

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