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 よろしくお願いします。
日本で教えられている仏教についてですが、
供養をされていないために、仏(亡くなった人)が、生きている人に「祟る」や、
「わざわいをなす」とされる考え方は、日本仏教各派にみられるのでしょうか?
仏教についてまったく非常識な質問かもしれませんが、
よろしくお教えください。
宗派もお書き添えください。
なお、失礼とは思いますが、日本の伝統仏教にあたらない、新興仏教に基づく
回答は、私の求めるところではありませんので、ご遠慮ください。

A 回答 (6件)

http://www.enmanji.com/index.html
高野山真言宗 水子供養と「たたり」について。
水子の祟りは絶対にないそうです。

http://shofukuji.net/1QA.htm
臨済宗妙心寺派 祟りはないそうです。

http://www.posteios.com/PROJ_C_HD.htm
浄土真宗本願寺派 祟りはないそうです。

http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/manner2.htm
浄土真宗 本願寺派
故人を怪しげな魔物(霊)と捉えるのは、愚者の誤った行為だそうです。

http://www.ocv.ne.jp/~enkouji/index.htm
浄土宗西山禪林寺派
仏教説話の「六道」のところに「たたり」「ばち」は無いとあります。
「お盆」のところに、日本人の先祖崇拝について触れられています。

http://namunamu.at.webry.info/200502/article_2.h …
真宗大谷派 たたりは無いそうです。

http://www.daihoji.jp/new/daihouji/
浄土宗 仏教のワンポイントアドバイスの8番
先祖のたたりは無いそうです。

http://www.hpmix.com/home/junsan/C7_1.htm
浄土宗 仏教は祟りを説く宗教ではないそうです。

浄土系は「霊」の否定に熱心なようです。
その他、特定の宗派によらない仏教解説のページも多くありましたが、先祖の祟りは否定の方向です。
仏教で、はっきり、先祖の祟りがあると教える宗派はあるのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答のうえに、丁寧に各サイトを教えてくださり、ありがとうございました。
仏教に明るくありませんので、どこに信頼できるサイトがあるかもわからず、
質問をいたしましたが、ご回答をいただきありがとうございました。

お礼日時:2005/08/14 12:09

先祖の供養というのは昔の中国の影響です。


似たもので「死体のしかるべき処理」ってのもあります。衛生面を考えて焼却処理という世界的にはめずらしいことが日本では普通に行われています。しかるべき処理をされない死体は見た目たたりそうですね。
祟りの悩みを扱う役所はありませんので、お寺や神社が仕方なしにやっているんでしょう。なので、積極的に祟りを営業しているとことは怪しいですね。
仏教は悟りもしくは悟りを得た人への帰依ですから、悟りを得た人もその人に帰依する人も祟りは受けません。祟りを受けたと相談にくる人は帰依していないからという理屈は、理屈です。この理屈を利用して営業していて、その営業が下手な場合は社会問題になってしまいます。
祟りの相談を受け付けているお寺に行って、それなりの喜捨をすれば、本人の迷いはある程度晴れるでしょう。仏教では、祟りは本人の心の迷いですから、本人が迷わなくなれば祟りはなくなります。でも、そんな事と帰依は違いますから、仏教が救うのではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/17 09:13

仏教での因果応報という教えは、「因果の主体は個人で、個人の行った業(ごう)がその個人の報を生むということですね。

」中国の高僧、慧遠(えんとう)は明確にその著書に転生輪廻の過程、過去・現在・未来は個人の行いで決まるということが三世(過去・現在・未来)応報というものですと説いていますね。この書は日本にもたらされていますので仏教系には、災いやたたりという考えは無いのです。一方、中国の道教の一部がこの因果応報説を取り込んで、家単位の因果に転化して、いわゆる「親の因果が子にめぐる」因果応報説にしてしまったのですね。先祖供養という行事自体はインドの釈迦仏教には無く、中国で独自にはやったものですね。日本で、道教が密教の一部に入ったということではないかなと考えますね。
参照:慧遠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E9%81%A0
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/08/17 09:12

こんにちは。



 すでに、とても丁寧なご回答が挙がっていますが、少しだけ、気がついたところを記してみます。

 仏教と日本の祖霊観との習合、御霊信仰や怨霊への恐れといった点は、すでにご回答に挙がっている通りで、とても簡潔にまとめられていると思います。

 もう一点、挙げることができるとすれば、仏教の持つ「輪廻」「縁起」「因果応報」の教義が、日本では曲解されてしまい、「祟り」「因縁」(←日本的なイメージの「因縁」です。)「前世の悪による災い」を補強する役目をしてしまった、という点だと思いました。

 仏教は、物事に変わりない本体はない、と説きます。これが諸行無常とよばれるもので、人の「自我」も「変わりない本体」ではないとしています。ですから、仏教の「輪廻」は、人の魂(=自我)が死後も残って、それが違う肉体を得たり違う世界へ移ったりするような形を想定していません。
 仏教の輪廻は、あらゆる物事が相互に関連・依存しながら生滅を繰り返す姿を指し、それを「縁起」とも「因縁」とも呼びます。
 因果応報は良い原因が良い結果を招き、悪い原因が悪い結果を招く(善因善果・悪因悪果)という縁起と関連した考え方ですが、仏教は本来徹底した「自業自得」として捉えており、「親の因果が子に報いる」というような考え方をしませんでした。
 同様に「前世の因縁の良し悪し」や「縁起の良し悪し」などは仏教的な考えに見えて、実はそうではないといえます。

 他の方のご回答にあるように、日本の伝統的な観念と習合したわけですね。仏教の側も、外来宗教である仏教が日本で根付くために、ある程度そういう習合を黙認していた、(積極的に習合を止めようとはしなかった?)という側面があるかもしれませんね。

 まとまりない回答ですみません。では。

 
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/08/17 09:11

 こんにちは。



 仏教の教義のなかには、ないでしょう。No.1さんがいろいろ調べてくださったように。
 でも、お寺へ行けば、水子の供養もしてるし、小さいお地蔵さんがたくさん並んでたりしますね。
 なぜか?!

 どんな宗教でも、ある国(というか文化圏)に根付くためには、その文化圏に、もともとあった土着の民間信仰と“妥協”する必要があります。

 で、日本(を含む東アジアから東南アジア地域)の、主として農耕民族では、「祖先崇拝」という信仰がほぼ普遍的に見られます。
 単純にいえば、「祖先は亡くなれば、霊になる。祖先の霊を大事に祭れば、恵みを与えてくれるし、疎かにすれば、禍をなす」という信仰です。
 これが発達・変形して「御霊信仰」というのが生まれます。
 これは、「祖先」に限らず、関係ある人の「霊」、もっといえば、世を恨んで死んだ人の霊は、きちんと祭ってやらなければ、一般人にも禍をなす、という信仰です。
 いちばん有名なのは、菅原道真ですね。
 平安時代、政争にやぶれて、九州に流され、そのままそこで亡くなった彼の霊は、その後、雷神となって、宮中で暴れまわり、その政争に関係した人を殺してゆきます。そこで政府は、彼の霊に新たな位を与え、鎮まってくれるように祭祀を繰り返し、神社をたてます。天神さまですね。
 それでなんとか彼の霊は鎮まるのですが、上記の「祭れば利益を与えてくれる」という信仰があったので、学者であった彼は、今度は、「学問の守り神」のイメージを与えられることになります。
 で、今に到るまで、天神さんに受験生のお参りが絶えない、ということになるわけです。

 さて、こんな信仰を、仏教でも無視できませんでした。教義をいくら説いても、「で、仏さまって、何をしてくれるの?」という人々の問いに応えなければ、駄目だったんですね。
 それでやむなく(あるいは積極的に)、死んだ人の供養をやりましょう、祖先を大事に祭ります、ということになったわけです。
 もちろんその間も、仏教は仏教としての教義を保っていたし、民間信仰の一部は「神道」というかたちで教義を持っていくわけですが、一般の動向はそれとは関係なく、両方が混ざったままになります。
 こうしたながれは、江戸時代に、キリスト教制圧の目的から、だれもが、どれかの仏教の宗派に属さなくてはならない、という政策がとられたことによって、決定的になります。先祖の供養も、怨霊の鎮魂も、すべて坊さんがすることになったんです。
 じつはこれも、建前で、事実は、民間信仰の宗教者たちが、かなり活躍してはいたんですが。例えば、火事防止の神さまの秋葉神(東京の秋葉原に、その名が残ってますね)、恐山の巫女、四国・中国のいざなぎ流、沖縄のユタなどです。でも、一応、宗教活動では、仏教が主導的地位を占めたわけです(沖縄は江戸時代、外国ですね、すみません。でも奄美は薩摩領でした)。
 明治になって「神仏分離令」―神様と仏様をきちんと分けるように―という政策が採られても、永年やってきたことを、そうそうすぐに改められるものでもない。で、今に到っているわけです。

 余談ですが、ヨーロッパのキリスト教にも同じようなことがあります。イースター(万霊節)です。これも祖先の魂が戻ってくるというお祭りで、かぼちゃをかぶって祖先の霊に扮装した子どもに、大人がお菓子を与えますね。で喜んで帰ってゆく、まあ鎮魂の行事です。これがキリスト教の行事になってます。
 でも、本当のキリスト教の教義は、ご存知のように、世界の終わりに、すべての霊が復活して、それぞれ裁きを受ける(最後の審判)というものですよね。その前にこんなふうに復活しちゃ本当はおかしいんです。でも、しょうがない。日本とおなじような事情があったんでしょう。

 つまり、日本の仏教は、教義と行ないが乖離しているんです。それは、もともと「哲学」であった仏教が、「宗教」として生きるために採らなきゃいけない苦肉の策だったといえるでしょう。

 長くなりましたが、これでもかなり大雑把な説明です。こういう民間信仰は、ご存知でしょうが、民俗学という学問が扱っています。参考文献などは、非常に多いので、挙げきれません。ご興味がおありなら、学校の先生や、図書館の司書の方に聞いてみるといいと思います。

 以上、ご参考になれば。乱文陳謝。 
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
うーん、参考になりました。

お礼日時:2005/08/15 17:22

不幸な死に方をした人が祟るというのは、怨霊信仰と言い、神道の考え方です。

日本の仏教は中世に神道と混交し、神道の考え方が入り込みました。
明治になり、廃仏毀釈で仏教と神道は分離されましたが、民間に広まった仏教信仰は神仏混交のままなので、怨霊信仰の影響が残っているのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
そうですね、位牌に「霊」の文字は使われていますが、
経文には「霊」という文字は見当たらないことからも、
うなずけます。

お礼日時:2005/08/15 17:19

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