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 行動にしろ、服装にしろ、他人の目って気になりませんか?
田舎のせいか、親や祖父母には「そんなことをしたら笑われますよ」と
よく言われ、育てられた気がします。こんな不自由さに苦しんでいるのは、
土地がらの問題なのでしょうか?
 都市などの人口密度が高いところでは、「世間体」は気になりませんか?
また、世間体って何でしょうか?みなさんはどんな「他人の目」を気にしますか?

A 回答 (9件)

全く気にならないといたら嘘ですけど、本当に気になるのは親しい、自分が敬意を払っている人間の目だけかなぁ。



田舎の方に行くと、良くそう言う言い回し、されるようですね。だからといって、その周りの目に遭わせた選択をしたからと行って、いざ有事の時にその「周りの人」とやらは、なーんにもしないんでしょ?きっと。無責任な話。そんな自分に関係ない人の目を気にして何かを選択するなんて、私はまっぴらですね。

要は自分のすることや選択が、そう言う人たちが何か行ってきたときにキッチリ反論できる物で有れば良いのではないですか?自分に自信をもつということですね。

「みんなこうしてるのに、なぜあなただけ・・・?」なんて理不尽なこと、言われそうですよねー。でもそう言うときには、じゃぁどうしてそれ以外の選択をしては行けないのか、私の権利はどうなっているのか、その選択によって起こったことに対してどういう責任を負うつもりなのかって聞いたら、ろくな回答返ってこないと思いますよ。

土地柄、で避けられないかも知れませんが、立ち向かうかどうかはあなた次第。自分に誇りと自信をもって!
所で余談ですが、某電話のサービスで、「私は○○を使ってます」「私も○○をつかってます」「えぇぇ!あなたってまだ○○に入ってないのぉ?!」と、多勢に入らない人間を非難するような台詞を連呼するCMがあるんですが・・・・サイアクですね、ああいうのって。みんなとおなじじゃないと、正しくない、みたいな考えを持ちがちな日本人の弱みにつけ込んだ、すっごくいやらしい宣伝だと思います。
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この回答へのお礼

<そんな自分に関係ない人の目を気にして何かを選択するなんて、私はまっぴらですね。>
 「関係ない人」??。おおいに関係あります。隣近所に住んでいるし、助け合っている面もあります。だからこそ、「世間体」を気にするんです。いくら自分に自身があって、誇りがあって、自分が正しいと思うことをしていても、仲間はずれになることは、さびしいことだと感じませんか?田舎のように流動性がない社会では、非常に気を使うものです。
 高校生のときは、周りに合わせることが嫌いで、自分の思うように行動してきた気がします。しかし、ギブアンドテイクの人間関係のあるところでは、なかなかそううまくはいかないことに気づきました。

 自信を持て・・・他人の目ってこのことだけで片づけられるのでしょうか?
<じゃぁどうしてそれ以外の選択をしては行けないのか、私の権利はどうなっているのか、その選択によって起こったことに対してどういう責任を負うつもりなの>
こういったところで価値観の違いは乗り越えられるのでしょうか?

「他人の目を気にする=自分がない」とは、一概に言えない気がします。

<立ち向かうかどうかはあなた次第。>
立ち向かわなくてはいけないのかなぁ~?

私が教えてほしかったのは、私がどうすべきかということではなくて、
「都会では、どんな世間体が気になるのか?」というその種類だったのです。

お礼日時:2001/11/07 14:26

 地方出身、都会在住10+ン年目という者です。



 他人の目を気にしろ、というしつけ方にはウチの母は反対派だったので、わたしはあまり言われた記憶がありません。
 むしろ自己主張の仕方を徹底して幼い頃から叩き込まれていたような……(^^;
 でも、周囲には「**ちゃんはできるのに、どうしてアナタにできないの?」みたいに比較文句で教育された人は多かったですね。

 都会の生活は、お互いに「下手に干渉したらヤブヘビ」みたいなところがあるので、つきあいの程度も相手にあわせて距離をとっています。だから比較するほどには相手を知らないことが多いです。
 それと、「笑われる」……恥の文化とは言いますが、わたしはウケ狙いにはいって「笑ってもらう」のが好きですね。。

 別に、しつけられなくても笑われる恥ずかしさはわたしにもありました。
 でも、ウケをとる方に発想転換するようになってからは、かなり自由な気分です。転換期には葛藤もありましたけど。
 今は恥ずかしい思いをしたことは自分から暴露して、笑い話のネタにしています。

 世間体を気にするのって、ブランド志向に似てるな~ってわたしは思います。
 別にノーブランドでも、良い物はOK!てわたしは思うし、自分についても自分の個性を貫くほうが気持ちがいいので、半ば楽しんで他人の視線を浴びまくってます。

 思えば、昔から地元を離れるつもりだったし、都会に来てもいまだ終の住処を定めたわけでなし、どこか浮き草暮しのようなところがあります。だからいつも「自分はヨソ者」として開き直っていられるのかもしれません。生涯のつきあいでない人に何を言われても、どうせすぐおサラバだと思えばいいのですから。。
 まぁ通りすがりの他人なら、善行も悪行もその場限りの視線ですが、できれば善行で見てもらえるとうれしいな、とは思います。

 こんな回答ですが、ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

<別に、しつけられなくても笑われる恥ずかしさはわたしにもありました。 でも、ウケをとる方に発想転換するようになってからは、かなり自由な気分です。>
 
 状況によってだと思います。例えば、みんなでラーメン屋へ行き、みんなはラーメンを食べているのに、ひとりソフトクリームを食べていれば、ウケとして成り立つでしょうが、vitamin-powerさんも言うように、葬式にピンクのスーツでも来ていこうものならシャレになりません。極端すぎる例かもしれませんが・・・。

 世間体を(ルールやマナーなども含めて)気にせず、<自分の個性を貫くほうが気持ちがいい>ことを優先するのは、時と場合によるものだと思います。

<世間体を気にすることは、ブランド志向と似ている>ものなのでしょうか?

<昔から地元を離れるつもりだった>とありますが、もし、長く留まるのであれば
世間体を気にしていたかもしれないのでしょうか?

<生涯のつきあいでない人に何を言われても、どうせすぐおサラバだと思えば>
やはり、流動性のある社会(とりわけ都会)でならば、世間体を気にする度合いは軽いのかもしれませんね。とても、参考になりました。ありがとうございます。
 

お礼日時:2001/11/07 14:52

 しかし「他人の目」といっても、無責任きわまりないものです。

もしあんたがこれらの人々の言うことに従ったとしても、これらの人々があなたに対して幸せになる道を教えてくれるわけではありません。
 「他人の目」「世間体」といっても、周囲の人々はそれほど深い意味で批判しているわけではなく、あなたの”思いすごし”の部分が多いのではないでしょうか。
 親御さんなら、あなたをご心配されてのことかもしれませんが、「孝養」を怠らず、邁進する姿をご覧になれば分かって貰えることもあるでしょう。要は、信念があるかどうかです。

 愚生は、ある信仰をさせて戴いております。当初は、一時心ない人から「奇異な目」で見られることがありますが、とり越し苦労や弱気を振り払い、勇気をもって、正々堂々と人生の大道を歩んでいます。
 如何ですか?
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まったく気にならないといったらうそになります。


でも、気になりません。
皆が自分のことをどんな風に思っているのかというのは気になります。
気になるというより、どう見られてるのかなぁ。って思う程度。
そして、どう思われているかわかったら、ふーんっていうかんじかな。
自分の信念があれば不思議と他人の目って気にならないです。
そして堂々としていると不思議と周りはそれに飲み込まれるかのように何も言わなくなるものですよ。
ちなみに私は都会人ではないです。
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「歌舞伎」は、江戸時代初期に[傾く:カブク]と言う[異様で人目につく風俗をする]から来ていますが、目立ちたがり屋がいる


一方で、このような「派手」で「異様」な身なりを快く思わない人はいつの世にもいます。

たまたま2001kirinさんは「田舎」とお書きになりましたが、日本の戦後史を考えても「太陽族:石原慎太郎著」と石原裕次郎が
出てくるまでは皆さん、他人の目を気にした「おとなしい」「個性的でない」身なりをしていたものです。

現代でも[日本]の官庁、銀行など金融機関に勤める方たちは[ドブネズミ族]と馬鹿にされながらも[グレー][紺]と言う地味な
スタイルで、一人だけ目立つことはさけ他人に埋没するように心掛けていて、これは[田舎]のせいではありません。

これは単に自由な精神に欠けているだけの事であまり褒められた事ではないのですが、日本人が[右へならえ]が好きなだけで
自由なつもりの私も時として、新しい「茶髪」「顔黒」など出れば【?】となるのは否定しません。

しかし年をとっても私は他人の目を気にせず、常に新しいモノを求めていきたい気持ちは十分持っております。

東京に限らずある程度の大都会は、人と同じように見られるのを極端に嫌う自由闊達な人種には住みやすく、また新しい価値観を
創造するような人間にとっては、周囲にあるもの全てが刺激の相乗効果として新しい価値を産む原動力となるのです。

彼らにとって[好ましい世間体]とは[他人の目]を惹き付けることであり、あたかも[モデル]が[他人の目]を意識して美しくなる
ように振舞うのと同様に、彼らにとっては[他人の目]こそが[自信]につながって行くものなのです。

もし常に個性的であるのが一番だと考えて生きていくならば[日本流行色協会]が決めるアテガイブチの没個性的なファッションは
避けるべきですが、皆さん同じものを着だすのは[自分の個性]に自信がない証拠で、褒められたことではありません。。。
同様にバッグなども[ルイ・ヴュトン]で「右へ習え」で右へ倣ってしまうのは自己否定と云うことでしょう。

では現実の生活でそんな事が出来るのだろうか...今こそこのストレスのたまる時代だからこそ、普段規則づくめの生活を
強いられている方たちこそ、休日くらいのびのびと自分の好きな格好で邪魔される事なく生活する習慣を身につけたいものです。
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他人の目を気にする、というスタンスですと、人の目が気になって自分のやりたい事ができない、といった不自由さにスポットが当たる気がしますが、一方では社会のマナー、常識、といった側面もあると思います。

親が子を「人から笑われる」と諭す場合には、こういう社会ルールや礼儀の教育の意味合いが強かったのではないかと思います。

礼儀やマナーをどうとらえるか、というのはこのサイトでも何度か話題になっておりました。親から「人様に笑われるような事はするな」と育てられた世代と、「人に迷惑をかけなければマナーなどナンセンス」というドライな考え方の世代とのギャップが顕著でした。

「人前」であることで、ある世代が当然慎むべきと考える行為・言動を、別のある世代は実害はないではないか、個人の自由だろう、という態度で納得しません。

「はしたない」とか「みっともない」ということが、本人がそういう批判に甘んじて構わないと思うのであれば誰がとやかく言うべきものではない、という考えと、そういう事は社会全体が協力してただしていくべきだ、という考えがあるように思います。

価値観や社会ルールというのは絶対的なものではなく、時の流れとともに変化流転していくものであるとは思いますが、いわゆる公共の場(このサイトもそのひとつだと思います)では普遍的な常識、マナーが確立されている事の方が好ましい、と私は思います。

個々のルールについては個性の数だけ価値判断があると思いますが、たとえ形式主義的に思えたり無意味に思えたりすることでも甘受すべきだと思います。
そういうことにはやはり理由があるのであり、その理由を知らないからこそ評価出来ないのだと思います。たとえばマナーということには、誰もが不愉快を感じない最大公約数的な意味合いがあると思います。すべてを検証して自分で思い知るまでは、そんなマナーは無視する、という態度では、心ならずも他人を不愉快にしてしまう行為を繰り返す事にもなりかねないという事です。

ただ、個性を押し殺せ、ということと直結してしまっては良くないですよね。
自己主張して良いところ、控えるべきところ、そういう区別をきちんとつけていけば、世代間のギャップもあまりギクシャクせずに済むと思います。

服装や頭髪については、街中はそのお披露目のステージなのでしょうからかなりとんがったスタイルでも許容範囲です。ただ、それが私のポリシーだから、といって、そのスタイルのままで身内の葬式などに来られたら、多分私は「この非常識野郎!!」と激怒すると思います。極端な例でしたが、他人の目や世間体って、そういう常識のモノサシなのではないでしょうか。
そういうTPOの判断がおかしい、と感じた時、他人の目は「白い目」になり、そういう子を持った親は「世間体が悪い」事になると思います。

ちなみに私自身は、服装や髪の毛、突飛な行動などで自己主張したいという時期はとうに過ぎ去り、今はどちらかというと「普通」であるように気にかけています。他人の目や世間体は、自分がその場での常識やマナーに自信がない時に大いに気になります。チラチラと他の人の行動を盗み見ては「普通に」振舞おうと苦心しております。
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この回答へのお礼

 丁寧な回答ありがとうございました。世間体は、束縛による不自由さというマイナスのイメージばかり見られがちですが、ルールやマナーなどの点においては、まなざし(世間体)にとらわれるという状況の過程の中で、つよい自己規制を働かせるというプラスの方向に働いていると私も思います。
 実際、殺人や強盗の検挙人員人口は、諸外国に比べて日本は断然低いです。これは「世間体」による自己規制も関係しているのではないかと私は思います。
 
 <TPOの判断がおかしい、と感じた時、他人の目は「白い目」になり、そういう子を持った親は「世間体が悪い」事になると思います。>

ということですが、田舎ではTPOよりもっと細かい点を(学校の成績など)、気にしなければ、「白い目」を向けられてしまうように感じます。

 また、<自己主張して良いところ、控えるべきところ、そういう区別をきちんとつけていけば、世代間のギャップもあまりギクシャクせずに済むと思います。>

田舎と都会の比較のほかに、世代間にもギャップがあることも忘れてはならない点ですね。私が感じるのは、「自己主張してよいところ」と「控えるべきところ」の区別にすら、世代間のギャップがあるということです。その価値の違い生じているから、互いに理解できないでいると思います。

<「普通に」振舞おうと苦心しております。>
そうですね。「浮かない」ためにも、「村八分」のようにならないためにも、気を使うのは大変なことですね。

お礼日時:2001/11/07 13:18

ある本に書いてあったことを思い出します。

受け売りで書き込みます。

実は、いまだに、日本には、『社会』という概念は理解できていないらしいのです。もっと言うと、「市民」という、ヨーロッパでは自然に発生した、社会意識を、日本人は持たなかったというのです。

日本人が、『社会』だと思い込んでいるものの正体、それこそが、「世間」である、というのです。

「社会で通用する人」「社会に出て、恥ずかしくない」、「こういう社会では…」、なるほど、私たちが、社会、といっている言葉を、世間、という言葉に置き換えると、非常に納得いきます。私たちの考える、公(おおやけ)の感覚。それこそが、世間体です。

私ども日本人にとっては、世間を意識しない行動とは、すなわち、いわゆる社会姓を持たない行動であり、人間としての存在価値さえも否定されるぐらいのことであるのです。だから、みんな、世間体を保つために、涙ぐましい努力をしてきたのでしょう。仲間から外される怖さを知っているから。

でも、本当の社会性って、ちょっと違うのでは?今、私たちの新しい世代は、そこを考え始めているといえます。

しかし相変わらず今でも日本は、世間体の支配する世界。茶髪がはやれば全員髪の毛を染め、携帯電話でメールをやり取りしなければ、人間にあらず、という風潮を作り出し、寒くて耐えられないのに仕方なく、超ミニのスカートをはいて通学する高校生の皆さん…この子たちが次の世代の、『社会人』を目指すだなんて。

日本は、江戸時代レベルの倫理観、社会意識に逆戻りしそうです。

あ、私ですか。いやいや偉そうなことはいえません。おそらく無意識レベルでは、相当人目を気にしているはず。でもそれはだいじなことですから。人目が気にならなくなったら人間怖いものはなくなります。それは同時に、全ての人を侮辱していることをも意味します。
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地獄とは他者のことだ、というのはフランスの哲学者サルトルの言葉です。

自分だけの世界から、他者のいる世界に生まれ出る、それが地獄だ、というのです。ご質問の趣旨より抽象的ではありますが、他者の目、というのが人間社会の問題の基本ではありますね。
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 No.2回答の者です。

お返事ありがとうございました。ご質問いただいたので、追加回答です。

> 世間体を(ルールやマナーなども含めて)気にせず、<自分の個性を貫くほうが気持ちがいい>ことを優先するのは、時と場合によるものだと思います。
 それは同感ですね。
 でも、世間体だけが価値基準ではないのに、世間体を第一に考えているがために、他の基準をお忘れではありませんか?
 お葬式でピンクのスーツを着たら? 世間が何と言うかを気にするよりも、わたしは故人を弔うのにそれで気持ちを込められるのか、そしてお葬式をなさってる遺族の方々がどういうお気持ちになられるかなどを考えます。
 周囲がどう見るか、ではなく、誰のために何のためにそれをするのか、です。

> <昔から地元を離れるつもりだった>とありますが、もし、長く留まるのであれば
> 世間体を気にしていたかもしれないのでしょうか?
 正直、鬱陶しいというのはありましたね。本来の目的を失ってまでの必要以上の押しつけはまっぴらです。
 その押し付けられた納得のいかないルールに自分が従って、それを誰かに押し付ける側になるのはもっといやです。
 いじめられるのが恐いから首謀者に従ってひとりの子をいじめる……わたしもわたしの家族もそれくらいなら別路線を行く、という方針でしたし。(そういう独自路線の人は大勢ではないにせよ、他にもいました。)
 処世術という点では評価しますが、そればかりが先行してしまうのは、わたしはどうも納得いきません。

 既に申し上げたように、ノーブランドでも「良いモノならOK」だし、ブランド物でも自分で納得いくモノならOKと思います。
 でも好きなブランドでも気に入らないモノはありますし、価格に見合わない気がすることもあります。
 ご自分で納得がいかないことで、世間体のためだけに行動していれば、それは不自由に苦しまれても無理もないと言いたかったのです。
 たとえば勉強は世間のためにするのですか? 本人の頭脳を養うためでなく? 近所にいましたよ、親が自分のメンツのために勉強させようとうるさいってトコ。わたしはそれこそ価値基準の優先順位が入れ代わってるなって思いました。

 お葬式の例で思いましたが、失礼ながら世間からはみ出すことを恐れるあまりに、他の大事なことを少しおろそかに思われてませんか?
 ちょっと世間体を後回しにして、本来の目的のためだと思ってやれば、結果的に同じことをしていてもそれほど不自由とは感じられないのかもしれませんよ。
 ゴミのポイ捨てをしないのは、他人が見てるからですか? わたしはその場所がきれいであってほしいからです。
 同じように自分を縛るのであっても、他人の目という鎖ではなく自由意志という鎖の方がわたしは好きですね。
 
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