プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

以下の例文Aと例文Bは、ある小説の書き出しの部分と考えてください。[は]と[が]の使い方として、例文Aは問題ないと思いますが、例文Bはおかしいと思います。しかし、何故おかしいのかうまく説明できず、気持ち悪いです。うまい説明があったら教えてください。

<例文A>
吉田太郎[は]、佐賀県に生まれた。
6歳まで何不自由なく子供時代を楽しんだ。
状況が一変したのは、太郎[が]中学に入ってからだ。

<例文B>
吉田太郎[が]佐賀県に生まれた。
6歳まで何不自由なく子供時代を楽しんだ。
状況が一変したのは、太郎[は]中学に入ってからだ。

A 回答 (31件中1~10件)

助詞「は」は、主格を表す格助詞、「が」は、従属各を表す格助詞だと思いました。



英語の関係代名詞の関係を、関係詞ではなく、助詞で表すのが「が」だと思います。

私{は}、彼{が}、[学校へ行くのを]見た。

の場合は、(私は、見た。)が主文で、(彼が、学校へ行くのを)が、(見た)の目的語になります。

また、
彼女が、電車に乗るのを見た。

の場合、主格の主語(私は)が省略されているとみるべきでしょう。

>吉田太郎[が]佐賀県に生まれた。
の場合、主格が無くて、従属格のみですから、おかしく、
>状況が一変したのは、太郎[は]中学に入ってからだ
の場合、主格が並んでしまっているので、おかしいのだと思います。

この回答への補足

英語の関係代名詞と比較した考え方は面白いですね。ご回答の説明に基づいて考えて見ましたが、どうもうまく説明できない例が出てきてしまいます。

例えば、例文Cでは、「主格が無くて、従属格のみ」でもおかしくないし(1行目)、「主格が並んでしまってい」てもおかしくない(3行目)ように思います。逆に、例文Dのように、「は」と「が」を入れ替えると、却っておかしくなってしまいます。どうしてなのでしょうか?

<例文C>
佐賀県に吉田太郎という男[が]いました。
小学校卒業後、引越しがあり、東京の中学に入学しました。
中学校では、太郎[は]いつもクラスの人気者でした。

<例文D>
佐賀県に吉田太郎という男[は]いました。
小学校卒業後、引越しがあり、東京の中学に入学しました。
中学校では、太郎[が]いつもクラスの人気者でした。

補足日時:2005/09/01 10:16
    • good
    • 0

「は」の場合、一般的な不特定対象への表現で「が」の場合、特定対象への表現ではないかと思います。

「The ~」と言った感じではないでしょうか?

例えば
・私はやります。
と言う場合は他にもやる人がいてその中の一人として自分も参加しますと言う感じで、
・私がやります。
と言う場合は他に誰もやらなくても自分だけはやります。と言った感じではないでしょうか?

例文A
>吉田太郎[は]、佐賀県に生まれた。
の場合は一般的な説明で佐賀県のとあるところに赤ん坊が生まれました。そのうちの一人は吉田太郎といいます。と言った感じだと思います。

>太郎[が]中学に入ってからだ。
前文で紹介した吉田太郎を断定して指しているため「が」となっているのだと思います。

>吉田太郎[が]佐賀県に生まれた。
の場合はまさに目の前にいるこの子が吉田太郎です。と言った断定した感じだと思います。

>状況が一変したのは、太郎[は]中学に入ってからだ。
前文で吉田太郎はこの人だと断定しているのに後からどこかの太郎さんがと言った表現になったためおかしく感じるのではないでしょうか?

また、状況が一変したと言うのが文章の焦点であると思いますが「~は」の前に文章の焦点がくるのはおかしいです。
太郎は中学に入ってから状況が一変した
のように章の焦点を「~は」の後ろに持ってくればおかしくなくなるのではないかと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。なるほどと思って読ませていただきましたが、具体例を考えてみると、また、わからなくなってしまいました。

例えば、例1、例2で、ホリエモンや田吾作は、特定対象だと思うのですが、何故「が」ではなく「は」なのでしょうか?

<例1>皆さんご存知のあの有名なホリエモン[は]、久留米市で生まれました。
<例2>沖ノ島に一人のじいさんがいました。名前を吉田田吾作といいます。田吾作[は]、子供とたちと遊ぶのが大変好きだした。

補足日時:2005/09/01 13:10
    • good
    • 0

<例文A>は単に事実を述べているだけです。



<例文B>の、『吉田太郎[が]佐賀県に生まれた。』は、生まれることをみんなが待ち望んでいたとか、後に有名人になるとか、他の人とは違う、特別の人だということを暗示しています。

『太郎[は]中学に入ってからだ。』は間違いです。

無理に解釈すれば、他の人たちはいろいろな時期に状況が一変しているが、太郎の場合は中学に入ってからであった、という意味に解釈できます。

ですから、『太郎[は]中学に入ってからだ。』ではなく、『太郎の場合[は]中学に入ってからだ。』とすれば無理なく意味が通じます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ちなみに、質問の意味は、何故<例文A>は問題ないのに、<例文B>は変なのか”その理由”が知りたいということです。

お礼日時:2005/09/01 13:16

1番です。



例文C
>佐賀県に吉田太郎という男[が]いました。

助詞[は]が省略されていると考える事ができます。
佐賀県に[は]、吉田太郎という男[が]いました。
この場合、主語は、佐賀県になります。
「佐賀県には、吉田太郎と言われる人がいるんだよ。」
>佐賀県に吉田太郎という男[は]いました。
この場合、主語は、吉田太郎となり、
「吉田太郎という人は、佐賀県にいたんだよ。」
と解釈できると思います。

>中学校では、太郎[は]いつもクラスの人気者でした。
この場合は、主格が2つで、従属格が二つと考えられます。
「学校では人気者でした。」と、
「太郎は人気者でした」の二つの文が、一つの文に統合されたと考えるのはいかがでしょうか?

>中学校では、太郎[が]いつもクラスの人気者でした。

この文章の場合、「中学校での人気者は、太郎だったんだよ。」という意味になり、2つの文の意味が変わってくると思います。
太郎だけをを主語とすれば、
「中学校で、太郎は人気者でした。」となるはずです。

細かく突かれると分からなくなってしまいます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

「主格・従属格」の考え方が面白いので、ご回答の説明を色々考えてみたのですが、結局、「従属格」の「が」と、それとは別に、主格の「が」と、この2種類を考えた方が良いのではないかと思いました。

(1)従属格の「が」
 例1)私[は]、彼[が][学校へ行くのを]見た。
 例2)これ[は]、彼[が]買った本です。

(2)主格の「が」
 例1)私[が]吉田太郎です。
 例2)電話[が]突然鳴り響いた。
 例3)佐賀県に吉田太郎という男[が]いました。

 例3は、「佐賀県に」または「佐賀県には」のいづれであっても、副詞句ではないでしょうか?

従って、当初の質問は、主格の「は」と従属格の「が」の関係に関するものではなく、主格の「は」と主格の「が」の関係に関するものだと思います。

補足日時:2005/09/01 13:52
    • good
    • 0

◎吉田太郎[が]佐賀県に生まれた。



1、「吉田太郎」は、
「佐賀県に生まれた。」だけではなくて、
「6歳まで何不自由なく子供時代を楽しんだ。」にも掛かっている主語だと思います。

2、「が」は「は」に比較して、述語である動作や状態よりも、
「誰が」という、主語を特定する事に力点を置く意味合いが強いように思います。

「海は広い」は、
海に言及する事に暗黙の了解があった上で、「広い」ということに力点が置かれるが、
「海が広い」は、
広いのが空でも野原でもなく、「海」という事を特定する事に力点が置かれるように。

以上の理由で、「(吉田太郎[が])6歳まで何不自由なく子供時代を楽しんだ。」
という文章において「子供時代を楽しんだ。」事に力点を置く意図があるにも拘わらす、
主語に[が]が使われている為、不自然に感じられるのだと思います。

 ----------

◎状況が一変したのは、太郎[は]中学に入ってからだ。

この文の主語は「状況が一変したのは」という文節だと思います。
「中学に入ってからだ。」に掛かっており、
「誰が?」という事を特定する為に「太郎[が]」と挿入されているので、
「太郎[は]」だと、全く意味をなさなくなるのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

何に力点を置くかで、「は」と「が」の違いが出てくるというのは、確かにそうですね。納得です。

後半の「状況が一変したのは、太郎[は]中学に入ってからだ。」については、以下のように順番を変えるとどうなりますか?

「太郎[は]中学に入ってから、状況は一変した。」

ここは、やはり「が」でないとおかしいような気がしますが、その理由は、太郎に力点を置くためでしょうか。これは、2つの文と考えたほうがいいのかも知れませんが、よくわからなくなりました。

お礼日時:2005/09/01 20:51

ご返事ありがとうございます。



わたしも、よくわからないのですが、
「太郎[は]中学に入ってから、状況は一変した。」が、おかしいのは、
おっしゃる通り「>太郎に力点を置くため」[が]を使うべきだからだと思います。

kobareroさんに言われて気付いたのですが、
これは、
「太郎[は]中学に入った。」と「状況は一変した。」という文を「それから」でつないだものなんですね。
そして、強調したいのは「状況は一変した。」という事実。

強調するためには、
「太郎[が]中学に入ってから、状況は(または状況が)一変した。」
よりも、
「状況が一変したのは、太郎[が]中学に入ってからだ。」
と、状況の変化を先に持ってきた方が効果的と考えた(無意識でしょうが)のではないでしょうか。

どちらにしても、「状況が一変した」ことを伝えるのが重要であって、
この文においては、太郎に言及する(何をしたか?と。)ことは、
「暗黙の了解」が得られておらず(極端な話「太郎の父が○○歳の時」でもいいわけです。)、
「太郎[が]」とせざるを得ないのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

確かに「状況が一変した」というのがこの文が強調したい点で、そのため、「状況が一変したのは、太郎[が]中学に入ってからだ。」いう語順になるんですね。

そして、述語の部分で「中学に入ってからだ」とだけ言うと、「誰が?」と問われるので、「太郎の父」ではなく、「太郎が」と予め入れて置くわけですね。

だいぶわかってきました。

お礼日時:2005/09/02 19:41

なかなか面白いですので、3回目ですが。



>2)主格の「が」
 例1)私[が]吉田太郎です。
 例2)電話[が]突然鳴り響いた。
 例3)佐賀県に吉田太郎という男[が]いました。

1)の場合も2)の場合も、「私」、「電話」が主格とは思えないのです。
1)の場合、「私が、吉田太郎です。」は、「吉田太郎は、私です。」と同じ意味になり、「私は、吉田太郎です。」は、「吉田太郎が、私です。」と同じ意味になるように思えます。
つまり、言いたい事の中心が、「私」なのか、「吉田太郎」なのかだと思います。

「電話が鳴り響いた。」の中心は、「鳴り響いたのが電話である。」のであり、「電話は鳴り響いた」の場合、電話がどんな状況にあったのかを言いたいのではないでしょうか。

>例3)佐賀県に吉田太郎という男[が]いました。
3)は、完全に従属格でしよう。
主文は、「佐賀県にいました。」で、その人は吉田太郎です。という意味ですから。
英語のthere is と同じ意味と解釈できます。
英語の場合は、必ず主語が必要ですから、there を用いていますが、スペイン語では主語を省略した場合、hayを使います。
この場合、「~がある」と訳します。
Hay yoshida en sagaken. (吉田が佐賀県にいる)
一方、Yoshida esta en sagaken.(吉田は佐賀県にいる)
といった言い方もあります。

これと全く同じだと、今気が付きました。
なにか、今までhayの使い方と、ser 動詞の使い方が、この質問を考えることによって、理解できた気がします。

この回答への補足

たびたびご回答ありがとうございます。

>1)の場合も2)の場合も、「私」、「電話」が主格とは思えないのです。

つまり、この2つの文には、「主格」はないという意味ですか?それとも、吉田太郎が主格だという意味ですか?

>「電話が鳴り響いた。」の中心は、「鳴り響いたのが電話である。」のであり、......

つまり、「電話[が]突然鳴り響いた。」という文は、基本は「突然鳴り響いた。」という動詞文で、「何が」を説明するため「電話[が]」という補語(主格ではなく、補足説明)を付加したという意味ですか?

>3)は、完全に従属格でしよう。
あーなるほど。おっしゃっている意味はわかったような気がします。「佐賀県にいました」、「誰が?」。「佐賀県に[吉田太郎という男が]いました」という関係ですね。

ただ、ここでは、「吉田太郎という男」は名詞句なので、構造的には、「佐賀県に吉田がいました」と同じなので、「主文・従文」構造でなく短文ですね。「佐賀県にいました」という短文に「吉田太郎という男が」という補語(説明の補足)を付加したと考えた方が良いような気がします。従属格というと、「主文・従文」構造をイメージしますので。

それをさらに発展させると、「いました」を主文と考え、「どこに?誰が?」を補足するため、「[佐賀県に][吉田太郎という男が]いました」となり、構文的には、例2と同じになりますね。従って、これも「主格」なしの「動詞文」と考えても良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

>Hay yoshida en sagaken. (吉田が佐賀県にいる)
おもしろいですね。hayの単独の意味は何ですか?英語のThereですか?

補足日時:2005/09/02 20:20
    • good
    • 0

手元にある日本語教師用の本で調べてみました。


まず助詞「が」は主格を表し、最寄りの用言(動詞、形容詞、
形容動詞)にのみ係ります。
主格として話題を限定する必要がある場合に使われます。

また助詞「は」は用言に関係のある語について
その陳述に勢力を及ぼす、つまり一語の用言だけでなく
以下の文章全体に係るそうです。
「が」と違い、改めて話題の限定をするのではなく
一般的な意味合いが大きいようです。
またすでに特定してある人や物、指示されているものにも
主題として提示できるそうです。


この文章の
吉田太郎が~、吉田太郎は~ の場合。

「が」は眼前に展開されている場合に使われます。
また特定する必要がある場合に使われます。
たとえば「誰が佐賀県に生まれましたか。」といった
質問に対しては「吉田太郎が~」と答えることになります。

今回の場合は
話題の中で「吉田太郎」という人が最初から特定されて
発話以前にわかっていて特に限定する必要がないので
「吉田太郎は~」という文章が自然なのだそうです。

太郎( )中学に入ってから、状況が一変した。
に直してみます。

状況は太郎自身の生活や性質の状況ではなく
太郎をとりまく周りの状況ということだと
考えられます。
太郎≠状況ということです。

そうであれば、太郎については「中学に入ってから」までにしか
係りませんので、最寄りの用言「入って」に係るためには
「が」ということになります。
「は」はこの文章の全体にかかる性質を持つからです。

参考URL:http://www.jpf.go.jp/j/urawa/j_rsorcs/jrs_02_syo …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>太郎については「中学に入ってから」までにしか係りませんので....

下の例文で確かめて見ましたが、確かに、「は」は広く、「が」は局所的にくっついてしまうので、(2)はOKでも、(1)はおかしいですね。

(1)太郎が[弟の次郎が]中学に入ってから、状況が一変した。
(2)太郎は[弟の次郎が]中学に入ってから、状況が一変した。

お礼日時:2005/09/02 20:38

これまでの説明にありました、



(1)主語に力点を置く「が」/述語に力点を置く「は」

という使い分け方の他にも、

(2)「が」は初出の情報/「は」は既出の情報

という使い分けもあるそうです。桃太郎の出だしがこれですね。これも(1)の強調の一種、つまり主語が初出であることに力点を置いていることを表しているのかもしれません。これで、<例文C><例文D><例2>は説明がつくと思います。有名人の名前も既出と考えると、<例1>もこれに入ると思います。

ただこの使い分けは、主語が固有名詞か一般名詞かで変わってくるように思います。読者が全く知らない固有名詞にそのまま当てはめて、

 吉田太郎[が]、佐賀県に生まれた。<例文B>

といきなり書くと、読者は(1)の主語の強調と捉えてしまい、その固有名詞の背景や状況に関する知識がないので、なぜ強調するのかとか、他の誰と比べて強調させているのかが分からず、違和感を感じるのではないかと思います。もしこの文の前に、例えば吉田家の歴史とか、吉田太郎が属するグループの他のメンバーの紹介とかが書かれていると、おかしくないかもしれません。

そこで、固有名詞を初めて出すときは、紹介という形で

 吉田太郎[は]、佐賀県に生まれた。<例文A>

とか、一般名詞を主語にして、

 吉田太郎という男[が]佐賀県に生まれた。

などとすると、違和感がなくなるのだと思います。

一般名詞の場合に、初出で「が」をつけてもおかしく感じないのは、例えば、
「男」<->「女」
「おじいさんとおばあさん」<->「中年夫婦」「子供たち」など
「電話」<->「チャイム」「目覚まし時計」など
「海」<->「空」「野原」など
のように、何と比べて強調しているかがイメージしやすいからかもしれません。

この回答への補足

>「が」は初出の情報/「は」は既出の情報

これについての説明は、大変明解ですばらしいと思いました。というのは、以前、初出の「が」と既出の「は」について、何かの本で読んだのですが、その本では、「昔昔、あるところに、おじいさんとおばあさん[が]いました。おじいさん[は].....」と「我輩[は]猫である。」の両方の例を挙げて、結局、おかしいという結論になっていました。でも、今回、12nojigoroさんの説明を読んで、普通名詞なら成り立つことがわかり、とてもすっきりしました。また、「吉田太郎[は]」と「吉田太郎という男[が]」の違いは、なるほどと納得しました。

<回答者の皆様へ>
ここからは、回答者の皆様への補足なのですが、皆様の回答を読ませていただいて、一つ一つ、なるほど、そうだなーと思うことが多いのですが、実際、自分で色々な例文を考えて説明しようと思うと、「主格か従属格か」、「特定対象か不特定対象か」、「力点をどこに置くか」、「広範か局所的か」、「初出か既出か」など多くの理由の中から、その時その時で、これかあれかと迷ってしまいます。何か「統一理論」みたいのがあって、それ一本でスパッと割り切れないかなぁと考えました。それで、あらためて、色々な本を調べてみました。その中で、昨日見つけた「象は鼻が長い」理論が、まだ読みかけで正しく理解してないかも知れませんが、とりあえず、スパっと割り切れるように感じました。この理論で説明すると、皆様からいただいたいくつかの理由もさらに納得いく部分がありました。

この理論は、突き詰めると「日本語には主語がない」と考えているようなので(まだ、正確には読み切ってないので、勘違いかも)、強烈な反対意見も多いようですが(そもそも、国語教育では採用されていない)、私としては、かなり納得してしまいました。

この理論によると、「は」は、単純に主題の提示機能をみなします。「~~は」は「~~について話すと」という主題提起の意味になります。そのため、それ以降の文の部分との間に、スパッと切れ目を入れることになります。文全体が「~~は」の傘の下に置かれることになります(局所的でなく、広範囲の影響という性質はここから説明できます)。

「が」については、述語の補語のような役割になり、「~~が~~する」の場合は、「~~する」に対する主格を「~~が」で補う。すなわち、「~~する」だけだと、「誰が」が問題になるので、「~~が」という補語で補うという考えです。従って、「~~が~~する」文は、主語はなく動詞だけの文ということになります。

この理論で最初の例文を考えると、以下のように説明できます。

<例文A>
吉田太郎[は]、佐賀県に生まれた。(「吉田太郎について話すと」という主題提起の意味)
6歳まで何不自由なく子供時代を楽しんだ。
状況が一変したのは、太郎[が]中学に入ってからだ。(「中学に入った」に対し、「誰が」を補足)

<例文B>
吉田太郎[が]佐賀県に生まれた。(「誰が」に対して知らない人を出されても困るのでおかしい。12nojigoroさんのおっしゃるように、「吉田太郎という男が」なら良いわけです。)
6歳まで何不自由なく子供時代を楽しんだ。
状況が一変したのは、太郎[は]中学に入ってからだ。(すでに、太郎を主題として提起しているのに、もう一度、主題提起するのは、おかしい)

こんな感じですが、皆様はどうお考えでしょうか?

補足日時:2005/09/03 11:08
    • good
    • 0

なかなか興味深い話で、とても気に入っています。



よくよく考えてみますと、主語・述語、主格・従属各などの言葉は、西洋から明治期に入ってきた言葉を、日本語訳した言葉のようにも思えてきました。

日本語には、用言と体言と言う事場が有りますが、これが、本来の日本語の根本だったのかもしれませんね。

ですから、英語では、形容詞は、名詞を修飾する言葉なのに、日本語では、名詞を修飾するとともに、用言として、動詞のような役割をしています。

そういった面から考えますと、助詞「は」の場合、明らかに体言が主語となっています。
一方「が」の場合、連用形のように、用言の修飾のような形で使われています。

電話「は」鳴った。
の場合、文の中心は、電話ですが、
電話「が」鳴った。
の場合、中心となる言葉は、鳴ったとなります。

色々読んでいますと、いかに自分が、日本語を知らないか、身にしみます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>日本語には、用言と体言と言う事場が有りますが、.....

用言・体言という視点でこれまで考えたことがなかったので、大変興味を覚えました。たまたま、昨日、「日本語に主語はいらない」(金谷武洋、講談社選書メチエ)を読んでいたところ、相通じる考えを見つけて、なるほどと思いました。この本では、日本語の基本文を以下の3種と考えています。

(1)形容詞文(例「愛らしい」)
(2)名詞文(例「赤ん坊だ」)
(3)動詞文(例「泣いた」)
(形容動詞文は、名詞文と同等扱いです)

用言・体言で考えると、(1)と(3)は用言文、(2)は体言文と考えられますね。いずれにしても、主語は不要ということになります。

私は、初め、「日本語に主語はいらない」などという馬鹿げた考えは全く理解できませんでした。何故かというと、実世界では、動作をする主体や、どういう状態であるかを示す対象が存在しないなどいうことはあり得ないので、「主語」がなければ、実世界について語れないと思い込んでいました。

ところが、これは、米仏語の文法に洗脳されていたことがわかりました。この世界に「主体」があることは事実だけれども、それを文章で表現するのに「主語」という概念を取り入れなければならない必然性は全くないことがわかりました。「主語」がなくても、主体「について」は、いくらでも語ることができるわけです。そして、米仏が「主語」中心の文法構造(主語により動詞が活用するなど)なのに対して、日本語は「述語」中心だということがわかりました。「述語」に対して色々なもの(主格、対格など)を補足するという構造です。

この結果、「テレビを見ます」「いい天気ね」「早かったわね」「火事だ」「ぼくはうなぎだ。(ぼくが注文したいのはうなぎだの意味)」などの文が、決して主語が省略されているわけではなく、文法的に不完全なわけでもなく、日本語としては完全な文であることがわかり、目からウロコの感じがしました。

逆に英仏語では、「テレビを見ます」を"watch TV"と言いたくても、"watch"が主語によって語尾変化するので、主語を決めないとものが言えないという構造上の制約があるために、言いたくても、言えないという事情があるわけです(スペイン語やイタリア語では、動詞の活用はあるので、文の中に動詞は必要だけれども、活用形がわかれば、主語は自ずと推測が付くので、特別強調したい場合以外は、主語は表現しないと聞きました)。

ちょっと、話がそれますが、日本語の構造が韓国語に非常に良く似ていることに興味を感じていましたので、「は」と「が」の関係が韓国語では、どうなっているのか「教えて!goo」で聞いてみました。すると、全く同じ使い方なので、びっくりしました。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1625027

補足日時:2005/09/04 19:38
    • good
    • 0
この回答へのお礼

新しい視点で、何度かご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2005/09/22 22:34
1  2  3  4 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A