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 よろしくお願いします。
 
 いわゆる思想か実践か、理論か実践かという問題があります。確かに極めて陳腐な問いかもしれません。しかし、私自身最近これに悩んでおります。あらゆる思想を中心としてやってきましたが、思想疲れ
のようなものに陥っています。つまり、現実的なところへ発想を移せず、非常に無意味さに襲われています。ところが、あらゆる実践的な考え(分野)もどうしても単純に見え、怪しく思います・・・
 みなさんはこういう対立をどうとらえているのでしょうか? 

A 回答 (3件)

私は教師を目指しているものですが、大学4年生のときどうしても学校の現場の実践がうさんくさく思え、ほんとにそうなの?という思いで大学院に進みました。

大学院では現場の方も学びに来ていますが、大学教師の理論と現場の教師ははっきりいってぶつかり合っています。教師たちは理論よりも目の前の子供が大事だという考えです。私はその逆ですが実際に現場に出たらそうなりそうです。だから理論か実践か、どちらに重点を置くかはその人の立場によるのではないでしょうか。私はどちらも大事なものでバランスが大事だと今は思います。理論は大事ですが現実離れをしすぎていては意味がないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

 分野的には異なるようですが、考えてみれば教育の場面でもそういったものがあることは当たり前ですが、私にとって新鮮でした。
 

お礼日時:2005/09/06 15:03

某所で拾った言葉ですが、こんなのがあります。



「何の体験もなしに、ただ文字だけを、理論だけを頭に叩き込んでも、 それは自分の何かが抑圧されて、かわりにそこに外から理論が入り込んで 居座ったというだけだ。

一つの理論に飽きたら、また別の本を読んで別の理論を叩き込む。
そうやっていつまでも外に向かってオロオロと捜し求める。
まったく人間の深層心理に対する洞察がないことだ。
これではますます悟りから遠ざかる。

いつだって学者は言葉を弄び、真に悟りを求める者を惑わしてきたのだ。
理屈や専門用語で頭を大きくするひまがあるんだったら、
ただ自分を空にすることに専念したほうが良い。
空になればそれは自然とやってくる。
空っぽなのだから自然と、外は内になり内は外になる。
ブッダのほうからやって来てくれるのだ。」

・・・これは、凄く好きな文章なんです。

ほかにも「考えただけでは、考えたことにはならない」とういのも好きです。

「机上の空論」
「戯論」・・ってやつですね。



仏教では「悪いことを止めて、善いことをしないさい」と言います。
これ以上なく単純なことで、幼稚園児に言うようなことですが、大人にだって出来ないことです。

例えば、この30分間でも、自分の行動を振り返ってみると解りますが、我々は100%、想ったとおりに実行しているんです。逆にいうと、想わなかったことは絶対に実行していないんです。

そう考えると、一番、大切なのは「心」だということです。
「心」が、我々の人生を創造しているんですから、「心」の状態こそが一番大切なんです。

戯論に熱中している時の「心」の状態って、あまりよくないと想います。
活かしてこそ生きてくると想うので、実践(修行)が大切だと想います。
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僕は、自分が追究している思想をベースにして、実践で実証していく人生を歩んでいます。

いろんなことについて悩み、思索し、演繹的な思考で得た確信を、今度は実生活の中で、帰納的に確認します。その両面で実証されるからこそ、自分の思想をより深く、追究することができると思っています。

書かれているように、思想ばかりにふけると、なんだかうつっぽくなって虚無感に襲われます。そういうときこそ、実践へ僕は移します。実体験の中で新たな課題を見つけ、それをまた、論理的に分析してみる。そこでまた確信を得て今に至ります。もちろんこれからも続けていくと思います。
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