激凹みから立ち直る方法

現在大奥がやっていますが、
内山里名さん扮する主人公の名前が
「安子」ですよね?
ドラマ自体が史実歪曲が多いので、
また検索してみると「安」の一文字の場合も
あるので事実とは違うかもしれませんが、
例えば柳沢吉保の側室の飯塚染子などにしても
そうなんですが、「~子」というのはもともと
公家の女性の名前であって、武家の女性である
安子や染子が「~子」と名乗るのは変ですよね?
そういえば幕末の13代正室も、「敬子」や「篤子」
ですよね?近衛家の養女になってから「篤子」に
改名したのはわかるのですが、なぜ島津の分家時代
から「敬子」だったのは何故なんでしょう?
北条政子や日野富子は元々公家だったからわかるのですが、
江戸時代は武家の女性でも「~子」と名乗ることは
多かったのでしょうか?
それとも「~子」が公家の女性特有の名前というのは
私の勘違い?

A 回答 (2件)

江戸時代以前は名前もそう厳密ではなく時と場合によって使い分けました。


ですから本来の名前は「安」だとしても格式ばったところでは子をつけて「安子」としたり、あるいは別の名前を名乗ることはよくありました。
戸籍に登録されているわけではないので別に大げさに改名したりという手続きはふまなくても簡単に名前を変えていました。
ただ、正式に幕府に届けている子女の場合は、改名したら届けるということは必要でしたが、これもすべての子女を幕府に届けているわけではありませんし、生まれてすぐに届けているわけでもありませんのでどうにでもなりました。
特に女子の場合は、正室の子か他の大名家と縁組する場合以外は届けないことが多かったようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼遅れて申し訳ありません。
回答ありがとうございました。
なるほど、明治以前の名前って結構いい加減だったんですね。
確かに戸籍制度もなかったわけですし。
やはり格式ばったところでは、たいそうに見せたいために「子」をつけていたのでしょうかね。

お礼日時:2005/11/09 17:02

 こんにちは。



 まず、種明かしをしておきます。ニュースソースは『世界大百科事典(平凡社)』です。以下はその要旨です。

【子が使われだした時期と理由】
 奈良時代以前には男女共用名としての接尾語「子」が存在したものが一度は廃れ、改めて奈良時代後期に上流社会では女性名としての接尾語「○子」に流行の兆しが芽生え、平安時代初期に嵯峨天皇が内親王に「○子」型の名を付けた事が契機となって流行に拍車をかけ、平安時代中・後期に至ると上流社会では、女性の実名(高貴な方は、ごく限られた方以外には本名を教えませんから、「通称名」など色々な名前を持っていたんですね)は「○子」型に統一されたようです。それが末永く維持された後、明治30年代になって庶民の間で戸籍名とは別に私名としての「○子」が流行したようです。
 理由は定かでは有りませんが、男性名には遣われなくなった事と女性名の「○女」が一般化し過ぎたために伝統と独自性を考慮し、また当然「子」の字は子供を表し出産等も連想される事から、改めて女性名としての「○子」に魅力が見い出され流行の兆しの中、嵯峨天皇が流行を増幅した結果、律・令・格・式の全てが整ったとされる平安時代の上流社会で公式の女性の本名が「○子」に統一されるに至ったようです。

【「子」の歴史】
・奈良時代以前
 この時期には、人名には接尾語として「彦、比売(ひめ)、姫、媛、郎子(いらつこ)、郎女(いらつめ)、足(たり)、比登(ひと)、女(め)、戸弁(とべ)、麻呂(まろ)、雄(お)、男、(男女ともに)子・君」等が名に付される例が多く有りました。

・奈良時代
 女性名では接尾語の「郎女」は劣勢となり「戸弁、姫、君」が消失して「女(売)」が圧倒的優位を占めるようになって、接尾語は「女」に統一される形勢となりましたが、上流社会では故意に「女」字を省略した「袁比良(おひら)、諸姉(もろね)、笠目、多理、広虫」等の女性名が見られ、奈良時代末には「宮子、弟兄子(おとえこ)、若子」等の「子」字が女性名の接尾語に採用される気運が生じたようです。

・平安時代
 平安時代になって、嵯峨天皇は親王や内親王の名に乳母の氏の名を採る慣例を止め、親王には2個の佳字を、内親王には「○子」型を賜り、上昇気運にあった「○子」型の女性名の流行に拍車が加わりましたが、庶民の間では「○女」型の女性名が依然として圧倒的でした。
 平安時代中・後期の上流社会では、女性の実名は、「○子」型に統一されましたが、これは裳着・宮仕え・叙位に際して命名されるのが常であって、女性の通称には「大い君、中の君、三の君(庶民の場合は、姉子、中(なかんの)子、三(さんの)子)」があり、「○氏女(うじのによ)」が広く用いられたようです。

 平安中期から内裏・院宮・貴紳に仕える女性達は「大納言・中納言・中将・少将・少納言・式部・伊勢」等の候名(さぶらいな)で呼ばれるようになり、また平安後期には、「千寿女、万寿女、愛寿女、延寿女、福寿女」のような佳名型の通称(時によって実名)が多く見られるようになりました。

・鎌倉・室町時代
 鎌倉・室町時代でも上流社会の女性名は、公式には「○子」型の実名でしたが、叙位・任官の場合を除く日常生活では通称名が用いられ、鎌倉期には「薬師女、千手女、如来女、伊王女、夜沙女、袈裟女」等の仏教的な名も多く見られましたが、室町期に至って「千代女、若鶴女、松女」等の旧型も残るものの「阿茶、阿茶々、ちやち、あかか、あこ、とら、かめ、わか、いち」等の新しい名が見られ、貴族・庶民の別なく通称には「女」字の脱落と仮名書き化が相当進んだようです。

・安土桃山時代
 安土桃山時代には「女」字の脱落と仮名書き化が益々進行しましたが、豊臣秀吉の正妻「木下ねね」は、その名では叙位対象にならないとされる事から、公式の名を「平朝臣(たいらのあそん)寧子」と定めて従一位に叙されたのでした。

・江戸時代
 江戸時代の庶民の女性名は「はつ、せん、せい、かめ、とら」等大部分が2文字で、これらはしばしば接頭語に「御」を付けて呼ばれたようです。

・明治・大正時代
 明治・大正時代の女性名の多くは、江戸時代風の仮名2文字でしたが、公家・華族の「○子」型の名が明治30年代から非常な勢いで普及し、それとともに公家・華族の女性の名の漢字を用いた名が流行しました。特別な場合以外には戸籍名の変更が認められなかったため、男女共に私名を用いる傾向が生じ、「与謝野しよう」は私名を「晶」と書き筆名は「晶子」と称しました。仮名2文字の名を漢字の「○子」型の私名とした女性は夥しい数に及んだそうですが、1945(昭和20)年をピークとして減少し始め、大正時代に流行した「○代」型の名も廃れたようです。

(私見)
 少なくとも、豊臣秀吉の時代には、武家でも「子」という名前をつけていたようですから、江戸時代でも使われていたと思います。
 本名は「○子」で通称名は「○」という名前を使っていたんじゃないでしょうか。
 ちなみに、明治以前は、「子」は一般的には「こ」ではなく「し」と読んでいたようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました。
なるほど、「子」にも歴史ありですね。
北政所の話は、私が聞いた話では
「豊臣吉子」だったので、平氏だったのは
初耳です。どちらが正しいのでしょうか。
あと、「子」を「し」と読んでいたのも驚きでした。
室町のころまでは、確かに阿野廉子(あのれんし)や
日野重子(ひのじゅうし)などの例もありましたが、
その後は「こ」と読むのが一般的かと思っていました。
これもあまり定まっていなかったのかもしれませんね。

お礼日時:2005/11/09 17:09

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!