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文法とはそもそも、「正しい日本語の規則」をあらわしているのでなく、実際に通常使われている言語がどういう構造になっているかをあらわしているだけだと聞いたことがあります。

つまり、ある言葉・言い方が文法的に合っているか、を考えるのは本末転倒だというのです。

実際、文科省もNHKも、別に「正しい日本語」を決める権限を持っているわけではないので、「正しい日本語」というもの自体、ある意味存在しないとも言えるわけです。

ただそうすると、「正しい日本語」というものは文法とは関係無く、要は「日本語を母語とする一般通常人に、ある程度普遍的に通じるもの」であれば全て「正しい日本語」と言えることになってしまいます。

「言葉は時代で変化していくもの」とはよく言われることですが、これを突き詰めると、一般に「現代の日本語の乱れ」と言う考え方自体が丸っきりナンセンスなものになります。

そしてさらには、国語のテストにおいて、正解といわれるものも、かなりファジーになってしまいそうです。

そこで質問なのですが、例えば言語学・国語学・国文学等と言われる学会の中や、その他の分野において「正しい日本語」というものが、存在するとされているのでしょうか。

「正しい日本語」とはどのようなものとされているのでしょうか。

そのような「公的な」ものではないが「私見」をお持ちだという方のご意見も伺いたいと存じます。

A 回答 (9件)

>言語学・国語学・国文学等と言われる学会の中や、その他の分野において「正しい日本語」というものが、存在するとされているのでしょうか



されていません。
学者とは事実を観察し、現実を記述し、それを簡潔かつ美しく説明する理論を打ち立てることを目的とします。「正しい」とか「間違っている」という「主観的な判断」を下した瞬間に学者ではなく、教師となります。

学者はその知識を利用して、この用法は伝統的なものではない、とか、この単語のこの意味は新しい、とか言うだけです。

ら抜き言葉やレタス言葉などを見て眉をひそめるのは学者ではなく、まともな学者であれば、おもしろがって、なぜこういう言い方ができたのだろう、と考えるものです。

私ってコーヒー好きじゃないですか、と言われて「お前のことなんか知らん」と怒るよりも、なぜ、こういう言い方をするのか、どういうときに使うのかを調べた方が面白い、と考えるわけです。

#実際に調べてみるとこの「~じゃないですか」は、相手に答える間を与えずにすぐ、自分の言いたいことを続けることから、これから話す内容の前置きに使われ、聞き手に質問しているわけではないことが分かりました。

もちろん、学者も文法的・非文法的という言葉を使うことがあります。しかし、これは一般の使い方とは違います。

たとえば敬語について、尊敬すべき人の「所有物」のうち、体の部分は尊敬できるのに、人に譲れるようなものは尊敬できないのはなぜか、ということを考えます。

○先生の髪もすっかり白くなられて。
×先生のお宅も地震でおつぶれになって。
?先生の眼鏡はすてきでいらっしゃる。

伝統的でない意味・用法を許容するかどうかは、学者が決めることではなく、我々一般人の自由なのです。
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この回答へのお礼

まさに私の知りたかった質問の意図に、ズバリ的を射たお答えでした。

私はこれが知りたかったんです。

質問に端的に、かつ明快にお答えをくださるとは・・・ただものではありませんね(^^)

ご回答の内容も、私のような国語学の素人には、まさに目からウロコが落ちるような内容で、かつ非常に興味深い内容でした。

今回質問を出して良かったと思うことができます。
本当にありがとうございました

お礼日時:2006/01/31 00:32

> 文法とはそもそも、「正しい日本語の規則」をあらわしているのでなく、実際に通常使われている言語がどういう構造になっているかをあらわしているだけだ



前者は規範文法、後者は記述文法と呼ばれます。言語学が研究の対象としているのは後者の方です。

じゃあ、規範文法はどうでもいいか、というと、私はそうは思っていません。

言語の変化は、生物の進化に似ていると思います。たくさんの人が言葉を使う中で、自然発生的に新しい言葉が生まれ、その言葉がよいものであるならばどんどん広まり、悪いものであるならば廃れる。正に言葉の自然淘汰だと思います。
ただ、生物にしても言葉にしても、「進化が悪い方向に進むことはない」という消極的な保証はありますが、「進化は出来る限りよい方向に進む」という積極的な保証はないわけで、そういう意味では正しい日本語というよりも「理想的な日本語」を語ることは意味があるんじゃないかと思っています。

参考URL:http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/bunpo/ …
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この回答へのお礼

規範文法、記述文法等、多くの概念を知ることができ、大変勉強になりました。

知る機会を与えてくださり、心から感謝いたします。

お礼日時:2006/01/31 00:43

私は私たちが正しい日本語として教わってきた日本語が、最近になってどんどん壊れていく事を憂えていました。


若者言葉、カタカナ言葉、造語、省略言葉等などは本当に気になり、眉をしかめておりました。

しかし、「テレビ・世界で一番受けたい授業」の中で、あの金田一春彦先生が、「言葉は生き物である」「今我々が使っている言葉自体、平安時代の人々から見ればめちゃくちゃな言葉だと思われる」「私は言われているほど言葉の乱れは気にならない」という発言を聞いて、日本の言語学の第一人者である人の発言だけに、まさに眼からうろこが落ちる思いでした。

但し、テストは決められた範囲の中の決めごと、授業内容の確認テストですから、文科省の役人が正しいと決めた内容の範囲で争われるものとして、この論議からは斬り捨てた方が良いと思います。

今、我々は、「過去の人から見れば乱れた言葉」を喋りながら、「新しいこの時代の言語」を製作中なのかもしれません。
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この回答へのお礼

金田一先生(お父様の春彦先生)のお話される内容には、私も納得させられたり、感銘を受けたり、啓蒙される思いを受けることがしばしばでした。

ご子息の、秀穂先生も優しそうで、ユニークな方で、お父様同様、我々素人に多くの教養を与えて下さるだろうと期待しています。

ありがとうございました

お礼日時:2006/01/31 00:40

大きく分けると、口語と文語があります。


ある作家さんが流行り言葉のようなものは、廃れるので使わないとどこかで書かれていました。
若者言葉については、そのときの流行と言っていいのではないでしょうか。
これも定着した時点で流行でなくなります。
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この回答へのお礼

回答いただきありがとうございました

お礼日時:2006/01/31 00:34

>ご意見からすると、やはり「正しい日本語」というものの厳格


>な基準と言うのはやはり存在しないと考えるべきなのでしょうか。

「明確な基準」を求めるたぐいのものではない気がします。ついつい論議するときに「正しい日本語」「間違った日本語」と二極化する傾向がありますが。このこと自体があまり意味のないことだと思います。ただ、じゃあ何でも良いのか?というと、またこれも違うと思います。

「正しい日本語とはどういうものなのか。」については、絶えず議論することが必要だと思います。そうすることによって、「日本語」の中心がより鮮明になってくるからです。

その一方で「間違った日本語とは」という論議はあまり意味をなしません。先ほどの例でも挙げた、「ギャル言葉」は、言葉の新しい使い方の先駆者ともとらえることが出来ます。まあ意識的にはやっていないでしょうが。しかし、陳腐化する日本語を絶えず新しくしようと意識的に活動している方もいらっしゃいます。「詩人」たちですね、流行の歌などもそうですが、新しい日本語の領域を広げようとして、頑張っていらっしゃいます。その方達のやっていることを「間違った日本語」として考えることは意味がありません。

「正しい日本語とはどういうものなのか」を更に論議する一方で、「新しい日本語」をツネに求めていくことは大切なことだと思います。
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この回答へのお礼

「新しい日本語」というものが、必ずしも、いわゆる「乱れ」から来る物だけではなく、「求めることにより新たに得られるもの」であるという側面があるのですね。

「正しい日本語」というものも、それが「枠を定める」ものではなく、「中心を求めるもの」であるという考え方も、大変感銘を受けました。

ありがとうございました

お礼日時:2006/01/31 00:17

言葉は一定ではなく、常に変化し続けるものです。


「何が正しい日本語か」と問われると、ファジーな回答になってしまいますが
「現時点で一般的に“正しい”と言われている単語や文法」という事になるのではないでしょうか。

現在の文法、規則に従わないような言葉を「乱れ」と捉えるか
「変化」と捉えるかは人次第でしょうね。

元々は誤用、間違った表現であっても、それが一般に浸透して恒常的に使われるようになり
新たな言葉が生まれるようなケースもあります。
「独壇場(どくだんじょう)」なんかがその例ですね。

最近の日本語の間違いを指摘するような本も色々ありますが
「現時点の“正しい文法”を知る事も確かに大事やけど
 そんな鬼の首取ったみたいに“間違いだ!乱れだ!”なんて言わんでもええやんか」
と私は感じてしまいます。

方言も一般的な文法とは異なりますが、これを指して
「間違いだ!日本語の乱れだ!」と糾弾する人は少ないでしょう。
じゃぁ何でコンビニ敬語や若者言葉はこうも目の敵にされるんでしょうね?
「特定の人々の間で恒常的に使われている特殊な表現」ってのは同じでしょ?
「コンビニ方言」「若者方言」でいいんじゃないかな。

「最近の若いもんは正しい日本語を知らん!」
・・・バリバリの方言でしゃべるおじいちゃんも、知らない標準語が多々あると思いますよ?
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この回答へのお礼

ここは質問の場なので、あらゆる意見をお聞きするつもりですが、私の個人的考えはあなたとほぼ同意見です。

今の若い人たちの感性には感心させられることが多いです。

>そんな鬼の首取ったみたいに“間違いだ!乱れだ!”なんて言わんでもええやんか

まったく同意見で、本来の意味を知ってるというだけで、あたかも自分がより教養の高い人間であるように勘違いしている類の人間も多いと思っています。

>最近の若いもんは正しい日本語を知らん

こんなこと言ってるオッサンが、子供のやってる中高生の国語のテスト出来なかったりすること多いんですよね。

以前テレビで、浅香光代が国語クイズでボロボロだったのを見て大笑いしました。

ありがとうございました

お礼日時:2006/01/30 13:29

単に日本語とは言っても「本来の日本語」と「日常の会話」とは全く性格が違います。


素人レベルで考えますと本来の日本語とは昔から伝わる日本の名曲の歌詞の美しさではないでしょうか?
「箱根八里」・・・・・箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず・・・・・素晴らしいの一言です。
素晴らし過ぎて歌詞の半分くらいは理解も出来ませんから「日本語は偉大」ですね。

これに反して今の乱れた日本語(話し言葉)は哀れささえ覚えます。
変な横文字を無理やりに使い「何処が日本語?」といいたいぐらいです。

男性が良く使う「そうですか!」は「そうっすか!」
何かしゃべれば「○○じゃないですか?」
NHKのアナウンサーでも使う時代ですからレベルは地に落ちた感じさえします。

日本語は今後も荒れ、乱れが続くことでしょう。
これに歯止めをかけることは不可能だと思います。

この回答への補足

お教えいただきたいのですが、「箱根八里」で使われているような旧来の日本語が、現代の会話語より優れていると言う理論的根拠はなんなのでしょうか?

個人的感覚ですか?
それとも何か言語学的等の何かしら根拠があるのでしょうか?

なお、これは反論やあげ足取りではなく、純粋な疑問です

補足日時:2006/01/30 12:28
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この回答へのお礼

ひらたく言うと、旧来の日本語が素晴らしく、現在の日本語はダメって考えですね。

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2006/01/30 12:27

こんにちは、疑問はつきませんね。



さてご質問の件ですが、私なりに考えたことがあります。
では・・「日本語」とは具体的に何を指すのでしょう?
NHKのアナウンサーが話す言葉から、最近のギャルが話す言葉、少し観点を変えて、在外の2世の方が使う日本語らしい言葉。
要するに、「日本語」というものは一つでくくれないということです。非常に幅の広い概念です。

ただ、その「日本語」の中心にあるらしいのが、私の挙げた例の野中では、「NHKのアナウンサーが話す言葉」らしいことは、何となく分かります。要するに、日本語を使う人の「中心らしい所に存在するもの」が、「正しい日本語」らしいものとなります。

確率論的な考え方なので、具体的に持ってきてみせるわけにはいきませんが。現在の言語学ではたぶんこのように考えていると思います。「共時的な概念」です。

上で申し上げたのが、「現在」という時間での「日本語」。更に少し観点を変えて、「歴史的」に正しい「日本語」という観点も存在します。ここに「文法」とかの観点が出てきます。「通時的な概念」

ただ、歴史的に間違っていても、通用する日本語はたくさんありますので、「通時的」「共時的」な概念を折衷しながら「正しい日本語」を考えているというのが、一般的かと思います。
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この回答へのお礼

ご意見からすると、やはり「正しい日本語」というものの厳格な基準と言うのはやはり存在しないと考えるべきなのでしょうか。

在外邦人の言葉というのから、思い出したことがあります。

日本語というよりは外国語のカタカナ表記なのですが、昔アメリカで日系人の方が、Connecticut州のことを「ケネティケ」と書いていたのを見たことがあります。

これも日本で、日本人が普通にカタカナで書いたなら、「ヘン」と言われることでしょう。
「それコネチカットの『間違い』じゃない?」とか笑われそうです。

ありがとうございました

お礼日時:2006/01/30 12:24

正しい日本語とは、「ある言葉・使い方が文法的にあっているか」ではなく、従来の意味として言葉が正しく使われているか、だと思います。



現代では、言葉を逆の意味に理解して使っていることも多々あります。
例えば、「役不足」なんかは間違った日本語の典型例だと思います。
これを、間違えて使っている人が多い→ある程度普遍的に通じる→正しい日本語だ、と云う解釈はかなり乱暴ではないでしょうか。

確かに、言葉は時代で変化していく部分もあるとは思いますが、全く逆の意味で使われているものなどは、きちんと「正しい日本語」として正していく必要があると思います。
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この回答へのお礼

たしかに「役不足」という言葉は、現在の多くの場面で本来持っている意味とは、まるっきり逆の使われ方をしているのがほとんどですね。

従来の意味と異なる使われ方を、「間違っている」と「言葉が変化した」の線引きをするのか。

その判断基準や、メルクマールをどう考えるべきか。
難しいです。

ご意見ありがとうございました

お礼日時:2006/01/30 12:12

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