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視覚的な心地よさは世界中共通なものがある気がします。例えば、アフリカの彫刻でも、ヨーロッパの絵画でも、アジアのファッションでも、さらにはエジプトのピラミッドから出土する装飾品でも、初めて見たときから何か心に訴えるものを感じる気がします。しかし、他の国の食べ物ってその国の人がどんなにおいしいと感じても「あまりおいしくない」あるいは「とてもまずい」と思えることはまれでありません。
視覚における好みには万国共通なものがあり、味覚における好みは千差万別ではないか、と思えるのですが、これはあたっているでしょうか。また、もしあたっているとすればこの違いはどこから来るのでしょうか。

A 回答 (3件)

味覚は、好みが確立するまで外界の他の刺激を経験することが少ないからだと思います。

本来は、味覚も視覚も、自分の慣れた物を好む傾向があると思います。

味覚の好みが最初に確立されるのは、きっと物心付く前でしょう。しかし、視覚の、それも芸術的な分野に限ると、好み云々の話ができるようになるのはずっと後のことです。
物心付く前に口にする物は、殆どが自分の家庭の物です。日本で生まれた赤ん坊が、フランス料理の離乳食を口にすることはまずないでしょう。しかし、視覚的な分野は、テレビという一大視覚情報媒体が日夜世界各国の視覚情報を発し続けているため、自己の好みが確立されるまでにさまざまな情報を得られます(もちろん本なども重要ですが)。そうして、自国以外の視覚的情報も経験して好みが確立されるので、視覚的好みは自由度が高いのではないかと私は思います。

上記は私の個人的な素人見解ですが、例えば、年輩の方(子供時代に外国の情報を得にくかった)が外国の文化を受け入れにくかったり、外界と断絶された生活を送っている民族が首に環をはめて首を長く見せたり下唇に皿をはめ込んだりするのを美しいと感じる、などの事象から、いくらか証明出来るのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
視覚も味覚も慣れが大きい気がしてきました。テレビの影響はあなどれないです。私自身、南極の風景は(テレビで)見たことがあるけど、南極の食生活(ペンギン???)は想像すらできません。美意識も民族差がありそうですね。遺伝子はあまり関係なく慣れがほぼ全てなのかも知れません?
とはいえ、例えば、同じ(油っこい)食生活をすると欧米人より日本人の方が病気になりやすいなどときくと、味覚も身体を守るために何か役立っているのかもしれない、視覚とは少し違うのかも知れないという考えを捨てきれずにいます。

お礼日時:2006/02/11 15:46

こんにちは。


「三つ子の魂百までも」のことわざの通り、個人の好みというのは視覚・味覚に関わらず、生後環境や個人体験によって「幼年期・人格形成期」辺りまでにその基盤が形作られ、やがて「個人的価値観」「文化的価値観」の原型として、それは生涯に渡って運用されることになります。このため、生まれ育ち、慣れ親しんだ味覚や風景が、誰にとってもその判断の基準となります。

>視覚における好みには万国共通なものがあり、味覚における好みは千差万別ではないか、と思えるのですが、これはあたっているでしょうか。

当たっていると思います。
ただ、ちょっと細かいことを申し上げるならば、「好み」というのは生後学習によって獲得される個体に特有の「条件反射」ですから、基本的には「人類共通の好み」というものはありません。あるとすれば、それは本能的に定められた「無条件反射」ということになります。
ですから、視覚であれ味覚であれ、千差万別の個人差やお国柄というものが必ずあるというのは、これは間違いのないことなんです。ですが、このふたつの明らかな違いは、「個人差は味覚の方が圧倒的にはっきりしている」ということではないでしょうか。
例えば、ハンバーグは大好きだけど、セロリは大嫌い。個人の好みというのはこういうものですよね。ですが、赤は好きだけど、ブルーは見るでも嫌というひとは、あまりいませんよね。これは、味覚という感覚が、「食欲」という、動物が生きるための本能に直結しているからだと思います。

視覚、味覚を含める「五感」の役割は、食べ物や生殖相手を見付け、危険から身を守り、動物が環境の変化に対応して生きてゆくための情報を獲得することです。
味覚の役割とは、与えられた環境の中から自分に食べられるものを見付け出し、危険な毒物を噛み分けることです。生命に直結した、たいへん重要なものであるため、まず、その目的が「安全に食べる」といった狭い領域に限定されています。
そして、味覚は「近感覚」であるため、日々の食べ物を見付け出すという作業事態は「遠感覚」である視覚や嗅覚の方が遥かに優れています。ですから、既にその時点である程度の情報が獲得されていますので、幾ら毒物を判断できるとはいえ、臭いも嗅がずにいきなり口に入れてしまうことはありません。このため、感覚の役割は環境の変化を察知することではあるのですが、味覚で判断しなければならない「食環境の変化」というのは、それほどめまぐるしいものではありません。つまり、味覚というのは「食」という重要な目的にその役割が限定されており、尚且つ、いざというときに役に立ちさえすれば、それほど急激な環境の変化に対応する必要はないということになります。

これに対しまして、食料の確保、生殖行動、危険回避、群での行動など、遠感覚である視覚の役割はたいへん広範囲なものになります。そして、その特徴は、「目的が特定の本能行動に限定されていない」と共に、何よりも、「めまぐるしい環境の変化に即座に対応しなければならない」ということです。即ち、視覚の本分とは、生後学習によって特定の反応を獲得する、つまり、自分の好みを決めてしまうというよりも、どちらかと言えば多彩な変化に対応する柔軟性だということになります。加えて、視覚は守備範囲が広いため、「好みの対象」を味覚ほどに限定してしまうのは困難だというのは重要な要素になると思います。このため、外国へ行っても、それが十分に通用してしまうのではないでしょうか。

本能行動に対し、生後の体験によって獲得された学習行動の意義は、自分に与えられた環境に適応して正しい行動選択をすることにあります。では、生後に獲得された「食べ物の好み」というのは、いったいどんな生物学的意義があるのでしょうか。
我々の味覚には、甘味、塩味、酸味、苦味、旨味があり、五味の発祥地である日本を中心に万国共通? と考えられています。このうち、甘味は多くの哺乳動物が好むと言われていますが、例えば、体内に塩分が不足しているならば、当然塩味も美味しく感じられます。同様に、水が美味しいと感じられるのは、水分の不足に伴う節水欲が満たされるからですね。
つまり、美味しいものとは、自分が必要とする栄養素であり、たくさん食べるということは空腹が満たされるということです。これにより、「必要な栄養の補給」と「満腹」というふたつの生物学的欲求が満たされることになります。従いまして、このような生後の体験・学習によって食べ物の好みが獲得されるということは、複数の餌があった場合、どちらを選択すれば自分にとって有利であるのかの判断が可能になるということだと思います。
これに対しまして、視覚の場合は、例えば赤い色という刺激にばかり強い反応を示すといった学習が成されてしまい、それにばかり接近行動を執っているのであれば、いざというときに適切な対処ができなくなってしましますし、我々の社会生活においても、何かと不都合が生ずるのではないかと思います。
やや乱暴な結論で申し訳ありませんが、視覚と味覚にはこのような違いがあります。そのため、外国の文化に対して「知的・情的」な順応はできても、食べ物は不味い、ということになってしまうのではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
まず、慣れ(≒確認された安全性)があって、その上にある程度自由度があるが、対象物までの距離(≒生命までの距離)に差があるもので、味覚は特に慎重に変化せざるを得ないわけですね。納得できます。

>美味しいものとは、自分が必要とする栄養素であり、たくさん食べるということは空腹が満たされるということです。
概してあたっていると思いますが、少なくとも現在の種としての人間については少し疑問の余地ありですよね(笑)。お菓子は別腹とか、辛いのがこたえられないとか。多分必要以上に学習してしまっているんでしょうね。また、人種によって必要(あるいは許容)栄養素が少しずつ違っていて、味覚もそれに左右されている(必要栄養素と味覚がセットになって遺伝子に組み込まれている?)可能性もありかなと思っています。

お礼日時:2006/02/15 22:59

あくまで素人判断ですが~



味覚は、これまでの経験が多分に作用しているように思えます。
子どものときから慣れ親しんだ味は、自分にとって安心できる食べ物=美味しいとなっているのではないでしょうか?

以前TVで「お袋の味はなぜ美味しく感じるのか?」と言うのをやっていましたが、子どものとき親から与えられた記憶が、ずっと残っているのでは?と言う話しでした。子どもにとって親からの食事は、とても安心できるものだと思えますからね。

それも含めて、小さいときから慣れた味であれば、美味しいと感じると思われます。
日本では味噌汁の上澄みを離乳食でつかったり、だいたい味噌・しょうゆが使われていますしね。

視覚は味覚より発達している器官ですし、感覚の好みを脳で感じるのでしょう。またその異国の雰囲気を連想し、何かしら訴えられているように思うのではないでしょうか?

素人ながら進言してみました^^;
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに味覚(というだけで味覚の好みという意味が入ってきますね)は慣れが大きい気がします。疑問の焦点が絞れて来ました。ただ、慣れだけなのかどうか?逆に視覚的好み(こちらは好みが必要ですね)は慣れが少ないのか?あるいは人種によって舌の感受性にある程度の幅があるのか、ひいては遺伝子的にも差があるのか?このあたりが知りたいところだと分かってきました。

お礼日時:2006/02/11 15:25

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