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このテーマを最近テレビで耳にしたのでお聞きします
皆さんはもし子供に「なんで人を(人に限らないと思いますが)殺してはいけないの?」
と聞かれたらどう答えますか?
私は人が人を殺す事を容認してしまうような世界であるなら
外にも出れなくなるからじゃないからじゃない?と
まあありきたりな事しか言えない様な気がします
しかしまあ国によっては秒単位で殺人事件が起きてる所もありますし
戦争では何千人も殺しても罪にも問われません
現実アメリカ・アフリカ等では毎日当たり前のように人殺しが行われてますし
本当にどう答えて良いのか考えて見ると分からなくなりました
皆さんはどう答えますか?
回答お願いします

A 回答 (28件中11~20件)

このごろこのような質問のスレが多いですね。



酒鬼薔薇事件がおきた時、討論会の席上である若者が「何故人を殺してはいけないか」という問いを発し、物議をかもしました。
そのことについて大江健三郎氏が、「そのような質問をすることに問題がある。人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うことは、直観に逆らう無意味な行為だと」いう趣旨の文を書いていた記憶があります。

最近は子どもがこんなことを聞いてくるのですか?困りましたね。


>私は人が人を殺す事を容認してしまうような世界であるなら外にも出れなくなるからじゃないからじゃない?とまあありきたりな事しか言えない様な気がします

質問者さまのこの感覚は非常にまともなものだと私は思います。
「いけないものはいけない」という理屈抜きのものが人間のモラルを支えていると私は思います。
でも現在の社会は複雑になってきているので、抽象的な概念を言葉できちんと表現することが必要となってきているのかもしれませんね。

質問:どうして人を殺してはいけないのですか?の答え。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1973260

#15と#20が私の回答です。見てください。
結論としてまとめれば、子どもの感性に訴えるような答え方をします、ということです。
どのような言葉を使うかは相手と場合によります。

戦争について補足します。
戦争は、残虐性、内集団・外集団偏向、戦争に勝つことが誇りであるという人間の本性に深く根ざしている、さらに現代の戦争は利害などの人間の欲望と結びついて、非常に根深いものである、そういう意味のことを柳澤佳子という生命科学者の方が書いています。
内集団・外集団偏向というのは同じ集団のメンバー同士特別な感情を抱き、外部の人間に対して攻撃的になることを言います。

人類の歴史は戦争の歴史である、ともよく言われています。
でもそれは悲しいことです。誰だって殺されたくなんてないですよね。
核戦争にでもなったら人類滅亡なんてことも十分ありえるし。

柳澤氏は科学者らしく、DNAレベルまでさかのぼって研究して、何故戦争が起こるのか、どうしたら防げるのかを多方面から研究すべきだと主張しています。

「イマジン」を皆で歌っても……ダメかな?
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なぜ人を殺してはいけないか?は


私が知る限りでも過去何度も繰り返された質問であり
その度に回答に悩みます。

大人の問題として考える場合はさておき
子供に「なぜ人殺しがいけないか?」と問われたときの
最近の自分の気持ちとして
●それが私たちの住む社会のルールだからだ!
が最も適切な回答だと思います。

「なぜ人殺しがいけないか?」とか「神は本当にいるのか?」といった疑問は
理屈や論理で安易に回答すべき問題ではないと思います。
日本で宗教の話をすると少々エキセントリックになる嫌いがありますが
神の存在が現代哲学的には証明できないように
人殺しの禁止も絶対的には証明できない問題だと思います。

つまり「人殺しの禁止」は平和な生活を望む人々の切なる願いであり
「なぜ人殺しはいけないか?」という問いは
平和な生活に対する脅威であり
叩き潰さなければならない疑問であると思います。
昔の人だったら殴ってでも(その是非はさておき)言い聞かせていた筈。

少なくとも私は子供に聞かれて「子供に分かるような安直な理屈」で
答えるべきものではないと思います。
もし、djjdjf333さんが人殺しを認めなたくない方で
子供にそのような「信念を脅かす」質問をされたら
●ルールが守れないなら、私たちの住む法治社会から立ち去れ!
ぐらいの強い意志で「人殺しは人としてやってはいけないことだ」と
有無を言わさず言い聞かすしかないのではないでしょうか?

大人の問題として考え出すと、なかなかシンドくなりますよ。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1928501
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=951272
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=948264
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それが、生への執着の現れであるから。

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「人を殺してもいいとして、


 そのとき殺されるのがお前やお母さん、
 ○○ちゃんやお父さんだったら大変でしょう!
 だれのこどもも親も殺しちゃいけないの」
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この問いに対する明確な答えが、『正義を疑え!』(ちくま新書)に記されています。

一度、読まれてみてはいかがでしょう。
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人を「理由の如何を問わず、殺してはいけない」ということを説明するのであれば、たぶんに宗教的な説明が不可欠になると思います。

宗教的説明は納得できる人にはできますが、出来ない場合も多く、哲学的説明は難解を極めるでしょうから、社会契約の基本的理念を説明をしてやるというのも一つの方法だと思います。

>私は人が人を殺す事を容認してしまうような世界であるなら外にも出れなくなるからじゃないからじゃない?と

つまり、それでいいと思います。
子供に話すので少し乱暴なところもあると思いますが、もう少しわかりやすく言ってみます。

人々は、集まって協力して「社会」を作っています。その集団(社会)に協力する代わりに、その社会から恩恵を受けます。もともと互いに利益を希望して集まっていますので、互いの利益を損なう行動は禁じられます。これが社会のルールです。ルールは公約数で作られましたが、とりあず社会は一定のルールを持って参加することを、期待されています。
社会に参加するからには、ルールを守らなくてはいけない。それが社会を構成する人々との約束であり、契約です。人を殺すと言うことは、この契約を破るといことです。「お互いに殺さないで共存しよう」というルールを破りました。だから、社会はこういう人を犯罪者として、時には死刑をもって報いてきました。この説明でいくと、殺人犯を死刑にしているのは、基本的にはそういうことです。

>しかしまあ国によっては秒単位で殺人事件が起きてる所もありますし

これは契約が破棄された状態として説明できます。社会として機能してないので、好きなように振る舞っても社会としては秩序の維持(契約の履行)という目的が果たせていないなどの異常な状態です。

>戦争では何千人も殺しても罪にも問われません

それは、その社会とは違う別の社会との闘争なので、その社会からは規制の対象とされないから、と説明できると思います。たとえば、日本とアメリカが戦争している時は、アメリカ人を殺しても罪ではありません。そのアメリカ国民とは違う社会を構成しているので、彼には契約履行の義務を負ってないからです。反対に自国(自分の属する社会)の秩序を維持する義務を負っているからです。我々は人を殺してはいけないと言っていますが、いついかなる時でも、どんな悪人でも殺してはいけないと本気で思っている人は、それほど多くないと思います。そういう人はとても宗教的であったりしますが、時によっては、社会から排除されることでも分かるように、社会は殺さないことよりも、その社会の人々の最大多数の満足する契約を履行することを優先していることが分かると思います。

これで質問者様と同じ説明ですが、現在の状況と道徳の矛盾は、一応の理屈はつきます。

そうなると、「じゃ、自殺したいとか、殺されても良いという人であれば、人を殺しても良いのか?」と聞いてくるかもしれません。

答えは、社会としては決して認められない(=なぜなら普通だれも殺されたくないから)。そのために、歴史的には、ただ殺すだけではなくて、いかにむごたらしい方法で殺すかを見せることで抑制にしたり、一族を巻き添えにする方法なども時代によっては考えてきました。現在ではこうした社会は減っていますが、それでも、社会からの制裁は、人殺し本人が生きるか死ぬかという二者択一で終わってしまうほど単純ではないことが多いです。たとえば、残された家族はどうなるでしょう? そうしたことすべて否定しても、人を殺したいという人を止める方法は、実力行使しない限りありません。

かなり乱暴ですが、とりあえずこれで質問者様の補足説明になっているのではないかと思います。

ただ子供に話すのでしたら、こんな冷たい言い方をせずに、宗教的説明もあるかもしれませんし、ただ残された家族が悲しいからと言う方法でも良いと思いますし、死ぬということをきちんと見つめさせておくだけ良いと思います。哲学的な意味、理知的な意味で、その質問を発している子を別として、そういう道徳が本当に身に付いていなくて、日常の風景の中で顔色一つ変えずに人を殺してしまうような人は、生育環境に家族の死をあまりに実体なく捉えているとか、痛みや苦しみの共感力など別の面で解決すべき問題があると思います。
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倫理規範じゃなくて、処世術です。


朝会ったら「おはよう」って挨拶しましょうと同じ処世術で、その中のごくごく基本です。
殺しちゃいけないのは、遺族の怒りを買うからですし、自分の身内が肩身が狭くなるからです。
ネットで「マナー違反」とかいう怒りと比べると、例え様も無く大きな怒りでして、その怒りは全く正当なものと世間でも評価されます。上手く説明できないのは、千円だと実感できるけど、日本の借金のように500兆円といわれると、庶民は実感できないのに似ているでしょう。
殺しても遺族が怒らず、身内も肩身の狭い思いをしない場合はOKです。死刑の執行なんかがそうですよね。
身寄りの無い浮浪者は、遺族は居ませんが、身内が肩身の狭い思いをするからだめなんですよ。身寄りの無い野良猫もそうですよ。お宅のお子さんは意味無く猫殺すのか、どんな育て方したんだっていわれるからですよ。おまえのお兄ちゃんは猫殺してなんにも感じないのかっていわれるからです。父が猫殺している所を同級生に目撃された子供は学校でいじめられますよね。
すべきでないことが行われている現状があると、どう考えていいかわからなくなるのは、質問者さんの未熟に起因することですから哲学とは違う問題です。
戦争で言うとアメリカのブッシュがいったように、フセインとその一族が、イラク国民を困らせていて、イラク国民がアメリカに助けてもらうことを待ち望んでいたのであれば、フセインとその一族を戦争で殺すことは、OKになります。戦争が悪く言われるのは、大方の場合、戦争の大義名分がいかさまで、国民が罪悪感にとらわれるし、皆殺しの完勝以外は、怒る遺族が残るからです。
よくある映画の設定での、侵略してくる宇宙人との戦争は全くOKですよね。宇宙人には遺族はいないし、侵略から地球を守るというのは、全く破綻の無い大義名分で、勝利した地球人は肩身の狭い思いをしないからですよね。
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人を殺すと殺された人だけではなく、その記憶によって殺した本人も不幸になるからだと思います。
殺す理由はいろいろあるでしょうが、後から必ず後悔するからやめておきなさい、ということでしょう。
ですから、自らの命を守るための止むを得ない状況における正当防衛としてであれば、法律的にはどうあれ後悔する度合いは低いでしょうし、これすらも否定したり非難したりする人の確率は相当低くなるのではないかと思います。

では、なぜ後悔するのでしょうか。
人を殺すということは人間である他者の生命を奪うということです。
無論、何かの原因・理由が存在するはずですが、ともかく何か理由があれば人を殺すことは可能だということを自ら実証することになるわけです。
仮にその時点では自らを正当化できたとしても、やがて次のようなことに気付くはずです。
「何か理由があれば人を殺せるのが人間だ」という、まさしく自分が証明してしまった事実にです。

それでなくても希薄な人間を信じるという可能性を自らの手で徹底的に打ち砕いてしまった人間が、その後の人生を幸せに送れるでしょうか。
一時の感情などで「殺すことによる解決」ができそうに思っても、それは不合理な思い込みだよ。
あなたが人間である以上、自分の命を守るため止むを得ない場合を除いては、理由の如何を問わず同じ人間を殺すとあなた自身が不幸になるよ。
気付かないかもしれないけど、人間てそういうふうになっているんだよ。
ということを端的に表現したのが、「人を殺してはいけない」ということではないかと私は思います。


戦争などは、何か国家という無人格者が、あるいは一部の権力者が勝手に引き起こしているかのような印象を与える場合もあるようですが、これとて人間による殺人に違いはありません。
国民が本当に殺人に反対であれば戦争など起こすことは不可能になるはずです。
にも拘わらず、未だに戦争が起こるのはなぜか?
これは無論、一概には言えないでしょうが、基本的には、たとえ他者の不幸の上にであっても自らの幸福は築けるはずだという、前項にも通底する意識を持った人々がまだまだ大勢いるということの紛れもない証ではないかと考えます。
そして実は、それは不合理な思い込みだよ、決して真の幸福にはつながらないよ、ということを我々はごく身近なところから学べるのではないでしょうか。
自らの日常の生活において、他人が不幸になることによって自らに本当の幸せが訪れるのか、あるいは訪れているのか、勇気を出してちょっと振り返ってみれば容易に想像がつきそうなものです。
自分の拘わるごく身近な人たちに誠意を持って接し、その幸せを喜べるような姿勢になることによってしか、殺人も戦争もなくなることは決してないだろうと自戒を込めて考えることもあります。

小さな子供に対する答えとしては、以下のように考えてみました。
『人間には想像力というものがある。一時的な感情であなたが人を殺せば、他人もあなたを殺せるのだということに、つまり、人間とは理由があれば人を殺せるものだということにすぐ気が付くだろう。
これは理屈ではなく、あなた自身が証明してしまったことなので絶対に否定することはできない。
そしてあなたは、たとえどんなに愛する人間でさえも心から信用することができないまま一生を終えるだろう。そんな人生を送りたくないと思ったら、人を殺してはいけない。』
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 「いけない」というのは命令ですから、それを発した人物の事情や権限に依存する話です。


 従って、なぜなのかは、「殺してはいけない」と言っている人物によって変わります。まあ、たいがいその本人に聞かないと分からないでしょうね。本人も権限どころか理由も持っていなくて答えられないケースも多いでしょうが。

 ちなみに、一般論として「人を殺してはいけない」というルールはありません。だから、そんな命令が正当であるという前提で考えたってまともな結論など出てきません。

 例えば日本国の刑法第二十六章「殺人の罪」の項は、下記の通りです。

第199条(殺人)
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

 他の条文を見ても「殺してはいけない」とは書かれていません。それどころかこの第199条には死刑の規定があり、判決を下す裁判官に対して「殺してよい」と言っているわけです。

 なお、「殺してはいけない」ではなく、「むやみに人を殺さない」というルールは、たいがいの共同体において、その共同体が秩序を持って存続するための知恵として存在します。この場合の「人」は、「共同体のメンバー」を指します。つまり、メンバー外の人は、ケースバイケース。
 従って、こんな問を本気で聞いてくる子供を持ったとしたら、あなたは共同体のメンバーとして生育することを失敗したということです。それを体得させることが教育のミッションの一つなのですから、ぶんなぐってでも矯正しましょう。この種のルールは、共同体のメンバーが理由抜きで脊髄反射レベルで体得していなければ効果が無いからです。効果が無ければ、共同体の秩序維持という目的が達成できません。だから、共同体のメンバーとして親がそれを叩き込む義務があるのです。
 そうでなく、まじめに哲学的な問題として問うてきたなら、それなりの見識を持った人に預けましょう。あなたでは無理です。

 なお、「(人に限らないと思いますが)」とありますが、食肉や皮革製品を作るには動物を殺さなければ無理ですし、他にも野菜を取るには植物を殺さなければなりません。生き物が生きるというのは、そういうことです。
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完全に納得する必要はなくていいと思います。


完璧な答えは見つけにくいと思います。
数式や漢字の穴埋めとは違い、どうしても答えの出ない「問い」もたくさんあると思います。
「何故生きているか」「何故息をするか」・・・
そいった分からないことは、先人の知恵や習慣などを頼りに、人や動物、植物などは、学びながら生きているんだろうと思います。
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