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梵我一如も一念三千も、個人の内に宇宙を含み個人は宇宙と一体であると説いていると思いますが、違いがよく分かりません。

ある仏教系宗教団体の人から勧誘を受けたときに、その人は仏教以外の宗教の教えは外の道ゲドウと言って、仏教の教えは内の道ナイドウと言う。ナイドウに比べたらゲドウは低級な教えと言っていました。この人に梵我一如と一念三千の違いを尋ねましたが、梵我一如は知らないと言っていました。

梵我一如と一念三千の違いを教えてください。
よろしくお願いします

A 回答 (3件)

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。

けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する、ということを踏まえておかないといけません。抽象的なものを実体的で具体的なものとして理解する、と言ってもいいでしょう。

例えば、「樹木」と「杉」は、普通ならば「類」と「個」という別個の概念に属するものです。西洋哲学ならば大きな問題になるこの両者の関係も、インド人の論理形式では、「樹木」は「杉」の本質であるとされて、この意味で両者は同一関係にある、とすら表現されてしまいます。インド的思考においては、個物の本質というのはそれが担っている普遍の本質である、とされて、いわば論理の階層を飛び越えるようにして、個物や特殊を普遍に属するひとつの例と考えるのです。

こういう考えに規定されたサンスクリット語では、ある属性と、属性を保持するものの区別があいまいになります。例えば、バラモンという階層の人々は、サンスクリット語ではbrahman、つまりブラフマンと呼ばれます。ブラフマンとはもともと「梵我一如」の「梵」で、いわば宇宙の統一原理です。本来は宇宙の統一原理をいう言葉であったブラフマンが、やがてそれと交感するための呪術をも指す言葉になり、さらにそれを操る特定の階層の人達の名称となったのです。

こんな例は沢山あって、「覚者」を意味するbuddhaがお釈迦さまを意味するようになったり、「勝者」を意味するjinaという言葉がジャイナ教の開祖を表す言葉に転化したように、ある性質を意味する一般名詞が横滑りして具体的な固有名詞にもなる、というのがインド的思考のひとつの典型なのです。

「梵我一如」も、このようなインド的感覚のうえに自然に生まれたもの、という風に理解しておかないと、言葉だけの理屈を言葉でなぞるだけになってしまいます。

梵我一如は、上に書いたような感覚が世界と個人との間に適用された時に、必然的に生まれた思想だと言えるでしょう。現象世界の種種雑多な相の根底に「梵」という最高原理があり、すべての存在や現象はそこに由来しているはずなのですから、当然、杉が樹木の本質であるように、自我という「個」もまた、究極的にはブラフマンであるはずなのです。迷いのせいで普段その一体性ははっきりとは自覚できませんが、その合一を体得することがウパニシャッドに説かれる聖なる目標なのです。「チャンドーギャ・ウパニシャッド」に挙げられている例によると、その合一は、例えば塩が水に溶けた時に、味を残しながら水に一体となるような状態に喩えられたりしています。

こういう感覚と比べてみると、「一念三千」との違いもなんとなく感じられるのではないでしょうか。誤解を恐れずにあえて書くと、違いのひとつは、現実世界の強度にあるといっていいでしょう。三千とは、現前世界の多様性一切を表現しているわけで、そもそも、「一念三千」とは、理であれ事であれ、縁起をベースにした現実肯定の思想である「諸法実相」が下敷きになっています。そこには、この現象世界の多様性に軸足をおいたうえで、その中に存在する「私」がこの世界とどのように関わるのか、という問題意識があります。

あまり単純に比べてもいけませんが、一方のサンスクリット語で「三千」や「諸法」、「万象」といった多様な現象世界のもろもろは、イダム・ヴィシュヴァム、「この全て」という単数表現で表されます。ここにもやはり、我々日本人には理解しがたい、背景の抽象性の強度ゆえに現象世界が閑却されがちなインド的思考が表れていることがうかがえますし、それは仏教思想との異同を語るうえで、実はかなり重要なことではないかと思います。

質問者氏は、恐らく本門の一念三千をご承知なのだと思います。この回答では、久遠実成の釈迦とブラフマンの違いには触れていませんから、肩透かしのように思われるかも知れませんが、まずは思想の背景にある違いを知ったほうがいい、というぐらいの意味にご理解下さい。

尚、関係が薄いかもしれませんが、以前梵我一如について回答していますので、よろしければご参照ください:
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1106940 「梵我一如と仏教の悟り」
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
【思想の背景にある違い】
目から鱗とは素晴らしい表現であるとわが身で実感いたしました。
回答者様のご著書があればご案内いただきたいと思います。
インド的思考と仏教思想 たいへんに勉強になりました

お礼日時:2006/03/18 21:12

一念三千はわかりませんが、梵我一如はもともとバラモン教の概念です。

ウパニシャッド哲学(ベータンダ哲学)では、梵(ブラフマン)と我(アートマン)は本来ひとつのもの(一如)と説きます。
あなたの“個人の内に宇宙を含み個人は宇宙と一体”という理解でいいと思います。
仏教は、このブラフマンとアートマンの存在の否定から出発しています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
個人は宇宙と一体を仏教が否定したものか
取り入れたものなのかが分からなかったので
否定から出発した仏教がまた分からなくなりました。
参考になりました

お礼日時:2006/03/18 21:00

私も、「梵我一如」については、貴方の質問で知り、少し調べました。


あまり、確信はありませんが、書かせていただきたいと思います。

梵我一如と一念三千とは、説かれた時期も全く違いますし、日本に入ってきた経緯も違うと思います。

細かい事は、解っていらっしゃるようですから、大局的な事をお話したいと思います。

「一念三千」とは個々の生命に包括された、瞬時の生命状態を立て分けた中国天台大師の思想で(もちろん根本には仏教がありますが)、その個々の生命と大宇宙生命との関係を顕したものが「梵我一如」ではないでしょうか?

教学的な言い方をすれば、「梵我一如」は「一念三千」ではなく、「依正不二」的なものだとは思います。
ですが(ここからが不確かなのですが)、「梵我一如」が個々の生命と宇宙生命との関係性の認識的な捉え方だとすれば、「依正不二」とも全く違ってくるでしょう。

それは、「依正不二」が、個々の生命と宇宙生命との「連動」を説くからです。

この程度のコメントで申し訳ありませんが、どうでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました
参考になりました

お礼日時:2006/03/18 20:53

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