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公家は朝廷から官位を受けている家ですよね?
武士団の多くも平氏源氏など天皇家の家柄ですよね?
戦国の多くの武将も官位を持ってます。
武家と呼ばれる前の時代は曾我氏も藤原氏も先頭に立って戦をしています。じゃぁなんでわざわざ武士団などという呼び名を付けたんですか?そこの定義みたいなものは有るんでしょうか?誰か教えてください。

A 回答 (5件)

豊織時代は系図を偽造することがあり、徳川家康も新田氏の系図をごまかして、新田義重の四男義季が、得川郷の領主となって得川四郎と称した後に、松平氏を付け加えて、源氏の子孫としました。


ところが豊臣秀吉は由緒正しき? 庶民の出身(つまり卑賤の身分で源氏でも平氏でもない)ですから、系図のごまかしようがなく、最初足利義昭に養子にしてくれと頼んで断られ、藤原氏の近衛前久に養子にしてもらって、藤原氏の仲間入りをしました。
藤原氏は公家ですから、秀吉は武家出身の公家と言うことになります。

もちろん源平に限らず、公家を起源とする武士もいて、藤原秀郷(通称:俵藤太)など。
藤原秀郷の子孫は越前松平の前身結城家や、源頼家の乳母になる比企家などがあります。
また毛利氏も公家の大江広元を祖としています。

それと回答が難しいのは、字数制限があって、本来は数時間の講義でやることをまとめなければいけないことにあります。
例えば武士と言うのは概念的に「承平天慶勲功者」の子孫とその郎党を指し、それ以外の物は武士とは言わないと言う説もあります。
これに当てはまるのが北畠顕家、足利尊氏のライバルで、鎮守府将軍として東北の軍勢を率いて足利勢を破りますが、彼は分類は武士ではなく公家になります。
彼は「承平天慶勲功者」の子孫でもなければ、武士の郎党になったと言う経験もありませんから、武士とは認められないわけです。

征夷大将軍も武家の棟梁と言う位置づけですが、源氏以外のものがなったときに、果たして武家の棟梁なのかどうか?
鎌倉幕府が滅んだ後、大塔宮護良親王が征夷大将軍に任じられ、また幕末には仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられますが、武士の棟梁とは言いがたい面があります。

また、#2さんの書かれた北面の武士も武士なのか武官なのかという論議があります。
定義と言うものは一応あるものの、諸説あり難しいのです。
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この回答へのお礼

再度のお答えありがとうございます。

 親王が征夷大将軍?!たしかにそれじゃ武家の棟梁は武家でなくともよい事になりますね。

武官と武士の違いは諸説有って決めては無いわけですね日本人なら誰もが知っている武士・侍というものがどういった人たちを指すのか きちっと知らない自分を恥ずかしいと思いましたが、身近過ぎて返って曖昧に使われている言葉?ちょと違うかな?
 とにかくハッキリとした定義は無いと言うことで少し安心しました。

お礼日時:2006/03/21 00:19

専門家では有りませんが、身分制度がはっきりするのは事実上徳川幕藩体制以降ですよね?


であれば、それ以降の「武家の定義」について考えなければ「あいまいな答え」しかできないのではないでしょうか。

「それより前」は定義自体がはっきりしていない(「公家と武家の違いはもちろん、農家と武家、商家と武家、僧侶と武家の境界も)訳ですから、「何をもって武家とする」というのは云々できないのではないかと思うのですが。

もちろん歴史カテゴリですから、「こうして武家が成立した」という歴史を追うことには意味があると思いますが、それは「定義」ではありませんよね。
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この回答へのお礼

ちょと目から鱗がボロボロと

確かに江戸以前では身分制度そのものが曖昧!おっしゃるとおり・・・痛いとこ衝きますね。

お礼日時:2006/03/22 03:00

公家は京に住み有職故実を以って位を世襲してきた家のこと。


武家は征夷代将軍と御恩奉公で結ばれている家(氏族)のこと。

平安時代はまさに貴族が我が世の春を謳歌した時代で、
貴族が官位を背景に勢力を伸ばし己の荘園として全国各地を支配した。
まさに天皇と貴族による中央集権国家が確立した時代なのです。
藤原氏はそのなかでも貴族の頂点にあった。
その貴族から荘園と武力を取っ払った残りカスが公家です。

征夷代将軍は源氏じゃないとなれません。
これは鎌倉幕府の先例に倣ったものです。
武士団は鎌倉幕府の御家人の総じて呼んだのが初まり。
北条氏は平家なので先例により将軍にはなれなかった。

大枠で「官位は先例と冠位に従う」と思えばよいのでは。
例えば、従一位太政大臣の「従一位」が冠位で「太政大臣」が官位。
冠位が身分で官位は職業を表します。

摂家というのは摂政になれる一条家とか近衛家のことじゃないかな?
「源平藤橘」は家系説明の道具に過ぎない。
時代時代でそれぞれの姓を語れば職にありつけただけです。
特にこの4家なら信憑性があったからだと思いますよ。

この回答への補足

同じ征夷大将軍でも坂上田村磨は貴族の武官とし頼朝は武士その違いは何かな?と思った訳で武士と呼ばれてから官位を受けた人は別としてももともと官位があるのに武士と分類された家もあって何時からが武士になるのかな?と思ったんです。
 なんか、屁理屈書いてるみたいになってしまいましたが 最初は素朴な疑問だったんですけど・・・
 

補足日時:2006/03/20 20:41
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

 議員とやくざみたいなもんなんですかね?
やくざが議員になる事もあるし、やくざの定義は?
そんなものはっきりしてないし、国が認めた広域指定暴力団もあれば自称やくざもいるしチンピラにいったてはもうどこまでがなんなんだかわからないし・・・
 
初めのころは武士も一緒?

お礼日時:2006/03/20 20:14

 こんにちは。



 それでは私と一緒に、歴史の授業を思い出してみましょう。

・北面の武士
 「北面武士(ほくめんのぶし)」と言うことを習われたことがあると思います。これが、「武士団」の始まりですね。
 「北面の武士」とは、上皇に仕え、身辺の警衛あるいは御幸にお供した武士集団のことですね。11世紀末白河上皇が院の護衛のために、儀礼的存在の御随身所とは違い武力を持つ近衛団的存在として設置したものです。構成には主として近畿周辺の在地武士や受領武士などがあたり、平正盛・忠盛親子も属しており、このことが後の平家台頭のきっかけとなりました。

 最大の時には日本最大の武装集団になり、律令制の正規軍に代わり軍事的な役割を果たしています。後鳥羽上皇時代に、西面武士も設立された。承久の乱では西面武士とともに戦闘に加わり、乱の後西面武士は廃止されましたが、北面武士は残された。その後、徐々にその規模は縮小し単なる御所の警備隊となりますが、江戸時代末期まで続いています。

 つまり、北面武士の存在は、それまで貴族だけが握っていた政治に武士を接近させ結びつけていく入り口のような形であったと言えますね。

・賜姓皇族
 一方、源平などは、「賜姓皇族(しせいこうぞく)」と言われる家柄で、天皇から姓を下賜されるとともに皇族の身分を離れ、臣下の列に加わった一族のことで、源平以外では、橘氏、在原氏等があります。

 例えば、清和源氏(せいわげんじ)は56代清和天皇の皇子を祖とする賜姓皇族で、後の武家政権を確立すべく礎を築き、その後、源頼朝を輩出し武門の棟梁としての地位を固めました。
 ただ、先の方もかかれていますが、権威を高めるため、北条氏、織田信長や豊臣秀吉を除く天下人の多くは、清和源氏を自称しています。
 特筆すべきは、織田信長で、朝廷からの官位をかたくなに拒みました、官位をもらうと言うことは、天皇の部下になることですから、信長はそれを良しとしなかったんですね。何となく信長らしい話ではありますね。

この回答への補足

すいません#3の補足の補足になってしまうのですが

 さらに幕末になると西郷は維新前は武士で維新後は武官ですよね、これは主君が島津から天皇に代わったんだから解るんですが、島津や毛利などの藩主は爵位をもらって貴族に成ったて以前から官位を持っていたはずだから、武士と言う呼び名が無くなっただけ?あっ!これは武士の官位だから公家のものとは違うのか?藩主の主君は将軍だと言うなら当の徳川家は江戸時代も公家で武家?そもそも公家と武家を分けて考えようとする事が間違っている?

 なんか、屁理屈書いてるみたいになってしまいましたが 最初は素朴な疑問だったんですけど・・・

補足日時:2006/03/20 20:59
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

賜姓皇族>所謂「源平藤橘」ですよね。皇族を離れても貴族・公家ですよね?なのになぜ武家?平安時代末期摂家として公卿になれる4姓ですよね。藤原氏は公家と呼ばれ源氏・平氏は武家になったのか?単に武力が有ると武士なら藤原家は武装解除してたの?私兵はいなかったの?ますますわからん????

お礼日時:2006/03/20 13:43

非常に複雑な事情がありますが、古代日本は軍隊により守られていました。


初代の神武天皇は自ら軍隊を率いて東征を行いましたし、歴代の天皇は自ら刀を振るって敵を打ち倒すこともありました。
平安時代、桓武天皇の時代に軍隊が解散され、日本は正規軍のいない国となりました。
ところが日本は完全な平和な国になったわけではなく、各地を平定する必要があるために「令外官」という律令にない官職を次々に新設し、治安に当たります。
例えば東北遠征のため、征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命して蝦夷と戦わせたりしています。
この時代になりますと、死穢と言うものに貴族が敏感になり、革製品を嫌ったり、動物の解体などをする職業の方々を差別する流れで、武人を蔑視するようになりました。
それでこういった仕事は正規の官ではない令外官に委託すると言う構図になります。
一方地方でも軍隊がいなくなりますから、農民は自分の田畑は自分で守る必要が出てきて、武装農民が出現します。
こういった農民のうちから指導力のあるものが近在の農民をまとめて、地方豪族になり、ある程度の規模になると中央の貴族と結んで、自分たちの存在を公認してもらうようになります。
つまり、自分の田畑を有力公家に寄進して名目は公家の土地にして、自分はそこの管理を任せてもらって土地を支配する代わりに、何割かの物を公家に上納すると言う形になります。
公家も自分の支配地に庶子などを送るようになったり、国主として派遣された後も土着したりして、武装農民と結びつくようになります。
武装農民も自分たちの頭目に中央貴族の血縁者を戴いて箔を付けたいと言う考えもあり、地方に下った源氏や平氏といった元皇族の子孫は歓迎されました。
これにより、源氏や平氏が武装の農民を従える「武士」という階級が成立し、公家はこういった血なまぐさいことから完全に手を引き、武士に下級官位を与えて飼い犬にするという形が成立します。
この形が平清盛になると、上皇と結びついて武士が政権に加わるようになり、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、武家の政権が成立します。
武士も官位を持つようになりますが、公家の官位とは別物とされ「東百官」などのように、自称するものまで出てきました。
大石(蔵之助)とか丹下(左膳)、宮本(伊織)など。
正式には幕府を通して朝廷より賜るものですが、上記のように自称するものも少なくありません。
戦国期の武将は、織田(上総介)などほとんどが自称で、さすがに上杉など名門は将軍から申請して貰いますが、公家の官位とは別物です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>武士も官位を持つようになりますが、公家の官位とは別物

 大戦中の特務大尉みたいなもんですかねぇ?将校であって将校でない・・
 でも秀吉は関白ですよねって事は公家って事にならないんですか?

お礼日時:2006/03/20 12:39

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