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信長の野望などの歴史ゲームでは武田信玄の評価がきわめて高いのですが、信玄は本当に優秀な人物だったのでしょうか。私としてはかなり疑問です。
以下少し長くてすいませんが私の考えも述べます。
まず政治家としてですが、諏訪よりしげを特段の理由もなく暗殺してますが、このようなことをすると後々政治家として信用されなくなりまとまる話もまとまらなくなり、調略もうまくいかないと思います。父親を追い出しているのも汚点です。儀に厚い(?)謙信からもかなり憎まれてます。
騎馬軍団も強かったかもしれませんが、隣の謙信との川中島の戦いでかなりてこずっていて断トツで最強だったとはとてもいえないと思います。勝頼が長篠の戦で惨敗してますし。
彼ははやくも20才で大名になりその後30年近く大名として政治を行ったわけですが、期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってないような気がします。
というわけでなぜ彼が極めて高い評価を受けているのかよくわかりません。ご意見お願いします。

A 回答 (20件中11~20件)

優秀だったかどうかは何とも言えませんね。


彼の最大の失敗は跡継ぎを誤まったことで、長男の武田義信を殺して、孫の信勝を後継者に指名したため、義信と親しかった穴山信君が離反しましたし、代行を務めた勝頼は武田家最大領土を獲得したにも関わらず正統後継者ではないとの事で評価は低く、家臣の信望も今一のまま滅亡します。
義信を殺さなければ甲斐はまとまったかも知れませんし、せめて勝頼を後継者に指名すればもう少し滅亡を遅らすことも可能だったかも知れません。
それぞれ理由はあったので、今となってはですけど。
ただ、信玄の世代では、天下を握ると言うビジョンが無く、せいぜい領国を大きくすると言う考えしかありませんから、已む得ない面はあります。
織田信長のように、今川家を破りながら領土を奪わず、三河と言う干渉帯を作って西に全力を注ぐとか、兵農を分離して常備軍を創設するなどは天才だからの発想で、彼以前の数多の大名は考えもしなかった発想ですから、信玄は天才と言うレベルではないことははっきりしていますが、小国をまとめて大きくしていますから、優秀な武将ではあったと思います。
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#8さんの他、遅すぎた英雄、伊達政宗ですね。


黙って見ていれば、東北全土を制圧し、南下したのは明白です。

豊臣秀吉、徳川家康、加賀、土佐大名を、
織田信長のふんどしで相撲を取った不貞組とします。
(自力生存不可能のイソギンチャク)

評価はそれ故に低いです。
結果とは逆の評価です。(氷菓とも言います)

私的に評価の高いのは、他に
豊臣、毛利の連合軍と和睦した長曽我部、
それと、九州では島津、大友氏です。

>何をもって判断するのですか?
私情あるのみです。(自己評価)^0^
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「彼ははやくも20才で大名になりその後30年近く大名として政治を行ったわけですが、期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってないような気がします。



信玄が家督を継いだときの支配地は甲斐一国のみ。
信玄が没したときの支配地は、甲斐、信濃、駿河、遠江の50%、上野の50%、三河と美濃と飛騨のそれぞれ一部。石高(江戸初期のデータを基準)ですと、20万石程度から120万石以上に、少なく見ても6倍に成長しています。

1代でこれだけの勢力拡大を遂げた大名は、織田信長、徳川家康、毛利元就、上杉謙信程度です。何をもって「期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってない」と判断するのですか?

信玄は、
「妹の婿である諏訪頼重を殺す」
「父である信虎を追放」
「上杉謙信との講和を一方的に破棄して勢力を拡大」
「長男の義信を殺す」
「長年の同盟を破棄して今川氏真を攻めて駿河を奪う」
といったことをしています。他の戦国大名と比べても、人倫に悖る行動が多かったといえます。
ですが、法や道徳に従っていては生存が保障されない戦国の世です。武田家を守り育てるためには止むを得ないことであったと思われます。現に、信玄の本拠であった甲斐は、信玄が死んで勝頼の代に武田家が滅亡するまで、一度も外敵の侵入を受けていませんし、内乱も起きていません。これは凄いことですよ。
当時の戦争では、敵に攻められた国は農作物や民家を焼かれて餓死の運命に陥り、住民は略奪暴行を受けたり拉致されて奴隷として売られました。甲斐の民は、そのような目に遭わないことを信玄に感謝していたでしょう。
ちなみに、上杉謙信の本拠地であった越後では、外敵の侵入はほとんどありませんでしたが、有力家臣の謀反が何回も起き、その度に謙信が攻め滅ぼしています。謙信の死後は、後継者をきちんと決めていなかったために二人の養子が内戦を起こして戦う事態となりました。その度に、家臣も領民も大変な目に遭ったはずです。


なお、皆さんが言及している「武田の騎馬軍団」や「信玄堤」は、いずれも大幅に誇張されていることが最近の研究で明らかになっています。武田家が他の大名家以上に騎馬隊を使っていたとする史料は一つもありませんし、信玄堤と呼ばれるものは、実は信玄の時代より前に出来ていたことを示す史料が存在します。

とりあえず下記の本を読むと良いでしょう。
「鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦」http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31127305
「武田信玄 伝説的英雄像からの脱却」http://www.7andy.jp/books/detail?accd=28324431

また、質問をしている方、回答をしている方、皆さん漢字に誤りが多いですし、確実な史実に基づいた議論ができていないようです。ちゃんとした本を読んで勉強してください。
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諏訪よりしげは、


来過ぎる程に信玄公の所に足を運んだそうです。

儀に厚いなら、必ず諏訪に足を運ばねばなりません。
そこで必ず刃にかけるはず。

この進言から、礼の文と贈り物で誘い出し、暗殺しました。

その後戦にならず、服従している事から、
案外策は、お見通しで、逆にやられた。
頭ではかなわない重臣は黙ってしまったのが実情のようです。

信玄堤などは有名です。
堤を築くと、氾濫は無くなり、
そこに小魚が住み着き、より川は綺麗に、豊かになります。

自分の設計した総コンクリート堤防で川を殺している
※「1級建築士」は、見習う必要が大です。

確かに、自分は庶民ではなく、乗る車も服も家も違うエリートかもしれませんね。

しかし、作ったものが、戦国時代のそれよりはるかに見劣りする事に着目するのも必要です。
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東に北条。

南に今川。
となると武田の進撃ルートは信濃になります。
国力も無いのにいきなり北条、今川を攻めるなんてしません。
彼らに対抗するためにも信濃は確実に取らねばいけませんでした。
しかも時間をかけてはせっかく父を追放してまで手に入れた当主の座の信用が堕ちます。
でも意気込んで信濃侵攻戦をしたものの緒戦に信玄は大敗しています。
若さゆえに焦ったのか正面から挑んで部下や親族にいきなり戦死者を出しました。
おそらくここが信玄のターニングポイントですね。
これ以上の失態は当主失格の烙印という背水の陣。
もはや手段は選ばない。かなり悩んだそうですよ。
ここに戦国大名武田信玄の修羅の道が開眼します。

みんなに認められて父を追放して当主になって鼻を高くした矢先にへし折られたのです。
しかも弱小勢力相手にボロ負け。
一夜でないにせよ、信頼を得た矢先に失ったのです。
以後はこの惨敗をかき消すほどの活躍を見せました。
かなり懲りたんでしょうね。
でも、ここで大失態を犯してなかったら名将武田信玄は生まれなかったでしょう。
私としてはここで立ち直ったことが評価高いですね。
落ち込む信玄を励ました家族も素敵です。

この辺りは織田信長も一緒ですね。
すぐに美濃を攻略できると思ったら10年かかってしまった。
でも取った後は大名としての貫禄が出ましたから。

後継者問題よりも部下が信玄に頼りすぎてまともな戦略眼を持った武将が少なかった。
戦略眼を持っていたのは真田幸昌くらいでしょうか。

後はみなさんのとおりでしょう。
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領土だけ見れば織田信長には及ばないかもしれません。



けれども、信玄の周りは北条や上杉や今川、そして斉藤と強力な大名がいました。

しかし、織田信長の場合は尾張を統一した後は伊勢には北畠に攻め込みましたが伊勢は土豪がたくさんいまして全員が北畠のいうことを聞いていたわけではありません。次に美濃ですが、さすがに一枚岩でしたから10年くらいかかってます。

次は六角ですが六角は畿内の大名にも憎まれてましたから助ける者はおらず簡単に滅ぼすことができました。

後は織田信長の快進撃は言うまでもありません。

信玄の場合と比べてしまいますと、小さな土豪はいましたが背後に上杉やらとがいました。

やはり、周りの大名の差でしょう。

こう考えてみると今までどちらかといえばマイナーな大名と戦ってきた信長が強敵とばかり戦ってきた信玄を怖がっていた理由がわかります。

武田勝頼の場合は仲間割れや家来が言うことを聞かないのが多かったようです。
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まだ出ていないことを中心に書きたいと思います。



勢力ですが、最大のときは駿河や遠江はもちろん、美濃や上野などにも広げています。相当の範囲だと思います。

騎馬軍団、これもかなりのものだったようですね。設楽原でも、馬防柵を破りかけていたそうです。破られたら、鉄砲隊は蹴散らされていたでしょうね。また、このときは2倍以上の兵力を相手にしていることも考慮しなくてはなりません。

欠点といれば・・・後継がうまくゆかなかったことかもしれません。勝頼を後継者として早くから育てる(あるいは信玄自身がもうすこし長生きするか)などしていればまた違っていたのでは、ともいわれています。
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ゲームでの評価は別として


1.諏訪頼茂と講和後謀殺したのは頼茂自身に謀反の動きもあり、また諏訪は要衝の地で確保しておく必要もありました。 
戦国期このような行為は日常茶飯に行われていて意外でもなんでもなく、とくに汚点となるものではありません。
従って信玄の謀略を嫌う事なく、足利義昭なども同盟を申し込んでいます。

2.父親を追放したのは臣下の信望もなく、甲斐経営の意志も弱く、そのままでは国を保てなかった為でやむを得ない事情があったのです。
家臣達も同様の意見でしたから追放後信玄を国主としてよく補佐したのです。
勿論潔癖な上杉謙信などは嫌ったでしょうが。

3.信玄は治水や直線的軍道の建設、金山の開発など領内の統治に気を配り、領民の信服も厚く甲斐の内に城を築く必要はないほどでした。 領土を拡大して甲斐の中では戦争もない平和を維持し続けたのです。

4.信玄の軍の統制手段は特に優れていて、戦闘中も陣立ての変更を整然と行われる程で敵将をうらやませました。 手足のように軍勢を動かすので後に徳川家康は武田家滅亡後、武田の遺臣を多数召し抱えその軍制を採用し、先手を勤める井伊直茂に集中配備し朱色の具足で井伊の赤備えと恐れられた位です。

5.上杉との戦いは能力伯仲で、当時の上杉軍の強さは有名でしたから互角の戦いは当然といえましょう。
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武田信玄は小国から生涯を通じて地方をまとめ上げました。

信長のような発想の飛躍もなく古いタイプでした。
信玄つづみなど戦闘だけでなく国力の整備にも力を尽くしています。海舟によれば早雲と並んでかの地方ではいとくが忍ばれているということです。

謙信と正面衝突しなかったのはさすがと思います。

古今を通じて肉親や功臣を粛正したり排除するのは偉人のつとめです。まして信玄は殺していないのですから。
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武田信玄は戦術的にはあまり優れてはいませんが、戦略的にはそれなりだったのではないでしょうか。


上杉謙信との北信濃の争奪でも戦闘は上杉方が勝っても、そのあといつの間にか上杉方のほうが後退しているという例が多いようです。
勢力が飛躍的に大きくなれなかったのは、信玄の本領である甲斐がもともと生産力は高くなく、それほど大きな兵力を養えなかったこともあります。
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