激凹みから立ち直る方法

なぜ、(自己)満足しようと思うのでしょうか。

漠然としていて、申し訳ございません。このことに関しては、自分自身、どう思っているのかわからないので、コメントは控えます。

A 回答 (43件中31~40件)

●わたしは 自己満足はミームに由来するとは 考えていませんし


 ここでそのように言ってもいません。
 人間の自己満足が自然を破壊している。というようなあなたの着眼に対して
 よりその考察を深める考え方を述べているだけです。

 縄文人と弥生人のちがいは 環境を破壊した点です。
 弥生人は稲作というミームでそれ以前の環境を破壊したのです。
 この考え方は 環境考古学といいます。興味があるのなら検索してみてください。
 
 自己満足といっても 解釈はいろいろあるし 自己満足に拠らない生き方も
 沢山あります。少なくとも わたしは自己満足では生きていませんし・・・。
 自然を破壊しているのは 自己満足にかかわらず それはミームの
 レトリックですよと 言っているわけです。
 安価なハンバーグを食べなければ自己満足できないわけではないでしょう。
 高価なハンバーグでも満足するわけなんです。
 ハンバーガーショップも儲かればいいわけで 森林を破壊してまで自己満足
 しようなどとは思っていないわけです。経済というミームが
 一方ではグローバルであり そのまた一方ではパーソナルでもあるという
 レトリックが自然を破壊しているのではないかな?と考察しているわけです。
 これは例えばのはなしで 実際のミームはもっと複雑に入り組んでいて
 そのふるまいをコントロールするのは並大抵ではできないでしょう。
 わたしはその解決を ネットワークで繋がった世界中のコンピューターの
 「共通の意識」が担うであろうと推察しております。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。
ミームのレトリックを紹介してくれたのですね。てっきり、chihokoさんが自己満足をミームで収めようとしているものだと思っていました。

自己満足で生きていないとはどういうことでしょうか。

ハンバーガショップの利潤追求行動は満足を求めているのでは。
実際に破壊しているとわかっていても森林破壊は止まっていませんよね。

お礼日時:2002/02/16 10:30

●遺伝子とミームの内容が同じなら同じような人間になるのは当然だと思います。


 しかし机上の空論は それ以外のなにものでもありません。
 こころはミームの中にあるかどうかは そのこころを観察してみてください。
 すべて個別の問題でそれを総括することはできません。
 大切なのは 自分のなかのミームと遺伝子のふるまいを ハッキリと認識する
 ことなのです。

●縄文人はミームをあまり活用しなかった。と述べましたが それは縄文人とて
 ミームに浸かって生きたことにはかわりないのです。
●是非 ミームの無い遺伝子だけの自分をイメージしてみてください。
 できたら実践してみてください。
 言葉はミームです。ことばを使ってはいけません。ことばをつかって
 考えてもいけません。テレビを観てもラジオを聞いても本を読んでもいけません。
 経済はミームの化け物です。熱帯の森林の破壊の原因はハンバーガーだ とも
 言われています。食べるときもその銘柄を考えてはいけません。
 身体が覚えたミームも排除しましょう。ラジオ体操は不可。オナニーは可。
 そうして 残ったものがあなたのDNAが持つポテンシャルなのです。
 それは自己満足というような小さなものから離れた自然と密接に繋がった
 生きることそのものに感じられるはずです。
 それを 「ぬけがら」だ と感じるか。 それとも自分の本質だと感じるか。
 ミームにふりまわされている人間の なんと「ぬけがら」たるかを知るべきです。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。
chihokoさんが、自己満足の根源はミームにあると結論付けているので、おそらくミームに対する価値観は揺るがないものだと思います。

しかし、私には疑問が残ります。縄文人はミームを余り活用しなかったとありますが、縄文人にも個性があり、土地柄によっても食物の好みや、住環境、相方の相性などがあったと思います。そもそも、縄文人と現代人の区別はどこにあるのでしょう、確かに身体のつくりが違うかもしれませんが、遺伝子などは数万年以上前から継承されてきていると思います。

縄文人と現代人は(ヒトとサルのように)違う生き物なのですか?話はかなりそれますが、地球以外に生物がいて、言語や社会環境が異なっていても、遺伝子構造のパターンや、身体的特徴が一致していても、違う生物となるのでしょうか。

お礼日時:2002/02/14 17:49

>勝手に解釈して、未だに満たされていないということにしましょう。

自己満足は満たないもので、満たそうとするためにランチさんは生きてらっしゃるのですか。
 
すっごく答えにくいんですが、満たそうとするために生きているわけではありません。何故ならすでに満たされているからです(いいすぎかな、。)。だからと言って、死ぬわけでもなく、しかし、生き続けようという意思があるわけでもありません。ハイな時はハイに浸かっており、苦しい時は苦しみに満ちています。泣く時は涙に溺れます。
涙に溺れながら、ウレシさに満ちる事もあれば、渇きながら、欲望に満ちる事も多々あります(笑。
 
水がない時は砂漠に満ち、太陽のない時は、月に満ちます。
今に生きるときは、永遠に満ち、その時すでに生きているので、同時に無に満ちています。

夢に満ち、現実にうれいます。

  ・・★☆ 人を求める時には、己も求めます。 ☆★・・

私のお腹には、ビーカーのようにメモリが打っているわけではありません。ガラスで限られているわけでも区切られているわけでもありません。
それは、私自身であり、「秤ではない」からです。また、計り知れるものでもありません。ビギナーさん自身にも同じことが言えると思います。
>ランチさんの考える自己満足とはどのようなものでしょう。
私の自己満足は、全体がすでに満たされている事です。
全体と私の関係は非常に語り難く、自と他があるような関係ではありません。
どちらかと言うと、自も他も、ともに無いというほうが近いです。
全体はすでに満たされており、計り知れない自分が満たされるのは、全体が満たされない限り、言いようがありません。
 
「不幸な時は、涙とため息と、希望に満ち足りています。」

至福の時は、真っ白な光(かなりあかるい)?になって眠ってしまいます。で、何がどうなったかよくわからないのです。なぜか、。(笑
 
そういうときに、そばに大事な人(彼)がいない事はありません。
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この回答へのお礼

ランチさん、ありがとうございます。
人は量れないと、ありますが、どうでしょうか。確かに、目に見えないものは量ることができません。しかし、人は、社会生活において人と人を比較しています。容姿、(経済的)身分、思想、学歴、性別などによって。ランチさんの彼氏においても例外はありません。どのような点が良かったのかはわかりませんが、自己もしくは他者と比較して、量って、選択したと思います。人を量れないのであれば、選択などできないと思いますがいかがでしょうか。

自己満足においても、同じだと思います。「わからない、量れない」でかたづけると、そこで終わりです。

お礼日時:2002/02/14 17:26

No.6の返答についてのコメントです。



>欲望があるから自己満足を満たそうとするということですが、
>その逆の場合は、どうでしょうか。

「欲望」という原因があり「自己満足」を満たす行動をするというのが
私の言いたかったことです。

逆ということは、「自己満足」を満たすために「欲望」があるのではないか
ということでしょうか。現実に当てはめると、ちょっと成り立たない理屈の
ように思います。

例えば、肉体が疲れた時に「寝よう」という欲望が生じ、実際に「眠る」
ことで欲望を満たし、自己満足を得ます。
また腹が減れば「何か食べたい」と食欲が生じ、ここでお腹いっぱいに
「食べる」ことで食欲を満たし、自己満足を得ます。

自己満足を得るがために「眠り」ますか?「食べ」ますか?
「何か満足したい」という思いがあって、その結果「寝たり」「食べたり」
することはありえますが、そうなると「何か満足したい」という思いも、
また一つの欲望となっているのではないでしょうか。


欲望が原因であり、自己満足は欲望を満たした結果であると私は考えます。
結果と原因が逆転するということは、この件に関してはありえないと
私は思いますが。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり、申し訳ございません。
cse_riさん、ありがとうございます。最近になって、自己満足と欲は同一のものだと思ってきました。そして「欲」とは追求するものであって、食欲や睡眠欲、排泄欲は、生命維持を行うための必要十分条件で、「欲」ではなく、「本能」だと思います。

お礼日時:2002/02/16 12:52

ご指摘、ありがとうございます。


私が前に述べたのは、あくまでも欲望の発生について、極めて原理・原則的なものだったので、現代の問題とは少しずれるでしょうね。
私は最後に「(社会化された)自然的欲求」と書いたのですが、
人間の社会が成立―発展してくると、動物(あるいは人類がまだそれに近い段階)では自然的な欲求も社会的な性格を帯びるようになります。
つまり、本来自然的・本能的な欲求もそれに基づく行為によって満たされる「満足」もまた、人間が存在する社会によって再形成されていきます。ですから、ここまで高度に発展した社会においては自然的なものと社会的なものとの境界線はあやふやになってしまうのも当然のことだと思います。
beginnersanさんが指摘なさった点は、「(現在の日本社会の姿に規定された)社会的な自然的欲求」と言い換えることもできると思います。

欲求に基づく以上、(自己)満足もまた同様に本能的で生命の維持や種の保存のために必要な欲求が満たされることと社会によってつくられた欲求を満たして得た満足との間は曖昧で、厳密な線引きはできないのが現実だと思います。
ですから、実践的に欲求や自己満足について考察するには社会そのものも同時に分析する必要も出てくるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

toshi-booさん、ありがとうございます。
欲求と自己満足の明確な境界は、高度な社会ではあやふやなものになるとおっしゃっていますが、原則的には明確に分かれているのですね。少し、話が外れるのですが、「欲求」とは、欲を求めるとあります、「欲」はそれだけでは、何も働きがなく求めるからこそ、意義があると思うのです。ところで自己満足も、満足を求めようとするから、自己満足としての言葉の意義があると思うのです。このことから、欲と自己満足は同じものと思うのです。そうすれば、欲と自己満足が同じと考えるのであれば、自己満足を自己満足で比較すること自体意味がないように思えます。
<できれば、満足の追求と欲の追求の説明お願いします>

お礼日時:2002/02/14 17:14

●あなたの 疑問の着眼はとてもすばらしいです。


 ただ人間が自然を破壊しているのは「自己満足」としてしまうのは
 問題の解決には つながりません。

 自然と人間の違いに着目してください。
 自然界の動物が「狩」をするのは40億年の時間の記憶(DNAの情報・本能)
 に裏付けされているのです。
 人間のそれは ミーム(この言葉が分らなければ検索して調べてね。)
 によるものでその成り立ちにかかわる時間は何十年とか何年というものです。
 その証拠にミームをあまり活用しなかった縄文人は 自然を破壊することなく
 一万年の文明を存続できました。
 問題は自己満足にあるのではなく ミームの持つ「レトリック」にあるのです。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。
問題はミームにあるとのことですね。では、人の気持ちはどこにあるのでしょうか。~になりたい、~したいという気持ちはミームにあるのでしょうか。遺伝子とミームのパターンが一緒であれば、同じ人間(肉体的特長ではなく精神的に)が創造できると思いますか。

お礼日時:2002/02/13 17:23

始めはむ話が「欲求」の方へとずれるのですが、「(自己)満足」ということを考える上で必要だと思うので、少し述べたいと思います。


欲求と一言で言ってもいろいろあるのは、前のDASSさんのおっしゃるとおりです。
そこで欲求(あるいは「必要」とか「要求」とも言えるのですが)の中身をカテゴリー化すると、
1自然的欲求…衣食住への欲求、休息欲、性欲など
2社会的欲求…向上欲、学習欲、社交欲、金銭欲、疎外された形での性欲など
1は動物も持っている欲求ですが、動物の場合、この欲求が満たされると満足して欲求そのものがしばらくの間なくなります。
しかし、人間の場合、1が満たされることによってそのまま欲求が消滅せずに、2の社会的欲求に転化するのではないでしょうか。
例えば、ライオンや狼などの狩は空腹が満たされた段階で食欲そのものがなくなり、他の動物を襲うことはなくなりますが、人間の場合、狩猟をした後に、その場の食欲などを満たすことにとどまらず、(原初的には)保存しようとし、やがて社会そのものが発展すると、その場の食欲を満たすためではなく交易のため、あるいは狩そのものを楽しむためにそれを行なうようになりました。
つまり、自然的欲求→自己満足、自己満足→社会的欲求、社会的欲求→自己満足、自己満足→(社会化された)自然的欲求…という流れになっていると思います。

要するに、人間の持つこの二つの欲求の間にあって、両者の媒介となるのが「(自己)満足」の原理的な姿だと思います。
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この回答へのお礼

toshi-booさん、ありがとうございます。
言葉を返すようですが、toshi-booさんが定義する欲求の流れには問題があるように思えます。食欲、睡眠欲、排泄欲などは生命を維持するために必要な欲で、優先的に求められます。しかし、性欲や「衣」「住」に対する欲を飛び越えている現状があります。性欲と繁殖能力は別だと言われるかもしれないのですが、1つにDINKS(Double Income No Kids)、「衣」はユニクロ現象(お金をかけるファッションの減退)、「住」は一戸建て離れ(価格の高い一戸建てより、低価格で機能的なマンションを選択する傾向)を見ると、1.で定義されている欲求を飛び越して、2の欲求が先のような気がします。

ここ最近の傾向なので、厳密に言えば、時代によって優先されるべき欲求形態は変化するということでしょうが…

私のように考えれば、最初の段階の自己満足も時代によって変わると思うのですが、優先すべき自己満足と生命維持以外の自己満足は違いがあるのでしょうか。自己満足にも種類はあるのでしょうか。(混乱してきました)

お礼日時:2002/02/13 17:11

人には欲望があるから、その欲望を満たそうとする行動(自己満足)


に走るのが人間だと思いますよ。

じゃ欲望ってなに?という話になるかと思いますが、
食欲・睡眠欲・性欲など肉欲レベルから、カネが欲しい・地位が欲しい・名誉が
欲しいという社会的欲望、さらには自己完成を目指すといったいささか
崇高な欲望にいたるまで、人間にはいろんな欲望があります。

人によって満たそうとする欲望の種類が異なるから、人間はいろんな
行動をするんですよね。


それじゃ何で人間に欲望があるの?という疑問も出てきますが、
私は正確な答えを持っていません。けれども人間がそういう風にプログラム
された存在だということには間違いなさそうです。

さらには誰がそういう風にプログラムしたかという問いも出てきますが、
そういうことを考えると、超越的な存在にその起源を求めざるを得ないのでは
ないかと考えています。

少し前の本ですが「生命の暗号」著者:村上 和雄/サンマーク出版
にそういう話が詳しく紹介されていました。興味があればご一読を。
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この回答へのお礼

cse_riさん、ありがとうございます。
欲望があるから自己満足を満たそうとするということですが、その逆の場合は、どうでしょうか。あと、プログラミング説のことですが。神は人間が作ったことは確かですが、人間は(形のない)何かによって造られ、全て仕組まれているとのことですね。そのように考えると、都合がよいのですが、その流れで行くと(形のない)何かは何によってプログラミングされているのでしょうか。こう考えると、私はプログラミング説には、納得できません。

お礼日時:2002/02/13 16:47

「生きるため」だと思います。



全ての生き物は生きるために満足しようとしています。
満足とは、要求を満たしたいと思う事です。

では、どうして欲求が生まれるのでしょうか?
その前に、どんな欲求があるのか考えてみましょう。
動物として次の3つが挙げられます(他にもあるかもしれませんが)。
「食欲」「睡眠欲」「排泄欲」
いずれも、「実行しなければ自己の生命に危機が生じる欲」です。
つまり、「欲とは、自己が生きるために満たさなければならない事」と考えられます。

人間の場合は複雑で、「金銭欲」「名誉欲」「性欲」など、『生きるために満たさなければならない欲』以外の欲があります。
これらがどうして生じるのかについてはいまだに考えあぐねているところです。
快楽・快適の追求とするには余りにも強い欲求ですよね。
ただ、「安全に生き続ける事」は、快適である事につながるような気がします。
「暑すぎて不快」「寒すぎて不快」「腹が減って不快」というように、「不快な事は、生命を脅かす事」と捉えると、快適の追求は、生命存続に必要な事というつながりが見えてきます。
たぶん、原始人時代から社会生活を続けてきたなかで、より快適を求め続けた人類が身につけてしまった欲なのでしょう。

一応、植物の事も書きます。
「欲」というと誤解を招くかもしれませんが、植物もよりよく生きるために太陽に向かって大きく育とうとします。
例えば、小さな木は大きな木に太陽光が遮られてしまい、成長が止まってしまい、最悪の場合は死に至ります。
大きくなる事が、樹木にとって生き続けるための努力・・・「欲」があると言えるのではないでしょうか。
菜の花やタンポポのような草花にしても、生き続けて子孫を残そうとする事には変わりがありません。

ではどうして生き物は生き続けようとするのでしょうか?

やはり遺伝子レベルの話しになるのでしょう。
「生物の使命は遺伝子の存続である」と聞いた事があります。
確かに、全ての生物は遺伝子の増幅を行っています。
それも、細胞分裂のような簡単な増幅ではなく、わざわざ雄と雌を作って遺伝子が混合されて、より優秀な遺伝子を作り、残そうとさえしています。

ではなぜ遺伝子は生きよう(残ろう)とするのでしょうか?

どんどん推測の中に入っていきますが、「いくつかのいろいろな遺伝子が生まれたが、生き残ろうとする遺伝子だけが生き残った」と考えられるのではないでしょうか?
当たり前のようですが、「生き続けようとしない、一代限りの遺伝子」が誕生したとしても、一代限りですからそれで終わりです。
残りたいと行動する遺伝子だけが残り、今の我々になったと考えてはいかがでしょうか。

ではどうして残りたいと行動する遺伝子が生まれたのでしょうか?

神様の仕業とは思いたくありませんが、これほどまでにいろいろな偶然が重なると、超越的な存在も考えたいものです。
しかし、この宇宙にはたくさんの星があり、たくさんの「生命が誕生できそうな惑星」があると考えられます。
中には、「一代限りの生物」しか生まれていない星もあるのでしょう。
たまたま生き続けようとする生物が誕生した地球という星で、生命の連鎖が続いているなかで、たまたま我々が誕生し、たまたま質問を立ち上げ、たまたま回答をしているのです。

過ぎてしまえば、既成事実ですし、当然の事のように思えますが、本当は偶然に偶然が重なり合って今という状態になっているのではないでしょうか。

哲学、および、ご質問の内容から大きく離れてしまいましたが、前回のご質問から考え続けた結果です。

長くなってごめんなさい。
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この回答へのお礼

DASSさん、ありがとうございます。
回答を読んでいて、気になることがありました。そもそも、欲はどのような状態で発生するものなのでしょうか。欲によって、自己満足が発生するのか、自己満足によって欲が発生するのか、どっちでしょうか。

お礼日時:2002/02/12 20:31

私は自己満足で、お腹いっぱいになったことはありません(笑


やせのおおぐいかな?(笑
 
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この回答へのお礼

summer_lunchさん、ありがとうございます。
ランチさんの自己満足については、1行でもいろいろ考えさせてくれます。勝手に解釈して、未だに満たされていないということにしましょう。自己満足は満たないもので、満たそうとするためにランチさんは生きてらっしゃるのですか。ランチさんの考える自己満足とはどのようなものでしょう。

お礼日時:2002/02/12 20:24

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