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鎖国政策の中で、1624年にスペインが来航禁止、1639年にポルトガルが来航禁止になっています。その背景はやはりキリスト教対策と考えていいと思うのですが、オランダはキリスト教を日本に布教しなかったから(キリスト教信者がいたとしても)、来航禁止にならなかったのでしょうか?

A 回答 (5件)

専門家ではないのですが・・・・



キリスト教の布教は、結局、植民地を増やすという目的が強く見える状況だったかと思います。
だからこそ、ポルトガル・スペインは排除され、そういう目的が少なかったオランダが残ったと思います。
宗教的側面だけでの判断ではなかったと思います。

これは、南米のインカ帝国などが侵略され、そのまま植民地化されたことでもわかり、日本への布教活動も宗教的側面のみならず、軍事/外交戦略的な側面を持ち合わせていたことを想像させてくれますね。
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この回答へのお礼

そうだったんですね。国の方針だったとは知りませんでした。お手数かけました。おかげで納得できました!!

お礼日時:2006/07/20 01:37

キリスト教の布教が無くても


鎖国政策の可能性は十分にあったと思います。

というのも当時のヨーロッパ諸国は
植民地政策(とそれに伴う奴隷貿易)が
広く行われていてその隠れ蓑として
キリスト教布教が使われていました。

鎖国政策といえば
江戸幕府になってからのものが有名ですが
それよりも前に元々キリスト教を推奨していた
豊臣秀吉がキリシタンの危険性にいち早く気が付いて
キリスト教を禁教にしています。

江戸時代に入ってからの鎖国政策は
キリシタンの危険の排除に加えて
対外貿易の利益独占の為に
より徹底して行われた政策です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/jap …
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キリスト教対策と通常は言いますが、厳密にはカソリック教会(イエズス会)対策です。


カソリック教会はローマ法王を戴く、現代でも最大の宗教組織です。

1600年代、植民地化政策がヨーロッパで始まった頃、カソリックは最大のパトロンでした。その資産は、当時のヨーロッパ各国の1国の富より大きかったのです。
そのため、商人や植民地化しようとするスペイン・ポルトガル政府は実利を、カソリック教会は信者を増やすために結託して船を出しました。
宣教師は、布教し信者を増やす役割と共に、侵攻しようとする国を査察(スパイですね)し逐一本国に伝えていたのです。
それを見破った秀吉・家康の政策でキリシタン(カソリック教会)禁止政策が取られたのです。

多分最初はキリシタンだけ禁止すればよいと思ったのではないでしょうか、海外貿易はものすごい利益を生んだようです。
しかし、やはり国と教会を分離することが出来ずに渡航禁止になったのだと思います。

ちなみにオランダは、キリスト教国ですが、プロテスタントの国で、カソリックのスペインから独立した国ですので、カソリック教会の影響はないとされて出島の渡航が許されました。
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当時のポルトガル王は、スペイン王フェリペ3世が兼ねており、同君連合の形で、外交に関しては、一体化していました。


そのため、スペインの来航禁止とポルトガルへの禁止は、同一の物と考えてさしつかえありません。
スペインとポルトガルが分離するのは、1640年です。

スペインやポルトガルの日本への来航禁止は、イギリスとオランダの誇張した話を日本側に流した事も原因としてあるようです。
当時のイギリスは、徹底したスペイン嫌いのエリザベス1世の治世の時代でしたし、オランダは、スペインとの独立戦争に決着がついていない時期です。

この2国が、自分達の行為を棚に上げて、スペイン・ポルトガルの危険性を誇張した事も原因でした。

植民地を直接搾取したイギリスやオランダに比べ、ポルトガルの植民地は、ポルトガルの人口の少なさから、通商を独占するのみに留まる場合が多く、現在考えている植民地形態とは、異なっています。

スペインの場合も、アメリカ大陸では、直接統治ですが、アジアのフィリピンの場合、地理的関係もあり、やはり通商の確保が中心でした。

ただ、スペイン・ポルトガルの場合、ローマ教皇との協定により、植民地にキリスト教を布教させる義務が課せられており、その代償として、住民が教会に納める1/10税の一部を、スペイン・ポルトガルの国庫収入とする事ができました。
(実際には植民地化しなくても、植民地宣言し、そこでカトリックが広まれば、自然とスペイン・ポルトガルの利益になったのです。)

日本でのカトリックの布教は、スペインやポルトガルの国庫収入を増やし、国力の増強になります。
カトリックの布教を禁ずる事は、そんなイギリス・オランダの利害にも関係していました。

イギリス国教会は、イギリス独自のキリスト教ですから、海外布教には熱心ではありませんでした。
オランダの改革派教会も、この当時は、教義が固まっておらず、とても海外布教などできる状況ではありませんでした。

国教会・改革派教会の教義が固まるのは、ピューリタン革命(1642年)から名誉革命(1688年)にかけてです。
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下でも述べられてるように、この頃のキリスト教はカルト教団です。


今のような親切?な教団ではないのです。

国民が洗脳されてはたまったもんじゃないですからね。
戦国の乱世を生き抜いた人間がこんな危険な教団を見過ごすはずはありません。
オランダの策謀もありますが、決断できたのは乱世を生き抜いた者の嗅覚でしょう。

民衆から税を取って暮らすのが支配者。
それが教会へ横取りされて富が海外流出なんかされては支配者の威厳が無くなる。
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