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ナポレオンに滅ぼされてから普仏戦争でドイツ帝国を樹立した間では、ドイツでは正式名はなんと呼ばれていたのでしょうか?プロイセンですか?

A 回答 (5件)

ナポレオンに服属して以降は、まずライン同盟、その後ウィーン議定書によってドイツ連邦、プロイセン・オーストリア戦争以降、北ドイツ連邦および南ドイツ諸邦の共存状態という変遷ですよね。


いずれも中央集権的な統一国家ではありませんので、正式名称と言われても少々困りますね。
ある程度、各領邦が主権をもってドイツ全体がゆるやかに統一されていたのは、ドイツ連邦くらいでしょう。
プロイセンは、一領邦にすぎませんから、統一以前の状態で、プロイセン=ドイツの正式名称という考え方は違います。
まあ、国家としてではなく、一地方としてドイツと呼ばれていたというところではないでしょうか。
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ナポレオンの退位後、オーストリア主導のドイツ連邦が成立していますが、これは連合体というより調整機関(国際連合のような)でした。


結局、ドイツはドイツだったわけで・・・。
なお、プロイセン王国の元になったのは、ブランデンブルク選帝侯領とプロイセン公国ですが、プロイセン公国はポーランドに臣従していたので神聖ローマ帝国には属しませんでした。
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まずよく間違えられるのですが


ナポレオンは神聖ローマ帝国を滅ぼしていません。
神聖ローマ帝国は自主解散です。
バイエルンやバーデン等、主要な加盟国が
脱退してフランス主導のライン同盟の加わったことから
フランツ1世(2世)が自主的に帝国を解体して
オーストリア帝国として再編したのです。

次にドイツにはオーストリアを含む大ドイツと
含まない小ドイツとがありますが、
ナポレオン時代、変遷はありますが、
ドイツ地方を構成する主な国家としては
オーストリア帝国、プロシア王国(プロイセン)、ザクセン王国
バーデン大公国、バイエルン王国、ウェストファリア(王国)
ヴュルテンブルク王国、ナッソー公国、ヘッセン大公国、
ハノーバー(選帝侯/王国/英・普領)、メクレンブルク公国などがあります。
これらの多くは現在では州名となってますが、
要するに、普墺戦争および普仏戦争で
ドイツ帝国を樹立する前までは
ドイツ地方は分裂状態だったわけです。

ドイツという名称は国家名ではなく、長く地方名だったわけです。

それで
神聖ローマ帝国→オーストリア帝国→オーストリア=ハンガリー帝国→オーストリア共和国→
プロシア王国→北ドイツ連邦→ドイツ帝国→ワイマール(ドイツ)共和国→ナチス・ドイツ→東西ドイツ

となるわけです。
ま、簡単に考えれば神聖ローマ帝国はオーストリアなのです。
プロシアは、神聖ローマ帝国の加盟国として選帝侯ながら
帝国外では王国という地位であって
半分は帝国の部外者。


ちなみに神聖ローマ帝国の版図とライン同盟の版図は
かなり違います。
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#1さんが既に解答されているように、のちのドイツ帝国となる地域は領邦のまとまりですから、なんとも答えずらいのですが、かつて神聖ローマ帝国であった地域は、フランス領+ライン同盟(1806-13)となっているようです。

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プロイセンはドイツのひとつの国(領邦)でしかありません。


神聖ローマ帝国時代もそうですが、政治的にはドイツはいくつもの領邦にわかれており、神聖ローマ帝国崩壊後もドイツ全体の領域はドイツと呼ばれていました。(ちなみに神聖ローマ帝国の初期には皇帝はイタリアで教皇から戴冠を受けた場合にのみ名乗れたもので、そうでなければドイツ王でした。)
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