このタイトルが適切かどうかも分かりませんが・・
たとえば。たとえばですよ。

身近な人を(同僚、知人、親など)事故で亡くした時、
「なぜ死ななければならなかったのだろう」と考えますか。
あんなにやさしくしてくれたのに。あんなにいい人だったのに。
寿命だから仕方ないのでしょうか?
いい人だからこそ早死にしたのでしょうか?

2人のお婆さん(父方+母方)がほとんど同時期に亡くなった時。
人をまるで信用せず、忌引きを認めずあまつさえ嘘吐きと決め付け
その他いろいろな理屈をこじつけてクビにしてしまう会社が存在する。
人を亡くして悲しんでる上に首を切って路頭に迷わせてなんとも思わんのか。
そういう人事をおこなうその会社の部長&副部長に、その同じ気分を味わわせるべきとおもいますか?

出鱈目なタバコの吸い方をして家を燃やしたヤツが反省もせず、のうのうと生き続けている。
真面目でタバコを吸わないその家の持ち主は焼死してしまった。
この世では、真面目だと馬鹿をみるのだろうか?
いい加減で出鱈目なほうがのうのうと楽しく生きれてお得なのでしょうか。

ちなみにたとえ出鱈目がお得であっても、自分なら出鱈目よりも真面目をえらぶだろう。
しかしそれはなぜなのか自分でも解らない。

こいつヤなヤツと思った時、その者のことをを「死んでしまえ」と言ったり思ったりしたことはありますか。
しかしそれは逆で、むしろ「もっと生きて反省しろ」と言うほうが当てはまっているのでしょうか?

なにやらとりとめも無く、これが質問といえるものかどうか怪しいところですが
それでも何か回答を書いてくださるという方、お待ちしております。

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A 回答 (6件)

私は無宗教ですし、哲学もよくわかりませんが、不条理があるのも、脳を持った人類に生まれてしまったからでしょう。


最近は、犯罪を犯しても、反省しない人も多いですしね。
私たちは、他人の心情をしることはできない。ただ憶測するだけです。
世の中には本当に腹の立つことがあふれています。私だって、しょっちゅう「死んじゃえ!」と思いますよ。でも、私は殺人者になりたくない。
人は寿命を持っていて、その中で春夏秋冬があるんです。死ぬということは、本人の無念は確かにあるでしょうけれど、この世を卒業したんですよ。残された私たちは、まだ「学ぶ」ために、生きなければならないし、生きることには必ず意味があると思います。
「巴里の空の下セーヌは流れる」という、昔のフランス映画、ご存知ですか?
まさに不条理だ、とラストに思いましたが。

幸せになるということが、自分だけではなく、周りも幸せにすることだと思う人がたくさん増えれば、本当に素敵な社会になるのにね・・・。

回答にはなっていなくて、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

回答になってないだなんてとんでもない。
素敵な回答、ありがとうございます。

この世というは学校のようなもので、学ぶために生きている、
そして「死」とはこの世という名の学校を卒業することなのですね。
早死にであっても、それは「退学」ではなく「卒業」なのですね。
しかしわざと死んだり死なせたりするのは違うということで。

腹の立つこと、有りますね。
つい数日前も、この「教えて!goo(OKWeb)」で
ある質問に回答したのですが、何の返事もなく(しかも他の回答には全てお礼が書いてある)、
質問内容もだた一方的に他人を悪者にばかりしてるだけだったので、いささか腹も立ち、
もういちど、今度は諌める言葉を回答として書いたのです。
あの質問者がいつまでも人を悪者にして生きていかなければならないかと思うと、
居たたまれなかったからです。
しかし、その回答はここの管理者に消されてしまいました。
こういう場合、黙ってたほうがよかったのかもしれません。
ちょっと腹をたててしまったばっかりに、
何のためにもならぬ、つまらぬことをしてしまった自分がなさけなくなりました。

僕も無宗教です。
こういうことを考えるのが哲学なのかどうかもよくわかりません。
しかし、自分も周りも、皆が幸せになることを願っています。

お礼日時:2002/03/09 14:42

こんばんは。

私はとてつもなく自分本位の考え方の持ち主です。従って、おっしゃるような、自分に対して何か悪さをした人がいた場合、その本人に対して仕返しをしないでは済まされません。実現できてなくて幸いなのでしょうが、罪にと割れない限りぶち殺したい人間が両手の指では足りないくらい存在します。生まれてくる時代も、家庭も間違っていたように最近思い始めました。ただ、故・ジャイアント馬場さんが「騙すより騙された方がいい」とおっしゃっていまして、彼を尊敬する立場から、これを座右の銘としています。出きれば正義の鉄槌を自分で振り下ろしたいのですが、現実に私にはその資格がないようです。諮問者の方の意に添うか否かわかりませんが、人間的にレベルアップして時が経てば、周囲があなたにとって円滑に動き始める時が来ると思います。

この回答への補足

回答してくださった皆様、改めましてまことに有り難うございます。

ほんとうはすべてのかたにポイントを差し上げたいのですが、
代表として2名のかたに付けさせていただくことにしましたのでご了承ください。
皆様のご多幸を祈ります。

補足日時:2002/03/10 11:52
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですか・・そうですね。
僕にも正直言って、どうしても許せない、仕返しをしてやりたい、
もがき苦しみ続けなければならない状態に追いやってもなお飽き足りない人間がいます。
その人間とは、某警察の刑事です。
僕の知人に無実の疑いをかけ、散々ナグサミ物にしたのです。
詳しい内容は・・ここではとても書き切れません。
その知人はこの世を嘆いて亡くなりました。
ちょっと可愛いというか、とてもやさしくていい知人でした。
刑事に「キサマはドーショーモネエエヤツダ」などと口汚く言われたそうです。
その刑事には妻があり子供もあると聞きました。
いくらその刑事が、家庭に居るときは「善きパパ」であっても、
僕にとっては、その刑事のほうこそが、愚劣かつ卑劣な、どうしようもない存在でしかありません。
しかし法曹も天皇も、そういう刑事に対して正義の決断を下すことを全くしません。
その刑事は、罪には問われないかもしれない。しかしその刑事は正真正銘の殺人鬼です。
ただ、だからといって僕が行動に出てしまうと、僕自身がその愚劣で卑劣な人間と同
じ存在に成り下がってしまうことになりかねないのです。
残念ながら僕にも正義の雷を落とす資格は無いようです。
もしかしたらこういうお礼も質問も削除されてしまうかもしれない。
しかしそれでもいい。

ああ・・お礼の欄なのに、愚痴ってしまいました。済いません。
僕は人間的にはまだまだ未熟です。
力強く励ましてまで頂けたようで、非常に嬉しいです。

お礼日時:2002/03/10 11:46

とりとめもない自分の世界観の一端を述べるだけの回答をします。



「~すべき」とは人間が目指す理想、「善い」はその行為を評価する言葉だと思うんですが、
そう考えると条理とか道理だとかって結局は現実もそうあって欲しい、そうしたいっていう
願望であり価値だと考えられると思います。
そう考えると、現実の世界は我々の意志や願望と関係なく動いている部分が多いし、皆が同
じ条理や道理を共有しているはずもないので不条理な世界で当然だと思ってしまいます。も
ちろん自分の条理にそった世界になって欲しいと思うし、ささやかながらそういう働きかけ
をしたいとも思ってもいるけれども、でもそれは自分の理想の世界を作るというだけで、誰に
でも善い世界じゃないということになるので悩ましく感じてもしまいます。
今の私は条理とか善を絶対的に捉えることができないので、ある種の不条理は受け入れざるを
得ないし、自分の条理に沿わなくとも他人の条理にそっているもの(不条理)もできるものは
受け入れざるを得ない心境です。

No.1の方のお礼中からの引用ですが、
> それとも信条に正しいも誤りもないのでしょうか。

こういう考え方に同意しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうですね、自分が「こうあるべき」と思っていることが、
別の人にとってはそうじゃないことがある。
条理とか不条理というのを考えたところで、実は主観的なものでしかないのかもしれませんね。

「誰にとっても善い世界」という絶対的なものは実在し得ないものでしょうか・・

お礼日時:2002/03/10 09:48

全ての現実は合理的であると認めてしまうことではないでしょうか。


「合理的」とは何かも問題ですし、現実を認めることにより正義や向上心が過小評価されるかもしれませんが、答えの出ないことに悩みつづけるのも不幸なことだと思います。
最近 私は、世の中は「わからないこと」で出来ていると考える様にしています。この世の条理を理解することによって不条理が現れるなら、条理を「わからないこと」すれば、不条理に悩む必要が無くなる訳です。
全くの逃避と思われるかもしれませんが、今「わからないこと」が有る事を理解して、いつか解るかもしれないと言う希望があることで、逃避から区別できるのではと考えています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

うーむ・・突き詰めればそうなるということでしょうか。
世の中はわからないことで出来ている、なかなかその通りかもしれません。
その全てを合理的だと確信できるばらば、悩む必要も無くなりそうですね。
ただ、そう簡単に全てを合理的と認めたがらない自分がいるのも確かです。

しかし、皆様からこうやって回答をいただいたことによって、
なんというか、元気が出てきました。
ありがとうございます。

お礼日時:2002/03/09 15:57

たしかにその一瞬だけを見るならば不条理だと思えるかもしれない。


例えば、身近な人が死んだ時、とても悲しむけど、でも例えば交通事故で生き残ったとして、重度の障害で苦しんで死にたくても体が動かなくてそれもできなかったり、周りの家族も入院費とかの捻出で地獄のような生活に陥ったりする場合だってある。
首になったことは悲しいけれど、その会社にいたとして、家を買うために多額のローンを組んで、その後、会社が倒産することだってある。むしろ今、首になったから将来のことが見つめられたということも。
タバコの火の不始末によって焼死した家族の生活が常に幸せとは限らない。このまま生きていれば、主人と妻はお互いの不倫で泥沼、家族はバラバラ、子はいじめの被害者で自殺だったということも。
だから出鱈目な人がのうのうと楽しくずっと生きていけるか、まじめな人が馬鹿をみるなんて誰にも分からないと思う。人それぞれの生きかただと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、確かに今という現象だけを観測して不条理と思っているに過ぎないのかもしれません。
ここで死なずに助かったとしても別のどこかで苦渋辛酸が待ち受けていたかもしれない。
だからといって、いま見ている現象が「増し」なのかは何とも言い難いです。
現象は1通りしかないので、どちらが増しなのか比較のしようが無いからです。
しかし、より悪い事態を想定してそれと現実とを比較して「増しだった」ということはできるのかな・・
でも、それならば逆に、より良い事態にもなり得るというかそういう想定も可能で、それと現実とを比較すると
やっぱりガックシとくるものです。

ともかく、世の中もっと良いことが増えてほしいものです。

お礼日時:2002/03/09 15:27

私の独断と偏見ですが人類が集団生活をはじめてから悪があれば正義があり、条理があれば不条理があると思いますよ。


只、蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘るの例えのように自分の信条に合わせて生きて行くことが肝要なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「自分の信条」、なかなか大切なことかもしれませんね。
正しい信条ならうまく生きられて、
間違った信条だと、はじめはうまくいっているように見えてもいずれは行き詰まるのでしょうか。
それとも信条に正しいも誤りもないのでしょうか。
いままで、わりと真面目に生きてきたつもりの自分ですが、
このままでホントに良いのか?と、ふと思ったのです。

お礼日時:2002/03/09 13:34

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Qなぜこの世は不条理なことばかりなのでしょうか?

私は高校三年生なのですが近頃タイトルにある通り「なぜこの世は不条理なことばかりなのか」という疑問が頭から離れません。
そんなことを考え始めても私の頭では結論が出るはずもなくずっとこの疑問が頭の中でグルグルしています。
個人的な意見でも構いませんので「なぜこの世は不条理なのか」 どうか教えてください。

Aベストアンサー

世の中には不条理は沢山あって、私も以前はずっと考えていました。
不条理に囚われていた時期がありました。

今分かっているのは、不条理は不条理だと思う人が不満を抱えている。
その不満は、考える人が勝手に持つ不満であるのでエゴです。
誰でも認めたくは無いところですけどね。

たとえば、ライオンが捕食できないで飢えるのはかわいそうだと
餌を与え続けると獲物を捕らなくなり、与える側の都合で
餌が与えられなくなれば、ライオンは飢え死にします。
餌を安易に与えられたので、自分で生きる力を奪われた。

人に対しても、これと同じことをやったことがありました。
飢餓に苦しんでいるからと、先進国の人間が一方的に支援を与えました。
すると彼らは働くなりました。

並ぶだけで苦労せず、今までより良い食料が手に入ります。
支援の配給を止めらたら、強い不満が出ました。

物が簡単に手に入り、ただ与えられる環境は
おそらくどんな動物でも生きる力を奪われ、不満ばかり高まる。
与えられると言う依存環境が、生き物の持つ力を貶めて行く。

直接の関わりを持たない、部外者としての漠然とした不条理は
庇護者の目線、つまり上から見ている。
恵まれまれた環境に置かれていると、人はそう言う目線に自然となります。

一方的に不条理だと思うのは、自身のエゴです。
不満を募らせても、自身のエゴを高めているに過ぎない。
正当性があるような自己欺瞞に人は簡単に陥ります。


たとえば、自然災害で被災者が出ました。
多くは、被災者に不条理を感じますよね。
その時、そう言うことができるだけ起きないようにと、建築・土木を学び
地震に強い建築物を作るなら、それを求める人が居て手を貸すことができます。

それが助け合いであり、集団の良さでしょう。
自分だけではどうにもできないと、求める人に差し伸べられる手を持つか。
そこに在るものは、助け合う協力であり共存でありますよね。


自分が今、どれだけ恵まれているかに目を向けるなら
恵まれた環境だからこそ、力を蓄える手段はいくらでもあることに気づく。
不満ばかりに目を向けるなら、豊かであるが故にさらに不満は高まります。

日本は恵まれ過ぎていることに、危機感を感じます。
生きる力を持たない人が増えすぎてる気がしてなりません。

恵まれていることを活用するか、流されてエゴを高めるか。
そう言うことを日々重ねて行くことで、結果的に社会には
できる人できない人と言われる二極に別れていきます。

高校生と言うことで、仕事は今からでしょう。
こう言う自分の中で浮かんできた疑問の答えを自分で出せて
進んで行けることが大切だと思います。

与えられるのでは無く、ご自分で見つけられるように精進です。
それが、人間は生きる限り修行かなと思います。

世の中には不条理は沢山あって、私も以前はずっと考えていました。
不条理に囚われていた時期がありました。

今分かっているのは、不条理は不条理だと思う人が不満を抱えている。
その不満は、考える人が勝手に持つ不満であるのでエゴです。
誰でも認めたくは無いところですけどね。

たとえば、ライオンが捕食できないで飢えるのはかわいそうだと
餌を与え続けると獲物を捕らなくなり、与える側の都合で
餌が与えられなくなれば、ライオンは飢え死にします。
餌を安易に与えられたので、自分で生きる力を奪われ...続きを読む


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