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絶対国防圏が崩壊したことによって敗戦濃厚となっていくわけですが、この絶対国防圏の成立経緯について詳しく知っている方いらっしゃいましたらご回答お願いします!!

A 回答 (2件)

さきほどカテゴリーの方に入ってみたら興味深い質問があったので、遅ればせではありますが回答させていただきますね。



絶対国防圏は1943年、昭和18年9月25日、大本営政府連絡会議において決定されました。

これは「帝国国防遂行上、太平洋およびインド洋において絶対確保すべき要域を、千島、小笠原、内南洋および西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域とす」という、要約すればマリアナからパラオにいたる戦線を「絶対国防圏強化構想」として決定されたもので、同年9月30日に開かれた御前会議において国策として最終決定されました。この時期は米軍のサイパン上陸9ヶ月以上も前のことで、この国策通りに防衛線を設定していれば、その後の戦況もかなり違ったものになっていたというのが多くの戦史家の共通した意見です。

しかしことはそうは簡単には行かず、この国防圏をめぐって陸海統帥部は激しく対立しました。つまり海軍の「現地死守案」と陸軍の「戦線後退案」の対立です。
海軍は現状の戦線が「絶対国防圏」外にあるにも関わらずソロモン方面の絶対死守を主張し、陸軍の戦線の立てなおしのためにも戦線を1歩引いて、つまりはマリアナ戦線という国防圏内にまでただちに引く意見がありました。
 
この時点では海軍の面子だけにこだわった感情論よりも、陸軍のほうが現実的な思考法を持っていたといえます。これはこれまでに海軍の要請通りに南太平洋の島々に戦力を逐次投入しては煮え湯を飲まされつづけてきた陸軍としては当然であったといえます。

ただ太平洋方面における作戦決定権は海軍にあったため海軍は強行にその立場を行使して、御前会議においての決定以前に防衛線は現状のマーシャル諸島から南東方面という、本来の構想とはかけ離れた決定を内定してしまいました。つまりはこの「絶対国防圏強化構想」という戦略構想は成立以前に単なる机上の空論に成り下がっていたということですね。

世間ではよく、頑迷な陸軍に対して自由な気風の海軍といった捉え方をすることが多いのですが、これをみればその評価もかなり怪しいといえますね。

結果的には「絶対国防圏」が崩壊したから敗戦に繋がったのではなく、このような最重要な国家戦略さえきちんと遵守しようとしない、帝国陸海軍の暴走と無定見が敗戦に導いたとも言えるのではないでしょうか。
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絶対国防圏は、当時アメリカが開発中であったB-29の性能を想定し、かつ、南方資源地帯等との交通を確保できるという観点から設定されたようです。


具体的には、昭和17年以降、ソロモン海域での消耗戦に敗れ、アメリカの軍備増強についていけなくなったので、前記条件を鑑みて設定したものです。
しかし、彼我の戦力、そして兵站能力の差を考慮に入れてなかったので、あっけなく破綻したのはよく知られていると思います。
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