利用規約の変更について

第二次世界大戦において、
最終的に旧日本軍が「赤紙」と呼ばれる召集令状を送り、
徴兵を行ったことは一般的な知識として知っていますが、
その後、徴兵された兵隊はどのような基準で部隊に配属
されたのでしょうか?

私の聞いた話では、出身県や地域別に配属になった、と言う
話も聞いたので、例えば召集がかかり、故郷から戦地に行き、
そのまま同郷の(気心の知れた)仲間たちとともに戦うことが
出来たのでしょうか?

もしわかる方がいらっしゃれば教えてくださればうれしいです。

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A 回答 (7件)

> 徴兵された兵隊はどのような基準で部隊に配属


されたのでしょうか?

 陸軍と海軍に分けて簡単にお答えします。

 陸軍の場合、基本として各地域ごとに「常備団隊」を設け、「師団単位」で駐屯し、徴兵・召集兵は「連隊単位」で受け入れました。

 「第二次世界大戦」において、という設定ですから一番近い1940年度の常備団隊配置表の一部をしめすと

 第2師団  = 歩兵第4連隊(仙台) 歩兵第16連隊(新発田) 歩兵第29連隊(若松) 野砲兵第2連隊(仙台) 輜重兵第2連隊(仙台)

 というように各郷土ごとに分かれており、いわゆる郷土部隊の性格を持っていました。

 しかし、師団以外の部隊、例えば「航空」「船舶」「鉄道」「戦車」などの部隊は地域関係なく徴集しました。例えば当時の国鉄に勤務する機関士や民間航空会社のパイロットなどは優先して鉄道部隊や航空部隊に召集する必要があったからそうなったわけです。

 さらに師団でも満洲・朝鮮・台湾で編成された師団の場合もいわゆる全国区からの徴集でした。

 海軍の場合は、基本として各鎮守府(佐世保・呉・舞鶴・横須賀)ごとにその周辺地域から徴集しました。たとえば岡山の人は呉鎮守府から徴集され、呉海兵団に入団し訓練を受けたわけです。


 補足ですが、回答No.2の方の

>ビルマでは「8連隊」こと「安(やす)兵団」とも一緒に行動したようです。東北や九州出身者の「菊兵団」「狼兵団」などは強かったそうです。

 についていうと、「8連隊」は「安(やす)」ではなく「淀(よど)」が正しい。また8連隊(第4師団に所属)は大阪の連隊で、「安」(第53師団)は京都の部隊。「菊兵団」は久留米などの北部九州出身者からなる師団。「狼兵団」は朝鮮の京城(龍山)に司令部があった師団で、やはり北部九州出身者が多数を占めていました。したがって東北とは関係がありません。


 
 
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この回答へのお礼

細かな説明、ありがとうございます。非常に参考になりました。
「郷土部隊」と言う言葉があったのですか。団結力がより強くなりそうだと感じました。

お礼日時:2006/11/09 09:51

No.1です。

蛇足の蛇足。
 旧陸軍の各兵科では歩兵の数が圧倒的に多く、陸軍の基幹であり、「兵隊さん」といえば歩兵を想像するのが普通です。
 ちなみに今の自衛隊の「普通科」とは、旧軍の歩兵に相当します。「兵」という字が入ると、憲法9条の関係でマスコミに騒がれるといやだから逃げたんでしょうね。
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全般的には既にご回答のあったとうりです。


ただ特殊技能の必要な場合、例えば鉄道連隊、工兵連隊、輜重連隊等はそれに必要な技術、経験、資格を有する人を集めるので出身地に拘らなかったとききます。

自動車運転免許はまだ当時の日本では少なかったので、各市町村の兵役係で別枠で取り扱ったと聞きます。

基本的に歩兵連隊は郷土単位で編成されましたから各地方の特色を帯びたのは必然でした。  
確かに寒冷地や山岳の多い地方の兵士は忍耐力に優れ、気象に対する抵抗力がありましたが、一方都会の兵士は体力的にはおとりますが、精神的に強く、一般に高学歴で種々の技能に対応出来それなりに有能な兵士が多かったといいます。
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この回答へのお礼

それぞれの地方の特色が歩兵連隊にはあったのですね。
参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/09 09:57

NO1です。

蛇足です。
 徴兵検査(兵役検査)は本籍地の指定された場所(大抵は学校などの場所を借りて)で行われます。したがって連隊区の兵役原簿も本籍地ベースとなり、歩兵連隊=郷土部隊となります。
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日本人の男子は満20歳になると兵役検査を受けます。

そこで甲種合格して更に抽選で選ばれた人が「現役兵」として入営しますが、残りの人はいざという時の予備兵力として「兵役原簿」に名前が記載されます。現役兵が兵役を終えた後も同じ扱いになります。
いざ戦争が始まり大量の兵が必要となると「現役兵」だけでは不足するので、兵役原簿から抽選で選ばれた人に「赤紙」が送られて「応召兵」として入営します。ちなみに徴兵検査で即入営の現役兵が呼ばれるのを「徴集」、赤紙で入営する応召兵が呼ばれるのを「招集」と区別します。

兵役原簿は兵役検査を受けた連隊区に保管されているので、そこにその人の「兵籍」(本籍でもなく現住所でもない)というものが存在する事になります。
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この回答へのお礼

「兵籍」と言うものがあることと、「徴集」と「召集」の違いが判りました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/09 09:54

歩兵に関しては出身地の連隊ですが砲兵・工兵・鉄道連隊などは各地の寄せ集めです。


出身県もばらばらです。
私の父は津田沼の鉄道連隊でした。ちなみに栃木県出身です。
泰緬鉄道に従軍しました。

ビルマでは「8連隊」こと「安(やす)兵団」とも一緒に行動したようです。東北や九州出身者の「菊兵団」「狼兵団」などは強かったそうです。 
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この回答へのお礼

一般の歩兵と、技術を持った連隊では、配属が異なっていたと言うことですね。
そんな知識もなかったので、ためになりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/11/09 09:46

 回答者さんのご理解でOKです。

国内を各連隊区に区分し、その連隊区にある本籍地の役場から召集令状が来ます。
 「またも負けたか8連隊」で有名?な第8連隊は大阪でした。番号が一桁でもわかるように歴史ある連隊ですが、弱いというヘンな評判がありました。
 先の戦争で、8連隊の兵隊として戦い、無事生還した人(私の会社の先輩)に「やっぱり弱かったんですか?」と失礼なことを聞きましたところ、ニヤリと笑って「大阪の人間ばかり集めたんでは強いわけがない。」との答えが返ってきました。
 8連隊が弱いという評判が立ったのは、もっと前の日清・日露の頃だと思いますが、柔弱な人間が少ないと思われる九州や東北の部隊が強かったという話を聞いています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
実際に体験した方のお話も聞けて、なるほどと思いました。
何回も補足ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/09 09:44

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Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q最強の日本兵

おじいちゃんが戦争中強かったのは
1 九州出身
2 東北出身 で
一番弱かったのが大阪出身
の部隊だといってましたが本当でしょうか。たしかに九州男児は剣道なんか強いですし東北もストイックなイメージがあります。それに対し大阪の人はお金にならない兵役にはあまり熱心にならないのもなんか説得力があります。大阪出身はさぼってばかりだっていってました。あと本当に日本軍は出身地別の部隊編成だったのでしょうか。

Aベストアンサー

>日本軍は出身地別の部隊編成だったのでしょうか。
 陸軍の歩兵連隊については、回答者さんのご理解でOKです。国内を各連隊区に区分し、その連隊区にある本籍地の役場から召集令状が来ます。徴兵検査も本籍地で受けます。
 陸軍の兵科も砲兵、工兵などいろいろあって、必ずしも連隊イコール郷土部隊と云えないですが、陸軍の基幹である歩兵連隊は郷土部隊といえます。
 陸軍の中では歩兵の人数が圧倒的に多く、兵隊さんといえば歩兵を連想するのが普通ですので、『日本軍は出身地別の部隊編成だった』という理解でよろしいかと思います。

>一番弱かったのが大阪出身の部隊だといってましたが本当でしょうか。 
 『またも負けたか8連隊』で有名?な第8連隊は大阪でした。
 戦後になっても、マージャンや囲碁将棋などで、負けそうになると『またも負けたか八連隊』の地口がよく使われました。
 小生が会社勤めをしていたとき、八連隊出身の人がいましたので、本当に弱かったのか、と失礼なことを聞きましたら、ニヤリと笑って『弱かった』という答が返ってきました。
 この人は『また負けたか・・・』の謂れは知りませんでしたが、想像しますと、西南の役にまで遡るのではないかと思われます。
 当時の政府軍の主力は百姓町人出身が多い鎮台兵でした。それで、旧武士主力の薩軍の白刃突撃に逃げ惑ったこともあったようです。
 そのため、新政府は武士出身が多かった警視庁警視隊から選抜した抜刀隊などを組織して対抗しようとしたほどでした。
 大阪鎮台の兵隊もも西南の役には出征しました。
 大阪という町は江戸時代から町人の町として栄え、武士の数も少なく、またその武士も米俵の数を勘定する「そろばん侍」のイメージがありますから、大阪鎮台兵にはどうしても弱そうなイメージが付きまとって来ます。
 西南の役で、大阪鎮台が連戦連敗であったという事実は確認されていません。
 しかしそのような評判が立つ素地はあったように思います。
 また、その後の出征でも、マスコミ受けのする華々しい戦果もなかったようで、大阪=商売人=勘定高い→命を惜しむ→弱い という評判を払拭できなかったと考えられます。
(1)九州の兵隊は勇猛果敢、(2)東北の兵隊は黙々として粘り強い というイメージがあり、前の大戦では実際に強かったわけですが、大阪の兵隊は『またも負けたか八連隊』とオチョクラレルほど弱くはなかったと思います。
 まあ、しかし強かったとは云えんでしょうな(苦笑)。
 

>日本軍は出身地別の部隊編成だったのでしょうか。
 陸軍の歩兵連隊については、回答者さんのご理解でOKです。国内を各連隊区に区分し、その連隊区にある本籍地の役場から召集令状が来ます。徴兵検査も本籍地で受けます。
 陸軍の兵科も砲兵、工兵などいろいろあって、必ずしも連隊イコール郷土部隊と云えないですが、陸軍の基幹である歩兵連隊は郷土部隊といえます。
 陸軍の中では歩兵の人数が圧倒的に多く、兵隊さんといえば歩兵を連想するのが普通ですので、『日本軍は出身地別の部隊編成だった』と...続きを読む

Q戦死者名簿は閲覧できるか。

祖父の兄の事について調べています。
過去帳をみると、昭和12年7月21日・45歳に亡くなったと書いてありました。

父はその人は戦死したと噂で聞いたといっていましたし、なんとなくその年代、死亡の歳からして戦死であろうと思っています。

厚労省、沖縄の平和の礎、靖国神社のどれかで戦死者の閲覧ができますでしょうか。

ちなみに、その祖父が亡くなった後、弟である祖父が当家を相続しております。
戸籍謄本を提示すれば閲覧も可能かと思います。

Aベストアンサー

地域によっては戦死された方の名簿は出版されたものがあります。
これは市町村または県単位で遺族会とか戦友会といった団体が作成したもので、戦死した場所や日付が簡単に記載されています。この程度の内容でよいなら捜してみる価値はあるでしょう。
一般に明治10年の西南戦争以降の戦死者が掲載されています。戦死された当時の住所地(市町村)から出版されているので、そこの図書館に尋ねてみるとよいでしょう。「忠魂録」「英名録」など色々な名前になっていますし、市史や町史に掲載されていることもあります。通常、普通の図書と同じ扱いなので閲覧に制限はないはずですし、貸し出しも可能かもしれません。

Q現役と補充兵

こんにちは。
大岡昇平さんの本を読んでいますと、普通に当時の言葉が出てきて、事情に疎い私にはなかなか大変です。
(ニッパハウスとかニッパ小屋とか、ネットで調べました・・・)

陸軍で、士官ではなく、一般人が入隊する場合、

現役→徴兵検査を受けて、すぐ召集されて軍に入った人(若い人)

補充兵→徴兵検査を受けてはいるが召集されていなかった人が、後から召集、戦地に送られた

かな?? と思ったのですが、今ひとつよく分かりません。
概要を教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

戦前の日本人男性は、原則として全員が20歳になると徴兵検査を受けました。その結果として、No1さんが言われるように
甲種、乙種、丙種、丁種、戊種
と区分されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB

なお、甲種であっても全員が現役に服するわけではありません。甲種の中からさらに抽籤された人が現役兵として陸軍は2年、海軍は3年の現役に服しました。甲種だが現役兵に選ばれなかった人、乙種以下の人は、戦争などが起きなければ一生軍隊とは無縁に過ごすことになります。

注意して頂きたいのは、甲種合格、さらに現役兵として徴兵されると、2年の兵役を終えて予備役となる際には、たいていは陸軍上等兵、成績の良い人は陸軍伍長の階級を得ることです。このような人が戦争の勃発などで召集された場合、上等兵または伍長として再スタートすることになります。

ところが、支那事変、大東亜戦争と戦争が激しくなるにつれ、過去に徴兵検査を受けたが現役兵として入営しなかった
「甲種だが現役兵に選ばれなかった人、乙種以下の人」
が、「臨時召集令状」(いわゆる赤紙)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E9%9B%86%E4%BB%A4%E7%8A%B6
を受けて、例えば30代で入営することになりました。
この場合、年齢や社会での地位にかかわらず、「二等兵」から始まります。そして、例えば21歳の上等兵から奴隷のように酷使されることになりました。これについては、こういう哀れな境遇の二等兵のことを「補充兵」と呼びました。大岡昇平氏の本はそういう視点で読んで下さい。

「アーロン収容所」という本がありますが、この本を書いた会田雄次氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%94%B0%E9%9B%84%E6%AC%A1
は、1916年生まれで1936年(昭和11年)に徴兵検査を受け、入営せずにそのまま大学生活を送り、1943年に27歳で臨時召集令状を受けて陸軍に二等兵として入営し、典型的な「補充兵」としてビルマに送られ、インパール作戦に動員されて餓死するような悲運は逃れたものの、イギリス軍の攻勢に曝されて戦死か餓死する寸前で日本が降伏し、イギリス軍の捕虜となりました。

自らが補充兵であった会田氏によりますと、食事も休息も全てが最後で、全ての雑用をこなさねばならない補充兵は、年齢による体力の衰えもあり、補給が途絶えた戦争末期には、敵弾に倒れる前に真っ先に栄養失調で死んで行ったそうです。もちろん、爆雷を抱いて敵戦車への体当たりを命じられるのも、最下級の補充兵が一番最初です。

「ビルマから生きて帰った補充兵はほとんどいないはず」
と会田氏の本に書いてあると記憶します。

戦前の日本人男性は、原則として全員が20歳になると徴兵検査を受けました。その結果として、No1さんが言われるように
甲種、乙種、丙種、丁種、戊種
と区分されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB

なお、甲種であっても全員が現役に服するわけではありません。甲種の中からさらに抽籤された人が現役兵として陸軍は2年、海軍は3年の現役に服しました。甲種だが現役兵に選ばれなかった人、乙種以下の人は、戦争などが起きなければ一生軍隊とは無縁に過ごすことに...続きを読む

Q終戦後の、旧日本軍の軍人

旧日本軍の軍人

志願して採用され、職業軍人となった人
令状で召集され、(強制的に)軍人にされた人

大きく分けて、この二種類でOKですか?

また、太平洋戦争以前からの職業軍人の人達は、ずっと軍からの給料で生計を立てていたと思いますが、終戦後の処遇はどうなったのでしょうか?

Aベストアンサー

ズサンすぎると思います。質問者ならびに他の回答者の認識が。

まず質問者が、軍人とは「志願して採用され、職業軍人となった人」「令状で召集され、(強制的に)軍人にされた人」に二分してOKかとの問いに、誰も訂正をしていない。ひどいもんです。旧日本軍の場合、一般社会から軍人になるのは「志願・徴集・召集」です。多くの人が漠然と考えている徴兵制とは「生まれてからずっと軍隊とはまったく無縁に暮らしていたら、ある日突然“アカガミ”によって“召集”されて兵隊になって戦地まで行ってしまう」とでもいうものでしょうかね。それって、ちょっと問題があります。

軍隊のことをウンヌンする場合には、たとえ戦争中の話題であっても、まず戦争のない平時の仕組みから知っておかないと大抵は結果として大きな間違いになる、と私は断言します。古今東西、どこの軍隊も基本は平時です。その基本のうえに戦時・有事という応用が問われるのです。これから長々と書いていきます。

“徴兵検査”ぐらいは聞いたことがあるでしょう。原則として前年12月1日から当年11月30日までに満20歳になる男子が、春から夏にかけての時期に身体検査(簡単な知能の検査もあるらしいが、この点は私もまだ不勉強)により甲乙丙などと判定されるわけです。その判定とさらにクジで順番が決められて、それによって“現役”、“補充兵役”などに分けられ、“現役”の者が数ヶ月後に予定どおり(強制的といえるでしょう)軍隊に入ります。これを“徴集”といいます。これが兵隊の基本中の基本なんです。“召集”じゃありません。この“徴集”はアカガミなんか一切関係ありません。明治時代に徴兵制が始まってから昭和20(1945)年に軍隊が無くなるまで、平時も戦時もこの“徴集”はありました(末期には年齢が19歳に下がり、身体検査の時期も変わることがありました)。

少し前の文で“現役”と書きました。この“現役”というのは非常に重要なキーワードです。軍隊について無知な人(つまり現代日本人の大多数、あなたも私も)が漠然とイメージする「軍人」とはこの“現役”の軍人だろうと思います。ところが“現役”でない者も結構いるんです。まず軍隊の下っ端である兵隊は何年も“現役”をやっていられません。上で書いた“徴集”で入った兵隊は何年かすれば除隊といって軍隊からシャバに出られます。そうして“予備役”になります。乱暴に今流の表現をすると「軍人OB」とでもいうようなもの。

志願で入った兵隊はふつう“現役”ですが、たとえ軍隊が好きで志願したとしても数年しか兵隊はできません。どうしても軍隊にいたいなら、“現役”下士官を志願して教育を受け採用されれば下士官になります。下士官からは「武官」で、本物の軍人はここからといって良いでしょう。

ところが日本軍の場合、下士官もいつまでも無条件で“現役”でいられるわけでもないのです。数年ごとに再志願というのをして、軍隊の予算とか本人の勤務評定などをクリアして受け入れられれば“現役”の下士官を続けていられます。下手すれば再志願が通らず「お疲れさん」で軍隊を出てシャバで仕事を探すことになります。“予備役”です。ですから「職業軍人」を考える場合に、日本軍の場合はやや不安定な立場の下士官を含めるかどうか議論の余地のあるところです。

将校の場合(軍医なども含めます)、陸軍士官学校などで学んだ“現役”将校なら、まさに
「職業軍人」です。ですが、将校においてさえ“現役”(すなわち「職業軍人」)であり続けることは今の我々が考えるほど容易ではなかっただろう、というのが私の見解です。昔の栄養・衛生事情は悪く、結核をはじめ身体を壊したりするリスクは現代よりはるかに高い、なのに軍隊が求める健康な身体は一般社会よりもレベルが上でしょう。それに将校だって勤務評定を受けます。エライ人に昇進する枠は少ないのです、のんべんだらりと低い階級のまま軍隊にいてもらっては困るのです。将校だっていつ「お疲れさん」と軍隊を出され“予備役”になるかわからない、ということです。“予備役”将校はもう「職業軍人」ではありません。

話は変わりますが“召集”というのは、有事に軍人の数を増やしたい場合やその他(教育のため等々)により“予備役”や、ときとして“補充兵役”の者を軍隊に入れる事です。本当は“現役”のほうが質が高いのだけれど、戦争などでは贅沢を言ってられませんから「臨時」に“予備役”などの人を使うのが“召集”です(あまりにも多くの人が“召集”をすでに述べた“徴集”と混同しています。それが腹立たしいので私はわざわざこんな長文を書いています)。それから既回答の中に「幹部候補生志願して、職業軍人となり・・」というのは、普通ありません。幹部候補生は”予備役”の将校・下士官コースですから「職業軍人」にはなりません(さらに教育を受け転役すれば“現役”ですが、極めて稀な事)。太平洋戦争のような大きな戦争では兵隊も多いし、下士官も増え、将校だって何千人にもなったでしょうが、実は「職業軍人」というのは思ったほど多くはないのです。このへんの事は私が執筆したWikipediaの『幹部候補生 (日本軍)』というのを読んでみてください。

ところで、軍人の定年というのは一般社会より早いものです。運良く健康でクビにならずにいても、エラい階級にならないかぎり早ければ40代から定年がやって来ます。

以上の事を総合すると、たとえ「職業軍人」といっても人生の中で第二、第三の商売をする覚悟を持っているのが普通であったでしょう。これが平時の基本の話です。それを十分に理解してから、初めて「戦争でどうだった」「終戦になってどうした」ということをウンヌンしなければおかしいということです。

最後の最後に質問に対する私の答えとして、「職業軍人」の終戦後の処遇は一般的にいって決して優遇はされなかっただろうと思います。「公職追放」というものもありました。ただ、戦争犯罪人でもなければ、投獄されたりするようなことはないので「職業軍人」ではなかった圧倒的多数の元兵隊や、予備役からの人と同じような普通の厳しい人生だったのではないでしょうか。

終戦からいくらか経ちますが自衛隊(最初は警察予備隊)ができてからは、「公職追放」が解除された元「職業軍人」の中には、適正もあったし、もともと嫌いな道ではなかったでしょうから自衛隊に入隊した人もかなりいます。初期の自衛隊のエライ人は大部分が陸軍士官学校、海軍兵学校など出身の元「職業軍人」といえます。もし本当に興味があったら、比留間弘さんという方の著作を探して読んでみると面白いですよ。もうお亡くなりになっているようですが、陸軍士官学校を出た現役将校でビルマ戦線で苦労したあと終戦になり、戦後はヤミ同然の商売から雑貨屋を始め、公職追放解除後に陸上自衛隊に入った人生を非常に楽しい文章で何冊かの著作にされています。検索すればamazonなどでもザクザク出てきますし、運が良ければ図書館にあります。

参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/幹部候補生_(日本軍)

ズサンすぎると思います。質問者ならびに他の回答者の認識が。

まず質問者が、軍人とは「志願して採用され、職業軍人となった人」「令状で召集され、(強制的に)軍人にされた人」に二分してOKかとの問いに、誰も訂正をしていない。ひどいもんです。旧日本軍の場合、一般社会から軍人になるのは「志願・徴集・召集」です。多くの人が漠然と考えている徴兵制とは「生まれてからずっと軍隊とはまったく無縁に暮らしていたら、ある日突然“アカガミ”によって“召集”されて兵隊になって戦地まで行ってしまう」とでも...続きを読む

Q太平洋戦争中に街で見かける男性たち

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われます。

考えれば、あの戦争中でも男性が必要となる職場が多くあったように思います。 たとえば鉄道関係者、警察官、消防士、医師、自治体の公務員、電気・ガス会社の社員、あるいは建設関係 ・・・ などなど、女性だけでは運営出来ないと思うのですが、これらの男性たちには徴兵義務が免除されていたのでしょうか? 

それとも、形だけ一旦徴兵に取られてどこかの軍部に属し、その後に 「派遣」 という形でまた元の職場で以前同様の仕事を続ける、そして家から通う ・・・ こんな制度だったのでしょうか? たしか軍艦を建造する造船所の技師や職工はそんな身分になっていたと、どこかで聞いた覚えがあるのですが、ハッキリしません。

もしそうなら、そんなラッキーな職業には具体的にどんなものがあったのでしょうか?

健康上の問題で徴兵が免除された人は除くとします。

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われま...続きを読む

Aベストアンサー

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えなどということもあったでしょうが、45年には徴兵検査を受けた者の9割が実際に動員されたということですから、それほど多い事例ではなかったと思います。
むしろ、金持ちの子弟は、高学歴ですし、働く場所も親の力などで選べますから、軍属名目の勤務先に勤めたり軍関係の仕事に従事したり、満州国政府に勤めるとか、ということで結果的に徴兵逃れが出来たケースが多かったのではないでしょうか。

アメリカではこれが結構多くて、大統領選挙の時の経歴で問題になったりしますよね。徴兵逃れのため州兵の、しかも空軍(一番戦場に行かないポジション)に親の力で入隊するとか、カナダに移住しちゃうとか。

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えな...続きを読む

Q第2次大戦中の徴兵制について教えてください

大戦中に飛行機のエンジンを作っていた中島飛行機では、熟練工が次々と徴兵されて困ったというのはよく知られた話ですが、なぜそのような不合理なことになったのでしょうか?
(軍需工場の工員は徴兵の優先順位を下げてもらうような手だてはなかったのでしょうか?)
また、その他の会社(例えばゼロ戦を作っていた三菱重工)ではどうだったのでしょうか?

軍需工場で働いていることを別にしても、熟練工というからにはそれほど若い人とは思われません。そういう高齢者の徴兵は後回しになるのではないでしょうか?

ちなみに私の祖父は陸軍の食糧倉庫(糧秣)で働いており、しかも終戦時に41歳であったため、終戦間際まで徴兵されなかったと聞いています。軍需工場で働く人にも同様な配慮があってしかるべきかと思うのですが。

Aベストアンサー

 軍需産業従事者で他に変えられない技量・知識の持ち主は、当然徴兵対象外ですよ。
 (陸軍動員計画令[永年動員計画令])

1943年当時の戦時召集延期者
(なお、年が進む毎に対象が増え、終戦直前には100万人近い人[食糧確保の為、一部の林業・農業従事者まで…。]が対象になります。その他に徴用された軍属もいますし…。)

  1. 侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
  2. 陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
  3. 鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
  4. 船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
  5. 民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
  6. 国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
  7. 陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
  8. 都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
  9. 帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
  10. 帝国議会の議員
  11. 国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
  12. 上記の外、国家総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 あと、第二次大戦中に兵士として徴兵された人は特別な事情(米軍やソ連軍が侵攻してきた沖縄や満州など)が無ければ、戦争末期でも30前半までです。
 (自分の体重より重い荷物を背負って、炎天下の中毎日何十Km行軍できる体力は、20代ぐらいまで、30代の男など軍隊では足手まとい。←そもそも、戦中の日本には足手まといの30代の老兵[徴兵を猶予していた20代前半の大学生(文系は末期に学徒出陣させますが…。)だって居るのに…。]を徴兵しても戦場に送るほどの船舶の余力など無いのですが…。)

 熟練工が次々とよく言われますが、徴兵対象となった20代前後の工員って熟練工なのですか?
 (まあ認識の問題ですが、技術者って10~20年は修行しないと一人前には成れないのでは?)

 なお、徴兵対象外にするのは、各企業や工場の担当者の判断に任せられるので、企業の社風や担当者の考え次第(まあ、賄賂を貰って兵役逃れに協力する奴もいたようですが…。)で、本来は対象外に成るような人物まで申請せずに戦場送りに成った事例も有ったかも知れませんが…。
 (愛国心、或いは周りからのプレッシャー[合法的な理由でも徴兵を逃れると周りから白い目で見られる]で、自ら軍務に奉職する人は多くいたようですし…。)

 そもそも、ゼロ戦が当初想定の2~300機程度から実際には1万機以上作ったように、戦時の動員体制って開戦前の数倍~数十倍まで規模を拡大します。
 当然、工場を何箇所も新設しなければその需要に答えられませんから、工員に占める熟練工の割合など欧米だって数十人に1人以下になります。

 戦時に必要とされるのは、未熟な工員を速やかに使い物に出来る作業のマニュアル化と部品の規格化、技量差を抑える工具の機械化だったりします。←戦前から想定して準備しておかないと間に合いませんが…。
 (まあ熟練した工員が微調整しながら、組み立てないと完成しない工芸品みたいな武器ばっかだったのが日本のダメな所ですが…。部品の共食い整備すら出来なかった…。)

 なお陸海軍共に熟練工の囲い込みをやりすぎて、他の軍の生産を阻害する様な有様でしたし…。

 軍需産業従事者で他に変えられない技量・知識の持ち主は、当然徴兵対象外ですよ。
 (陸軍動員計画令[永年動員計画令])

1943年当時の戦時召集延期者
(なお、年が進む毎に対象が増え、終戦直前には100万人近い人[食糧確保の為、一部の林業・農業従事者まで…。]が対象になります。その他に徴用された軍属もいますし…。)

  1. 侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
  2. 陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
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Q戦前に日本では徴兵された人はどれくらいの訓練を受けていましたか?

戦前の日本で赤紙で徴兵された人は、どれくらいの期間訓練を受けていたのですか?
志願した人たちとはどんな差がありましたか。
配属先などは希望が受け入れられたのでしょうか?

また海軍などでは専門知識が必要だったと思います。
赤紙で海軍に入るというようなことはありましたか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

陸軍の召集兵は新兵と既に訓練を受けた者とは別です。
新兵は未訓練ですから本来2年の訓練に入るのです。しかし戦況が不利になると訓練期間は次第に短縮されて短期教習で前線に送り出されました。
既に訓練を受けていたものは短期の教習の後同様前線に送り出されました。

志願兵と召集兵とは歴然とした別待遇です。
志願兵は進んで軍務に志願したのでいわゆる少年兵のように戦車兵や飛行兵など適性に応じた兵種を選べますし幼年学校のように士官学校に進学できました。
進級も早く訓練終了の時点で兵長クラスです。
士官学校や海軍兵学校は士官の養成が目的でしたから
卒業と同時に見習い士官ないし士官候補生に任じられました。 彼らは教育中の適性により配属先が決められたのです。
訓練期間も戦況により次第に短縮された事はかわりません。

海軍は専門知識が必要なので海兵団に入団するとそれぞれ専門別(兵科、機関兵科、潜水科など)に分けられて訓練を受けます。  この時ある程度コースが決まるのです。 

Q第二次世界大戦の日本兵の死亡率

あの戦争で何人の日本兵が戦地に赴き、そのうち何パーセントぐらいが帰還したのでしょうか。ご存知の方、宜しくご教授ください。
(出典も教えて頂ければ幸いです〉

Aベストアンサー

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3万1358人のおよそ三分の一であった。戦死・行方不明は合わせて2万1138人、そのうち戦闘で死亡した兵士は5000人ほどと推定され、残りの1万5000人以上が飢えと病に倒れたのであった。
 
 精神論だけで勝とうとする日本軍の指導者について以下のように記載してあります。
 >またアルビン・クックス教授は、このノモンハン事件(死傷率70%)の失敗が太平洋戦争でも繰り返されたもう一つの大きな点は、事件の指導者(辻正信、服部卓四郎)が責任も取らずに再び太平洋戦争も指揮したことにあるとしている。

インパール作戦でも半数は補給作戦もなく、飢えと病で死んでいます。NHK取材班「責任なき戦場 インパール」(角川文庫)

 
 

戦死者数は130万人を超えるとされていますが(原朗「戦時統制経済の開始」『岩波講座日本歴史20』近代7)、単なる戦死というより、日本軍は飢餓とも戦っていました。これこそ無謀な戦争といえる現実でした。

NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因2「ガダルカナル 学ばざる軍隊」(角川文庫)
>アメリカ軍は結局この日本軍の撤退の動きにまったく気がつかず、奇跡的な成功だったといわれる。これは『戦争叢書・南太平洋陸軍作戦2』によれば、1万0665人であった。これはガダルカナルに上陸した総人員3...続きを読む

Q赤紙(召集令状)と入営通知書の違い

赤紙(召集令状)と入営通知書の違いは何でしょうか?
赤紙は、役場の兵事係が配送しますが、
入営通知書というのは郵送で、ハガキか封書(映画「戦争と人間」)だったようです。
なぜ郵送したのか?
郵送では郵便事故もありえます。
両者の違いについてご存知の方、ご教授願います。

Aベストアンサー

No.8の続きです。だんだん結論に近づいてきているでしょうか。「召集令状」や「現役兵証書」は役場から手渡しであるのが大原則ではあるけれど、やむを得ない事情の場合は電報による通知や封書での郵送(ただし十分な配慮がされている)もあったということが、質問者さん自身の努力のおかげで確認できました(ハガキによるものはまだ未確認です)。今度は入営通知の件です。

> 入営通知書というのは「入営を命ず」と書かれた書類の総称であるらしい

いずれにせよ、一番最初の質問だった「入営通知書」というのは正式な名称ではなく、一部の人による俗称あるいは通称の域を出ないということでよさそうな気がします。いかがでしょうか。

> 具体的には「現役兵証明書」と「入営命令書」

「入営命令書」の根拠らしきものが見つかりました。そして「入営が間近くなると入営命令書が届くシステム」というyoshinobu_09さんの考えは正しいようです。No.7の冒頭で否定したことをお詫びして訂正します。

1944(昭和19)年11月に出された「昭和二十年ニ於ケル徴兵事務等ノ特例ニ関スル件」(陸軍省令第51号)の第7条で、現役兵証書の表面には「入営部隊、入営部隊所在地、入営期日及時刻ハ時宜ニ依リ之ヲ記入セザルコトヲ得」、つまり入営に関する諸情報は記入しなくてもよいと定められたんですね。そして第7条ではつづいて「此ノ場合連隊区司令官ハ(中略)別ニ入営部隊、入営期日及時刻等ヲ本人ニ達スベシ」としています。これが「入営命令書」になると考えて間違いないのではないでしょうか。また同じ陸軍省令第51号の第2条で、1945(昭和20)年の徴兵検査は1月15日から4月30日までと前倒しすることが確認できました。ですから「入営命令書」は昭和20年の4月ごろからの日付が見受けられるのも当然といえるでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961856/1
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01007597400?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%B9%B4%E3%83%8B%E6%96%BC%E3%82%B1%E3%83%AB%E5%BE%B4%E5%85%B5%E4%BA%8B%E5%8B%99%E7%AD%89&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&

徴兵検査の日程は官報に徴兵署開設日割という情報が出て大体わかるようです。あまり戦争と縁がない昭和ヒトケタの時代は、きちんと4月16日から7月いっぱいで終わるように日程が組まれているのが確認できます。それが1944(昭和19)年のものを見ると、8月までずれ込んでいるのも見受けられます。そして1945(昭和20)年の場合は、上記の陸軍省令第51号により1月からという日程になっていることが確認できます。補足で例として挙げられた満州の青年が2月に徴兵検査を受けた話は、まさに定められたとおりだということがわかりました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957425/5
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961663/10
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2961908/6

つぎに私が疑問だった、なぜ1945(昭和20)年という戦争も終盤(当時の人は誰も8月に終戦になるとは知りませんが)の混乱した時期に、わざわざ「現役兵証書」と「入営命令書」という二度手間にするかについてです。陸軍は上記の陸軍省令の頃から本土決戦に向けて師団をどんどん急造する計画をたて始め、2月以降には新しい師団ができてきます。このへんの事情は防衛庁(当時)防衛研究所戦史部による『戦史叢書 陸軍軍戦備』(朝雲新聞社 昭和57年7月30日発行)の462頁以降に詳しく書かれています。またインターネットでは「帝国陸海軍作戦計画大綱」というキーワードで検索すればいろいろな話が出てきます。そういった新たな大量の師団編成に追われてギリギリまで誰をどの部隊へ入営させるか軍も決めかねて、まずは現役兵証書だけを交付する、その後で目処がついた部隊に入営させるため命令書を出すということかもしれません。

ただし・・・

> 翌(昭和20)年1月私にも入営通知が届きました。
> http://www.pref.tottori.lg.jp/80236.htm

この例は前年の徴兵検査によるものであり、それまでと同じ「現役兵証書」のことだろうと考えます。

> ネットで検索した結果、他にも入営を命じる書類があった可能性を感じます。
> 「入営令達書」「入営兵令達書」なるものも登場します。

このへんは何ともいえないですね。昭和20年以降のものなら上記の省令では「入営部隊、入営期日及時刻等ヲ本人ニ達スベシ」というだけですから、各連隊区司令部の判断で書状の名称をつけてもよいのかもしれない、と考えれば「入営命令書」以外の名前の可能性も残るでしょうか。しかし、yoshinobu_09さんが補足で例として出された昭和14年や17年のものはどうでしょうねぇ・・・。しつこく書きますが、公文書の文言でもない個人の思い出話の中に出てくる単語は、記憶違いであったり、それを書いた人が勝手に呼んでいるだけというおそれが十二分にあります。ですから「入営令達書」や「入営兵令達書」という正式名称のものがあったかどうかはわかりません。やはり現物か、そうでなくても裏付けとなる別の史料と合致しないと、本当にあったかどうかは決められないでしょう。

以上、ダラダラとこんな細かいことを、自分以外に興味を持つ人がいるかどうかわかりませんが、yoshinobu_09さんの質問をきっかけにして、今回調べてみていろいろわかったことがあったので自分のための備忘録も兼ねて書いてみました。

No.8の続きです。だんだん結論に近づいてきているでしょうか。「召集令状」や「現役兵証書」は役場から手渡しであるのが大原則ではあるけれど、やむを得ない事情の場合は電報による通知や封書での郵送(ただし十分な配慮がされている)もあったということが、質問者さん自身の努力のおかげで確認できました(ハガキによるものはまだ未確認です)。今度は入営通知の件です。

> 入営通知書というのは「入営を命ず」と書かれた書類の総称であるらしい

いずれにせよ、一番最初の質問だった「入営通知書」というのは...続きを読む


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