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どの宗教の信者の方でも、無神論者の方でもよいのですが、
私は以前から神(仏)はどこにいるんだろう?と疑問に思っていました。

誰もそれを教えてくれないのは、それがわからないからなのではないか?とも思います。

知ってる方がいらっしゃいましたら教えてください。

宜しくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

私の考える神の居場所ですが。

ちなみに私は宗教関係者でもなければ、熱烈な某宗教信者でもないです。ただのそこらへんに、ゴロゴロいる1人の凡夫です。記憶がアバウトなので説得力は無いし、SFっぽい回答ですが、それでも良ければ。これはずっと以前ある書を読んで記憶しているのですが、聖書には聖書外伝というものがあり、今のキリスト教では許されていない聖書です。仏教にも外伝らしいものが存在するそうで、そのなかには、釈迦の降臨のことが書かれているそうです。釈迦の世界では、この世はサハーの世界といい、極めて幼稚な世界らしいです。釈迦はその幼稚な世界の我々にこの世の真実を説くために降臨したと書いているらしいです。また降臨の際、確か琴の音だったかな~?なにか七つの音がしてこの世に降臨してきたと書いていたような。もう20年も前になるでしょうか、ある科学雑誌で確かアメリカの学者だったと思いますが、スーパーストリングセオリー(超紐理論)という論文が発表されています。この理論をつかえば、この世の事象の全てを説明できる、この仮説を証明できれば物理学は終わると言われた論文です。私の頭では到底理解できない内容ですが、この世界は6次元と10次元の空間がさらに重なった空間であるらしいです。ここからは私の考え方なのですが、私たちの住んでいるこの世界は3次元だとすると、先ほど書いた"七つの音”は7つの次元を降りてきたときの空間振動波のようなものではないか?もし2次元人があなたの机の平面に住んでいる、そして私たち同じ人型をしてると仮定します。彼らはXとYの空間の広がりしか認識できません。私たち3次元人が近くで覗いていても2次元人は知る術がありません。手の平を机に押し付けた時、彼らは、手の形をした異様なものを見たと騒ぐかもしれません。私たち3次元人から見れば、彼らの体は閉じた物体では無く、内臓が丸見えの生き物です。また4次元人からは、私たち3次元の生物は内臓丸見えの異様な生き物に見えてるということです。よって2次元人に癌が出来たとして、彼らは切開手術をしなければ、癌組織を除去できませんが、私たち3次元人は彼らの体を切らずに癌組織を取り出せることになります。彼らのサッカーボールもどこの切る事無く裏返しにできるということです。1次元の違いで、これだけの能力差を有む訳ですから、私たちより7次元も高い生物(生物といえるのかは疑問)の能力は想像を絶すると思います。まさに神の能力です。どうですか?科学は進化するほど限りなく宗教に近づくずくと言います。ちょっと文章が下手で申し訳けありませんが、こんな考え方もあるのではないでしょうか。
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仏陀達の境地を無往と言います。


往するところ無くして、まさにその心を生ずべし、と言う言葉があります。
故に彼らは一切を知る人と言われます。
 神達の往するところは天界と言われています。この世には六つの世界があり、ひとはその六つの世界を輪廻すると言われています。
それは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道(神の世界)の六つです。その輪廻から解脱した者を仏陀と呼びます。
はっきり言って、私には分かりません。六道輪廻は、様々な宗教や神秘主義が融合して生まれてきた思想かもしれません。しかし、見たくない地獄はまさにあるでしょうし、畜生道などはよく目に付く所です。餓鬼道もともすればすぐに自分が赴きかねない所ですし、修羅道などは日常の中に溢れています。
天道にいたっては、八百万の神々、又はインド的な神々達がいるのだろうなと、想像することはできます。山深いところ、清い夜などには、そういった霊子ともいえそうなものを感じることが出来ます。空気がうまい、水がきれい、生命力を感じる、それだけでなく、何かが居るなあ、友達が一杯だ、そういう感じです。妄想でしょうか。
 原始仏典には、ある神さまが仏陀に質問に来るという話があります。
天国にいながらも、神にも迷いがあるのでしょう。
最もすぐれた解脱を、慧解脱、智慧による想いからの解脱と言います。
それを逆手に取れば、この世は想いによってできている、そういうことになりそうです。
回答になりましたでしょうか。
つまり存在しているのは想いであると言うことになります。

例えば、人類の科学が発達して、生老病死すべて克服したとします。不滅の体、時間の超越、卓越した理性、でもそれで、この世の全てを乗り越えたと言えるでしょうか。
私はいえないと思います。そこにはやはり、想いが在るからです。
我々の存在の仕方がどのようであるのか、我々はばらばらでなく、繋がっている、そのようであると思います。この世では皆、繋がれている。お互いに。
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神や仏は異世界にいるのだと思います。


なぜなら、神道ならその世界に通じてお願いを聞いてもらうために供え物とかをして祈ります。
仏教でも仏は極楽浄土とかにいるようです。(悟りを開いたものは特別扱いなので)
キリスト教は神の家に帰ると言っているので・・・。
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すべての出来事はたった一つの原理上にあるのだと思います。

私たちも神も同じ原理上に存在し、同時につながっている。私というからだのすべての機能は必要という想いから生まれ出て、私は生まれ出た機能という形のすべてを同時に認識する。私の必要とする機能と形は私という想いの内部に生まれ出て、私という想いに向かものだと考えます。つまり私という肉体のすべてと私という想いは相反する同じものなのだと考えます。この世に必要のないものは存在しない。存在とは必要であり、私たちが存在するということは、私たちを必要とする者がいる。この世を神様が創ったとすれば、私たちは神の内部にあり、そして同じ存在なのだと考えます。
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そんなもの居ません。


が、居ると言う人の意見を否定して回るのも褒められるものではありません。
人は、高い知能をもち、文化を持つなかで、さまざまなことを考えるようになりました。
死への恐怖。病気や災害への恐れ。人間の力の及ばないさまざまの事柄。
生の不思議。愛の喜び。優越感。天体運行の不思議。
いろーんなことの説明体系のひとつとして「神」が生まれたのです。
人間の”疑問”の中にこそ神が居ると言えるかもしれません。

しかし、近代になり(西洋ならルネサンス以降)、それまでの疑問が「科学」で説明できるようになって来ました。このころから、神の立場を科学が取って代わっていったのだと思います。

ただ気をつけたいのが、”科学信仰”ともいえるような、科学が万能だと思ってしまう風潮があることです。まっだまだ科学では説明できないことは沢山あります。科学は完全ではありません。
現代は科学こそが神のように扱われていますが、神も科学も”人間の作ったもの”なので、完璧と思い込むのは危険でしょうね。

と、京極さんの小説の妖怪話の影響を受けているワタクシなんですけどね。

昔は不思議なことがあると、神や天使や妖精妖怪とか妖術の所為にされたんですが、いまどきはUFOとか波動とか疑似科学っぽいモノの所為になっちゃいますよね(苦笑)
インチキ説明でも、科学の匂いがする説明だと説得力があるんです。(マイナスイオンとかゲルマニウムとかの迷信もね)


死の恐怖をやわらげたり、道徳心をはぐくむためには、宗教は現代でも非常に有効だと思っています。
やおよろず様々なものに精霊が宿るようなアニミズム信仰なんて素敵じゃないですか。モノを粗末にしなくなる。えころじーですよ。

日本の神は、神話の中では人の形をしてるっぽいですが、神社には神の像なんて無くって、山そのものが御神体だったりするんですね。
で、社の中には鏡が祭られている。
古代では、鏡が貴重なものだったからなんでしょうけど。鏡って言うものに、それ以上の意味を感じちゃいます。
日本人は、自然そのものこそ神であると感じていたんじゃないかな。
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この回答へのお礼

>そんなもの居ません。
>が、居ると言う人の意見を否定して回るのも褒められるものではありません。

私も、今の段階では神・仏はいないと考えています。

しかし、世界中に何らかの宗教を信じている人がいて、中には神のために死ぬ人もいて・・・

信じている人の根拠はどこなんだろう?
神・仏はどこにいるんだろう?
と考えていたので、今回の質問をさせていただきました。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/28 00:13

植物に心はないと言い切れますか?日本古来の八百神は、山川草木すべてに宿るといわれています。

お釈迦さんは、生きとし生けるもの、みな平等と仰っています。
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クリスチャンからですね。



聖書では信じる人の心の中に神はいると書いてます。
たぶん教えても理解できないと思います。
信仰というのは見えないものを信じるから信仰というのです。

仏教でも心の中にあるんだという教えがあったと思います
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この回答へのお礼

>聖書では信じる人の心の中に神はいると書いてます。
>たぶん教えても理解できないと思います。
>信仰というのは見えないものを信じるから信仰というのです。

「信じる人の心の中に神はいる。」
納得です。

神・仏は宇宙空間に存在するものではなく
信者の心にいるんですね。

無神論者の心の中にはいません。
植物や単細胞動物など心のない生物には神がいません。

ということは、物というのは宇宙空間が生成消滅させるので、
創造主は神ではないということですね。納得。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:43

神や仏のいる場所・・・ですか?


では悪魔のいる場所はどこですか?
どちらもそれを信じる人の心の中にだけ存在するものだと思います。

私は無神論者なので私の世界には存在しません。但し、人間の感知し得ない世界は間違いなく存在すると思っています。

人間は三次元の世界に生きていますよね? 難しい理論はわかりませんが、三次元の世界以外にも四次元、五次元などの世界が存在し、物理学的にも証明されたりしてきていると聞きます。

通常あり得ない事が起こったり予感されたりした場合、神を信じる人たちは神や仏、あるいは悪魔の仕業だとかお告げだと解釈するのです。私にはとてもそういう風には考えられません。不可思議な事象は三次元の世界と異次元の世界との交錯ではないかと思っています。

http://www.nhk-jn.co.jp/002bangumi/topics/2006/0 …
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この回答へのお礼

>神や仏のいる場所・・・ですか?
>では悪魔のいる場所はどこですか?
>どちらもそれを信じる人の心の中にだけ存在するものだと思います。

神・仏・悪魔
それぞれ人の心の中だけのもの
というのには賛成です。

ただ、「存在」という言葉は紛らわしいので使わないほうがいいと思います。
「存在」というとこの宇宙空間に「存在」するものと解釈できるのですが、単に信じるか信じないかの問題でしたら、心に思うことは
「存在」とはいえないと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:34

NO3です。

お礼拝見、有難う御座います。
神、仏は存在するか、しないかではなく、各自個人の心に神、仏を信じる心があるかないか?ではないでしょうか?・・・
いないならいないでしょう。いるならいるでしょう。
私は後者です。~視覚で認識なんて出来ません~
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この回答へのお礼

>各自個人の心に神、仏を信じる心があるかないか?
>ではないでしょうか?・・・
>いないならいないでしょう。いるならいるでしょう。

了解です。

この宇宙空間に神が存在するわけではなく、
神・仏を信じる人と信じない人がいて、信じる信じないは自由ですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/26 16:26

こんにちは。



#1~#3 の回答のレスを読んで思いました。

>「相対性理論はお釈迦様でもわからなかったことです。それをあなた方は理解できるのだから素晴らしいことではありませんか?」

相対性理論は、単に空間に対する存在の物理法則の話ではないでしょうか。アインシュタインは、スピノザ哲学を支持し、すべての存在に対して神の力を見出そうとしていたわけですが、古代インド哲学は、それは、単に機械的な元素の循環としてしか見出さず、神の摂理などを見出していないのです。古代インドや初期仏教の時代の思想は、量子力学の考え方のほうが近いと思います。だから、幾人からの有名な物理学者が、古代インド哲学を支持しているそうです。当然、仏教も、本来、無神論、無霊魂主義です。

例えば、インフレーション宇宙のことを一部では、インドのシバの宇宙の創造と破壊を模して、「シバのコズミックダンス」といいます。今では、それを科学と呼びますが、古代では、それは宗教的世界にしか過ぎません。ここには、絶対的な存在を認めているわけではないのです。単に、波とか揺らぎとかしかないはずです。いつ始まって、いつ終わるというような期間は持たないし、それが終わったとしても、別のどこかで始まる、それは永遠に近いダンスなのかもしれません。

物理学は、理論物理学だけでは足りませんから、どんな話でも、観測や実験の上から理論が実証されるわけで、その時代に基礎的な理論が確立していなかったから、どんなに力説しようが、それは空想の話になってしまいます。それは現代でも同じことだと思います。

膨張していく宇宙の果てが、虚無に帰るのだとしても、そこに、阿弥陀如来の救いを想像しようが、暗黒の宇宙を想像しようが、我々の現代の人間にとっては、しょせん、2000年前と現代とは変わらないように思うのです。人の死は、一定(いちじょう)です。人間は、古代と同じように、苦しみ、同じように悲しみ、未だ、私たちの世界では、消えたわけではありません。

>お釈迦様、イエス様、モーゼ様、それらの方々が言ったことが本当なのか?(その方々は空想・幻覚なので感じたかもしれない可能性だってあります。本人達は、自分の感じたことを正直に言ったのかもしれませんが。。。)

二世紀ごろの仏教詩人・アシュヴァゴーシャは、こう言っています。
「万物の一体性が認識されないと、無明と分別が生じ、……、すべての現象は心の迷妄のあらわれにすぎず、それ自体には、いかなるリアリティもない」

ゴータマ仏陀の場合は、非常に論理的な考え方で、当時の空想話に終止符を打とうとして、彼は一派を立てたのだと思うのです。

ですから、それと対立した、六師外道(哲学者)の思想の中には、この世界を機械的唯物論で説明して、そこに意思らしきものを見出さなかったわけです。意思なく流転していくだけの世界で、常に変わるものだ、と教えているわけです。古代からインドでは、多くの唯物論者がいますが、輪廻思想の裏返しなのです。輪廻によって流転する魂を肯定することによって、苦悩が生まれるが、それを否定した唯物論のみが、苦悩を回避させる方法だとするものがあります。この世のすべて「地・水・火・風」の四大元素に還元するので、霊魂などは存在しないという考え方もあったわけです。

お釈迦様というよりは、ゴータマ仏陀は、ただ、その探求を続けていく選択肢を取らなかったということだと思います。

仏陀は、それを否定したわけではなかったのですが、そんなことを言っていたら、実証もない終わりなき理屈に終わってしまうので、困った人などを救うことは出来ない、と論争を避けたというそうです。[無記説]

仏教は、人間の存在の苦悩の原点を何かと説いているわけです。それは、単に、執着と欲望から起きているとし、そこからの離脱の論理があるわけです。つまり、八正道というわけです。

当初の、仏教は、現実論を説いただけだったと思うのです。そして、古代仏教では、一種の社会活動を推し進めたということです。(仏教学者・友松円諦氏より) 例えば、中国から帰国後の空海の足跡をみると、日本の各地で灌漑事業などを率先して行っています。「抜苦与楽」とは仏教精神ではあるけれども、現実的な問題に即していかなくては、一体、何のための教えが分からないと思うのです。いくら、「新大乗運動」と称したところで、実質的な行動が伴わなければ、テレビで無責任な霊感占いや、テレビ伝道師のビリー・グラハムのようなハデなパフォーマンスの一時間番組をされたら、免疫のない人は感化されてしまいます。

仏陀は死ぬ前に、「自らを燈明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、真理を燈明とし、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」(自燈明・法燈明)という言葉があるように、仏陀の死後の存在を肯定してはいなかったし、仏陀自体を崇められることを望んでいなかったわけです。それは、鎌倉時代の僧たちも同様です。法(仏陀の教え)が、大事であるから、それをよりどころにしなさい、というわけです。

現代は、30年前ぐらいから比較すると、おどろくほど、現代の風潮は、神秘主義に傾いているように思います。私は、世紀末の風潮だけで終わると思っていたのですが、いよいよ本当になっていくのでしょうか。(小乗仏教経典を元にした)仏教の唯物論も極端すぎますが、かといって、神秘主義の仏教論には、何の根拠もないと思うのです。しょせん、どこかの教祖や霊能者と称する人物の妄想(定説?)にしか過ぎないように思います。
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