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No.5
- 回答日時:
石高には色々あります。
1.表高(おもてだか 朱印高ともいう) 幕府が決めた各大名の公式表示石高
2.年貢高 大名、幕府が年貢を決める基礎とする石高で、一定のところと変動するところがあります。 実りの良し悪しで変えるのと、新田開発で増やす場合などあります。
3.生産高 各年の実収石高で年により変ります。
これらは同じではありません。 通常大名の石高といわれるのは1の表高です。 これは一定のことが多い。
表高は幕府が各大名に土木工事(江戸城築造や河川の堤の工事など)の賦役や軍役を命じる時の基礎にするもので、家康はとりあえず太閤検地の値を使い、のち徳川幕府の検地で修正して、元和3年各大名に朱印状を渡し、公式の石高になりました。 この値は原則として変りませんでした。 江戸幕府の全国的検地は慶長、元和、寛政、慶安、享保と5回行われましたが、これによる表高の修正はわずかで、転封に際して行った検地での修正が多かったようです。 新田の開発の進んだ藩では表高より実収が多かったわけです。 倍位多い藩もありました。 賦役が割りに少ない事になります。
しかし表高が多いことはメリットがありました。 大名の家格は表高によっても決まるので、格式の高いのを望むのは大名の見得として当然で、実収の増えた藩主は表高をふやすよう、幕府と折衝しましたが、なかなか通らなかったようです。 格式は幕府の大名統制の手段の一つで当然でしょう。
No.4
- 回答日時:
石高は米の生産量だけできまったのではありません。
太閤検地は全国の土地の生産力を同じ基準で測量し、石高をきめたのですが、当時既に米以外の農産物(麦、畑作など)も算入していました。
米以外の生産力に課税する考えは後世になるほど経済活動の進歩もあり免許税など利権にも課税するようになり実際の収入は石高とは乖離したものとなりました。
農地の生産力は米だけでなく綿作や煙草などの換金作物による金納制の採用で変化し新田の開発、農業技術の改良でも増加したのです。
土地の生産力を把握する検地は太閤検地以降ほとんど行われなかったので大名の石高というものは実際の収入を表さず、一種の身分の格を示すだけになってしまったのです。
No.3
- 回答日時:
基本的には、検地で算出した米の生産力=その領地の石高になります。
領地内の農耕地と家屋敷の面積を測量し、土地をランク付けして、米の多く取れそうな土地には高く、とそうでない土地には低くとかけ率を変えて算出したものが石高です。
これには山林や沼地は含まれませんが、生産性のない家屋敷の面積は含まれており、純粋な農耕地の面積ではありません。
よって、本来は、定められた石高通りの米を生産することは不可能です。
しかし農業技術の向上により同面積の米の生産高は向上しましたし、開発した新田への課税は従来の農地よりも低くするという幕府の政策によって新田開発も活発に行われました。このため、実際は最初に定められた石高以上の米が取れていたはずです。
しかし、石高を決めるための検地は、太閤検地以降あまり行われませんでした。
また、米の生産高が収入の全てではありませんので、その領地の豊かさ、国力を石高で比較するのは困難です。
ゆえに、名誉家格等による石高操作を除くなら、石高とは、大雑把に言って、「太閤検地当時の米の生産高」を指すに過ぎない、という事になるかと思います。

No.2
- 回答日時:
石高ですけど、必ずしも一致しない場合は多々あります。
例えば会津藩などは23万石ですけど、幕府より南山御蔵入地の管理を任されており、これが5万5千石ですから、実収は30万石近いことになります。
但し、5万5千石は預かりですから、幕府の都合で増減があり、一定ではありません。
また、尾張藩は62万石ですが、木曾のヒノキを含まぬ石高ですから、林業収入を合わせればかなり豊かな藩といえます。
新田開発で増えることも多く、長州37万石は実質97万石ですけど、幕府は37万石として扱うので、内実はかなり豊かで、この表高と内高の差が大きい大名ほど豊かで、同じ石高で転封するときも、内実の豊かな領地が望まれ、表高を下回る土地への転封は左遷といえます。
水野越前守などは老中になりたいために、肥前唐津6万石から遠江浜松6万石に移りましたが、内実は全く違いますから、家来たちは嘆いたと思います。
同じことは薩摩藩の琉球貿易にも言えることで、石高だけでは藩財政を測ることは出来ません。
喜連川家のように10万石の格式を与えられながら、領地は5千石しかなく、体面維持に苦しんだ大名もいますし、忠臣蔵の敵役、吉良上野も高家という格式と万石に満たない実収にギャップを感じたことが悲劇の遠因とも言われます。
岩松(新田)家のように20石(後に120石)で、交代寄合いに入り、大名に準じる扱いを受けた家すらあります。
石高と待遇は必ずしも一致せず、各大名は大廊下・溜間・大広間・帝鑑間・柳間・雁間・菊間の7つの部屋に控え室を割り当てられ、家格によりどこに属するかが決められます。
御三家は大廊下の上、下は福井松平など御家門大藩など。
老中などの役職に付けば席次も上がり、行列が行き違うときも相手の大名は道を譲ったりします。
No.1
- 回答日時:
時代によって、変わります。
江戸時代初期においては、リアルに領土が変わりました。
前提として、各大名家が、一円支配をしていなかったと言うことを考える必要があります。
各大名家の領地の中に、太閤蔵入地や、幕府の蔵入地などが飛び地状にありました。
島津家の場合、(江戸時代前ですが)太閤蔵入地が、徳川家康の命令によって島津家の領地になっています。
※ といっても、秀吉の九州攻めで、取り上げられていた土地ですが。
江戸時代中期以降になりますと、石直しというやつになります。
実際にどれだけ米が取れたかではなく、大名家の「家格」として石高が決められていたので、実際には米が取れなくても、名目だけの石直しもあったわけです。
住民の方は、それに応じて、課税される訳なのでたまったものではないですが、真田家の分家筋が、本家より、自分らが主流だと主張するため井、激しく 石直しをして、本家をぬいたはいいが、百姓一揆で、取りつぶされたという例もあります。
この回答への補足
大変お詳しい説明でありがとうございます。太閤検地で地積が、数字上はっきりしていたので、農地の面積をもって、石高が決まったものか?山林などは、米価に換算していたのか?、疑問もありましたが・・。
ご説明から、その大名等の格に数字がついてきたのであって、特段、その領地の生産量と相関関係ではなかったのですね?
すると、石高が増えることは、藩が潤うよりも、実態は担税としての義務が生じるわけなのでしょうか? よろしく、お願いいたします。
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