一回も披露したことのない豆知識

なぜ、対外的に流派の技を使うとまずいのでしょうか。
特に古流の物などは安全なルールを定めても他流試合などを禁じているところが多いです。
戦国時代ならば、他人に知られれば研究されこちらの身が危ないことはあるでしょうが、それ以外に考えられるとするならば、もし負けた場合のメンツでしょうか。
他のものと比較検討できて初めてその流派の短所長所が解ると思うのです。
知らない人に宣伝効果を与えることはあれ、負の面はないように思うのですが。メンツなどよりも他の人たちとそれぞれの短所長所を教え合えば、さらによい物ができると思うのですけど。ちなみに私が属している西洋古典剣術はそのようなことは全くありません。

A 回答 (6件)

説明ありがとうございます。


私の説明が悪かったようなので、追加します。

個人的には、武道・武術はもともと卑怯なものを格調高くさせようとしたものでもあると思っています。
また、卑怯なやり方に対応する工夫も重要です。(何が卑怯かは個人個人違うと思いますが、その工夫を活かせるような試合を作るといいですね。)
さらに、合戦を前提にしている場合、当然背後から攻撃されることや複数の相手も考えなくてはいけません。1対1の試合形式だとその点が甘くなります。大勢で1度にできて安全な真剣にできる試合もいいと思います。

「試合と書いていますが、大事なのは勝ち負けではなくそれを体験し、自分自身の短所と相手の長所を知る点です。」ということですが、大抵の人はルールがある限り勝ち負けに拘ってしまうのではないでしょうか? たとえ試合をしている人は拘っていなくても、流派を名乗って試合しているとそれを見た人は「あの流派が勝った・負けた」と思うでしょう。これは流派にとっては喜ばしいことではありません。
勝ち負けのないルールや、一般に敗者にみえるような側が賞賛されるような工夫もあるとよいでしょう。(それがつまらないなら、勝ち負けに拘っていることになると思います。)

「武器の件ですが、模造刀であれ竹刀であれ、相手も同じ物を使うのであれば武器による精神への追いは同じです。」
これについては、実際に模造刀(or刃引きの日本刀)でやった試合と竹刀でやった試合を何回か繰り返して比べて見ると、はっきりすると思います。
刃引きの日本刀でなくても、木刀とチャンバラ剣道の袋竹刀(正式な名称は知らないのですが)で比べたりしてもいいと思います。
模造刀と竹刀で比べるときは通常の剣道の防具をつけ、木刀と袋竹刀では防具をつけないでやって比べてください。武器があたったときの痛みや危険度の違いが、試合構造や精神状態ににどう影響するかがはっきり判ると思います。
(危険すぎてできないというのであれば、そこにこそ精神状態の違いが現れているのではないでしょうか? それでも何回か繰り返していくと試合の技術構造そのものの変化が見れると思います。そうすると試合することの功罪のある面が明確になってくると思います。怪我しても責任もてませんが!)

表演会といったのは、流派の特徴が出やすいのでそのほうが研究にはなるかなと思ったからです。
自分の技が通用するかどうかは別の話です。それについては個人的な試合や、他流や他道場との交換稽古などが必要だと思います。(交換稽古や他流との非公式な練習試合をやっているところもあります。)

「日本古流の物を、危険な技はかけないルールで古流を生かして誰でも参加し楽しめる物を作ろう。」ということですので、参考になればと、だらだら書いてしまいました。
武術・武道・格闘技・護身術といったものは身に降りかかった危険を、自分に対してどう安全にしていくかの方法論ともいえます。失敗すれば怪我/死をまねくという前提があやふやにならない、かつ、安全な試合形式というものを探求したらいかがでしょう。
柔道や剣道がそうであればいいと思うのですが、もっといいものを作ってください。がんばってください。
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この回答へのお礼

とても参考になります。ルール、武具は統一する必要はありますが、その幅は大きくする必要がありますね。それは「安全性」だけを基準にした物でよいと思います。精神状態の違いは理屈では解りますが、精神状態を高潮させるには危険度が上がるため、これは安全性と矛盾してきます。
しかし、多くの流派に見られる一見卑怯なわざ「相手の足を踏む」などは是非とも使えるような状態にしたいです。

お礼日時:2002/06/03 22:47

ko2rouです。


1812さんの構想はよくわかります。おもしろそうな取り組みですね。現代剣道の発生も1812さんの発想と殆ど同じだったのではないかと思います。

結論から言えば、他流派と同一ルールで交流すれば、武術としてはあまり意味はないけれど、スポーツとして向上するということになります。総合格闘技と同じです。だから、古流の閉鎖性を問題にするのではなく(彼等が参加するはずはない)競技として確立していけば、志のある人は集まってくるでしょう。

でも、スポーツチャンバラという競技が既に存在していますね。
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この回答へのお礼

スポーツチャンバラのインストラクターの資格を持っています。
あれはお手軽に子供でもできる物としてとても楽しく良いスポーツです。しかし、ソフト剣は剣というにはほど遠い。また、スポーツチャンバラは勝負があるため、審判が必要です。しかし、フェンシングではよくあるつま先への突きなどは、まず一本を取りません。
私は勝ち負けは試合の当事者がわかればそれでよいと思いますし、第三者がいる場合は審判ではなく点のカウンターwpたてればよいと思います。SCAの場合はまさにそのようなシステムです。確かに中には強いヒットをうけても、「やられた表示」
をしない人がいますが、そのような人は「カバの皮」と言われよく言われません。
審判をおかないことが勝負へのこだわりをなくす一つの方法と考えています。

お礼日時:2002/06/03 22:57

1812さんの属している団体とは


http://members.jcom.home.ne.jp/noyes/
の団体のことでしょうか?
そうであれば、このHPからは「発生は日本の古流剣術と同じ」と言う意味が理解できませんでした。
勉強不足なので、教えてほしいのですが、
中世に発生した西洋古典剣術の流派がいくつか現存していて、その伝統を守りながらやっているということでしょうか? 流派はどのくらいあるのですか?


他流試合とは、それで勝負がつくということでしょうか? そうなるとルールがあるとかえって各流派独自の技術が使い物にならない場合が出てきますので、難しいと思います。ルールがない場合は死亡した場合や目や手足がなくなった場合の保険金の問題がでてくるので、なおさら試合は難しいでしょう。

ルールがあるということは、その試合で使われる技術が限定されるということですので、試合向けに技術が変化してしまい流派独自の技術や高みに達するのには妨げになりやすいでしょう。(武器にしても、模造刀でやるか実際に切れる日本刀でやるかで、精神状態がまったく違うものになります。さらにその精神状態から繰り出される技も動きのリズムも違ったものになるでしょう。)
そうすると試合では強いがその流派では下っ端だったり、ある流派の高段者が試合では弱かったりしてしまいます。
そういう点を考えると軽はずみに流派を名乗れないのだと思います。

表演会みたいなものは日本の古流でもいくつかの流派が合同でやっていたと思います。そういった形でも、他流との交流や研究は可能だと思うのですが。(複数の流派の武術を身につけている人も結構います)
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この回答へのお礼

まさにその団体です。私の知る限りではローカルに西洋の古典剣術は存在していますが、その多くはレピアを主体とする物で、それ以前、つまり中世の大型剣の技術は文献でしか残っておらずそれを研究再現しています。流派は日本のように一子相伝で個人が名乗っているのではなく、ドイツ派フランス派と言った場所(文化圏)によって型が違うと言うことのようです。しかし、何事にも合理的に考える西洋人は防御、攻撃の様々なリスクと技術の解析は多くの研究本が古くより出されています。当然、元来は人殺しの技術ですから、危険な技もあります。しかし、それを実際に使えば大きな怪我をしますから、試合の中では禁止されています。下でも書きましたが盾は身を守る防御だけではなく、それで殴るのは基本です。しかし、試合では禁止されています。しかし、盾を相手の眼前につきだし視界を奪う、押しつけてイニシアチブを奪う。はよく使用されます。
 他流試合の場合、基本ルールを統一する必要があるとおもいます。それは最低限のラインで危険度と卑怯さを制限する必要があるでしょう。口に含んだ水を相手に拭きかけひるんだ隙に攻撃する奥義などは却下されます。
試合と書いていますが、大事なのは勝ち負けではなくそれを体験し、自分自身の短所と相手の長所を知る点です。勝ち負けにこだわると「勝つためにどうするか」となってしまいます。それこそ面子の世界ですが、自分の技術を高めるのが目的であれば面子などは些細なことだと思います。
武器の件ですが、模造刀であれ竹刀であれ、相手も同じ物を使うのであれば武器による精神への追いは同じです。むしろ、武器の特性とそれの生かし方が技術的に難しくなりどうそこを統一させるかは、今後の課題でしょう。
 表演会がもし型の見せ合いであるならば、それは頭の中で(ははぁ、なるほど)と理解した事になります。竹刀でも握って実体験するのとしないのでは、学ぶ物が全く違うように思いますが。
例えば盾。それは邪魔。と頭の中で理解したのと実際に盾を持った相手を迎え撃つのとでは全然違います。頭の中で「こうしたらこうなるだろう」とシミュレートしたことが現実できるかどうかが試されますから、今まで学んだことが通用するかどうかは、表演会とは違うと思います。

お礼日時:2002/05/28 00:08

面倒というか、難しい問題ですね。


ko2rouさんの言うとおり,日本古流のほとんどは実戦を想定していて,スポーツではありません。ですから技が漏れるということは対応策を練られては困るということもあるし,武門の連度もばれるし…、あまり良いことはありません。宣伝になるのでは?という疑問も、すべての流派が商業主義なわけではないですし,この世の中で実戦を想定しているのはナンセンスだ!という意見も、「実戦を前提にした武術」である以上、それは存在自体を否定しているだけです。スポーツを前提にしたものではない限り,わきあいあいというわけには行かないでしょう。
また、いいところをだしあってより良いものを…という意見も痛いほどわかるのですが、古流のいくつかはある限定した場合のみに使う技とかもありますしね…。一般論で言えるものではないです。ちなみにある種の特化した技はそれが知られていない場合,オールマイティーを想定したときよりも強い場合があることはスポーツの世界でも良くあることです。
あと、面子の問題ですが、これを馬鹿にしてはいけません。なにせ武術の半分は面子でやるものなのです。武術の存在,そして武術をやる人の存在,面子なしでは語れません(苦笑)。このあたりもスポーツとは違うのかもしれませんが…。
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この回答へのお礼

これは武術、武道とはなにか。なぜ人は武術をするのか。と言う基本問題にかかわることですね。武術の半分は面子でするのならば残り半分は何か。私は「それをすることが楽しいから」だと思います。私が所属しているグループでは先日「鎖がま」と「盾、レピア」という対戦をしました。それはできるし楽しいです、負けても「面子が」という者もおりません。接近戦になれば体術に持ち込まれます。(私は体術はしたことがないので、すぐにギブアップをしますが、それでもいろいろと学んでおります)盾の使い方は単に身を守る防御だけではなく、それ自身で相手を殴るのは基本です。しかし、使用者(盾使い)が危険と判断すればその行為は自主的に使用しません。すべてを明文化しルールを作るまではできませんが、それは可能だと思います。問題はそれをする側の考え方と気持ちだと思います。
 型稽古や流派を維持するために皆さん努力しておられるのは解っていますが、
もっとそれを楽しむ。考えがあっても良いと思います。

お礼日時:2002/05/27 23:35

ありがとうございました。

楽しそうな団体ですね。

 日本の場合は剣術の技術が極めて高度に発達したために交流が難しい面もあるでしょうね。介者剣術なら技術の公開にさほど問題はないでしょうし、たしか、小規模な団体で甲冑を着て試合をするサークルがあったかと思います。
 ただ、近世以降の剣術は技術的に高度になった分だけ秘密主義が採られるようになったのでオープンな交流は無理でしょうね。

 少し補足すると、形で学ぶべき技術は試合だけをやっていても身に付きません。例えば、ネット上で公開されている技も多くありますが、その画像や動画を見たからと言って、その技ができるようになるということはありません。足捌きや身法は試合の中から自然と身に付くようなものではないのです。
 また試合で有効な技術と実戦で有効な技術は同じではありません。
 私の専門は空手ですが、試合では上段への蹴り技を得意としていました。しかし、実戦を考えると高い蹴りは怖くて使えません。実戦を意識した練習での足技は足払いや膝関節への蹴込みです。そして、これは試合では禁止されている技術です。足捌きも試合と実戦とでは正反対です。

 日本の武術はスポーツではなく芸術に近いものです。精妙な技術は大衆化、競技化によって粗雑な技術に駆逐されてしまいます。柔道、剣道、空手道の大衆化・競技化が、そのことを証明しています。柔道はスピードとパワーがものを言う世界になっていて「柔能く剛を制す」の基本理念がほとんど無視されています。剣道や空手道も似たり寄ったりです。
 更にいえば「兵法」も古流の重要な要素です。これは(いわば軍事技術・戦略ですから)競技化できません。

 ですから、我が国の古流武術に西洋のスポーツ的発想を当てはめて「閉鎖的」というのはちょっと一方的な批判だと思います。やはりスポーツとは別の存在というべきでしょう。まあ、このへんは実際に古流を学んでみないとわかっていただけないとは思いますが。
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この回答へのお礼

確かに、西洋の物でも危険な技は多くあります。金的を蹴り上げる。柄頭で喉を殴る。逆間接をとるなど、しかしそうではないごく普通の剣のさばきも多くあります。剣を礼にするならば、フェンシングのレピアとツーハンドソードは使い方が全く違います。レピアの基本はオリンピック・フェンシングにかなり変形をして流れていますが、ツーハンドソードの使い方は日本で言う野太刀のように介者剣法の中に残っているだけです。が、SCAの試合ではまさにそれを使える(柄頭で殴るなどの危険技はできませんが)わけです。私が今取り組んでいるのは、日本古流の物を、危険な技はかけないルールで古流を生かして誰でも参加し楽しめる物を作ろう。としているのですが、その前提において質問のような制限がでてきているのです。
つまり、スポーツ化と言う事に対して所属の個人は前向きだけれど、会の規則として禁止されているのはやはり閉鎖的と見てしまいます。

お礼日時:2002/05/27 23:21

 スポーツの世界なら統一ルールの元で技を競うことができますから、勝ち負けの中で自らを高めることができます。

けれども、古流の多くは生きるか死ぬかの駆け引きから生まれたものですから、負けることは死を意味します。この点西洋剣術(1812さんの仰るものとは違うかも知れません)は貴族の決闘(危険だけれども殺し合いではない)の技術ですから、発想が異なります。西洋の剣術や拳闘はスポーツ的発想ですが、日本の古流武術は軍事的発想と考えるとよいと思います。現代でも最先端の軍事技術はトップシークレットで、公開されることはありません。「秘すれば花なり」というわけです。ただし、現代の古武道家の一部の人々は、極意秘伝を飯の種にしているから(実力も伴っていないから)他流との交流を避けている人も多いでしょう。

>安全なルールを定めても他流試合などを禁じているところが多いです。

 これは誤解で、剣術や柔術の流派を修行しながら剣道や柔道で汗を流している方も多くいます。ただ、流派の技をそのまま使うことはできないので敬遠する人もいるということです。もちろん中には口先だけの名人達人もいますから、そういう人は競技の場に出て化けの皮が剥がれることをおそれているのでしょう。一流の宗家でありながら、剣道の高段位を目指して頑張っていらっしゃる方もいます。こういう人は尊敬できますね。
 ただ、「古流」を名のる以上は伝統技術を継承しなくてはなりません。他流との交流の中で技を改変していったら、それは既に「古流」ではない、という問題もあります。たとえば、ある流派に属している剣士が剣道の全国大会で優勝したとしても、それは剣道を極めたことにはなるかも知れませんが、その流儀を極めたことには必ずしもなりません。

 ところで、1812さんの属している西洋古典剣術というのはどういうものなのでしょう。どういう他流試合を行っているのでしょうか。
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この回答へのお礼

私のしている西洋古典剣術をお話しすると、この質問の理由がお解りになると思います。
私はSCAという外国では数万人規模の団体の日本グループに属しています。
実際に中世の騎士の甲冑(手作りですが本物と全く同じ造り、鉄、ステンレス製)を来て当時の騎士の戦いを再現するスポーツ、をしています。文献などから当時の戦い方を再現し実際に試合もあります。フェンシングとは全然違う物で介者剣術とおなじものですが、日本のそれは流派の維持のために存在するのに対して、SCAのそれは自らが騎士となり戦いを楽しむことに主眼がおかれています。
 最近、武術総合サークルを立ち上げそこにはいろいろな古流剣術の方が来て、教え合いや対戦をしていますが、対外的に流派の名前がでるのはまずいという方も多く、一般に知らしめるための公開試合ができそうにありません。
 SCAの場合はとてもオープンでネット上でもいろいろな技が公開されています。
発生は日本の古流剣術と同じなのですが、どうしても日本の場合は閉鎖的としか思えません。

お礼日時:2002/05/25 05:22

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