形而上・形而下の区別がどうもすっきりしません、辞書で形而上を調べると、
(1)形のないもの。(2)感覚の働きによってその存在を知ることのできないもの。(3)超自然的であるもの。(4)精神的なもの。との解説がありますが、辞書の表現は理解し難くて閉口しています。どなたか、判り易く具体例など上げて教えていただけませんか?
●商品は形而下で、価値は形而上である。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。
上記の2つの文は、間違っていないでしょうか?
質問者は真面目に質問していますが、緊急ではありませんので、あそび心のある回答も歓迎します。

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A 回答 (7件)

 


質問者は、どういう意図や目的を持って、「形而上・形而下」の言葉の区別をなさりたいとお考えなのでしょうか。「哲学」のカテゴリーに投稿される限り、「哲学用語」としての意味を理解されたいのだと思惟いたしますが。

さもなければ、「言語」のカテゴリーで質問されるのが相応しいようにも思えます。

「形而上」というのは、たいへん難しい奇妙な言葉です。これは、多分、明治初期に、西欧哲学が入って来た時、metaphysica(metaphysika, metaphysique)という語の訳語として「形而上学」が造語されたものです。

「形而上学」とは何かというと、これ自体、よく分からなくなります。しかし、metaphysica という言葉の意味は、元々「自然学の後」という意味です。内容を取って、これを「超越自然学」のような意味で捉えました。

簡単に言いますと、アルストテレースに、この元の言葉の起源はあります。彼は、観察や実験を通じて、実証的、合理的な、「自然」の研究を行いました。それは、現代の自然科学の祖先とも言えるもので、「合理性」「実証性」というものが強調されていました。

「自然」というと意味が広いのですか、一応、「この世界」のことだと考えるのがよいです。この世界とそこに含まれると考えられる色々なものが「自然」であるのです。

飛躍した言い方になりますが、この意味での「自然」が、大体「形而下的世界」と似たような意味です。この世の事物やできごとは目に見えますし、感覚で知ることができますし、形がありますし、「超自然的」ではなく、自然的で、西欧の思想で特に意味を込める「精神」はこの世界に属さないとも言えます……精神は、目に見えたり、感覚で知られたり、形があるでしょうか?

「形而下」というのは、日常的な自然ということだと考えていいのです。

「形而上」というのは、それに対し、「超自然」とも言えます。「形而上学」は「超自然学」でもあったのです。

アリストテレースの構想では、自然についての学問は、感覚などで得られる事実などをまとめ、これを理性で、合理的に整理し、その秩序などを研究するものでした。

しかし、このような自然学では、捉えられないもの、扱えないもの、事象がありました。「形而上学」では、「存在する」ということはどういうことなのか、世界の存在の根拠や理由、目に見える自然現象の背後の「神的な秩序」などの探求が課題とされていました。

アリストテレースはまた、自然学以外に、「倫理学」つまり、善や価値や、人間の行為規範や正義や理想などについての学問を考えていました。神や宇宙を造ったものなどの考察は、形而上学の範囲ですが、善や真などとも関係して、「イデアー」や普遍論理の問題も自然学とは別だと考えられました。

イデアーというのは、高度に抽象化された「形」や「性質」の本質のことになりますが、これは、神のようなものだとも考えられました。

アリストテレースの色々な考えは、西欧中世の神学や哲学に取り入れられます。そこでは、神や神に関係した普遍的永遠的な、イデアー的な世界や事象を、神学として研究し、このような研究の対象を、「形而上学的存在」ともしました。

そこでは、目に見えない世界、つまり、神の世界や天国などが、形而上のものとされ、また、神が授けた人間の霊魂、つまり「精神」も、その本質は形而上的なものとされました。神は善であり真であり美であり存在であるので、「善そのもの」「真そのもの」「美そのもの」「存在そのもの」は形而上的であり、精神の機能である「知性」や、「概念」も、普遍概念として、イデアーと共に考えられ、これらも形而上とされました。

この中世西欧の「形而上学」の形というか、定義が大きく後世に影響します。

「愛」は例えば、形而下的なものです。しかし、神への愛や、精神的な高貴な愛は、例えばプラトニック・ラヴとして、形而上的と考えられました。

物質や肉体や、地上の目に見える事物に関係したことや、それらは、形而下的なこと・ものです。人間の心や意識や思考なども、感覚などと同様、形而下的で、概念や価値も形而下です。

しかし、人間の精神は形而上的であり、イデアーである、真、善、美、存在なども、そのもの自体は形而上的です。善に関係する道徳や倫理、社会規範、正義なども形而上的な位相があるとされ、美を分有すると考えられる芸術作品には、また、形而上的な何かがあるとされます。

神あるいは存在の根源者を囲んで、目に見えない、彼方の世界(霊的世界・普遍的イデアー的世界)に、「形而上的世界」というものがあると考えられると、分かり易くなります。

地上の自然の事物や出来事や、人間の世俗社会などは、形而下的世界だと考えられ、そこに属するものは、形而下的です。しかし、彼方の形而上的世界から、「普遍の光」のようなものが、地上に射して来るのであり、形而下の事物のなかにも、形而上的要素があるということも明らかになることもあります。

この地上、自然世界、人間の社会、人などは、形而下にあるのですが、自然は、存在や美や目的を通じ、人間の社会は、善や倫理や真理や芸術を通じ、形而上世界と交流しているとも言えるのです。また人も、精神としてイデアーとして、知性として、形而上的な要素を持ちます。

形而上とか形而下というのは、思想家で使う人によって、意味範囲が違いますし、場合場合でも、何を指すか、曖昧なものがあります。

>●商品は形而下で、価値は形而上である。

貨幣経済において、商品は無論、形而下ですし、商品価値のようなものは、形而下です。

>●貨幣は形而下から形而上に変化した。

貨幣は、人間の社会や精神と関係する何かですが、普通、貨幣を形而上とは言いません。形而下のことです。

肉的な愛を、形而下的愛とし、プラトニック・ラヴ(精神愛)を形而上とする考え方はありますが、そうではないという考えもあります。完全な形而上的愛は、人の魂が、この世を離れて後に実現するというような考え方もできるのです。

概念については、概念を普通、形而上などとは言いません。言葉や概念は、この地上にある精神機能に付帯するもので、形而上的精神との関係が密接ですが、あくまで地上のものです。

しかし、天使の言語とか、概念の根源にあると考えられる「普遍的概念」のような、非この世的なものは、形而上的と考えられます。

正義や善や倫理や美も、その普遍的・イデアー的側面が、形而上的なのであって、それら自体は、形而下です。

アメリカ人が、聖書に手を置いて、裁判所で宣誓するのは、少なくとも、その身も言葉も証言も、この世のもので、形而下であるが、神への祈りを精神を通じて行い誓うことで、世俗の、地上の、形而下的世界の思惑や利害を離れ、純粋に、「真理」を善の意志に基づいて行うことを誓うので、神という形而上的存在と人間の精神の祈りのあいだで、証言に「普遍性」、ある意味の「形而上性」を与えるためにするのです。

しかし、これによって、証言が、形而上のものとなる訳ではありません。「真理」や「正義」は、真に神のみ知りたまうのです。形而上の真理や正義との「結びつき」を試みようとするのが、この宣誓です。

「形而上」というのは、日常生活で出会う出来事や事物や経験や、思考や構想に、簡単に名付けられるものではありませんし、そういう使い方をすると、何を言っているのか分からなくなります。

日常生活で出てくるものや扱うもの・こと、科学・自然科学で扱うもの・ことは、すべて形而下だと考えるのが、無難です。概念も、言語学の対象でしか過ぎません。ただ、「言語の本質」という問題になって来ると、「言語哲学」が成り立つように、形而上的問題が関係して来ます。

「形而上と形而下」について、以上、かなり丁寧に説明しましたが、「抽象性の高い言葉」は、色々な情報や知識や、その言葉が使われる場面、その言葉の由来や背景の事情などが分かって来ないと、普通、分かりません。

早急に答えを求めるのでなく、時間をかけて、学ばねばならないことです。

「形而上」というような言葉は、西欧哲学の伝統的用語ですから、そんな日常で使う言葉ではないのです。

また、19世紀から現代に至るまで、「形而上学批判」を多くの哲学者が行い行っていますが、そもそも、これらの批判する「形而上学」は、批判する者で色々な意味に捉えられており、色々な人が論じているので、分かり易いことだろうということは、まるでないのです。

むしろ、何か分からない問題が多々あるので、形而上学について、色々な見解があるのです。
 
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この回答へのお礼

asterさん、丁重な回答を頂き感謝の言葉がありません。
通常、形而上と言うと、図形や神学的な非現実的な部分と考えていましたが、辞書の説明から、かえって混乱してしまったようです。形のないものといわれると、社会・経済・価値は形のないものになってしまいます、私は、趣味的に価値について考えていますから、形而上のことなら思考方法や認識方法が形而下のものと変わるかもしれないと考えたことがこの質問の動機です。丁重なご回答を大切に味合わせていただきますが、無批判に受け入れる愚かなことは致しませんからご安心下さい。
マルクス経済学で言う「物神性」の考え方と比較すると面白そうですね。有難うございました。

お礼日時:2002/06/02 05:59

ゲルマンの迫力に圧倒されているうちに、締め切られてしまい仕方なしに先の続きを


コメントします。
当然のことながら、人間存在を消してしまっては人の営みに対する形而の上下の問題
は見えてきません。
愛であるとか、経済であるとか、家族とか、また学問や戦争であるとかが見えづらい
のです。
本心としては遊び心とともに、ゴリラやオケラももつであろう純粋経験を借りて、形
而の上下をキーワードに人間の精神世界と営みを眺めたらどういう事になるとかを、
考えてみたかったのでした。
多角的な視点を哲学の活力とするなら、形而上の想像・創造はとても大切なことがら
でしょう。
そのことに気付かせていただいた質問でした。

計らずも aster さんが、人間的な解を纏めてめてくださったので、実のところ
ほっとしています。
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この回答へのお礼

この回答こそ、形而上の世界から、形而下に射して来た「普遍の光」でしょうか、asterさんの回答をゆっくり読み返した結果、この質問に対してこれ以上の回答を期待することが礼を失するのではと、直ちに締め切りました。しかし、よくよく考えてみると、回答を一読してお礼を書いてしまい、解答の締め切りと重なってasterさんに感謝の真意が届いていないのではと危惧していました。
顔を見ず、声も聞かずに、文章のみで意見を交換すれば、真意が伝わるどころか逆の意味での誤解を受ける可能性が高いと思っています、しかしながらそれを承知で、このような意見交換の有益な部分を評価して参加する以上、意思が伝わらないことはある程度仕方のないことと諦めていたところです。
mcqgogoさんの回答は、私の意思が上手く伝わっていなかったことを察知され救いの手を差し出していただいたと確信しています、決して私の詰らないあそび心のせいでは無いでしょう。

aster さんの回答で、形而上・下の区別がハッキリした訳でも有りませんし、価値が形而下なのか、価値の形而上的要素とは何か、簡単に理解することはできません。しかし、価値の哲学、貨幣の哲学が仮に存在できるとしても、この事を考える為に、形而上・下の区別にかかわる必要のないことだけは確認できました(余計な回り道をしなくても良いことは私にとっては大きな収穫です)。

あそびと真面目の間をゆらゆら揺れる上皿天秤を眺めながら、頭にもいい汗をかきたいと思っています。
ご回答感謝しています、今後とも宜しく。

話は変わりますが、うちの金魚、「つみれ」にされる不安から、最近元気がありません。おっと時間だこんなことはしていられない、又お会いしましょう。

お礼日時:2002/06/04 17:51

●金貨(等価)から貨幣への変化をおっしゃってたんですか。


 それならば「●貨幣は形而下から形而上に変化した。」は
 ただしい解釈だとおもいます。

●愛の本質は形而下にあることについて すこし・・・。
 光や音は形而下にあることは 理解できますよね。
 E=mc2ですから 物質と同じなわけです。
 さて 愛とはなんでしょうか?
 それは DNAに書かれた情報なんです。つまり見れるし触れるものなのです。
 もちろん感じることですよね。
 感じるということは 基本的には見れるし触れるものなんです。
 なぜなら その雛型を遺伝子の情報として既に持っていなければ
 皆同じように感じることは不可能だと考えるからです。
 概念も情報となり得るわけですが たとえば「ある=ないでない」←これは
 自然界には存在しないわけです。つまり形而上にあるわけです。
 さて なぜ形而上と形而下を意識しなければならないかを考察すると
 そこに見えてくるのは 本質を見誤らないための方法論ということです。
 いまは 人間が作り出したものと 自然のものが比較的区別できますが
 たとえば将来 遺伝子を編集して優秀な人間がクローンとして
 存在しはじめ また錬金術より高度な物質生成マシーンができたとしましょう。
 そんな時代に目の前のモノが形而上にあるものが具現化したものか あるいは
 形而下にあるものなのか まったく区別がつかなくなる可能性があるのです。
 形而下にあるものが形而上にあるものによって駆逐される危険もあるでしょう。
 実は既にその危険は わたしたちの日常にも影を落としているのです。
 様々な概念によって 本来あるべき姿が歪められている危険性です。
 だから わたしは けなげな抵抗の意味で 薬指をクレヴァスに這わすのです。
 Made in USA のソーセージを見てドキドキしてしまうのは わたしだけでしょうか?
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この回答へのお礼

chihokoさん、またまたご回答有難うございます。
貨幣の形而上化にご賛同を頂き感謝いたします、しかし、#6の回答を同時に見てしまい複雑な心境です。
愛の本質について詳しく説明を頂き参考になります、残念ながら愛について語る資質が私にはありません、ここでも沈黙させていただきます。
>Made in USA のソーセージを見てドキドキしてしまうのは わたしだけでしょうか?
私の貧しい経験上は、あなた以外には知りません、感動できることが多いことは羨ましい限りです。

お礼日時:2002/06/02 05:28

●すこしわかりやすく 具体例をあげてみたいとおもいます。


 DQと表記します。
 ある人は ドラゴンクエストと感じ。
 また ある人はデジタルクゥオーツと感じます。
 そして ある人はあのなつかしい どんキューと感じるかもしれません。

 つまり「愛」は その本質として形而下にありますが。
 その形而下にある「愛」を概念として認識する時点で形而上に至るわけです。
 わかりやすく言うと 解釈はひとそれぞれになると言うことです。

 つまり
●商品は形而下で、価値は形而上である。 を考察すれば
商品は総称なので 個別に考察するべき。価値は概念なので当然形而上。
となります。
●貨幣は形而下から形而上に変化した。 を考察すれば
貨幣の機能は価値ですから形而上にあり。
貨幣の機能以外のモノは 紙に福沢諭吉を印刷した 意味のないものですから
意味のない形而下のものを 思索に加えることは意味がありません。
つまり貨幣は形而上にあるのです。サイバーマネーと同じです。
その形而上のもので きゅうりやソーセージが買えるのですから。
世の中おかしくなってあたりまえですよね・・・。
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この回答へのお礼

chihokoさん、再度のご回答有難うございます。
質問者に合わせて判り易く説明していただき、有難うございます。「愛」については、今ひとつ難解な点があるような気がしますが。
貨幣の件は、金属貨幣(金貨)から現在のお金への変化を念頭にいていましたが、上手く伝えられなかったようです。
余計なことですが、なぜ、きゅうりとソーセージが出てくるのか違和感を覚えるのは、chihokoさんのペースにはまっているのでしょうか。

お礼日時:2002/06/01 18:11

形而の上下は、人間が何ものかを区別しようとの試みで考え出した概念です。


ですからこの種の問いはすべからく、概念で概念を考えようとしているので、ややこしさが伴うのだと思います。
それでは、そのややこしさを取り除くには、どのようにしたら良いのでしょうか?ここに、この問題をとく鍵があると思います。
ものごとを分かりやすくする方便の一つに、邪魔なものを取り除くという方法があります。その手法を採用して、この場合には、ややこしい概念の拠りどころとなる人間そのものを消去してみます。すると今現在そこに残されるであろうものが、形而下の事物・現象ということになるはずです。
ですから、人間存在に関わりなくそこに在る事物・現象が形而下、それ以外が形而上の事柄ということになると思います。
この認識を先の例で検証してみましょう

>商品は形而下で、価値は形而上である。

商品を具体的な品物として見なすなら(〇)
もし商品を包括的な概念とするなら(×)
価値は形而上(〇)

>貨幣は形而下から形而上に変化した。

これは「貨幣は、形而上の価値が形而下に具体化された物」と変えたほうが思考の流れからすると自然だと思います。この文脈の中での貨幣は、一般概念ではなく物としての札やコインということになります。

なおゴリラやオケラについての形而の上下は検証していません。悪しからず

以上参考にしながら、よい旅を続けて下さい
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この回答へのお礼

mcqgogoさん、ワールドカップでお忙しいところご回答いただき有難うございます。
出だしは難解そうでしたが、よく読んでみるとなるほどと唸ってしまいました。雰囲気が良くつかめました。
例題に回答を試みれば、ゴリラやオケラは人間の付けた名称ですから形而上となりますが、存在そのものは形而下となるわけですね。
ジダンのいないフランス心配ですね。

お礼日時:2002/06/01 17:57

●あらゆる概念は形而上にあるものです。


 つまり 形而下にあるものを形而下のままに概念として認識することは 人間にはできません。
 人間は 概念での認識があって はじめて本能レベルを超えて能動できるのです。
 つまり 概念がなければ 動物と同じように イメージとしての認識のもと
 イメージの本能的処理によってのみ生きることとなるわけです。
 
 形而上の概念を形而下に具現したと 思うのはそのひとの自由ですが
 どれほどセンスの高いアーティストであっても その具現は ある意味では
 ゴミとなんらかわりあるものでは ありません。
 価値という概念が 形而下のモノとリンクする 経済というシステムは
 形而上と形而下が あたかもつながりのあることのように錯覚させる
 レトリックをはらんでいるのです。つまり おおくの人類の抱える難問は
 正にこの 形而上と形而下のかかわりを安易に肯定するがごとくにふるまう
 かずかずのレトリックによるところが 大きいと考察しております。

 形而上の概念と形而下にある大いなる現実(宇宙150億年の実証を伴うもの)
 とは そう簡単にはリンクできないものなのです。
 ↑このことを しっかりと認識する必要があるでしょう。
 まちがえない ひとつの方法として わたしは「性器」に聞いているのです。
 いつも どこでも やさしく 薬指で・・・。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
またまた、難解な表現で、噛み砕くには時間がかかりそうです、chihokoさんのように便利な性器があればよいのですが。おっと自分のペースが崩れてしまいます。くわばらくわばら。

お礼日時:2002/06/01 13:31

 


 こういう質問には好感を持ちます。 私の勝手な解釈かも知れませんが、この質問の根底には、「誰にでも分かる哲学を」という意図が感じられます。 文章を簡潔に表現しようとするならば、難解な単語の使用が妥当なのかも知れませんが、万民に受け入れられ難いのが難点ですよね。(私自身は、難解な単語が嫌いです。)

 言葉を噛み砕くと、ともすれば、その意味が抽象的になりがちですが、実例を示す事により、ある程度はカバーできるでしょう。 ・・理解されやすく教えるための基本でもありますよね。

 そこで、本題に入りますが、一般的に分かりやすく説明するならば、

 ■ 形而上 ⇒ 形となって目に見えない世界
 ■ 形而下 ⇒ 形となって目に見える世界

 ということになると思います。

 ◆「形而上」の例
  ・宇宙の真理
  ・美の概念
  ・胸が張り裂けんばかりの異性への思い
  ・妄想(悶々)

 ◆「形而下」の一例
  ・自然科学
  ・ファッション
  ・思い続けていた異性に意を決して告白した時の冷たい仕打ち
  ・交わり(恥ずかしいのでアルファベット3文字は避けました。)

 >●商品は形而下で、価値は形而上である。 ←「×」
 >●貨幣は形而下から形而上に変化した。  ←「×」

   ・・面白い設問です。「△」として考えても良いかも知れませんが、価値というのは
   いかなる段階においても形に還元できるものです。したがって、両者とも形而下に
   属するものと考えます。
 
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この回答へのお礼

aoihosiさん、ご回答有難うございます。
aoihosiさんが仰るような雄大な意図が有った訳ではありませんが、折角ですから、その様な事にしておきます。
二つの文のうち、後のものは自分でもラジカルな感じがして賛同される方は少ないと思っていましたが、前の文は正しいのではと考えていました。
危うく知ったかぶりをしてしまうところ、助けていただき有難うございました。

お礼日時:2002/06/01 13:15

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Q形而上学、という言葉の意味について

形而上学という言葉は、どのような意味を指すのでしょうか。
人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。その意味からすれば、思考というのは、いつも必ず「形而上」つまり物質や形あるもののメタに立つわけだから、あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

たんに、物質や社会など形而下のことを考える学と対峙して、形而上、つまり精神や魂や神を考える学を、形而上学と呼んでみただけのことなのでしょうか。

どなたかお答え頂ければ幸いです。

Aベストアンサー

こんにちは。

>人間の思考というのは、おそらく意識によって行われると思うので、
>学問のみならず、あらゆる思考は観念的行為だと思います。

>あらゆる思考は形而上学であるとは言えないのでしょうか。

teppyonさんの指摘は「思考する主体」から見ればおっしゃる通りだと思います。
が、形而上学が問題にしているのは「思考する対象」だと思います。
つまり、形而上学とは、経験的には規定されず(たとえば化学実験などの
客観的再現性)思惟によって「のみ」捉えることの可能な、生成変化しない
ものについての学、ということだと思います。

形而上学についてはアリストテレスがかなりしっかりとした枠組みを
提示しています。

詳しくは以下のサイトがわかりやすいです。

「科学と形而上学」

参考にどうぞ。



参考URL:http://iii.cc.kochi-u.ac.jp/~kisoron/kisoron_011.htm

Q形而上学・形而下学の語源

この前、辞書を読んでいた時に形而上学という言葉を見つけました。すごく不思議な言葉なんですが、「形而上学」という言葉はどうやってできたんでしょう?

過去の質問に、明治になって西欧から文化が取り入れられた際に「metaphysica(metaphysika, metaphysique)」の訳語として造成された、という説明がありましたが、西暦何年に何をやっている誰々さんが作った、というような具体的なデータはないのでしょうか?
あと、「形而上」って何でしょう?訳語を新たに作るとなると、その訳に根拠……日本語の場合は漢字を使って意訳するか仮名を使って音訳するか……があると思うのですが、私は形而というものを見た事がありません。

ご存知でしたら教えて下さい!

Aベストアンサー

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムのなかでは、呼ぶに相応しいようです。

「タ・メタ・タ・ピュシカ」とは、「ピュシカの後の本・学」という意味で、「ピュシカの後」という意味ではなく、この場合、「形而下学」の後・次に来るのが、「形而上学」であるというのは、自然であるとなっています。

つまり、形而上のことを扱うので、「形而上学」ですが、他方、ロードスのアンドロニコスの配列によって、「ピュシカ=自然学諸本」の後に置かれたので、「形而下学の後の学」とは、認識や智慧の階梯順序からして、それは「形而上学」のことで、ta meta ta physica を訳すと、「形而上学」となるのだとされます。

>http://www.max.hi-ho.ne.jp/aisis/memo-random-1/r-metaphysica-1.html

--------------------------

なお、「易経」というのは、儒教において尊重される四書五経の一つで、簡単に言えば、「占いの本」ですが、これは「世界の構造についての概論書」だとも言えます。「易経的世界把握」とでも呼べばよいのか、陰陽の二元構造の反復で、世界は成立しており、世界の運動や現象も、この陰陽二元構造に基づくパターンで成立しているという考えです。

「陰」でも「陽」でもない根元を、「太極」と言います。これが陰陽の二元に分離し、「陰」と「陽」の両儀となります。陰と陽の組み合わせが更にあり、「陽陽」「陽陰」「陰陽」「陰陰」の四つのパターンができ、これを四象と言います。これが更に分化して、「陽陽陽」「陽陽陰」「陽陰陽」「陽陰陰」「陰陽陽」「陰陽陰」「陰陰陽」「陰陰陰」と八個のパターンになると、これを、「八卦」と言います。

八卦を上と下で組み合わせると、六十四のパターンになり、六十四卦で、この六十四が、世界のありようや展開運動の基本パターンとされます。

戦争などで、現在の状況や、未来の展望を知りたい場合、偶然で、陰か陽が出るようにして、このプロセスを六回行うと、六十四卦のどれかが出てきます。出てきた卦が、現在の状況を示していて、これがどういう意味かを読みとるのには、易経の「解釈文」を使います。

世界のありようを、六十四のパターンに分けて、把握するのだと言えますが、これは未来の展開を知ることができるので、「占い」に使えるのです。

「陽」が六回出てきた場合、「乾(けん)」と言い、「陰」が六回出てきた場合は、「坤(こん)」と言います。「乾坤」で、天地とか、宇宙の意味になります。「乾」は天を表し、「坤」は地を表すからです。

>http://www.layer.ne.jp/~ushio-ekidan/gogyo/ss1.html
 

 
>「形而上学」には2つの意味があったんですね。

違います。ta meta ta physika の意味が分かっていないので、錯覚が起こっているのです。(つまり、ta meta ta physika というのは、アリストテレスの本の名でもあるのですが、これで、「学」としての形而上学の意味にもなるのです)。

以下のページに、「ta meta ta physica」と「形而上学」の意味的関係が説明されています。それによれば、physika(ピュシカ)というのは、自然学というより、むしろ、「形而下学」と、アリストテレスの哲学システムの...続きを読む

Q悟性、形而上ってどういう意味ですか?

悟性、形而上ってどういう意味ですか?
悟性と形而上の意味を分かりやすく教えてほしいです。
辞書やウィキペディアで調べたのですが難しくていまいち理解出来ません。
よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

五感による感性は色や音を感じることの出来るものです。

同様に、悟性とは気づくことの出来る感性のことではないでしょうか。

形而上とは 色、形、暑さ・冷たさなど実際に目などの五感による感覚器官で確認することの出来ること以外の精神的、非物質的なことを指しているのでしょう。

Q現在でも形而下に置けない「神」という存在について

いわゆる人格をもった神と汎神論的な神が在られますが、
人格的神とは、人格を持たない(人に似ない)神においての化身、顕現なのでしょうか。
それとも、有格的な神こそが唯一なのでしょうか。
人格を持ちうるなら、真の実在、一者という観念と相克するのではないでしょうか。

またさらに、何らかの形や性質,分別を持ち得るなら、
我々が後天的に分別、自我を得るように、それらは事実であるとしても
本来的に真実的なものでは無いのではないのでしょうか(?)。
実証以前の論説ですが皆さんのお考えをお聞かせください。
(しかしこれは、ほとんど暴論かもしれません。)

Aベストアンサー

人格的な神は、主体的なものですし、心と組み合わさると思います。
汎神論的な神は、意識ー精神、と関係があるように思います。客体的です。

人格的な神は主体となって組み合わさることで、全体的な統一をもたらすので、一つの真実ではないでしょうか?

こういう神の現れのパターンは、人間の脳の側の不完全な機能の制約によって生まれるものだと思います。
問題は神ではなく人間の側だと思うので。

Q形而上学とは

形而上学とは
形而上学とはどういう意味ですか?辞書を引いてもいまいちよく分かりません。
お願いします。

Aベストアンサー

形而上とは、
哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。
超自然的、理念的なもの。⇔形而下。

形而下とは、
哲学で、感性を介した経験によって認識できるもの。
時間・空間を基礎的形式とする現象的世界に形をとって存在するもの。⇔形而上。

参考に。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A&dtype=0&stype=1&dname=0na&ref=1&index=06455705456700

Qベンヤミンの形而上学

ベンヤミンの思想というのはロマン主義的で、一種の形而上学に見えるのですが、なぜ現代思想はそれを評価するのでしょう。ポストモダンの立場から形而上学批判というのがあると思うのですが、それとベンヤミン評価というのは矛盾しないのでしょうか。

Aベストアンサー

 まず「形而上学」について軽く。
 アリストテレスは前ソクラテス期の伝統に回帰して『自然について』(ta physika)を書いています。そしてその後、その自然を基礎付けている根拠・本質を論じる一群の著作を残しました。アンドロニコスという人物が、アリストテレスの著作を整理・編集するにあたって、それら一群の著作を『自然について』の「後に(meta)」置いたのです。で、meta-phyisika=形而上学。なんだかダジャレみたいな話です。
 形而上学という学のスタイルはここに根があります。具体的に存在していて、目で見るなど感覚で捉えることのできる「自然・形あるもの」を超えて、その基礎付けをしている本質。そういう、感覚で直接捉えることができず「形を超えて」あるはずのものを探究するのが形而上学です。
 そういうものですから、自然科学を代表とする実証主義(経験に基づき、追試・検証可能なもののみを真と認める)からは否定的に見られます。御指摘のように、現代思想の主要な流れも、近代という時代を撃つために、人を縛ってきた旧来の価値観やイデオロギーを解体するために、おおむね「形而上学」を批判しています。
 例えばニーチェは、プラトンの言う「イデア」やキリスト教道徳の善を「虚無を覆うための仮構」として否定します。その限りで彼は「反・形而上学者」でした。が、そのニーチェも、ハイデガーに言わせれば「最後の形而上学者」となります。事物の存在に「力への意志」という「形を超えたもの」を認めていたからです。さらにそのハイデガーも、カルナップら論理実証主義の立場からは「擬似命題をもてあそぶ」形而上学者ということになります。「形而上学」って、なんだかとってもひどい悪口のようです。
 ただ、人によっては形而上学に立脚の余地を認めることもあります。先にご紹介したレヴィナスや、その他にもサルトルなんかですと、「他者」を「我」と絶対的に切り離された存在と捉え、その不連続性を強調しますから、「形を超え、経験できないもの」を扱わざるをえなくなります。そうなると、多少なりとも形而上学性を帯びてきます。バリバリ現役のハーバーマスなんて人でさえ、コミュニケーション的行為を語る場面で、この「他者性」についてポロリと「形而上学」などと口走ることもあるくらいです。

 それで、ベンヤミンです。
 まず一つ、彼は必ずしも「哲学者」というわけではなくて、芸術論や文明論を遺した「批評家」です。必ずしも西洋哲学の伝統や折り目正しい論理に縛られていたわけではありません。体系的な思想を構築したわけでもない。むしろ鋭いセンスで何かをえぐり出す。そういうタイプの人です。ロラン・バルトみたいな。ですから、彼の思想を体系的に捉えて「形而上学」と性格付けすること自体、ちょっと無理っぽいのです。
 おそらく、ベンヤミンの思想で、一番「ロマン主義的で形而上学的」と見えるのは「アウラ」でしょうか。「いかに近くとも、はるか遠くにあるものの一回限りの現象」として、美にそなわった絶対的な荘厳さのことでしたね。「今ここで」という一回性の中でのみ、感受できるもの。しかしそれは、映画など「複製可能な」作品形態が流布するにつれて失われてしまった…と。
 たしかにこの概念は形而上学的に見えます。必ずしも主観の内部で自分が勝手に感じるものではなく、美的対象にそなわった性格と言えますし、しかも「一回きり」で反復不能。ということは「実証」不可能です。この点、形而上学的観念の性格を帯びます。
 けれど、やはりこれは「芸術理論上の概念」です。「テレビで見るドラマに比べて、劇場で見るナマの演劇は…」といった対比を通じて浮かび上がってくる「一回きりの感動」を説明する概念です。ですから、これは上に書いたような「旧来の価値観やイデオロギー」には該当せず、むしろ逆に、芸術の近代的形態によって壊されてしまったものを救い出そうとする作業ですから、現代思想からも評価されるのも当然なのです。

 その他にベンヤミンが評価される理由を挙げてみますと、まず「先見性」があると思います。シュルレアリスムやアヴァンギャルド芸術の可能性に、いち早く注目したのも彼の鋭い眼差しでしたし、「知識人の政治化」を論じているところは(『一方通行路』)、政治にコミットしていくサルトルやメルロ=ポンティ、フーコーのような知識人の姿を先取りしています。
 また、遺稿となった『歴史の概念について』では、「歴史は常に勝者の視点でしか記述されない」と述べており、このあたり、レヴィナスを先取りしているとも言えそうです。
 そういうことですから、「まとまった思想を遺した」ということよりも、その鋭い眼差しとセンスで、今なお現代思想に新鮮な刺激を与え続けているということが、現代思想の中で彼が評価されている理由でしょう。

 まず「形而上学」について軽く。
 アリストテレスは前ソクラテス期の伝統に回帰して『自然について』(ta physika)を書いています。そしてその後、その自然を基礎付けている根拠・本質を論じる一群の著作を残しました。アンドロニコスという人物が、アリストテレスの著作を整理・編集するにあたって、それら一群の著作を『自然について』の「後に(meta)」置いたのです。で、meta-phyisika=形而上学。なんだかダジャレみたいな話です。
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Q形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能ですか?

形而上学というものがありますが、形而上学者も形而下の世界に住んでいます。
わたしたちが形而下の世界に住んでいる以上、形而下の世界の経験を通じてしか形而上の世界のことを知ることはできません。

しかし、形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
結局、形而下の世界のものごとは形而下の世界のものごとに過ぎない訳で
形而上の世界のものごととは、まったく性質の異なるものかもしれない、ということもあるんじゃないでしょうか?

形而上学に興味を抱いてみたものの、実証主義者が言うように、
形而上学はまったくのたわごとにすぎないんじゃないか?という疑問でかなり悩んでいます。

観測できる世界とは形而上学とは理論によって結ばれており、
理論の先にはもう何も存在していないと宣言できるような理論をつくることはできない、という指摘もありますが、
そもそも形而上の世界は形而下の世界の理論では理解できないのではないか?と悩んでいます。
そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

わかりにくい駄文ですみません。どなたか、詳細かつわかりやすい回答をお願いします。

形而上学というものがありますが、形而上学者も形而下の世界に住んでいます。
わたしたちが形而下の世界に住んでいる以上、形而下の世界の経験を通じてしか形而上の世界のことを知ることはできません。

しかし、形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能なのでしょうか?
結局、形而下の世界のものごとは形而下の世界のものごとに過ぎない訳で
形而上の世界のものごととは、まったく性質の異なるものかもしれない、ということもあるんじゃないでしょうか?

形而上学に興味を抱いて...続きを読む

Aベストアンサー

経験を通して、、

例えば麻薬をすれば、脳内物質が変化して、快楽を感じたりしますよね。

古代の宗教関係を見ると、麻薬を使っていたと思えます。
快楽物質を人工的に起こすわけで、トリップして、通常感じないことを感じれて、ハイになったりする。

その人工的に脳の構造を変化させたときに見た幻影を、天国とかすばらしい精神世界とか捉えて、そこに行き着こうとしたのだと思えます。

麻薬をやればトリップでき、脳の思考回路を通常とは違うようにできる。

麻薬を摂取しなくても、側頭葉てんかんを起こす人の中には、別ワールドを知覚したと認識する人もいる。
一箇所に過剰な電流が放出され、別ワールドにトリップして快楽の頂点に達し、天国に行った気分になるのだそうです。

そういう体験をした人は、その幻を、現実体験した認識する。

「所詮 君らのような凡人にはわからんだろう」となる。

ええ、麻薬もやったことないし、てんかん発作も起こらないので、幻を見れませんから・・・。


我々は地上にいるとき、象3頭分くらいの重力を脳は受けているらしい。
その状態で認識したり思考している。

宇宙は無重力。
宇宙から帰った人は「私は神と出会った」とか言う。
民間宇宙飛行士として搭乗人も、「君らにはわからんだろう」みたいなことを言ってた。
彼は高尚な経験をしたと言っていた。

てんかん発作を起こした人も、似たようなことを言っている。
説明を求めるとごまかす。
説明できない。が体験したと主張する。
何をと聞いても説明しない。
「言っても所詮君らにはわからんだろう」とごまかす。

民間宇宙飛行士が体験したこと。高尚な世界? 神と出会った? 
無重力の中に長期にさらされたため、脳の思考が通常と違う回路になり、それで幻覚を現実体験したとしか思えなくなったのんじゃないかと。

ま ともかく、その人はそれ以降 庶民的な人だったが、なんか高みに上ったかのうな態度になってしまった。


脳が壊れた?
というより、気圧により、人間の脳の思考の範囲が決まり、通常ほとんどの人は1気圧の中で生活しているので、そんなにとっぴなワールドを認識しないのではないかと。


ところが、麻薬や気圧の影響を受けていないのに、特殊な認識をする人もいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

この人は、その特殊な認識をする人を研究している人。

この人に影響を受けた人は「脳の中の幽霊」という本を書いた。
人間には神を認識するモジュラーがある とか推論を書いています。
あるというより、そう認識することになった理由を推定している。


その本の中で名前は忘れましたが、ある人は自分の両親を、自分の親とそっくりだが、偽者だとしか思えない症状があった。

声だけ聞かせると、親だと思うが、対面すると、親とそっくりだが別人だと言い張る。

その人は親だけに対してそういう反応をする。
他の友人には「そっくりだがお前は偽者だ」と言わない。


どうして声だと親だと認識できるのに、視覚でも親と同じだと認識できるのに、偽者だと思うのだろうか この作者は考えた。

で、仮説として、人間は特別な親しみ」を感じるかどうかで、親だと認識するのではないか という。

その特別な親しみを感じる部分が障害によりうまく機能しないと、親に会っても、特別な親しみを感じないので、親だと認識できなくなるのではないかと考えた。

じゃあ、人間はどの部分により親しみを感じ、どの器官が壊れると、親しみを感じなくなってしまうのか ってことになるんですね。


親しみを感じるってのは、精神的なものですよね。
親しみを感じる機能が壊れるって現象は、物質界ですよね。

脳科学は物質界ですが、それを研究することで、精神世界のなりたちがわかるようになるのではないか と研究されだしている。

それが盛んになったのは、皮肉なことに湾岸戦争とかが起こってから。
化学兵器は、外的損傷を与えず、脳にダメージを与えることができる。
湾岸戦争から帰ってきた人は、外傷が無いのに、精神病患者にそっくりな症状を起こしていた。

それで、脳科学が注目されるようになったらしいです。



>そもそも形而上学には本当に意味があるのでしょうか?

親しみを感じたり、憎しみを感じるって意味があるか?
あるとしか思えません。
物事に対して、何にも感じないのなら、植物と一緒じゃないですか。
オリンピックで日本人は日本を応援するが、日本が負けたら、他のアジア諸国を応援したくなるでしょ?
人によってはサッカーで日本が早くから負けていたら、サッカー王国に挑む国を応援したくなる。
植物はそんなことしないです。

経験を通して、、

例えば麻薬をすれば、脳内物質が変化して、快楽を感じたりしますよね。

古代の宗教関係を見ると、麻薬を使っていたと思えます。
快楽物質を人工的に起こすわけで、トリップして、通常感じないことを感じれて、ハイになったりする。

その人工的に脳の構造を変化させたときに見た幻影を、天国とかすばらしい精神世界とか捉えて、そこに行き着こうとしたのだと思えます。

麻薬をやればトリップでき、脳の思考回路を通常とは違うようにできる。

麻薬を摂取しなくても、側頭葉てんか...続きを読む

Q歴史認識と形而上の認識について

過去としての歴史を我々がとらえるとき、歴史という「観念」の把握という点で、歴史認識=形而上的なものの認識となるという考え方ができるのではないかと考えているのですが。
意見していただきたいので宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

歴史とは現代と過去の対話であるとするカーの本が岩波新書にありますので、ご一読をお奨めいたします。

歴史認識は別に形而上的なものではないと思います。カーと同じことを、マルクスは「意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定するのだ」という言い方で表現しました。要は、人間の発想法など、生れ落ちた時代・環境・階級・社会情勢などで、大きく規定されてしまうものだというわけです。

Qmetaphysics形而上学

「形而上学」という単語の意味がわかりません。
いろんな辞書をひいたのですが、よくわかりません。
直訳すれば「物理学を超えた学問」ということですから、
形而上学とは具体的には数学のことでしょうか?
そして形而下学とは物理学、医学、工学、経済学・・・のことでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

詳しくは哲学のカテゴリーで質問するとわかりやすい
説明をしてくれる人が沢山いると思います。

 metaphysicsは古代ギリシャの哲学書の
項目の名前なんです。physics(自然哲学)の
次metaに来る項目という意味で、実際
physicsの次の項目に並んでいます。

>そして形而上学とは物理学、医学、工学、経済学・・・のことでしょうか?

 本来は違う分類でしたが、現代物理学は
形而上学の領域まで説明しつつあります。

 古代ギリシャのphysics(自然哲学)とは、自然現象について
いろいろ考えてみるというものでした。例えば
物はどうして落下するのだろうか?とか。
当時は力という考えがなく、数式も使って
いなかたので、物体が落下するのは、それが
物体固有の性質でだといった言葉での説明を
試みていたわけです。

 metaphysicsはそういった(分かりやすく
簡単に言うと)、身の回りの身近な自然現象
以外の「存在」「存在に対する人間の認識」に
ついて語るものだったんです。
 例えば神の存在とは?、宇宙の形、宇宙の
外側はどうなっているのか?といったものです。
現代物理学を少し学んでいると、宇宙の形?外側?
それは物理学の研究範囲では?と思われると思い
ますが。
 
 今物理学と呼ばれているものは、17世紀に
アイザックニュートンが書いたプリンキピアと
いう本がネタ元で、中学、高校で力学と
して学んでいるのはこのプリンキピアの
抜粋です。

 ニュートンは、古代ギリシャの自然哲学に
力という概念を持ち込んで考え直し、それを
古代ギリシャの幾何学と結びつけて説明した
んです。

 ですから、プリンキピアの正式タイトルは
「自然哲学における数学的諸原理」という
もので、ニュートン自身は、古代ギリシャの
自然哲学(physics)を、数式で説明しなおした
だけのつもりでだったわけで、これは本来哲学書の
一種だったんです。

 日本語の訳が、物理学、形而上学と
似ても似つかない形になっているし、
日本の教育では哲学的思想を一切
排除すという基本方針が貫かれて
いるため形而上学とは何だろう?
と疑問に思う人が沢山いるように思い
ますが、物理学、形而上学も
「存在」「人間の認識」について広く語る
哲学の1つの項目に過ぎません。

 ただ本を編集しているときに、身のまわりの
自然現象についてまとめていたらページ数が
多くなったので、「えーと、その次の項目ね」
と言う意味でmetaphysics項目を追加した
だけなんです。

 また、physics(物理学)のほうはニュートンの
おかげで数式を使うのが一般的になり、
学ぶ側からすれば言葉だけで語る
metaphysicsとは別物という印象を
受けやすいと思いますが、20世紀に
生まれたアインシュタインの相対性理論をはじめ、
物理学の理論とされるものから宇宙の形などが
議論できるようになり、物理学が形而上学の
項目まで説明するようになってきています。

 そもそも似たような話だったんで、古代ギリシャでは
となりの項目にしたんだと思いますから、
その境目はときに非常にあいまいになって
当然なのかと思いますが。

詳しくは哲学のカテゴリーで質問するとわかりやすい
説明をしてくれる人が沢山いると思います。

 metaphysicsは古代ギリシャの哲学書の
項目の名前なんです。physics(自然哲学)の
次metaに来る項目という意味で、実際
physicsの次の項目に並んでいます。

>そして形而上学とは物理学、医学、工学、経済学・・・のことでしょうか?

 本来は違う分類でしたが、現代物理学は
形而上学の領域まで説明しつつあります。

 古代ギリシャのphysics(自然哲学)とは、自然現象について
いろいろ考え...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
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