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護国神社はその県出身の戦死者・自衛隊殉職者などを、日本国に殉じた英霊として祀る神社かと思いますが、いろいろな場所にある護国寺も同じような意味があるお寺なのでしょうか?

神道にのっとって奉ったのが護国神社で、
仏教にのっとって奉ったが護国寺なのでしょうか?

また、護国神社+靖国神社のように、護国寺にもグループや格付けなどはございますでしょうか?

宜しくお願い致します。

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A 回答 (4件)

各地の護国寺と護国神社は関係ありません。



 仏教が日本に伝わった際に特に重視されたのは「護国」、つまり仏教に基づく「鎮護国家」です。その当時日本では天災・疫病・干魃など国の乱れは“荒ぶる御魂”により引き起こされると信じていました。そしてその荒ぶる御魂を鎮め、子孫を守る祖霊と昇華するためには、滅罪による浄化が必要とされました。
 そこで仏教という新たなる教えが伝わった際に、経典に説かれるさまざまな功徳、それは滅罪につながるとして日本では受け入れられ、仏法を流布することが国家の安泰と繁栄につながると認識しました。
 特に『仁王護国般若波羅蜜多経(にんのうごこくはんにゃはらみたきょう)』・『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』・『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』は護国の経典として重視され、聖武天皇は護国のために各地に国分寺・国分尼寺を建立します。国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」といいます。これも仏教によって国家の安泰を願って建立されました。

 「仁王経」や「最勝王経」では、国王は仏法に基づき善政を行い、仏を供養するかの如く民に接し、国を治めなければならない。そのことで国が平和になると説き、また「法華経」は滅罪経典として信仰を得ます。つまり国王は国家の代表であり、国王は人民の総意である故に、国王自身が善心・正法を忘れてはならないとするのが、仏教における「護国」の概念です。
 「鎮護国家」とは“国を鎮め、家を護る”。つまり国とは自然・環境の象徴であって、その猛威を鎮めること。家とは人の営みの象徴であり、これを護ること。仏教の理念に基づき、自然と人の営みの調和によって国が平和で人々が豊かに暮らすことができる社会を造ることが、「護国」であり「鎮護国家」の意味です。ですので各地にある「護国寺」や、また「鎮国寺」・「安国寺」なども、そのような国を造ることの願いを込めて付けられた寺号です。
 ただし、護国思想が国家主義や軍国主義に利用された感が否めないのもまた事実です。

 護国神社は明治期以降、戦没者慰霊に為に建立された神社ですので、護国寺とは関係ありません。
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No.1です。


念の為少しネットで調べてみましたが、やはり他の護国寺も江戸以前に建てられたもので「護国神社」のようなものではありませんでした。
探せばもっとあると思いますがご参考までに。

こちらは長崎にある日蓮宗のお寺↓
http://www.hello-buddhism.jp/nagasaki/gokoku/
こちらは富山にある真言宗のお寺↓
http://www.town.asahi.toyama.jp/site/box/gokokuj …
こちらは滋賀にある天台宗のお寺↓
http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id …
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結論から言いますと、「護国神社」と「護国寺」は全く関係ありません。



例えば、京都に平安時代から存在する寺院、東寺真言宗・総本山である「東寺」の正式名称は「教王護国寺」です。下記URLにその由来が書いてあります。明治時代以降に戦死者を祀ることとは全く無関係です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA

「護国寺」と言いますと、東京の文京区にある寺を連想する人が多いと思います。ここも、江戸時代に創建された寺であり、「戦死者・自衛隊殉職者などを、日本国に殉じた英霊として祀る」とは全く関係ありません。「真言宗豊山派大本山」であることから、「神齢山悉地院護国寺」と称したと思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD% …

他に日本に「護国寺」がいくつあるのか知りませんが、恐らくいずれも真言宗の寺院と思われます。真言宗の教えの中で、「真言密教による国家鎮護」という考え方があるからのようです。

「真言密教」とか「国家鎮護」というのは、仏教に詳しい人でないと説明できません。簡単に言うと、軍事とはまったく別の世界の話です。

また、質問者様は「神道にのっとって奉った」といった書き方をしていますが、これは「祀った」が正しい表記ですので気をつけてください。
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こんにちは。


私が「護国寺」と言われて思いつくのは東京の大塚にあるものですが、ここは徳川綱吉の母桂昌院の発願によって作られたもので、明治以降に作られた各地の護国神社とは全く関係がありません。
明治には廃仏毀釈の風が吹き荒れましたので、仏式で戦没者供養をというものはあまり多くないのではないでしょうか。少なくとも各地でさかんに作られた護国神社のようなものはなかったと思います。
昔から「国を護る」ということは何より人々の願うところでありましたから「護国寺」という名のお寺も建てられたのだと思います。
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邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)


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