出産前後の痔にはご注意!

おじいちゃんが戦争中強かったのは
1 九州出身
2 東北出身 で
一番弱かったのが大阪出身
の部隊だといってましたが本当でしょうか。たしかに九州男児は剣道なんか強いですし東北もストイックなイメージがあります。それに対し大阪の人はお金にならない兵役にはあまり熱心にならないのもなんか説得力があります。大阪出身はさぼってばかりだっていってました。あと本当に日本軍は出身地別の部隊編成だったのでしょうか。

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A 回答 (6件)

>日本軍は出身地別の部隊編成だったのでしょうか。


 陸軍の歩兵連隊については、回答者さんのご理解でOKです。国内を各連隊区に区分し、その連隊区にある本籍地の役場から召集令状が来ます。徴兵検査も本籍地で受けます。
 陸軍の兵科も砲兵、工兵などいろいろあって、必ずしも連隊イコール郷土部隊と云えないですが、陸軍の基幹である歩兵連隊は郷土部隊といえます。
 陸軍の中では歩兵の人数が圧倒的に多く、兵隊さんといえば歩兵を連想するのが普通ですので、『日本軍は出身地別の部隊編成だった』という理解でよろしいかと思います。

>一番弱かったのが大阪出身の部隊だといってましたが本当でしょうか。 
 『またも負けたか8連隊』で有名?な第8連隊は大阪でした。
 戦後になっても、マージャンや囲碁将棋などで、負けそうになると『またも負けたか八連隊』の地口がよく使われました。
 小生が会社勤めをしていたとき、八連隊出身の人がいましたので、本当に弱かったのか、と失礼なことを聞きましたら、ニヤリと笑って『弱かった』という答が返ってきました。
 この人は『また負けたか・・・』の謂れは知りませんでしたが、想像しますと、西南の役にまで遡るのではないかと思われます。
 当時の政府軍の主力は百姓町人出身が多い鎮台兵でした。それで、旧武士主力の薩軍の白刃突撃に逃げ惑ったこともあったようです。
 そのため、新政府は武士出身が多かった警視庁警視隊から選抜した抜刀隊などを組織して対抗しようとしたほどでした。
 大阪鎮台の兵隊もも西南の役には出征しました。
 大阪という町は江戸時代から町人の町として栄え、武士の数も少なく、またその武士も米俵の数を勘定する「そろばん侍」のイメージがありますから、大阪鎮台兵にはどうしても弱そうなイメージが付きまとって来ます。
 西南の役で、大阪鎮台が連戦連敗であったという事実は確認されていません。
 しかしそのような評判が立つ素地はあったように思います。
 また、その後の出征でも、マスコミ受けのする華々しい戦果もなかったようで、大阪=商売人=勘定高い→命を惜しむ→弱い という評判を払拭できなかったと考えられます。
(1)九州の兵隊は勇猛果敢、(2)東北の兵隊は黙々として粘り強い というイメージがあり、前の大戦では実際に強かったわけですが、大阪の兵隊は『またも負けたか八連隊』とオチョクラレルほど弱くはなかったと思います。
 まあ、しかし強かったとは云えんでしょうな(苦笑)。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。堂々と弱かったと言い切るところがすごいですね。商売人らしく負けるが勝ちとみてるのかもしれませんね。

お礼日時:2007/04/15 01:24

こんにちは。


「またも負けたか八連隊」は西南戦争の頃薩摩の兵隊達が言い出したものと言われていますが、実際のところはどうであったのかと主に日露戦争について調べられた方の話によりますと、確かに近畿・関西圏で編成された連隊には慎重で勇猛さに欠ける面が見られるものの、逆に九州・東北圏の連隊は勇猛ゆえの無謀が目立つといった具合で、単純に「どちらが強い」とは言えないようです。
要はやはり人々の持っている気質のようなものが傾向的に違うので、それがある面では有利に働きある面では不利に働くということでしょう。戦場では結果的に「損害が少ないほうが勝ち」ということもある訳ですが、やはり華々しいほうが目立ちますし「またも・・」を言い出したような人々から見たら「腰抜け」に見えることもあったのでしょう。
この気質の違いを「縄文人系」「弥生人系」の違いに結びつける話もあり、どこまで信用出来るかわかりませんが、実際現在でも自衛官に就く人数などを統計的に見ると明らかにこの傾向(縄文人系の九州・東北人が多く、弥生人系の近畿・関西人は少ない)にあるとか。
勿論単純にそれだけで結論の出る話ではありませんが、ある部分では中々説得力のある話でもあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。地域ごとに特性がでてて面白いですね。

お礼日時:2007/04/15 01:26

当時の日本は幕藩体制が終わってまだ日が浅く、それぞれ旧藩のいわくを引きずっていました。

軍制については、徴兵のプロセスや管理の面で出身地別という形が合理的とされましたが、発足当時のそういった実情もあります。
明治になってからの政争も薩摩藩等を長州藩が追い落とし、その西南戦争では薩摩に裏切られ辛酸を舐めた会津藩士が復讐心で頑張りました。
長州と会津の確執については、最近でも会津側が「まだ日が浅い」として和解に至らなかったというありました。
九州・東北と言うのはそういった過去の藩のイメージが精強という事と、農家出身者が多く厳しい環境に耐えられるという特性があったのかも知れません。
反対に大阪は東京より平均的に豊かな生活をしていたので、軍の生活はかなり落差があったと思います。
実際の戦闘に関しては、お互いが戦ったわけでもなく、日清・日露何れも個別の隊が戦うより全体で戦う大会戦が主だったので、どこが強かったというのはイメージの問題でしかなかったと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。確かに日本軍同士で戦うわけではないので比較はできませんよね。

補足日時:2007/04/14 23:43
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 旧日本軍は「郷土連隊主義」といって、軍の基幹単位である「連隊」-これが幾つか集まって戦略単位である師団になる-は、根拠地(衛戍地という)周辺からの徴兵者によって構成されていました。


#但し、管理職である士官は別
 これはドイツをモデルとしたもので、士気高揚などに一定の効果があると期待されました(まるで知らない戦友よりは、郷土という結び付きがあった方が団結は高まる)

 さて、「弱かった」とさんざんな言われようの大阪兵ですが、先賢御回答の通り、実際に弱かったのか、というとそうでもないようです。
当時の大阪連隊も「バカにされてはならん」とばかりに猛訓練をしていたらしいですし。
それでも「ノモンハン事変遅参」とか「WW2中もチンタラしてた」とか言われてしまうのは、一度付いてしまった風評は取れにくい、という所でしょうか。

 たしかに猛攻撃の末、生存の10人で堡塁を奪ったとか、玉砕して果てたとか、そういう派手な戦歴はありません。
 が、見方を変えれば「無謀な突撃事故の元」(cいしいひさいち)なわけでして、そう言うことをしない合理性、というのは蛮勇を好んだ旧軍の中では異端だったのかも知れません。

 因みに、回答子は東北地方に住んでいるときに「インパール帰りの爺さん」と話したことがあります。
回答子「インパールですか・・・ほんっと、よく生きて帰ってこれましたね」
インパール爺「そりゃね、わたしゃ仙台の生まれじゃないから。栗駒の炭焼の伜で、山岳民族だから」
回「さ、山岳民族・・・」
イ「南方でもな、山なら大体同じ様なモンだ。町の連中とは鍛え方も違う」
・・・・経験者によると民族性は大事なようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。そういえば八甲田山の遭難で生き残った兵士も実家が雪山のそばだったとかいう話を聞きました。やっぱり貧乏な地方出身のほうが精強な兵士としての素質があるのかもしれませんね。

お礼日時:2007/04/13 05:25

またも負けたか八連隊


これは、単なる語呂合わせの良さからきた、都市伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC4%E5%B8%AB …

基本的に合理的に行動できる軍隊が強い軍隊です。

ちなみに、私の祖父は第二師団、新発田連隊だったらしい、新潟だから。父は志願兵なので、陸軍少年航空隊。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。大阪人はものの見方がシビアですね。世間で言われているのは誤解かもしれません。ちなみにおじいちゃんは中国で衛生兵だったそうです。戦時中やたらと待遇のいい部隊への勧誘があったそうです。戦況もかんばしくない中あやしいので断ったら戦後わかったことですが、どうもその部隊は人体実験を捕虜に対しておこなっていたらしいとか…。なんか妙にリアルな話しですよね。

お礼日時:2007/04/13 05:19

こんな話もあるということで。



またも負けたか八連隊・・・
http://yasai.2ch.net/army/kako/972/972073874.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。「兵站はうまかったというはなしもある」というのに笑いました。これ読むとおじいちゃんの話は本当に当たっているのかもしれませんね。

お礼日時:2007/04/12 23:30

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Q日本は強かったの? 他国から歴史をみたら日本なんてなんてことない国だったの?

第一次、第二次世界大戦の時代
私は今まで、日本はアメリカに負けたけど、日本は戦争に強かった。と思っていました。零戦とか戦艦大和とか聞くし、神風特攻隊を出撃させたのは、作戦には疑問を持ちますが、とにかく日本は強かったんだと思っていました。でも、実際そうなんでしょうか?戦争に関して知識は豊富ではないですが、昔のVTRなどをみていると、簡単に言うと、ずるい方法をとったりしていたようにいわれてました。(約束破り?)
私は日本で日本の歴史を勉強するので日本は負けたけど、すごかった、強かった、というような感じを受けるものが多いですが、ほかの国から歴史を見たら、日本なんてなんてことなかった かのような存在だったのでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸軍は弱かった、人命無視のムチャクチャな作戦をやって自滅して行った…という悪いイメージがありますが、仔細に見るとそうでもありません。

A) 支那事変は、蒋介石率いる国民政府が、上海周辺にドイツ軍事顧問団の指導で建設した第一次大戦型の塹壕陣地(第一次大戦の常識では『突破不可能』。ゼークトラインと呼ばれた)を建設した上で、上海に駐屯していた海軍の上海特別陸戦隊を襲撃し、救援にやってくる日本陸軍を、上海周辺の塹壕陣地に誘致して殲滅する、という計画で始まりました。

蓋を開けてみますと、上海特別陸戦隊は意外なほど頑強に戦って陸軍の援軍が来るまで持ちこたえ、杭州湾に上陸した日本陸軍3個師団は、国民政府が頼みにしていたゼークトラインを「浸透戦術」を巧妙に用いることで少ない損害で突破し、国民党軍を包囲殲滅しながら国民政府の首都である南京へ進撃しました。

これは蒋介石にとって全く予想外のことで、国民政府軍は総崩れとなりました。日本陸軍は、上記のランキングでは「ランキング対象外」の国民政府軍より「遥かに強かった」と言えます。

ウィキペディア 第二次上海事変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

B) ポツダム宣言受諾の「後」に、ソ連軍が北方から千島と南樺太に侵攻しました。
千島列島の北端である占守島、日本領であった南樺太には、比較的装備が良く、兵員も充実した守備隊が残っていました。
8月15日以降のソ連軍の攻撃に対し、占守島と南樺太の陸軍部隊は善戦し、
「占守島においては、上陸したソ連軍をもう少しで海岸に追い詰めて全滅させるところまで戦う」
「樺太においては、ソ連軍の南下を食い止め、南樺太の日本人が北海道へ逃げる時間をかなり稼ぐ」
という戦いぶりを見せています。

<海軍について>
日本海軍については、アメリカに次いで世界第二位の戦力を持っていたのは異論がない所で、戦前においては、東太平洋は「日本の海」でした。

「空母機動部隊」はアメリカと日本だけが編成して運用できたものですし、18インチ砲搭載の戦艦を建造できたのは日本だけです。第二次大戦終結までに完成させた大型空母の隻数で言えば、アメリカが圧倒的に多いわけですが、次に多いのは日本です。第三位のイギリスにかなり差をつけているはずです。

無限の物量と高度な技術を持つアメリカと戦っては、昭和19年のサイパン沖海戦で日本空母機動部隊が壊滅し、レイテ沖海戦で航空機の援護のない「レイテ湾への特攻」を命じられた水上部隊がろくな戦果を挙げられずに甚大な被害を受け、「沖縄への大和特攻」(坊の岬沖海戦)で終わったわけですが、アメリカ海軍相手にここまで戦える海軍は日本海軍だけだった、というのは紛れもない事実でしょう。

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸...続きを読む

Q旧日本軍の部隊の配属について

第二次世界大戦において、
最終的に旧日本軍が「赤紙」と呼ばれる召集令状を送り、
徴兵を行ったことは一般的な知識として知っていますが、
その後、徴兵された兵隊はどのような基準で部隊に配属
されたのでしょうか?

私の聞いた話では、出身県や地域別に配属になった、と言う
話も聞いたので、例えば召集がかかり、故郷から戦地に行き、
そのまま同郷の(気心の知れた)仲間たちとともに戦うことが
出来たのでしょうか?

もしわかる方がいらっしゃれば教えてくださればうれしいです。

Aベストアンサー

> 徴兵された兵隊はどのような基準で部隊に配属
されたのでしょうか?

 陸軍と海軍に分けて簡単にお答えします。

 陸軍の場合、基本として各地域ごとに「常備団隊」を設け、「師団単位」で駐屯し、徴兵・召集兵は「連隊単位」で受け入れました。

 「第二次世界大戦」において、という設定ですから一番近い1940年度の常備団隊配置表の一部をしめすと

 第2師団  = 歩兵第4連隊(仙台) 歩兵第16連隊(新発田) 歩兵第29連隊(若松) 野砲兵第2連隊(仙台) 輜重兵第2連隊(仙台)

 というように各郷土ごとに分かれており、いわゆる郷土部隊の性格を持っていました。

 しかし、師団以外の部隊、例えば「航空」「船舶」「鉄道」「戦車」などの部隊は地域関係なく徴集しました。例えば当時の国鉄に勤務する機関士や民間航空会社のパイロットなどは優先して鉄道部隊や航空部隊に召集する必要があったからそうなったわけです。

 さらに師団でも満洲・朝鮮・台湾で編成された師団の場合もいわゆる全国区からの徴集でした。

 海軍の場合は、基本として各鎮守府(佐世保・呉・舞鶴・横須賀)ごとにその周辺地域から徴集しました。たとえば岡山の人は呉鎮守府から徴集され、呉海兵団に入団し訓練を受けたわけです。


 補足ですが、回答No.2の方の

>ビルマでは「8連隊」こと「安(やす)兵団」とも一緒に行動したようです。東北や九州出身者の「菊兵団」「狼兵団」などは強かったそうです。

 についていうと、「8連隊」は「安(やす)」ではなく「淀(よど)」が正しい。また8連隊(第4師団に所属)は大阪の連隊で、「安」(第53師団)は京都の部隊。「菊兵団」は久留米などの北部九州出身者からなる師団。「狼兵団」は朝鮮の京城(龍山)に司令部があった師団で、やはり北部九州出身者が多数を占めていました。したがって東北とは関係がありません。


 
 

> 徴兵された兵隊はどのような基準で部隊に配属
されたのでしょうか?

 陸軍と海軍に分けて簡単にお答えします。

 陸軍の場合、基本として各地域ごとに「常備団隊」を設け、「師団単位」で駐屯し、徴兵・召集兵は「連隊単位」で受け入れました。

 「第二次世界大戦」において、という設定ですから一番近い1940年度の常備団隊配置表の一部をしめすと

 第2師団  = 歩兵第4連隊(仙台) 歩兵第16連隊(新発田) 歩兵第29連隊(若松) 野砲兵第2連隊(仙台) 輜重兵第2連隊(...続きを読む

Qなぜ越後兵は戦国最強だった?

以前、戦国時代に書かれた書物を本で読んだことがあります(現代訳で)。
それによると戦国時代、一番強い兵隊は越後の上杉兵だそうです。
ちなみに2番目が甲斐の武田兵、3番目が相模の北条兵と三河の徳川兵らしいです。
武田兵は騎馬隊があるのであるので強いのは分かりますが、なんで越後兵はそれより強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ、津島の海運により商業が発達して豊かなため、命を惜しむからといわれてきました。
それに対して隣国の三河は今川に富を吸い上げられ、貧しいので命がけで戦うため強いとか。
越後も雪国ですから、人間的には我慢強い気質の方が多いため、「強兵」といわれると思いますが、それと本当に強いかどうかはまた別と思います。
幾ら個々の資質が高くても越後の兵はアマチュアですから、尾張のプロの兵士に勝てるかどうか。
柴田勝家が手取川の合戦で散々敗れますが、あれも主君の信長が、越後兵はこれ以上南下しないと読みきっての戦略で、上杉にとっては余り実のある勝利とは思えません。
兵の強弱は江戸期に甲斐の軍略家がまとめますから(武田家滅亡後、徳川に多くが仕えた)、どうしても武田家を持ち上げる傾向があり、武田信玄が梃子摺った越後兵は強いとなったと考えます。

合戦には戦略というものがあり、目先の勝敗はどちらでもよいのです。
例えば徳川家康は「桶狭間の合戦」で大将の今川義元が首を打たれたため三河に敗走、越前攻めでは主将の織田信長が逃亡したので敗走、三方が原では武田信玄に敗れて浜松に逃げ込み、本能寺の変でもやっとの思いで三河に脱出、とどちらかというと負け戦の多い武将です。
中国でも漢を建てた劉邦はライバルの項羽にやられて逃げ回りますが、最終的には勝利を拾います。
「尾張兵は弱兵」といわれ、その理由として尾張は肥沃な濃尾平野に恵まれ...続きを読む

Q太平洋戦争当時日本軍が三八式銃を使用していた理由は

三八式銃とは、明治38年 に発明された旧式の銃らしいですが、
これを太平洋戦争当時でも使用していたそうです。
戦争中の兵器の進歩は日進月歩なのが普通なので、
これは不思議なことです。
使用し続けた理由は何でしょうか?

大量に余っていたとしても新式に鋳直せばよいだけのことです。
現に戦闘機などはどんどん改良を重ねています。
なにか特別なことがあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られていますね。
新しいともいえませんが、それほど古いともいえません。つまり、ボルトアクション式では、すでに三八式は「決定版」ともいえる代物だったのです(No12の方が言っているように日本人にとって扱いやすいのも大きい)。
決定版なので、それ以上のものは戦術的転換がないかぎりは不要です。現在でもピストル、小銃などは50年以上前の設計の物だって十分現役で使っている国もあります。これらは現代の戦術では決定版足りえる代物だからです。

さて、先ほどから「戦術」という言葉を使っていますが、これが、三八式におきた一つ目の悲劇です。
時代は第1次大戦、火器は「小銃による打ち合い(砲は補助的)」から「重砲と機関銃(小銃は補助的)」による戦術に「転換」しました。

つまり三八式の作られた時代の戦術概念と第2次大戦では大きく様相が変わったのです。
基本的に新しく作られた戦術というのは、前に使われていた戦術よりも優れています(優れているから採用される)。
つまり、三八は世界的な戦術である、火砲、機関銃の大量使用による弾幕戦と戦うようには対応していません。
諸外国のようにそれらの「補助兵器」として使うならば十二分の性能だったでしょう。

当時の戦術において勝利を決めるのは火砲、機関銃、戦車といった兵器で、小銃はすでに勝利を左右する兵器ではなくなっていました。
しかし、日本軍にはそれらで力のある兵器はありません。

勝利を左右する兵器を持っていない軍隊と、勝利を左右する兵器を大量保有している国が戦えば・・・どうなるかはわかりますね?

日本軍が、(あくまでボルトアクションから進歩した存在であり、補助兵器の域を出ない自動小銃はともかくとして、です。諸外国がこれの更新を遅らせたのは、他に国力を注いでいたためです)火砲や機関銃の大量配備を嫌ったのは、塹壕戦による経験が薄かったために有効性を信用しきっていなかったのもありますが、最大の理由は、工業力がこれらの兵器を「全軍にいきわたらせて、かつ戦えるだけ」の力を持ち合わせていなかったことです。
国力と軍事力の兼ね合いが著しく悪いとも見れます。海軍でもいえますが、国力以上の軍事費は維持費や更新費用の面で国家を破綻させます。弾薬についてもそうです。自国の国力でまかなえる以上の弾薬を使う軍隊を持てば、補給にひずみが生じて、供給が追いつかなくなります。
かといって軍隊を減らすわけにもいかない状態ですし、そのおかげで更新(つまり戦術転換)に使う国力もない。新しい戦術では弾薬を多く使うので、転換したところで維持できるだけの国力もない(諸外国は生産量を増やしたのですが、日本ではそれができるだけの国力すら残っていなかった)。
日本軍が抱えていたひずみとかゆがみが、小銃にも現れているのです。

もう一つの悲劇が、1つ目の後半とかぶりますが日本の工業力の低さです。
当時、日本の技術力はとにかく欧米に追いつけということでタッチアップを図っていましたが、まだまだ追いついていません。
よく「日本の技術力は世界一だった。アメリカに物量で負けた」なんていう人がいますがこれは大間違いです(空技廠から上がってきた航空機の図面で、「この部分は鋳型をつかった鋳造で」となっていても金型が作れずに削り込み部品にしたというのはよく聞く話です。つまり当時の技術はその程度)。
中でも惨憺たる分野が重工業全般の中でも最重要分野の鉄鋼業でして、製鉄も自国では補完できない、鋳型技術も低い状態です。
さらには、精密機械技術が発展途上でして、とにかく精度が悪い(戦前の日本兵器において「統一規格」はありません。というより作れなかったのです。精度が維持できないのですね)。そのため小銃ですら調整しないと命中精度が維持できない上、部品の互換性がない。これは前線において問題です。
別々の箇所が壊れた銃をばらして一つの壊れていない銃にするというのは、軍隊ではある程度普通ですが、日本ではこれが出来ない。つまり不経済な状態です。
また、弾薬の製造精度も悪いため、弾詰まりが多い。これは自動小銃のほうで批判されますが、こちらについては「吐き出す量が多いためハズレに当たる確率が高い」だけなのです(まあ、自動小銃のほうが若干弾詰まりを起こしやすいというのはありますが・・・)。

ながくなりましたが、結局は日本と日本軍の構造上の問題なのです。
日本において三八式が評判が悪いのは、本来的に責任はない三八式に、日本の抱える問題を添付してしまっているからです。結局問題は日本自体にあるのです・・・
というわけで、三八自体の設計は優秀ですし、ボルトアクション式小銃の決定版でもあります。

銃は、航空機、戦車、潜水艦のいわゆる三大新兵器とは違う「熟練した兵器」ですので、寿命は桁外れに長いです。
ほかに寿命の長い兵器は、歴史的に見ると刀剣があります。日本刀は、太刀~打刀に変わったりと、若干の変更がありますがおおむね形は変わりません。これは刀は、熟練した兵器であり、戦術的な変革がなければ、仕様を変える必要がない代物だったといえるでしょう。

さて、三八式についてですが、これも似たようなものです。諸外国の兵器と比べた場合の旧式度合いについては、すでに前に語られてい...続きを読む

Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q目処(めど)と目途(もくと)

目処と目途の使い分けについて教えてください。
送り仮名に違いがありますか。
PC辞書で「めど」の変換を探すと目途が入っているのもありますね。
これは明らかに誤用ですよね。

Aベストアンサー

めどはやまと言葉ではないでしょうか。もしそうなら漢字は当て字であり、どちらが正しいというものでもなく、世間で一般的にどう使い分けされているかということに過ぎないと思います。

広辞苑ではめど(目処)もくと(目途)と分けて記載されているだけで説明がなく
不親切です。朝日新聞社の漢字用語辞典では、めど(目処、目途)とあり、私のPCでも、めどで両方が転換できます。

解決のめどがつくとか、目標達成のめどが立ったなどと使われるので、
ものごとがその完成、実現にちかずいたということを意味し、目標とは若干ニュアンスが異なると思います。目標は高くとは言いますが、目途(目処)は高くとはいいませんね(この部分は蛇足です)

Qヤンキー全盛期、朝鮮高校について

高校の時、担任の先生が雑談で話してくれたのですが、
昭和40~50年代?はヤンキーがいっぱい居て、
高校生でリーゼントは当たり前だったみたいですが、
傘の先を削ってそれで刺そうとしたり、
カミソリ持っているのもいた、ヌンチャクを持ってきて学校で練習していた。
など言っていました。何故このように暴力的だったのですか?
また、朝鮮高校の生徒が凶暴だったとかで、
電車に乗っていたら学生が「オイ!朝鮮高校の奴が見回りに来たぞ!」と言って、
慌てて日本人学生は他の車両に逃げていたと聞きました。
その先生の友達は長いリーゼントをしていて、朝鮮高校の生徒に
ハサミで切られたとも言っていました。
何故暴力的だったのか、また何故朝鮮高校の生徒が暴れていたのか教えてください。

Aベストアンサー

「朝鮮高校の青春 ボクたちが暴力的だったわけ」
http://www.amazon.co.jp/dp/4334974805/
という、1970年代に実際に朝鮮高校に在学していた方が書いた本があります。質問者さんの疑問に当事者が答えたような本ですから、この本を読まれるのが早いでしょう。
絶版書ですが、アマゾンのマーケットプレイスで容易に購入できます。

私自身がこの本を読んで
「何故暴力的だったのか、また何故朝鮮高校の生徒が暴れていたのか教えてください」
の答を簡単に言うとすれば、

1. 朝鮮高校は全国に数ヶ所しかない。よって、どの朝鮮高校も寮を備え、実質的に「全寮制」の学校である。

2. この本の著者が在学していた朝鮮高校は、市街地から離れた山の中にポツリとあり、休日以外は外界とほぼ隔絶した「コロニー」のような状態であった。学校・寮の中では、「体育会」や「軍隊」のような「上級生絶対」の秩序が成立していた。そのはけ口として、休日には市街地に出て「不良活動」に励んでいたようです。

3. 現在も朝鮮総連関係の施設を警察や国税が捜査する際には必ず「抗議する在日朝鮮人」の姿がニュース映像で報道されます。映像を見ると、警察官に暴力を振るっている、本来は公務執行妨害罪で検挙されるべき人が散見されますが、在日朝鮮人が公務執行妨害罪で検挙される例は少ないようです。
朝鮮総連と北朝鮮に対しては、小泉首相が朝鮮を訪問して、金正日が日本人を拉致したことを認めて以来、マスコミや政府の「遠慮」が急速に消えて来ていますが、それ以前は「朝鮮総連・北朝鮮はアンタッチャブル」な存在で、朝鮮総連とその関係施設である朝鮮高校は、治外法権のような扱いを受けていたようです。
上記の本によると、朝鮮高校の生徒が休日に市街地で事件を起こして警察に身柄を拘束されると、朝鮮高校の教師や朝鮮総連関係者が警察署に押し掛けて大変なことになるので、よほどのことがない限り警察は朝鮮高校生徒を検挙しなかったそうです。

4. 朝鮮高校と言うコロニーの中で窮屈な生活を強いられ、休日に市街地に出て「少々」暴れても警察は手を出さず、普通の不良や暴走族も朝鮮高校生とは関りを避ける、となれば、暴れたくなるのが人情でしょう。

5. なお、著者が在学していた朝鮮高校は、山の中の一本道をしばらく行かないとアプローチできない立地だそうです。地元の不良や暴走族のうち勇気のある者が、極まれにですがその道を通って朝鮮高校の門までバイクでやって来て「朝鮮高校の馬鹿野郎!」などと叫んで逃げることがあったそうですが、そういう場合は道の途中で待ち伏せていた朝鮮高校生が暴走族の退路を絶ち、暴走族を半殺しにすることが多かったそうです。

「朝鮮高校の青春 ボクたちが暴力的だったわけ」
http://www.amazon.co.jp/dp/4334974805/
という、1970年代に実際に朝鮮高校に在学していた方が書いた本があります。質問者さんの疑問に当事者が答えたような本ですから、この本を読まれるのが早いでしょう。
絶版書ですが、アマゾンのマーケットプレイスで容易に購入できます。

私自身がこの本を読んで
「何故暴力的だったのか、また何故朝鮮高校の生徒が暴れていたのか教えてください」
の答を簡単に言うとすれば、

1. 朝鮮高校は全国に数ヶ所しかな...続きを読む

Q生活保護費って1ヶ月いくら?

あたしの知り合いが生活保護をうけてます
母子家庭で子供一人です普通に生活してればなんも問題はないと思うですが…
毎月お金がたりないとかいって返すから貸してとあたしや他の知り合いにいってきます
あたしは結婚して子供もいて専業主婦なので旦那の給料で全部やっていて余裕なんてないからいつも断ってます。
でも知り合いに気いたら結構貸してたりご飯食べさせたりしてるみたいで一体いくらもらって何に使ってるの?と聞いてもカツカツの金額しかもらってないって言われます。
人のことなので言われるすじあいがないと思いますけど毎回お金ないとか財布に1000円しかないというわりに昼ご飯たべにいこうとか言われて
何なのかなぁとおもいました
車も子供がいるからないと困ることしってるんで内緒に車も所有してます毎日出歩きガソリン代はどこからでてくるんだろうと不思議です
北海道なんですけど
子供一人で母子家庭の保護費って誰か知ってる人いませんか?
本当になくて困ってるならと思いますがやってることがやってることなのでとても疑問です

Aベストアンサー

自治体にもよりますけども、子供一人の母子家庭であれば15~17万は最低貰っていると思います。

使い途は支給を受けた本人の自由ですが、あまり贅沢はできませんよ、大概は。問題は車を所有してる事を隠してる事です。これ、ばれたら大変な事になりますよ。生活保護は打ち切られるわ、これまで支給された保護費全額を返済しなければならなくなります。場合によっては「詐欺」で訴えられる事もあります。

恥ずかしながら私も生活保護を受けていますが、一人暮らしで10万5000円ちょいです。これでカツカツになる事はありませんよ。光熱費や家賃を払っても4万位は生活資金に充てられますし、冬場(私も北海道)は燃料手当ても加算されて13万ちょいになりますから、冬場は生活としては非常に楽に生活ができます。ただ私は「精神障害疾病3級」なので、就活については言われませんが、いつまでも貰い続けていると若い人の場合「仕事をちゃんと探してますか?」とは言われるみたいです。

Q戦場で衛生兵を撃っては行けないルール

戦争映画を観て、よく戦場のシーンで「衛生兵!」って
叫んで、衛生兵がケガした兵士の所に走って行きますけど
戦場では、敵国の兵隊の衛生兵は撃ってはいけないという
国際ルールでもあるのですか?

Aベストアンサー

1864年の第1回赤十字条約「戦地における軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する条約」で、戦地病院は局外中立であるとともに、この病院が「任用する人員」、即ち病院の監督員、事務員、負傷者運搬者、説教者はその本務に従事し、かつ傷病者を救助する必要のある間に限って、局外中立であることが認められています。つまり衛生兵(負傷者運搬者)はその本来の任務を遂行している間は、敵対行動の目標とされていないことが規定されています。
次に1929年の赤十字条約は、その3章で衛生兵の保護について詳細に規定し、「傷者及び病者の収容、輸送及び治療並びに衛生上の部隊及び造営物の事務に専ら従事する人員並びに軍隊所属の説教者」は、戦争中であればどのような場合でも保護されなければならず、また捕虜としても取り扱われません。(敵に捕まっても、拘束されないという意味。)
このような赤十字条約を批准している国家は、戦争中といえども衛生兵をはじめとして、傷病者を救護する任にある者を攻撃してはならないのです。現代の戦争は実はある一定のルールに従って行われている、と言ってもいいでしょう。(もっとも批准していない国との戦争や、戦場が入り乱れている場合などでは、衛生兵が射撃されることもあります。ですから「衛生兵!!」と叫ぶのでしょう。)もっと詳しく知りたければ、国際法の中の「戦争法」を読んでください。

1864年の第1回赤十字条約「戦地における軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する条約」で、戦地病院は局外中立であるとともに、この病院が「任用する人員」、即ち病院の監督員、事務員、負傷者運搬者、説教者はその本務に従事し、かつ傷病者を救助する必要のある間に限って、局外中立であることが認められています。つまり衛生兵(負傷者運搬者)はその本来の任務を遂行している間は、敵対行動の目標とされていないことが規定されています。
次に1929年の赤十字条約は、その3章で衛生兵の保護について詳細に規...続きを読む


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