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人間の自由という他の方の質問に答えようと思ったんですけどうまく自分の意見がまとまらなくて逆に質問してみようと思いました。

自由という概念は人間にとって必要か?

人間の自由という他の方の質問に寄せられた回答では自由は責任を伴うという意見が主流だと読み取りました。私としては、自由は制約を受けていない状態を意味し、責任は制約を受ける(守る)ということだと思っていましたので、なんだか考えがまとまらないというよりもわけがわからなくなってこんな質問が思い浮かんでしまいました。
暇な方も暇じゃない方も暇なときに回答をくださればありがたいなあと思います。

A 回答 (9件)

私はあなたのご意見に賛成です。


確かに責任のない「自由」は他人に迷惑をかけ、社会の秩序を乱す可能性はあります。だから多くの人が責任を伴わない「自由」は本当の「自由」ではないと考えているのだと思います。
その考えの裏には「自由」というのはこうあって欲しいという理想が見えます。つまり「自由」というのは理想的なものでありすばらしいものなのだと。何をやってもいいという意味じゃないんだと。しかし、そうすると「何をやってもいい状態」をどんな言葉で言い表せば良いのでしょうか。
「勝手」という言葉があります。「自由」に非常に似た言葉です。でも「勝手」には「自分の都合の良いように」という意味が含まれています。また「放縦」(ほうしょう)という言葉があり、これも「自由」に似ています。しかし「放縦」は「思うままに振舞う」という「行動」を含んでいます。私は「自由」という言葉は「何をやってもいい状態」を意味する言葉だと解釈しています。「行動」を表す言葉ではないのです。「状態」を表すのです。何者にも束縛されない、強制されない、何を行なっても、なにを言ってもいい、そういうことができる解放された状態を「自由」というべきだと思っています。もし、「自由」に責任を伴わなければならないのなら「責任のある自由」と表現すれば良いのです。「自由」という概念にある種の限定を伴わせてはいけないと思います。むしろ限定されるのは「自由」という状態に解放される前の状態でしょう。例えば、弾圧からの「自由」、親からの「自由」、学校からの「自由」といったように。
要するに「自由」「責任」「秩序」「規範」「常識」「制約」などの概念をそれぞれ独立した概念として扱い、「自由」を修飾する言葉として「責任」や「秩序」という言葉があるのだと言いたい訳です。このように考えれば「自由」に関する命題についての考察あるいは論議において混乱を避けることができます。ただ、現実社会にあっては「責任」や「秩序」の伴わない「自由」は不幸をもたらすことになるという考えが大多数の人にとって正しいことであるということです。
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人間にとって自由という概念が必要かといえば、「必要」ではないでしょう。


現実社会を見渡した時、「自由」な人間なんているのでしょうか?本当の意味で自由といえるのは悟りをひらいた人くらいでしょう。

元々人間は社会性をもった生き物ですから、集団のルールに従う不自由な状態がデフォルトだと思います。そうでなくては生存が出来なかったわけですから。
多くの人の言う自由の大切さは個人的にはその通りであると思っています。いわゆる「人間らしい」生き方にとって、自由はとても重要な要素の一つです。けどそれは現代日本人の持つ「理想」ですよね。
「マトリクス」でも、現実ではないと知りながらマトリクスの中での裕福な暮らしを選んで主人公らを裏切ったキャラ(名前はサイファだったか?)がいましたが、現実には彼のような人も多いと思いますよ(「ブランド」や「肩書き」「恋愛」に依存してしまう人たちなど)。

まるで上記の意見と逆に思われるかもしれませんが、自由と責任や秩序をワンセットにする考え方にも違和感を感じます。
まるで小学校の校長先生の訓示を聞いているかのような感覚です。

責任や秩序と自由は全く異なる概念です。ただ現代の日本のように、過密な管理社会において、それらを考慮しなくては結局自由に行動できないというだけです。

ギャンブルのトランプゲームで喩えれば、開拓時代の西部のような無法地帯なら、イカサマも日常茶飯事でしょう。ばれなきゃ良いのですから。逃げ切れれば金の持ち逃げもありでしょう。もちろんそれなりのリスクはありますが、秩序や道徳を守らなくとも自分の自由を発揮する「条件」(方法ではない)はあります。
この「リスク」を「責任」と読み替えることも出来なくはありませんが、少なくとも秩序の維持とは結びつきません。

「マトリクス」のようなバーチャルリアリティが現実味を帯びるにしたがって、自由や責任、道徳の問題は現在の常識から変容していくと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
質問のテーマが大きすぎてなかなか自分で処理できずにせっかく回答をいただいてもお礼が反論みたいになってしまったことをmasyuraさんのお礼の場を勝手に借りさせていただいて(すいません)お詫び申し上げます。
今回の質問で自由には2つ概念があることを確認できました。1つは人間の目指すべき理想としての自由。もう1つは価値の概念を排除した自由。
質問することによって私は後者の概念を支持するものであり少数派であることを認識することができました。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/21 04:06

自由をギャンブルのトランプゲ-ムで考えてみます。



ディーラーからカードが配られてきます。このカード1枚1枚が自分の人生の可能性です。ここで配られたカードだけでの勝負だと選択権はありませんので完全な自由ではないです。
私たちには席を選択し、カードを交換し、そもそもゲームに参加しない自由があります。しかし配られたカードは平等ではないですね。

そして場を洞察し勝負に出ます。ここで勝てばお金が儲かります。当然負ければお金がなくなります。
これが責任です。

しかし、あなたがイカサマをしたらどうなるでしょう?それがバレたら誰も勝負をしてくれないでしょう。負けると判っていて勝負をしてくれるお人好しはいないです。その場から追い出されますよ。ましてやお金を持ち逃げしたら警察に突き出されます。

これが自由における秩序、道徳、常識、礼儀に従うということでしょう。皆がルールを守ってるからこそ自分の自由(=勝てばお金が儲かる)が最大限に発揮されるのです。

秩序、道徳、常識、礼儀は自分の自由を制限するものではなく、それを皆で守ることによって他人による自分の自由への侵害から守るためのものです。

そして宗教的迫害、人種差別等はいわば「門前払い」なので自由の侵害です。これは上記と同列に扱うべきことではないと思います。

そしてイカサマをしないで門前払いもされないでゲームをしても、ゲームをする目的にはなりますね。

ここで賭けるお金もしくは担保になる物が無ければゲームに参加することも出来ません。
責任の取れない自由はある程度の制限はかかるのも仕方が無いことでしょう。
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 かなり主観的な意見で書かせて貰うと…



 (1) 積極的な意味合いで「自由」=自らに由る。
 (2) 何かに対して、「自由」=束縛されない。

↑の2つの意味合いがあると思います。
この辺の事は、他の方が細かく説明してるので、具体的な事はもうおわかりでしょう。

 では、「その概念が必要か?」
「人間にとって」とまで言えないですが、「私」にとっては必要です。

 人生での岐路に立たされた時、
自分は「自由(例え、選択肢に限りがあっても)」に、自分の「責任」で選択する。また、その結果は「自分の責任」に還ってくる。
…と思っているからです。

 この考えが無ければ、きっと私は自分にも、「言い訳」する人生になるのでは?
とも思います。
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全ての選択権を自らが持つ。

しかしその後どうなっても自分で責任を取る。(成功しようが失敗しようが)

という状態でしょうか。

下のお礼の農民の例も農民という範囲内では自由がありますが、その他の面では非常に制約を受けているので自由ではないでしょうね。
現代の場合を考えると、親の敷いたレールの上を歩いていく人生は例え優雅な暮らしでもつまらないですよね。
やはり苦しくても失敗しても自分で自分の人生を選ぶ方が満足感がありますよね。

ここで自由について回る責任とは、自分が失敗すればどん底に落ち、誰かに損害(物・精神・人全てを含む)を与えたときにきちんと後始末(=責任を取る)をしなさいということではないでしょうか。

つまり自由に伴う責任とは制約ではなく、「リスク」が伴うということでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
人生論としては大賛成です。ただ、自由が選択権+責任なら、責任の取れない選択が制限されるという不自由は、自由とは関係がないんでしょうか。

お礼日時:2001/01/19 02:39

言葉が足りない部分があったので、補足させてもらいますね。



・なにものにも支配されない、精神的自由
・なにものにも縛られない、肉体的自由

どういうことかといえば、たとえば「戦争捕虜」「人種差別」「宗教的迫害」などを考えてもらえばわかると思います。
「精神的自由」「肉体的自由」を奪われた人に、安らぎや幸福はあるでしょうか?
ですからこそ、そういう状態でない「自由」という概念は、絶対、人間には必要であり、与えられるべきであると思います。
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この回答へのお礼

回答+補足ありがとうございます。
自由というのはやはり何者にも縛られない支配されないということなんでしょうか。そうだとすると、秩序、道徳、常識、礼儀に従うことは自由という概念に矛盾しないんでしょうか。私の中で自由は何者からも制約を受けていない状態であるので、秩序、道徳、常識、礼儀に従わない、という態度では無く、自由が人間にとって積極的な目標となりうるかというのが疑問なんです。秩序、道徳、常識、礼儀に従い、戦争捕虜、人種差別、宗教的迫害のないそこそこ自由という状態なら、人間にとって必要である、と思います。

お礼日時:2001/01/18 21:14

すでに回答がでていますが、「自由」というのは人間になくてはならないものです。



例えば、江戸時代以前、農民の子は(原則として)農民にしかなれませんでした。
あるいは外国でも同じように、奴隷や貧民の子として生まれたら、本人の望むと望まざるとに関らず、その身分での人生を余儀なくされていました。
これに対して現代では、農民の子が商人になるもよし。父親がサラリーマンだから自分もサラリーマンということはない。望めば総理大臣にだってなれるかもしれない世の中です。
人間に必要なのは、そういう意味での「自由」なのです。

言葉の意味はたしかに「何物にも由(よ)らず、ただ自らにのみ由る」ということですが、社会生活を営むのに最低限のルールがあるのは当然です。
ということでいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
どんな職業にも就ける可能性があるということは、すばらしいことですね。なるほど、職業選択の自由というやつですね。選択権があることが自由だとも思ったんですが、農民の子は農民になっていましたが、どのような農民になるか、どのように振舞うかという選択権は多少なりともあったと思います。その意味ではある程度、農民も自由だったと思ってわからなくなったんです。ある程度自由は自由じゃなくて、でも、完璧な自由はありえないとすると、自由は定義できるんでしょうか?

お礼日時:2001/01/18 19:05

まず、私が思う「自由」というのは、



・なにものにも支配されない、精神的自由
・なにものにも縛られない、肉体的自由

という意味であり、人間が生まれたときから持つ「秩序」「道徳」「常識」「礼儀」などは、やはりきちんと守るべきであり、そしておのれが属している社会で担うべき責任も果たすモノだと思っています。

そのため、coolriver さんの考える「自由」とは違うと思いますが、人間にとって「精神」と「肉体」が束縛されない状態というのは絶対に必要であると思うので、答えとしては、

「人間に『自由』という概念は必要」

だと思います。
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私は自由は、責任を守ることだと思います。


なにも制約を受けなければ、世の中秩序が守れません。極論すると、盗み、殺人なでも有りになるでしょう。
そこで、法律が有り、マナーが有り、公序良俗という言葉があるのです。
それにしても、自由をなんでも有りと誤解している人が多いのは残念なことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
責任をとることは人間として重要なことですよね。
私が疑問なのは自由が責任を守ることならわざわざ自由という概念を必要とするか?ということなんです。あえて自由という言葉を使用するために誤解をする人が出てくると思うんです。責任をとるといえば事足りると思って質問をさせていただいてます。

お礼日時:2001/01/18 17:26

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