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仏教では無我が説かれるそうですが、これは諸々の構成要素が、私が「私」と思い込んでいるものを形成しているに過ぎず、「私」は永続的ではないということを説明しているのだと解釈しました。一方、輪廻が説かれるということは、「私」には何らかの永続的な主体があると見なされているということだと思います。この輪廻する主体は、私の構成要素の中の本体のようなものでしょうか?いずれは意識がなくなり、私であったものは解体されるということは常識的に理解できるのですが、意識や五感といったものを取り去っても、なお、私の根源あるいは本質があって、それが輪廻するということでしょうか?「方便」とか、「仮」といった答えでは私には理解できません。仏教をそれほど知らない人(高校倫理の教科書レベルの知識をもつ人)でも納得のゆく説明をお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (36件中21~30件)

 非常に難しい質問です。

先に述べてくださったかたが多くの答えを持っておられるように、仏教における輪廻の主体ということには多くの解釈が存在しています。それをいくつか、ご紹介したいと思います。
 まず「アートマン」とは生気・本体・霊魂・自我などと訳されます。インドの諸哲学は個人というものを掘り下げて、常住・単一・主宰のアートマンを重視し、そのアートマンを基盤に展開していきます。それに対して、仏教においてはそのような「アートマン」を否定し、我・自我そのものを多くの要素の集合体と扱います。そいった思想を仏教では「縁」と呼んだり「空」と呼んだりします。仏教では我・自我は諸要素から成り立つもので、自我を実態視する立場を退けています。
 ただし、釈尊が説いた最初期の無我説は、我執を含むあらゆる執着からの開放を強調しています。それは『倶舎論』の第三十破執我品には「我の體は是何ぞ。謂はく我執の境なり。」と説かれていて、『成唯識論』には、倶生起の煩悩(後天的に備わる煩悩)障は、業果の発現を助ける(潤生)用を起すと共に衆生の心身を憂鬱にして生死輪廻させると説かれています。
 仏教における輪廻のは、主体となる「アートマン」を認めることはありませんでした。ですが、輪廻の思想は当時のインドにおいて一般的な考えかたであり、仏教においては輪廻の思想を容認せざるをえなかったのでしょう。釈尊は霊魂のようなものは認めませんでしたが、そのその人の行為によって輪廻が決まると説かれます。その行為を仏教では「業」と呼んで、我執から生まれるものを「悪」とよび、我執を捨てた「善」を行うための、善悪についての正しい意識を持たせた倫理的生き方の根拠としています。ですから、輪廻の主体とは何かと問われれば「我」であり「我執」となるのでしょう。
 
 また、こういった思想を基本に仏教は多くの展開を見せます。その中の一つが、仏性論(如来蔵思想)です。唯識思想が人がなぜ迷うのかという立場でその構造を明らかにしたものであるとすれば、仏性や如来蔵とはなぜ人は悟るのかという立場でその構造を明らかにしたものです。お釈迦様はだれもが仏陀になることができることを説き、全ての人に分け隔てなく仏法をお説きになられました。初期大乗仏教はこのような釈尊の姿勢を踏まえて、全てのものには仏陀になる因子が存在していると主張したのが「如来蔵」であり「仏性」です。衆生は煩悩を持っているからそのままでは仏に離れません。しかし、全てのものは菩薩道の実践によって誰もが仏になることが約束されいるとするのです。なお、『不増不減経』には衆生の本質である如来蔵は「自性清浄心」ともいい、「客塵煩悩(外側に張り付いた煩悩)」に汚染されているとされています。衆生は生まれながらにして煩悩がある生き物とされていますが、その煩悩は拭い去ることができるものであり、衆生の本質はあくまで清浄心とされます。しかし、その本質は『勝鬘経』のなかで、仏教以前に主流であった「アートマン」と混同してはならないと説かれています。この思想を基盤に、「如来蔵」「仏性」があるからこそ輪廻すると説かれます。この思想によれば、輪廻する主体は「如来蔵」であり「仏性」ということになります。
 
 仏教は多くの展開をしていきます。一つの問いに対して、多くの答えが存在します。これが、正しいこれが間違っているというようなことはありません。ただし、教典的根拠に乏しいものは仏教においての答えにならないように思います。その経典的根拠を踏まえたうえで、ご自身の考えを熟考していただきたいと思います。

 長々駄文を連ねましたが、支離滅裂な稚文かとおもいます文意を汲み取っていただければ幸いです。よろしくお願いします。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。業や執着に着目すると、始点はどこなのだろうか、どのように汚染されたのだろうか、という疑問が浮かびます。

お礼日時:2007/06/26 10:08

でも、体で知る必要がある



ということもあるのではないでしょうか

仏教だもの。

仏教を知らないからこそ。

空 風 ちいさな渦 襞、、、、
そんなものは言葉だから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。私には文章の意図が難解です。すみません。

お礼日時:2007/06/26 10:03

今回は


ここまでにしておく。
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この回答へのお礼

お時間を割いていただきありがとうございます。

お礼日時:2007/06/26 10:01

あるいは


輪廻とは何かの
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輪郭を浮かび上がらせるような。

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輪廻の主体


それにせまる
キーワードはいくつか考えられる。
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あります。

これ以上答えありません。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2738340.html
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この回答へのお礼

興味深い問いと、回答の数々ですね。私も、意識や無意識と呼ばれるような、電気信号や物質の作用の総体が自覚を作っているのだと思います。私の身内には認知症になった人間がいたので、自我の儚さを痛感しました。一般に言うところの幽霊とか、死後に裁きを受けるといったような話しは信用していません。しかし、意識の継続を前提としない死後や生前の話しには興味があります。そこで、仏教の考え方にも関心をもちました。

お礼日時:2007/06/26 10:00

仏教用語はさて置いて、輪廻する主体は「霊魂」であると思います。

仏陀は霊魂を否定したといわれていますが、それは「霊魂が永遠不変で常住であるということを否定した」のであって霊魂そのものは否定していません。無記といってあまり論じなかったのです。それは「霊魂というのは第三者に科学的に証明することができないからです。」凡夫が理解できないようなことを説いても疑惑が増すだけで修行の妨げになるだけなのであまり説かなかったのです。悟ればわかることということだったのでしょう。 輪廻するには何かの身体が必要なわけです。それが霊的なものであれ肉体的なものであれ。精神だけでは輪廻しません。こういう精神だけの世界を無色界といいます。こういう精神が何かに執着すると周囲から霊的な物質を集めて霊体を創ります。これを原因体と言いますが、一般ではこれを霊魂だと思っている人が多いようです。さらに執着が強まるとアストラル体(幽体)を創ります。そして最後に肉体を創るのです。執着が続く限りこの三つの世界を行ったり来たり輪廻します。 このような姿は、コンピュータゲームに良く似ています。ゲームの世界に入ったり出たり、肉体的な人間がもう一つ下位の世界を創造したのと同じです。そして輪廻を繰り返すということは、ゲーム中毒になっているのと同じ理屈です。中毒を克服してその大本の精神が元の無色界に戻らないと輪廻は止まりません。ここまでは仏陀以前の聖者の考え方なのでしょうが、仏陀は無色界以上の涅槃界を発見したのですが。それは、本当に悟ってしまわないとわかりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。執着を伴う精神が原動力となって、再度、生命体を形成するということでしょうか。執着が伴わない場合には、霊魂と呼ぶべきものはどのようになってしまうのかということも疑問に思えてきました。

お礼日時:2007/06/26 08:43

NO7です。


私の回答が仏教から離れているのではないかという印象を与える可能性があると気がつきました。引用をして弁解にかえたいと思います。

http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/le …

http://www.genyusokyu.com/essay05/text/ofuro.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございます。わかりやすく、とても味わいのある説明のサイトです。諸法非我という言葉や、思い通りにならないことが苦であるという解釈には新鮮味がありました。

お礼日時:2007/06/26 08:33

 仏教にある程度関心を持つと生じる素朴にして深遠な問いですよね。

でもこのテーマの易しい解説本って見かけないし、本腰入れて学ぼうと思ったら、唯識やアビダルマの膨大で難解なテキストを何年もかけて勉強しなきゃならないでしょうね。

 ブッダ在世当時「人間は元素の集合体にすぎず死ねば無になる」という唯物論の学派が既にあり、ブッダはこの考えを「断見」と呼び誤謬であるとはっきり明言しましたが、しかし一方、個別実体的な永遠不滅の自我の本質があって、それが永遠に輪廻を繰り返すという考えも「常見」という誤った考えであるとしました。ブッダの教えが正しいかどうかは無論私ごときにはわかりませんが、ブッダがこの断・常の二見を否定したことは確実な事実です。

 つまりブッダは輪廻転生する主体の存在をはっきり認めたわけですが(それを霊魂と呼ぼうがジーヴァ・アートマンと呼ぼうが)そんなものは自己でも自己の本質でもない、と説いているわけです。
 肉体や精神・輪廻の主体を自己と錯覚させるのが根本無知のなせるわざで苦悩をもたらす、という見解は仏教に限らずヴェーダーンタ学派も共通ですが、つまり有機体が崩壊しても何らかの意識の流れは存続し、根本煩悩であるアビディアー(無明)と、それから生ずるタンハー(渇愛)が潜在形成力となって再び肉体を伴う生の原因となる。この意識連続体…異陰とか識とかいろいろ呼び名はあるようですけど門外漢の私にはとても精密分析などできませんが(No.6の方、とてもお詳しいですね!)止観行で生じる智慧で根本煩悩を断滅すれば輪廻の主体も滅却し、迷いである輪廻的生存が終焉する、という考えです。

「あの生涯、この生涯と生死を繰り返すのは苦しみである。煩悩を焼きつくしたのでこれが最後の身体である」と多くの解脱した仏弟子たちが原始仏典の中で高らかに宣言していますので、当時のスタンダードな見解であったことは間違いないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。常見と断見という言葉、はじめて知りました。固定的な自我ではないなんらかのものが継続して存続するけれども、それは自分の死後に自分とは異なるものを形成するので、両方の考え方は当てはまらないということでしょうか。

お礼日時:2007/06/26 08:27

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