
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
1南部候と津軽候は幕府での席次が違いましたが、津軽候の運動で南部候より席次が上になりそうになりました。
臣下筋の分際でと南部藩は悲憤しました。そんななかで平山行蔵の弟子だった相馬大作が津軽候の大名行列を大砲で狙い撃ちする事件がありました。そのとき津軽候は計画を察知し幕府届出のコースと違う道をたどりました。なので命は無事でありましたが勝手に参勤交代のコースを変えたことがわかると最悪おとりつぶしになるので、表ざたにすることも出来ずにいた。といった経過をたどります。物語はしばらく続きますがネタばれになるのでこの辺で。2現在でも不仲であると聞いたことがあります。
3そうです。そのあと津軽が秀吉に取り入って先に本領安堵を受けました。そのとき以来不仲は続いているわけです。
回答ありがとうございました。幕府、と言うことは江戸時代の話なのですね。そのころまで南部藩は津軽藩を臣下(格下)と見ていたと言うことなんですね。
1・<最悪おとりつぶしになるので、表ざたにすることも出来ずにいた
その後どうなったのか気になります。
2・やはりいろんな因果というか、遺恨はのこるのでしょうね。
3・九戸氏が起因しているのは間違いないのですね。間違ってはいなかったので安堵しています。
回答ありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
#3です。
すいません、一部間違えてました。「津軽弁」と「青森弁」です。もしかしたら青森と南部(八戸)でも言葉は違うかもしれません。関東の人間は関西の人は全部大阪弁だと思っていますが、京都と大阪と神戸じゃ発音とか違いますよね。大阪もあのボクシング三兄弟あたりともっとお上品なところじゃまた違いますよね。それと同じだと思います。
了解しました。
どちらにしても「一戸」から「九戸」まであるのはなぜなのでしょう(戸とは関のことなのでしょうか???または分家???)
南部方は八戸弁=青森弁と思っていいのでしょうね。
話は飛びましたが、相馬大作事件の砲撃は無かったとの説も見つけました。講談は講談の世界で、いろいろ誇張されていたのでしょうね。調べれば調べるほどに奥深く・・・
No.4
- 回答日時:
補足ですが、小説仕立てではありますが「幕末剣豪伝 中沢?夫/著、鱒書房」という本がこの話、因縁の話から相馬大作事件までとても良くかけています。
今では絶版のようですが。 相馬大作は下斗米秀之進と名乗っていたのでこのキーワードで検索すると色々わかってくるお思いますよ。回答&ヒントありがとうございました。下斗米秀之進が本名で相馬大作が偽名であることも判りました。
津軽寧親(津軽藩6代目当主)との確執も見つけました。
完全に津軽は八戸(盛岡藩)に敵対して、逆に恨みを買っていますね。
秀之進が講談「みちのく赤穂浪士」や小説になるまで英雄化していたのでビックリです。吉良が津軽寧親に摩り替わっています。
秀之進のその後には処刑説と生存説があるのでいま少し調べてみます。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
2.についてのみ。
今でも津軽の人たちと八戸の人たちの仲は悪いようですよ。青森出身の人によると、津軽弁と八戸弁は違うらしくて「相手の言ってることが分からない」こともあるそうです。八戸の人いわく津軽の人は「腹黒い」津軽の人いわく八戸の人は「意地汚い」だそうです。
意外に青森って細かい地元意識が強いんですよ。青森は「NeBUta(ねぶた)」で弘前は「NePUta(ねぷた)」五所川原だと立佞武多ですからね。ごっちゃにすると地元の人に怒られます。
一見人の良さそうな東北人も実は細かい地元意識がありまして、後輩の山形人にいわせると、同じ山形でも庄内地方は「敵」なんだそうです。遡ると戦国時代の対立(上杉と武田、みたいな)が出てきたりするので面白いですよ。
回答ありがとうございます。
私は歴史(と言っても日本史好きなだけでさほど知識はありませんが)
は「地理(天候によるもの・人工によるもの)」「郷土史」「人物史」の3つの要素で変化しうるものであると考えています。
その点、戦国時代という「攪拌期」は非常に興味深いです。
「南部」「津軽」のタイトルに食いついていただいて(笑)ありがとうございます。
「郷土史」的回答いただきました。為信の時代にはすでに仲が悪かったので独立した訳ですから、もっと以前から仲が悪かったわけでしょうね。
私は関西人なので東北弁の違いが判らないので、たぶん地元の方がきいたらお叱りをうけるでしょうが、ずっと「ねぶた」が間違いで「ねぷた」が正解なのかなぁ、って思っていました(漠然と)。「津軽弁」は聞いたことがありますが、「八戸弁」は初耳でした。
<相手の言っていることが判らないぐらい・・・そうなんですか。仲が悪いと方言からして隠された意図を感じてしまいます。
興味深いお話、ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
1・2は#1さまの通りとして
3)九戸政実の乱より前、北条攻めの際に津軽氏は南部氏に先んじて参陣したせいで、津軽氏の独立は秀吉によって認められました。そのため、津軽と同盟していたはずの九戸氏は津軽から見捨てられました。
3・津軽氏も南部右京之介を名乗っていたので、南部一族だった。九戸氏はいわゆる抜け駆けされたと見ていいのでしょうか。
やはり、この為信という人物よっぽど南部支配が嫌だったのでしょうね。しかし相次ぐ離反を見ていると南部家は弱体化していたのでしょうね。
回答ありがとうございました。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
-
「ドキがムネムネ」は誰が最初...
-
信長による九鬼義隆の「鉄甲船...
-
鉄砲風呂について
-
5尺六寸てどれくらいの長さです...
-
苗字のルーツを知りたい
-
色は匂へど散りぬるを 我が世誰...
-
【織田がつき 羽柴がこねし 天...
-
鉄砲鍛冶の国友善兵衛について
-
財閥解体によるメリットとデメ...
-
フルネームが長い歴史上の人物は?
-
「 生涯独身 」 だった偉人
-
心に残った・・・
-
「かもしれない」と「やもしれ...
-
徳育論争(1879年)について教...
-
古語の読み方を教えてください
-
現代の標準語は戦国時代の人に...
-
髷を結っている人はいつごろま...
-
百名城に選ばれなかった理由
-
「鶏頭牛尾」?「鶏口牛後」?
-
丸に九曜の家紋は、何系でしょ...
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
-
シャトレーゼが今年になって色...
-
戦国時代の人々の名前について
-
森鴎外の「鴎」と「鷗」どっち...
-
フルネームが長い歴史上の人物は?
-
5尺六寸てどれくらいの長さです...
-
昭和40年代に身長180あったら頭...
-
丹後はあっても丹前の国はなぜ...
-
日常生活において10進法以外の...
-
アカポンタンとスカポンタンの意味
-
「ドキがムネムネ」は誰が最初...
-
大学女子で162センチは背高い感...
-
生誕から死没までの年をなんと...
-
旧制高校と旧制官立大学の関係
-
地球は丸い
-
財閥解体によるメリットとデメ...
-
問題文の絵に設楽原での合戦の...
-
戦国の騎馬は農耕馬?
-
少数兵で大群を倒した戦い・・・
-
昔の偉人の肖像画に描かれた座...
-
武田信玄が斉藤道三と戦わなか...
おすすめ情報