(1)武田軍が長篠城まで攻め込んでいたということは、信濃の松尾城~犬居城~二俣城~井伊谷城~長篠城というルートで攻め込んだのでしょか?
それとも直接、信濃から三河に攻め込んだのでしょうか?

(2)三河の田峰城などから信濃に侵攻することは可能でしょうか?

(3)曳馬城・横須賀城などの海に近い城は武田に占領されたことがありますか?

(4)遠江の半分は武田に支配されていた時期はあるのでしょうか?


よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

武田家の最大版図は信玄ではなく、勝頼によって達成されました。


長篠の戦いの時点で、遠江の徳川方は浜松城を拠点として南西部のみを押さえており、遠江の大部分は武田領でした。

1)直接に三河へ入り、豊川~二連木~牛久保と攻めたようです。
2)村々を調略しながらであれば、どこまでも進撃は可能です。ただしそれには、主力決戦に勝利するなど、調略に成功する材料が必要です。
3)曳馬城は浜松城の一部というべきかも。長期にわたり占領されたことはありません。横須賀城は、高天神城を武田に奪われた危機感から浜松防衛のために築かれたもので、武田に攻められたことはありません。
4)半分以上が武田に支配されていました。
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この回答へのお礼

武田の大軍があんな狭い山道を通ったとは驚きです。
武田家は遠江・駿河・甲斐・信濃・上野を領していながら滅ぶとは、盛者必衰ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 23:03

(1)武田軍が長篠城まで攻め込んでいたということは、信濃の松尾城~犬居城~二俣城~井伊谷城~長篠城というルートで攻め込んだのでしょか?それとも直接、信濃から三河に攻め込んだのでしょうか?


   1575年の長篠の戦いであれば、信濃から直接三河に入ったようです(武田軍が長篠城を攻めたのは、1回ではありません)。

(2)三河の田峰城などから信濃に侵攻することは可能でしょうか?
    田峯菅沼家は三河と信濃の国境の城として知られる武節城も領有していたようですから、勝敗は別として可能ではあったでしょう。

(3)曳馬城・横須賀城などの海に近い城は武田に占領されたことがありますか?
   曳馬城・横須賀城については、武田軍に占領されたことはありません。占領とは違いますが、相良城を勝頼が築城したと言われているようですね(江戸時代に田沼意次が築城した同名の城とは別)。

(4)遠江の半分は武田に支配されていた時期はあるのでしょうか?
     面積の問題であれば、北遠一帯を武田に味方する勢力(天野氏等)が支配していましたこともあり、武田勢力の最盛期(勝頼の高天神城攻略の頃)には、武田の勢力で支配されていました。
   
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この回答へのお礼

現在、愛知県の三河地方から長野県への道は、山道なのに、あんな狭い道を1万人・2万人の武田軍が通ったのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/29 22:56

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ちなみに家系図
http://kingendaikeizu.net/seizi/asou.htm

 江戸時代は は嘉麻郡立岩村字栢ノ森(現在の飯塚市柏の森)の 庄屋の家系すね。
明治二年(一八九六)ころは嘉麻郡二十一ヵ村を、翌三年には穂波郡三十一ヵ村を治める
かなり巨大な家みたいです。

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http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/04/post-7b2e.html

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城跡、古城という観点から歴史、領主支配が分かる書籍があります。

ふるさと古城の旅 水野茂著
1998年9月初版
海馬出版
¥1600+税
TEL:054-257-3371

私は、城跡、古城を捜し歩くのが趣味ですが、歴史の息吹と、当時の戦乱武将の生き様が城跡を訪ねる事で感じ取れるような気がします。

 ちなみに静岡県内だけで城跡は700もあるということで、日本全国には2万とも3万とも言われ、今では言い伝えしか残っていない、痕跡も不明な城跡もまだまだあるとの事です。

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弾幕射撃というのは確かに効果的で世界史的にみても長城の戦いの15年後にオランダで使用されそれなりに効果があったらしいですが、但し実用化するにはまず大量の鉄砲、そして統一的な訓練が必要なわけで、オランダの例はそれらを行えるだけの資金的・時間的な余裕があったからです。

一方信長の場合は、鉄砲それ自体は早くから注目していたようで(但しこれはどの戦国大名も同じ)資金も豊富ですから数も多く所有していたようですが、当時の信長にはそちらにまわせるだけの余裕はなかったと言われており最近の定説では1000-1500挺ぐらいとされています。
実際の使われ方については、鉄砲の上手い兵士に従者を何人かつけて、撃つ人、弾込める人、火薬詰める人と役割を分けることで少しでも効率を良くしようとしていたようではありますが、これは従来から行われていた方法です。

長篠城からの援軍援軍要請が家康に、家康からの要請が信長に届いたのですが、当時畿内で忙殺されていた信長は乗り気ではなかったようです。が家康が武田と講和するとまで言い出したためにようやく重い腰をあげたと家康側の文献には載っています。であわてて駆けつけたものですから織田軍も筒井軍などの連合体であり、鉄砲もあちこちから何とかかき集めてきただけ(織田領内はこの時期軍事的に一種の空白地帯になっています)。それでさらに徳川との連合ですから、俗説的に言われていたような統制のとれた三段撃ちを行えるような準備がまずできなかったでしょう。上手い人をそれぞれの部隊から抽出して、それらに従者をまとめて付けるというような工夫ぐらいはしたかもしれませんが。
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でなぜそんな定説が事実として教科書にまで載るようになったかについては、元ネタは歴史書というか日記風の軍事詳報的な大田牛一の「信長公記」を元にした小瀬甫庵の歴史書というよりも小説「信長記」(江戸初期のベストセラー)に出てくる逸話で、このエピソードを明治の日本陸軍が採用したためらしいです。
※ちなみに「信長公記」では鉄砲は1000挺ですが、版によっては小さく3の字が追加されていたりして、「信長記」では完全に3000挺になっています。

なぜ陸軍が採用したかについては単に戦訓を載せる際に、具体例があった方が分かりやすいからというぐらいの単純な理由で、大事なのは史実ではなく戦訓(ex.鉄砲の前に騎馬が突撃すべきでない)ですから脚色が入っていてもかまわなかったのでしょう。

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本当に中国人か、本当に歓喜しているのか、万歳しないと殺すぞと言われたのではないかと考えないのかな?

>旧日本軍入城後に歓喜した中国人たちはどこに消えたのですか?
日本軍に殺された、中国軍に奸漢として殺された、一文にもならないから黙っている、証言したが相手にされないなどいろいろ。

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織田軍には当時 中国計略中の羽柴秀吉や北陸で戦っていた柴田勝家 前田利家らのエース級の武将が不在だったわけで どう見ても織田軍に勝ち目はなさそうなのですが…

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戦争においては、兵力の多寡が大きな影響を与えます。昔だろうが今だろうが、基本的に兵力が多いほうが勝ちます。例えば城攻めを除けば名作戦が少ないといわれる秀吉ですが、しかしほとんどの戦役に勝利をしています。九州攻めしかり、小田原攻めしかり。九州攻めも一部で大敗しましたが、最終的には勝利しています。なぜ秀吉が勝ち続けられたのかというと、やる前から勝てるだけの兵力を集めたからです。つまり最初から「こりゃ勝つだろ」というだけの兵力を集め運用したことが秀吉の凄さであったといえます。
あの孫子の兵法書にも、名将というものは本来「戦う前から勝てる体制にしておく」ものであると書いてあります。

さて、武田軍というとやれ二十四将だのなんだのといわれていますが、まあ過度に宣伝されている部分もあります。どこかの質問者さんのように捏造というつもりはないですけどね。
その武田軍どころか名将武田信玄と直接戦って大敗したのが徳川家康です。ご存知、三方ヶ原の合戦です。ところがこの三方ヶ原の合戦、家康は大敗していながら主だった家臣を誰も失っていないのです。あの本多忠勝を始め、後に関ヶ原の合戦の前哨戦の伏見城の戦いで壮烈な戦死をとげる鳥居元忠や赤備えで有名な井伊直政ら、誰も戦死していないのです。つまり、戦いには負けたものの、徳川軍は弱くはなかったのです。
というか、あまり知られてないのですが、家康の野戦指揮能力って信玄や謙信クラスに匹敵するんですけどね。小牧・長久手の合戦の野戦指揮なんてまさに変幻自在というべきものでしたしね。

だから、武田軍は精兵、織田軍は弱いなんてよくいわれますけど、確かに織田軍は強くないけど、徳川軍は武田軍と互角の実力を持っているのですよ。
そして、悪魔的にドSの信長は長篠の合戦でも要となる設楽ヶ原南部にその家康を配置します。設楽ヶ原北部は起伏がある地形で、さらにそこに織田軍は柵を作り、空堀を掘りました。つまりそこにちょっとした城を築いたのです。それでそこに大量の鉄砲を用意して万全の「防御陣地」としました。
一方、設楽ヶ原南部は地形が緩やかでかつ開けています。そこに徳川軍が配置され、周到な信長は徳川軍が突破されたときに備えてその背後に息子の信忠を隠しておきました。つまり信長は家康を使い捨ててもいいと考えていたのです。ドSですね!
実際問題、戦いが激しかったのはこの家康が担当した設楽ヶ原南部だったのです。

つまり信長の戦略は、織田軍の正面の北部戦線は陣地と鉄砲でしっかり守り、南部は徳川軍をこき使って勝てば上々だし、仮に徳川軍が突破されても戦略予備の息子信忠が武田軍を食い止めるから無問題というものであり、実際に信長の戦略の通りになったのです。

長篠の戦役において、武田勝頼は戦術的勝利を追求するしかありませんでした。精鋭武田軍を率いるのであれば、戦術的勝利は見込めますからね。戦術的勝利が突き抜けることで戦略的勝利につなげようとしていたのです。
しかし対する織田信長は最初から戦略的勝利を狙っていました。信長にとっていちばん恐れていたことは、織田・徳川連合軍の数の多さに勝頼が驚いて、決戦を避けて撤退されることでした。だから、まるで武田軍を恐れているかのように腰が重い動きを見せたり、息子信忠の軍勢を隠したりして「織田軍は精兵武田軍との決戦を恐れている」あるいは「両軍の兵力はほぼ互角である」と思わせようとし、そしてそれは成功したといえるでしょう。
稀代の戦略家、織田信長の方が一枚も二枚も役者が上であったということですね。

戦争においては、兵力の多寡が大きな影響を与えます。昔だろうが今だろうが、基本的に兵力が多いほうが勝ちます。例えば城攻めを除けば名作戦が少ないといわれる秀吉ですが、しかしほとんどの戦役に勝利をしています。九州攻めしかり、小田原攻めしかり。九州攻めも一部で大敗しましたが、最終的には勝利しています。なぜ秀吉が勝ち続けられたのかというと、やる前から勝てるだけの兵力を集めたからです。つまり最初から「こりゃ勝つだろ」というだけの兵力を集め運用したことが秀吉の凄さであったといえます。
あ...続きを読む

Q信孝は、秀吉が三法師を支持したことにどう反応しましたか?

信長死後の、5大老などが集まって信長家の今後を清洲城で会議しましたが、その際秀吉は信長の幼い孫、三法師を家督にと支持しました。
信孝はそれを聞いてどう思ったのか、そしてそれに対してどう行動したのかを知りたいです。信孝は信長の弔い合戦である明智光秀との戦い(山崎の戦い)を主導してくれた秀吉に恩義を感じ、自身も戦いに参戦しました。でも自分を家督に支持してくれなかったことは恨みではありませんでしたか?

Aベストアンサー

本能寺の変では信長、信忠(長男)が討ち死にしています。
官位の問題では明確な返事をせず、信忠を征夷大将軍にすれば良いと返事をします。(したいなら、そうせい。)

その後の事件でした。

秀吉の言い分では、信長→信忠→三法師
(信忠の子であり、信長の孫。長男の正当な家督相続。)

勝家は三男信孝を推薦します。
(勝家は信孝の元服時の烏帽子。)

筋目を押す秀吉 対 烏帽子親を利用して実権を握りたい勝家。
秀吉は信孝を三法師の後見人にする事で丸め込みます。

勝家はお市と再婚。

信長葬儀では秀吉が太刀持ちを勤めます。
信雄、信孝欠席。羽柴、瀧川も欠席。

ここで本格的に対立する姿勢をおのおのが見せますが、
こうなった原因は秀吉を排除しようとやっきになっていた信孝本人にあるようです。

煽り、煽られ、煽り返すと言う悪循環が正当後継者になるべき人間であると言う根拠の無い理屈を生んだのだと思います。

勝家の討ち死で全ての幕が閉じたと言っても過言ではありません。
信孝は切腹。

秀吉が天下を取ったように見えますが、
徳川、伊達、北条の3国同盟で秀吉との兵力は互角。
臣下の礼に顔を見せません。

面白くない信雄は徳川の協力を得て挙兵。
秀吉は大軍とは言え局地的な手痛い負け戦を経験し、信雄と講和を結びます
信雄は家康に無断で講和してしまいます。

その後家康に人質を差し出して臣下の礼をさせ、未だ逆らう北条を下します。
伊達はこれに参戦し、家臣である証を立てた訳です。

こう言う流れです。

本能寺の変では信長、信忠(長男)が討ち死にしています。
官位の問題では明確な返事をせず、信忠を征夷大将軍にすれば良いと返事をします。(したいなら、そうせい。)

その後の事件でした。

秀吉の言い分では、信長→信忠→三法師
(信忠の子であり、信長の孫。長男の正当な家督相続。)

勝家は三男信孝を推薦します。
(勝家は信孝の元服時の烏帽子。)

筋目を押す秀吉 対 烏帽子親を利用して実権を握りたい勝家。
秀吉は信孝を三法師の後見人にする事で丸め込みます。

勝家はお市と再婚。
...続きを読む

Q武田信繁、長篠の戦い?

武田家臣団という本を読んでいる中で疑問に思ったのですが。
「信玄の死後徳川家康が長篠を包囲。勝頼は出兵を決意。
小山田信茂、土屋昌続、武田信豊らを三河に。
山県昌景、一条信龍、武田信繁、穴山の不気味を北遠江に出陣させた。
この時信繁が徳川家臣の本多重次、忠勝、榊原康政らに押され…」
という部分があるのですが、この記述は何かの間違いなんでしょうか?
武田信繁は川中島第四回で討ち死にしているので、信玄の弟である
武田信繁が長篠にいるはずはないと思うのですが。

Aベストアンサー

こんばんは。
おっしゃるとおり、武田信繁ではおかしいですね。
正しくは、武田信廉(武田信玄や武田信繁の弟)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BB%89

P.S.
「穴山信君」→「穴山の不気味」には大ウケしました。
ありがとうございました。(笑)

Q40代中盤から、武田久美子風の雰囲気にしたいと思うのですが、どうでしょうか? 私は今、30代後半で、

40代中盤から、武田久美子風の雰囲気にしたいと思うのですが、どうでしょうか?

私は今、30代後半で、ファストファッションが多いです。

来年、沖縄本島に移住希望なんですが、どこに住むかは決めてなくて、上手くいくとして、那覇にいくときは、武田久美子風、北谷や離島、ビーチ、北部の森に行ったりするときは、サーフ系のファッション、もしくは、ハワイのショップによく売ってるような、花柄のマキシ丈ワンピースを一枚で着るリゾート系と使い分けたいのですが、武田久美子風で、ヘアメイクは、そっちよりに出来ても、腕時計や指輪なんかが3千円とかだと、武田久美子の高級感は出せないですかね?
ワンピースも高級ブランドでは買えなくて、一万円代とかで、アクセサリーが安物だったら、ダサって思いますか?やはり安物では武田久美子オーラは出ないですか?

今の自分じゃ、高級ブランド買えるだけのお金を稼げ出せません。

中身もそれなりに磨かなきゃ、高級感ある女にはなれないでしょうが、どういう大人の女性になるか模索してます。
回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ファッションはセンスだと思います。内面から出る美しさがある人は素敵ですよね。
武田久美子さんは顔つきやボディラインも妖艶で格好良くみえるかもしれませんが、下手すると下品でケバいだけの
オバサンになってしまいます。そうなると魅力どころか陰で妖怪扱いされる可能性が。。(職場にいます)

Q歴史について 幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたのですが兵力で大きく上回る幕府軍のはずの幕府軍の

歴史について
幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたのですが兵力で大きく上回る幕府軍のはずの幕府軍の敗因は何ですか?

Aベストアンサー

錦の御旗が原因です。


一万五千と五千の兵力差だけでなく、政治情勢的にも誰もが徳川慶喜なしの政権はないと考えていた時代です。
大久保利通ですらそう思っていました。

慶應四年一月四日までは。


それが変わったのは、鳥羽伏見の二日目です。
二日目には、「徳川慶喜は政権に絶対戻れない」と皆が思うようになりました。



一日目と二日目の間に何があったのかは、錦の御旗が原因としか考えられません。




>薩長軍を叩き潰せば錦の御旗は旧幕府軍の物にならないんですか?

ならならないです。本物なら。
ただ、その時点では「偽物だ!」として無視させる事も出来たかもしれません。わずか一日の話です。真偽を確かめる術などないので、指揮官の指示を信じるかどうかになります。

しかし、多くの徳川側の兵が信じ込んで、連鎖反応をして雪崩現象が起きて形勢がひっくり返ったのです。

「敗北の原因となった錦の御旗ですが、そもそも幕府側がそれを信じ込んでしまった原因は何ですか?」については、私も詳しくは知りません。

錦の御旗の作戦を事前に知っていた、大久保利通ですらこの作戦がここまでうまくいくとは思っていなかったでしょう。もし勝利の秘策として確信があるなら、初日に「二十年の苦労が土崩に帰した」と日記に記したりはしないはずです。

大久保利通は敗北を覚悟したのです。しかしその翌日は全く逆の情勢になっていました。
(岩倉具視は、ここまで作戦がうまくいくと予想していたかもしれませんが知りません。)

錦の御旗が原因です。


一万五千と五千の兵力差だけでなく、政治情勢的にも誰もが徳川慶喜なしの政権はないと考えていた時代です。
大久保利通ですらそう思っていました。

慶應四年一月四日までは。


それが変わったのは、鳥羽伏見の二日目です。
二日目には、「徳川慶喜は政権に絶対戻れない」と皆が思うようになりました。



一日目と二日目の間に何があったのかは、錦の御旗が原因としか考えられません。




>薩長軍を叩き潰せば錦の御旗は旧幕府軍の物にならないんですか?

ならならないです。本物なら...続きを読む


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