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釈迦とイエスは同じこと(真理)を悟った。
が、真理というものは、言葉で人にわからせることは非常に困難であるため、
あたかも二人が、違うことを悟ったかのように後世に伝わってしまった。
と、人から聞いたのですが……
そういうことなんでしょうか?

A 回答 (9件)

一つの考え方としてお答えします。


悟りを開く、悟りの境地に身を置くというのは、博愛主義に目覚める――な
んてこととは全然次元の違うことです。釈迦やイエス以外にも悟りの境地に
達した人はいますが、その時知りえたことは寸分違わず時代環境を超越した
普遍の真理です。
それがどういうものであるかというと、当然私もその境地に身を置いたこと
がないので、あくまでも想像ですが、簡単にいうと、相対の世界から絶対の
世界に身を置くということです。相対の世界が虚構であることに気がつくと
いうことです。前後・左右・増減・遠近・遅速・苦楽・美醜・優劣・勝敗・
貧富から生死に至るまで、全てが虚構に過ぎないことに気がつくことです。
生死をも超越してしまうわけですから、己が永遠不滅の存在であることを実
感でき、まさに神になったように思えるのです。そしてその言動も俗人から
は非常に奇異なものに見え、神として崇拝する者もある反面、危険人物とし
て排撃される場合もあるのです。ソクラテスや老子なども悟りを開いている
と思われますが、高名心がなくなるので、悟りを開いても無名の民として生
涯を終えることもあるようです。
誰にでもその境地に達することが可能である半面、それがどういうことであ
るかを説明することは非常に難儀で、書き記すことなど不可能に近いことな
ので、多くの覚者(悟りを開いた人)は書を残していないのです。人に説くこ
とを諦めて山にこもってしまった覚者もいるそうです。
悟りを開いた瞬間というのは、まさに、雷に打たれたような衝撃を受け、そ
の歓喜のあまりに叫ばずにはいられず、釈迦は「唯我独尊」とうそぶき、イ
エスは「我神の子なり」と自負し、日蓮は「我が法の他に法はなし」と叫ん
だとか。ただ単に博愛主義に目覚めたくらいでは、このような言動はとらな
いことでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
一番、ビビッときた回答でした (^^;

>その時知りえたことは寸分違わず時代環境を超越した普遍の真理です。

真理というくらいですから、それが複数あったり、変容するものであったら困り
ますよね (^^;

>相対の世界から絶対の世界に身を置くということです。相対の世界が虚構であ
>ることに気がつくということです。前後・左右・増減・遠近・遅速・苦楽・美醜
>・優劣・勝敗・貧富から生死に至るまで、全てが虚構に過ぎないことに気がつく
>ことです。

なるほど――
同様のことが載ってます!!

≫道徳は相対の世界であり、宗教は絶対の世界である。
                               『大乗起信論』

≫光と影、長と短、黒と白などが別個のものであり、区別されなければならない、
≫というのは偽りである。それらは互いに独立してはいない。同じものの異なっ
≫た側面であり、リアリティではなく、関係性を語ることばなのだ。存在とは互い
≫に排除しあうような特徴をもたないものである。本質において、物事は二つでは
≫なく一つなのだ。                    
                                 『楞伽経』


≫彼らはイエスにいった。では、子供になれば王国に入れるのですか? イエスは
≫彼らにいわれた。あなたがたが二つのものを一つにするとき、内部を外部、外部
≫を内部、上を下とするとき、そして男と女を一つにするとき、あなたがたは王国
≫に入るだろう
                              『トマス福音書』

                           
>生死をも超越してしまうわけですから、己が永遠不滅の存在であることを実
>感でき、まさに神になったように思えるのです。

これも同様なのがあります。

≫心が永遠であることを自覚することが究極の悟りと呼ばれる
                              『大乗起信論』

≫あらゆる時間の流れは、一つの同じ永遠のいまのうちに一体化する。過去とか
≫未来など存在しないのだ。
                        『ニコラウス・クザーヌス』

≫永遠の生は現在に住む人々の手のうちにある
                         『ヴィトゲンシュタイン』


>悟りを開いた瞬間というのは、まさに、雷に打たれたような衝撃を受け、そ
>の歓喜のあまりに叫ばずにはいられず、

これに関しては、

≫この瞬間には生じてくるものは何もない。存在しなくなるものもない。すなわち
≫不生不死なのだ。この現在の瞬間は絶対の平和である。この瞬間には境界も制限
≫もなく、永遠の喜びがあるだけである。
                                『六祖壇経』

悟りの境地というのは、きっと、精神のコペルニクス的転換と呼べるようなもので
はないでしょうか。永遠を感じ取り、まさに、神と合一する瞬間……。それが唯一
無二のものであることは間違いないようですね。確信を持てました。ちょっと高度
な道徳論を組み立てるようなことでは、決してないですよね(^^; 老子は「名なき
もの」と言って博学多識の孔子を封じ込めてしまったそうですけど、所詮孔子はご
ちゃごちゃした世俗レベルの道徳論を振りかざしたのに過ぎなくて、老子とは雲泥
の差どころか無限の差があったんでしょうね。

本当に貴重なご回答をありがとうございました。


≫すべての仏陀、そしてすべての生きとし生けるものは、一つの心にほかならず、そ
≫れ以外、何も存在しない。この心には始まりがなく、不生、不滅である。それは緑
≫でも黄でもなく、形も姿もない。それは存在するものの範疇にも、存在しないも
≫のの範疇にも属さず、新旧という捉え方のできるものでもない。それは長くも短く
≫もなく、大きくも小さくもない。あらゆる限界、物差し、名前、痕跡、比較を超越
≫しているからである。ただ、一つの心に目覚めればよい。     
                                 『禅師黄檗』

お礼日時:2002/08/05 17:08

再度です


宗教は共通して勧善懲悪を説くものであり、それ以外にはないともいえます。
お経の中でも仏陀は以前の聖人から伝わったものであるといっています。
真理(天地の運行)は釈迦やイエスが生まれる前から普遍なわけで、そのうちのどの方向を強く理解したかで違いがあり、
現代の人ももちろん自信をもって生きています。
この二人に限定しなければ、質問の趣旨は賛成できます。
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この回答へのお礼

>宗教は共通して勧善懲悪を説くものであり、

水戸黄門やウルトラマンに通じるものがあるわけですね。

お礼日時:2002/08/05 17:13

 これに限らず、あらゆる体系が、正しいものであれば、中心に近づくにつれて互いに似通ったものとなり、末端に行くほど差異がひどくなります。


 既に両者とも往時の姿はありませんが、聖書の中に生まれ変わり等のヒンドゥー的な要素があることは事実です。
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あの二人が「何を悟ったか」は誰にもわからないでしょうね。


大切なことは「何を説いたか」です。
二人の説いた内容は正反対といえるほど違っていますね。
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この回答へのお礼

>大切なことは「何を説いたか」です。

「何を説いたか」は、悟ってない連中が勝手にまとめたことのなんで、興味ないです。 (-_-;)

お礼日時:2002/08/05 16:36

例えば


『無知の知』『汝自身を知れ』
その言葉を聞いて味わい、謙虚な気持ちを持つ事が出来て心が広くなったとします。
そのような時、人は何事かを悟った、と言うのだと思います。
レベルとかステージとか、悟りを深く考えると身構えてしまいます。
悟りを良きものとして広く受け止めれば、意外と、そこかしこ日常的に見受けられることでもあります。
イエスや釈迦が、受難や修行といった試練を経て得た悟りは、質が異なるかも知れません。しかし言葉は違っても、結局『愛』『慈悲』というエゴを離れた自己犠牲を含む相互扶助の精神に行き着き、あの人方は同じことを悟り実践したと理解します。
『神の子』『唯我独尊』、も謙虚さを離れては奢りを脱し得ないのだと思います。
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この回答へのお礼

>『無知の知』『汝自身を知れ』
>その言葉を聞いて味わい、謙虚な気持ちを持つ事が出来て心が広くなった>とします。

私は、別に、なんにも思いません。

お礼日時:2002/08/05 16:44

キリストで有名なのは「博愛」


釈迦では「輪廻転生」
悟った内容は大いに違うと感じます。
仏教国とキリスト教国とは今でも社会体制が違うのではないでしょうか。
人は一人一人違っています。表現だけではないはずです。
算術の真理を発見する人もあれば天体や植物学の真理を発見する人もあるようなものです。
倫理社会で習いませんでしたか。
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「真理」とは何を指しているのか、ということが問題でしょう。

この世界の根拠は、人間の存在の目的は、人間の根拠はなど、色々な問いがあります。それらが、ただ一つの答えで、回答できるとは思えません。聖トマスのいうような「至福直観」という、「直観」状態で、すべての存在の様相について、「真理」が直観的に把握できるとしても、それは「一つの真理」ではないのです。

世界の存在や人間の生きる意味や目的などの「根拠的洞察」を「真理」と呼ぶことができるかも知れません。また、それはイデアー的原型で、超越的に「一つ」だとすることもモデル的に考えられます。

しかし、具体的に生きている個々人は、それぞれの別の人生と別の世界の見方を持っており、それは文化によっても規定されます。それゆえ、イデアー的な一つの真理が、個々の人の実存に応じて、多様な形に了解されるのだということが現実に成立する「真理」の意味でしょう。

釈迦もイエズスも、具体的な人間でした。従って、釈迦の悟った真理と、イエズスの悟った真理は、違った様相のものでしょう。

人間は平等であり、誰もが生きる意味を、この宇宙のなかで持っている、というような「定立」については、釈迦もイエズスも、似たようなことを悟ったのだと思えます。

けれども、心の非常に深い部分で、イデアー的な「真理」を悟ったとしても、通常の意識で、悟った真理を把握しようとすると、釈迦なりイエズスなりの実存がどうしても関係して来るでしょう。文化の問題もあります。

悟った内容を、人々に伝えると、人々のあいだで段段誤解が生じてきたというのも言えますし、釈迦もイエズスも、それを人々に伝えるという作業にかかったとき、悟ったものは、やむをえずも歪曲されてしまうでしょう。釈迦自身、直観で得た真理と、それを意識で捉えたときの真理では、違っているということに気づいていたでしょう。

イエズスが言った「天の国」と同様に、真理もまた、そこにある、ここにあるというようなものではなく、人がより良く生きる実践のなかで、繰り返し、垣間見られ、その一端を、了解できるような何かでしょう。

釈迦もイエズスも、あるいは、一つのイデアー的真理を直観したのかも知れません。真理は一つであるという根拠はないのですが、二人の教えのなかで、例えば、人間を差別することを否定する教えや、生きる意味があることを説く教えは、共通しています。

しかし、そのイデアー的な直観真理とは、「どういうことなのか」、具体的に理解しようとすると、二人の自身の理解段階で、元の「直観心理」とは違ったものになったでしょう。なおさらに、人々に伝えようとすると、また人々が理解した内容は、二人の直観したものとは、違ったものになったでしょう。

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(釈迦の「悟り」は、それぞれの人が、釈迦の教えに従って、修行し瞑想すれば、悟りに達せられるものでした。初期仏教では、このようにして「悟り」を開いた人が釈迦の弟子に多数いたとされます。

釈迦の弟子は、「直観把握」で真理を捕らえることができたのでしょう。そして、釈迦は、弟子が、悟りに達したことを認めています。それは伝説とは思えないのですし、小乗仏教では、いまでも「真理の直観」、釈迦の悟りは修行と瞑想で到達できると教えています。

イエズスの悟ったことは、弟子たちは、その「悟り」を再現していません。イエズスは、自分と同じような「真理の直観」を行うにはどうすればよいのか、というような方法を弟子に教えていません。

釈迦の教えも、イエズスの教えも、「教え」として説かれた段階で、すでに、二人の教えは違った形のものだったでしょう。その教えのなかに、「共通する真理の光」が含まれていたということが、言えることでしょう)。
  
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>釈迦の悟った真理と、イエズスの悟った真理は、違った様相のものでしよう。

時代や環境によって様相を変えるようなものは、真理と呼べません (>_<)

お礼日時:2002/08/05 16:29

 こんにちは


 確かに、自分が生きてきたこの数年間の経験だけでも悟りを言葉で表現して、
なおかつそれを他人に伝えるのは難しいと言えます。なにせ、
言葉で説得しようとすると自分一人ですら納得させられない時もありますから。
(自分の悟りといっても別に偉大な悟りではないですが…)

 それに、言葉にしてしまうと壊れてしまう場合もあります
(まぁイエス様お釈迦様ならそんな事はないでしょうが…↑)
悟った実体をその時のまま、ずっと忘れずにいるためには語らないか言葉すくな
であることは例え偉人でも必要だったのかもしれません。
 もとから言葉は完璧なものではないですからね。量子化誤差と言うものを
ご存知でしょうか?一言で表すとそれが自分なりの、ご質問への回答です

 途中わずかに脱線しましたが、これにて失礼します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
悟りを開かれたのですか?
凄いですね――

>量子化誤差と言うものをご存知でしょうか?

知りません。なにか、凄く難しそうですね。

お礼日時:2002/08/05 16:22

真理は一つのようにも思えます。


しかし、実際は悟ったものしか解らないというのが真理のようです。
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