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先日ある大学の心理相談室に行ってきました。
最初のインテークは臨床心理士・・・といっても私より若い女性でしたが、
もともと、大学のこの手の相談室の相談者の多くは子供なので、いまいち
頼れるという印象は受けませんでした。
話の中で気になたことは、過去の質問内でも触れたかも知れませんが、
私が自分の現状は全て自分が悪いのであって、社会の性でも学校のせいでも、会社、上司、同僚のせいでもないと思っている。
自分の不遇を他の責任にするのは卑怯だし、自己欺瞞だと思うと言ったところ、心理士がとても感心していた点です。
「ご自分のせいだということをちゃんとわかってらっしゃる訳ですね」

しかしわたしはそう言われて複雑な思いです。

本当に何もかも悪いのは私なのか?
人のせいにすることは絶対に許されないことなのか?
時に人のせい、社会のせい、○○のせいに出来たら随分楽だろうなと思うことがあります。

けれども心理士に「人のせいにしない」という姿勢を最初に評価されてしまって・・・

「人のせいにする」ことは一般に悪いこととされていますが、
その根拠は一体何処から発せられているのでしょう・・・

A 回答 (25件中1~10件)

連打ですm( )m



>>「人のせいにする」ことは一般に悪いこととされていますが、
その根拠は一体何処から発せられているのでしょう・・・

すみません…ここの答えになってなかったですね^^;

「人のせいにする」が一般的に悪だとされるのは
「自分のことを棚にあげて、学習出来ず、他人を傷つけること」が悪なのだと思います。

他人のせいばかりではないように、自分のせいだけでもありません。
言い換えれば、人間関係、自分の努力は必要ですが、
自分に関わる相手の努力もあってこそ「良い関係」になれるのだと思います。
自分の人生、自分で切り開く為にその非は確実に自分の努力の方が大きく無いといけませんが。

自分ばかりを責めて、関わってきた自分以外の影響力を加味しないのは
片手落ちだと思います。
時には、冷静に「そのときには間違っていても相手はそうするしかなかったんだ」
と相手の落ち度も許す・認める余裕を持つことも大切だと思います。

この回答への補足

この場をおかりしまして。
今回も皆さんから多数のアドバイス、経験談、視点の提示を頂きました。
けれども毎回これだけ多数のご回答を頂きながら、依然として変化の見えない私にみなさんどのように感じておられるかと考えます。
多数の回答を頂けばそれだけプレッシャーも強く感じます。
そしていつも回答を無事締め切る時に思うことは、
「今日の笑顔は明日の顰蹙」という思いです。
嘗て人との継続した円滑な関係を築けたことのない私ですので。
このような場でも例外ではないと思います。
私は人間を怖れています。
親切にされればされるほど、その反動の大きさが私を不安にさせます。

尚今日大学の心理相談室から連絡があり、引き続きのカウンセリングが可能ということになりました。
「ひとのせい?」「わたしのせい?」という問題以前に、なかなかカウンセラーに心を開けないことが問題のような気がします。
次回は9月5日の予定です。今の己を省みて「日暮れて途遠し・・・」の感は否めません。

最後に今回も皆さんの鋭いく或いは温かいご回答に1位2位をつけることができませんでした。
どの回答も私にとっては貴重なご意見です。
ご不満もあることと思いますがご理解ください。

また引き続き質問を続けるでしょう。
「今日の笑顔は明日の顰蹙」という囁きを耳元に聞きながら。

ご回答くださったみなさん。
それぞれに改めてお礼申し上げます。

どうもありがとうございました。

補足日時:2007/08/28 23:21
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この回答へのお礼

>時には、冷静に「そのときには間違っていても相手はそうするしかなかったんだ」
と相手の落ち度も許す・認める余裕を持つことも大切だと思います。

なるほど。

あなたは私など比較にならないほど冷静に自己分析をなされて、
よりよい自己を構築なさっていますね。
学習能力も高いし。

素晴らしいと思います。

再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/28 18:01

はじめまして♪^^



「ひとのせいか?」「じぶんのせいか?」
わたしも、自分の精神を維持する為に
この問題にはいつも葛藤してきましたので
あなた様のご質問には最初から興味がありました。

皆さんとても参考になる哲学的な回答をされていて
ただ、わたし自身が参考にしたいという想いから読ませていただいてました♪
そんな複雑な心理側面もあったのだな~~と、とても勉強になりました。

哲学的な側面からはお話が出来ませんが
この機会にわたしの経験上の話をさせて頂くことお許し下さい。

わたしもカウンセラーのかたに話を聞いてもらい
「ひとのせいにしない」事を感嘆と共に評価されることありました。
ただ、いつも「そんなにご自分で抱え込まれて責められる必要はありませんよ」と言葉が後続されていました。。

わたしは質問者さんと一緒で何事も
「他でもない、、わたしのせいだ」と思う性質です。
それはわたしらしいという自負もあって
調子が良い時には、そこから学習して次への英気にもなるのですが
どうしても精神的に弱ってるときには
前向きに考えられず「自分を必要以上に責める」ということに終始してしまいます。。
その回路に陥ってしまうと、学習は愚か、次へのステップが踏めず
「失敗するからわたしは行動を起こさず、何も感じずにいよう」と
停滞してしまうのです。

その時に、カウンセラーの医者は
「人との関わりはあなただけで頑張るものではない。時には冷静に
相手の非も割り合い的に存在すると認識すべきだ」と助言してくれました。

その後の私は極端ですけど、自分の精神状態を盛り返す為に
「他人のせい」というのも意識して自分が楽になろうとしました。
「他人のせい」というより「自分を責めない」というのが心の病気になった私への一番の治療であったと思います。

カウンセラーの方は
「真面目で自分が何とかしなきゃと思う人ほど
自分に厳しく、それに押しつぶされると言う現象が起きます。
人間フィフティフィフティ・・相手の落ち度と言うのも冷静に判断できる健康な精神状態に戻りましょう」と言われてました。

あなたに接見されたカウンセラーの方は
後続する言葉は次回に持ち越されただけで
今は、あなたの生の精神状態を肯定するという姿勢でいるように思えます。

余談ですが、「自分に厳しい」人は
反面要求で自己愛が強いひとでもあります。(自分だけを信じてるというような)私も含めて・・・

「他人のせい」が責任の追求型ではなく
他人も人間なんだから間違いも起こす、、許そうという
精神状態に自分を置くことが出来たら、本当の意味で健全な心を確立できるような気がします。。私の場合ですが^^;
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
カウンセリングの経験談、興味深く拝見しました。
書かれているカウンセラーの言葉よりもあなた自身の自己分析により関心を覚えました。

>「失敗するからわたしは行動を起こさず、何も感じずにいよう」と
停滞してしまうのです。

これなど正にわたしにそっくりですね(苦笑)

>その後の私は極端ですけど、自分の精神状態を盛り返す為に
「他人のせい」というのも意識して自分が楽になろうとしました。
「他人のせい」というより「自分を責めない」というのが心の病気になった私への一番の治療であったと思います。

このあたりも頷けます。

いいカウンセラーにめぐり合うことが出来てラッキーでしたね。
でも私は基本的に素直じゃないし、傲慢なところがあって、
カウンセラーのなまぬるい励ましや肯定の言葉を軽んじてしまう傾向にあるようです。

わたしの場合(次回9月5日の予定ですが)まだまだ道は険しいと思いますし、またドクターショッピングならぬカウンセラー巡りが始まるのかと
多少悲観的です。

>「他人のせい」が責任の追求型ではなく
他人も人間なんだから間違いも起こす、、許そうという
精神状態に自分を置くことが出来たら、本当の意味で健全な心を確立できるような気がします。。私の場合ですが^^;

あなたは見事に健全な心を獲得なさいましたね。

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/28 17:54

失礼しました。

ご質問に的確でなかったですね。
どこから発せられるか。
おそらく、自虐的な美意識でしょうかね。人のせいにするのが正当なのを、世の中都合よくまとめるための詭弁である。
考えるとうんざりしてきますね。
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この回答へのお礼

わたしの質問はいつも脱線してしまいます、
(回答者の皆さんが本筋に戻そうと努力なさってくれますのでなんとかまとまっていますが)
・・・気にしないで下さい(苦笑)

>おそらく、自虐的な美意識でしょうかね。人のせいにするのが正当なのを、世の中都合よくまとめるための詭弁である。
考えるとうんざりしてきますね。

そういう解釈もありますね。
あなたの場合は確かに悪いのはあなたではなかった。
なぜならその一言であなたが救われたから・・・

でもなかなか簡単にはいかないですね・・・

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/28 01:15

私もカウンセリングを2,3年前受けました。

そのとき、過去のうまくいかなかったこと時代を話して、それについて解説してもらいました。そのカウンセラーは「それは、環境が悪かったんだよ」と言ったのです。
それまでは、質問者さんのように、自分のせいなのだという議論ばかり聞かせれていたような?気がしていたものですから、この言葉は新鮮でした。そして、こちらのほうが正しいのではないかと思われました。
ご質問者の場合がどういう相談内容か分かりませんが、私の場合は、転校して友達ができず孤立して参ってしまった。それが後に影響して、いろいろ臆病になっているということだったのです。「土地柄が悪いところに移ったでしょう?」って言うんですね。それまでの都心から郊外衛星都市に移ったものですから、やはり設備人員そういうものが、やはり劣っている感じがしました。それに子供ですね。やはり何か雰囲気が違いましたよ。どうもより野性的になっていたというかね。つまり、そういうジェントルからややハードなところに行ったせいが大きいんじゃないかと。これはほんとに青天の霹靂に様なアドバイスでした。そして、正しいと思いました。私のせいもあるが、環境のせいもある。人は、環境かかわる人によって、味方がいるいないによって、おおきく行動パターン精神パターンが変わりますよ。人なんて弱いものです。
私はどうも、質問者さんのかかわっているカウンセラーが信用できません。
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この回答へのお礼

私はこれまでいろんな精神科医にかかってきました。
医師という資格を持っていても本当に人柄、能力はピンキリです。
相性も様々です。
これはきっとカウンセラーにも言えるのだと思います。
私は医者に関しては「あ。これは合わないな!」とすぐわかりますが、
カウセリングを受けたのは今回が初めてですのでまだ勝手がわかりません。
でも2~3回話をすれば徐々に見えてくるものもあると思います。

ご経験をお聞かせくださってありがとうございます。

お礼日時:2007/08/28 01:09

#17です。


>自己否定も自己愛を引き出すための「利」。
そう考えていいのでしょうか?
:自己愛を引き出せるという利があるという意味で、そう思います。

>ただ、過去への固執は私にとって「利」でしょうか?
止むを得ず袖を引っ張られているのではないのでしょうか?
:解釈の違いということになりますが、そういう捉え方もできるでしょう。
変なたとえですが、親や社会に反抗的な暴走族も実は親の愛と社会からの理解を求めている(本当は反抗したいのではなく)、と言うこともできます。
どちらの視点で考えたほうが根本的な解決につながるかという点に留意するのが得策のように思います。
袖を引っ張られるには、それなりの理由があるはずです。
辛すぎたために固執するという解釈もできるでしょうが、辛いとなぜ固執するのかということになると、辛すぎたために無かったことにしたい、すなわち過去に立ち返って一からやり直して欲しい、という願望が付帯してくるからではないでしょうか。
屈折しているとはいえ願望である以上、利と解釈できるように思います。
では、これを利と捉えることのメリットは何でしょうか。
無意識が利と判断していること(=過去への固執、あるいは過去のやり直し)自体が、論理的に考えてみると非常に不合理であって、つまり実現できないことなわけで利でも何でもない、という結論を導きだしやすいからではないかと思われます。
端的に言うと「ないものねだり」なわけです。
元々無いもの(あるいは実現できないこと)に利を見出そうとしているために堂々巡りになってしまいます。
すべからく、過去はやり直せる、と無意識的にせよ判断しているためであって、それを固執と呼ぶわけです。
過去を過去として認定するためには、過去の事実を事実として明確にしておく必要があるように思われます。

>母は、「自分(親)の育て方」言い換えれば「一心同体」であるはずの夫婦が最初からバラバラであったことに全ての原因があると言います。
:まさに、バラバラであったためにそのしわ寄せを受けた構図で、「一心同体であるべき」という観点から、どちらか一方だけのせいにはできないのではないかということを申し上げました。

>そのようなことに思いを馳せたことのない「親」といくら話しても仕方がありません。
:たとえそうであっても、ご自身の心情を吐露して相手に示すということはご自身の内部に何らかの変化をもたらすでしょう。
それが視点の転換のきっかけになることは十分考えられます。
山に向かってバカヤロウと叫ぶことでさえ十分な効果があることに近似しているかもしれません。
相手が受け止めてくれればそれに越したことはありませんが、たとえそうでなくとも「吐き出す」という行為自体に意味があるということです。
 
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この回答へのお礼

自己否定というものの発現が、他からの「否定の否定」を引き出す=リビドーの多少の満足。(他者への回収)をもたらすものとして機能しているのかなと思いました。

>山に向かってバカヤロウと叫ぶことでさえ十分な効果があることに近似しているかもしれません。
相手が受け止めてくれればそれに越したことはありませんが、たとえそうでなくとも「吐き出す」という行為自体に意味があるということです。

よく判ります。
怒りの表出「ANGER MANAGEMENT」という事に非常に感心があります。
以前テレビで多重人格の少女が、治療の一環として、
地下室で「人の顔」の書かれた鉄板に粘土の玉を思い切り叩きつけているシーンがあり非常に印象的でした。無論罵倒の言葉も同時に叩きつけるわけです。

そもそもこの「人のせいに」云々というのも、
なにかそのような・・・

>山に向かってバカヤロウと叫ぶこと

に近い意識から発した質問のように感じます。

いつも考えさせられています。

再三のご回答改めてありがとうございます。

お礼日時:2007/08/27 15:39

すみません。


確かに、舌足らずでした。
感覚的なものを、無理に背伸びをして書いてるものですから、飛躍があって論理性に欠けてしまいます。
ご指摘のように「たいしたことは書けてません」が・・・。
自戒します。

いつも気になっていたのは、本来(?)の生き生きとした感情をそのまま表現することに抵抗があるのではないか、ということです。

>存在を丸ごと許されたいという気持ちはあります。
#ANo.17さんのご意見と重なる所もあるとおもいますが、「ありのまま自分」を許さない自己対象が内在していそうに感じます。
・・・おそらく、知らない間にどこからか、取り込まれたように推測しますが。
その自己の一部が、いつも厳しい目で外界と交流している自分を監視している。超自我とか理想自我といわれているものでしょうか。
自分の弱い所、ホンネを見せることを禁止する。
例えば、母と子のスーパーの買い物場面で、「ママ、これ買っていい?」とか。
「これ欲しい!」って素直に言えなくなってしまう。
内的にも、外的にも抑えるものがあるから。
でも、そうしてるうちは適応的な「いい子」で、衝突したり、泣きじゃくって格好悪い自分をみせなくてすむ。いわゆる抑圧でしょうか。
>「人のせいにする」ことは一般に悪いこととされていますが・・・
と、人の評価や保証を求めてしまう。
それが長期化、習慣化してくると、「理想的な自分」というのが自己の多くを占めてしまって、(無意識的には)「普通のひと」であってはいけないような気がしてくる。「内面を磨く」ということに、没頭する方に傾く。けれど、「理想」はその性質上、天井がなくて上を見たらきりがない。決して満足することはない。
ただ、「理想」に同調しているうちは、心意気があるだけでも救われたように感じる。
・・・・・・・。

・・・・すみません。時間がきて、途中までしか書けませんでした。頭の回転も、手も遅くて・・・。乱文で、失礼な発言あればお許しください。
続きを、また書き込めたらありがたいですが・・・。

この回答への補足

本来「心理学」のカテとはズレますが、私をご存知の方がいらっしゃるということで、このカテに「生きがいについて」という質問をしました。
カテとしては「人生相談」でしょうか・・・
よろしかったらお立ち寄りください。
ご意見お聞かせいただければ幸いです。

補足日時:2007/08/28 01:19
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この回答へのお礼

こんにちは、(こんばんは?)お忙しいところお付き合いくださり感謝します。
「背伸びをして書いてる」のだとしたら、私と同じですね(笑)
なんだか安心します。

お察しの通り、私の中にはいつも抑圧のメカニズムが組み込まれている気がします。それはおそらく自分の欲求が拒絶されることを予め予防しているからだと感じます。
無論異性に告白してもしないよりは確率は高い(ある)訳ですが、
仮に五分五分だとしても、拒絶の可能性が半分あるというだけで、
引き下がってしまうところがあります。

いえ・・・もうすこし掘り下げると、五分五分とか七三、八ニ・・・なんて意識はまるでないかもしれません。
なにか事を起こす前から「絶対ダメだ」という予感が意識を占有してしまうんですね。

ご指摘の通り、「お前かっこ悪いな!」と糾弾するのは他ならぬ自己そのものです・・・

>その自己の一部が、いつも厳しい目で外界と交流している自分を監視している。超自我とか理想自我といわれているものでしょうか。
自分の弱い所、ホンネを見せることを禁止する。

これです。

ただ、ここだけは理解していただきたい・・・というか私の本音ですが、
わたしの理想は他ならぬ「普通の人」なのです。
「理想」が「普通」の人っていう表現も妙ですが、

前回の質問にも書きましたが、私の理想は天上界ではなく、俗世間です。
聖職者でもなんでもない取るに足らない私が「堕落したい」などとは滑稽ですが、自我的な世界の住人になりたいという気持ちは強くあります。

毎回申し上げますが、いつでも歓迎いたします。
お返事(この続き?)お待ちしています。
お暇な折りお寄り下さい・・・

どうもありがとうございます。

お礼日時:2007/08/27 15:12

再回答です。



人間認識の基礎には全回答のような機微があると思っています。

それは置いて、人のせいにすると、やはり自分への引きつけが弱くなります。

本当に他に責を求めるのが妥当なら別に問題ないですが、やはり人間は自分がかわいい。
外罰的になるのが常。

そうなると自分の責を自覚するのが、妥当とは思います。

ただ、ご質問者の苦悩の叫びのようなところと、そこにおけるリアリズムの必要性を感じて、前のような回答をいたしました。
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この回答へのお礼

>ただ、ご質問者の苦悩の叫びのようなところと、そこにおけるリアリズムの必要性を感じて、前のような回答をいたしました

先日は失礼致しました。
この質問の切迫性(?)へのご配慮を一般論と取り違えてしまいました。

そうですよね。

改めて、お気遣いに感謝します。
ありがごうございました。

お礼日時:2007/08/27 14:45

はじめまして。



>私が自分の現状は全て自分が悪いのであって、
>社会の性でも学校のせいでも、会社、上司、
>同僚のせいでもないと思っている。
>自分の不遇を他の責任にするのは卑怯だし、
>自己欺瞞だと思うと言ったところ、心理士が
>とても感心していた点です。
>「ご自分のせいだということをちゃんと
>わかってらっしゃる訳ですね」
>
>しかしわたしはそう言われて複雑な思いです。

ということは、質問者の方は、本音のところで
「全て自分が悪いのであって…」
とは思っていないということです。
私には、そう見えます。


自分の本心と違う意見に賛同されたから、
>しかしわたしはそう言われて複雑な思いです。
と、感じていらっしゃるのではないでしょうか。
(それは、ご自分の内面を、きちんと整理できていらっしゃらないか、自分が心理士の前でいいとこ見せようと思っていらっしゃるか、こういう答え方が求められていると優等生を演じていらっしゃるか、コロコロ自分の意見が変わるのか…私には分かりませんが)

自分のせいだと言われているのは、もしかしたら、人のせいにできない性格から来ているのかも知れませんね(それは、正確に言えば、誰かのせいにはできないから、消去法的に考えるなら、責任は自分にあるんでしょう、といったお考えになるのでしょうか…)。


で、
>「人のせいにする」ことは一般に悪いことと
>されていますが、その根拠は一体何処から発せ
>られているのでしょう・・・

ということですが、これはご自分の問題解決を最優先されるなら、最も有効な考え方です。

「他人と過去は変えられない」という言葉があります。
変わらない、ではなく、変えられない。
要するに、自分の思うようにはならないのが当たり前、ということですね。

自分が今抱えている状況を改善するために、2つの方法があります。
1つは、相手や自分の周りの環境を変えること。
2つ目は、自分や自分がコントロールできる習慣・環境を変えること。

「他人と過去は変えられない」のであれば、相手を変えようと頑張っても、思うような効果は得られません。思い通りにはならないし。
だったら、自分の感じ方や捉え方を修正することで、解決していったほうが早いのではないでしょうか。
「自分と未来は変えられる」のです。

そういう視点に立つと、解決は最も早いと思うので、心理士さんとしては、そういう方向に進めたい、という意図があるのではないでしょうか?
(それと、納得いかないようであれば、きちんと伝えたほうが良いと思いますけど…)

何かの参考になれば幸いです。

この回答への補足

>「他人と過去は変えられない」のであれば、相手を変えようと頑張っても、思うような効果は得られません。思い通りにはならないし。
だったら、自分の感じ方や捉え方を修正することで、解決していったほうが早いのではないでしょうか。
「自分と未来は変えられる」のです。

正直この部分が一番のネックです。
他人(ひと)を意のままに動かすことは出来ないのだし、
それどころか人は自分の意に反することも当たり前にする存在だ。
ならば自分の他者への見方を改めればいいのだ。

そこが何故一番困難であるかというと、
人は思うようにならないという至極当たり前の事実を受け入れること
自他の分離という意識にいたることは私にはなかなか難しいのです。
それは私の中の強い「見捨てられ感」に由来すると思います。
自己意外は当然に「異質の他者」であるという認識はひどく私を不安にさせます・・・

補足日時:2007/08/27 03:59
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この回答へのお礼

>だったら、自分の感じ方や捉え方を修正することで、解決していったほうが早いのではないでしょうか。
「自分と未来は変えられる」のです。

>(それと、納得いかないようであれば、きちんと伝えたほうが良いと思いますけど…)

そうですね。性急にカウンセラーの能力を判断するのはよくないですね。

明快なご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2007/08/27 03:55

#15です。


>・・・何故私は冷静に判断することが出来ないのか?
きっと何もかも自分の非とすることで、何らかの「利」があるという意識が働いているのでしょう。
これを「AUTOMATIC NEGATIVE THOUGHT 」
と言えるのでしょうか・・・
:これは実に鋭い分析ではないかという気がします。
解釈に無理がないし自然でしょう。
生命体が(無論広義の意味で)自分に対して利のないことをするはずがないという大原則(と私は思っていますが)にも合致しています。
では、その利とは何かといえば「過去への固執」ではないかと私は感じます。
処理し切れていない過去があるためにいつまでも固執してしまう、ということです。
その意味で、無意識としてはまさに「>冷静に」判断しているのだろうと思われます。
(現実としては、あるいは無意識的自我としては)冷静に判断しないことによって常に過去を自己に引き付けておくことが可能になるわけです。
過去によって否定された自己を、否定され方が強かった(または、そう感じてしまった)分、激しい自己愛によって取り戻そうとしていることによって摩擦熱が生じ、それがloser_blueさんの自我を不安定にしているという構図でしょうか。

NEGATIVE THOUGHTがAUTOMATICになっている理由は、やはり「抑圧」による刷り込み的経験によるものと考えるのが自然でしょう。
刷り込んだ人を責めるのは必須の作業ではありませんが、刷り込まれた事実は認識する必要があるでしょう。
刷り込んだ人は、殆んどの場合そのこと自体を意識していませんから厄介なのですが、受け止めざるを得ない事実も世の中にはあるということは理解してもらう必要があるのではないか、という気がします。

お母さんと対峙するのは気が進まないようでしたらお父さんと一度じっくりお話してみるのが効果的かもしれない、という印象を受けています。
私の感覚から言うと夫婦は子に対しては一身同体とみなされて然るべきです。
心理とは一種の力学でもあり、冒頭に取り上げたloser_blueさんの自己分析がややそこに近づきかけているように感じます。
視点の転換にはそれなりの強引さも必要になりますが、愚見が、思考される際の何らかの参考になるようでしたら幸いと思います。
 
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この回答へのお礼

冒頭の感想は私にも意外でした。
正直多少強引に導き出した判断と思えなくもありません。

結局私の自己否定と自己愛は、どちらがなくても存在し得ない光と影のような存在なのですね。
自己否定も自己愛を引き出すための「利」。
そう考えていいのでしょうか?

ただ、過去への固執は私にとって「利」でしょうか?
止むを得ず袖を引っ張られているのではないのでしょうか?

>私の感覚から言うと夫婦は子に対しては一身同体とみなされて然るべきです。

その通りですが、現実はなかなか思うようには行きません。
母は、「自分(親)の育て方」言い換えれば「一心同体」であるはずの夫婦が最初からバラバラであったことに全ての原因があると言います。

父は私にとっては最後まで謎の人のような気がします。

わたしも本当は親子3人でじっくり過去を検証したいと思います。
けれどもそれには両親に親としてどの程度の自覚が、意識があるか、
「家族」とは、「子供」とは、また「親」とは、「親の愛情」とは、また親の与える影響とは・・・そのようなことに思いを馳せたことのない「親」といくら話しても仕方がありません。

いつも考えさせられるご意見をありがとうございます。

お礼日時:2007/08/27 03:37

#ANo5,12です。


「歓迎」を真に受けて、また、回答してしまいます。

度重なるご無礼、誠に申し訳ありませんが、
ちょっと遊んでしまいました。
すみません。

>第一責任なんて感じてたら怖くて回答なんか出来ません。
・・・そうですよね。何かを為すには、不安、恥じらいを伴う。
人の評価と厳しめの自己評価を鏡にして、いつも自己確認を怠らなければ、不恰好な姿を人目に晒すことがないし、自分ではとりあえずの納得がでる、と考えてしまうところはないでしょうか。
「怖れ」を煙に巻いてしまう自己否定。
それで、他人の無知は許せても、ご自身の「存在」は許せないのかなぁ。

大人になりきれない私が言うのもなんですが、多少「頼りない」カウンセラーさんの方が、うまく、ご自身の姿を映し出してくれるのかもしれない気がします。

この回答への補足

>ちょっと遊んでしまいました。

せっかく私のセリフを逆手にとって私の問題に言及してくださったのに、
理解できなくて・・・

補足日時:2007/08/26 23:53
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この回答へのお礼

こんばんは。
思いついたことがあれば内容の軽重を問わずなんでも書き込んでください。
いつでも歓迎します。

>多少「頼りない」カウンセラーさんの方が、うまく、ご自身の姿を映し出してくれるのかもしれない気がします。

そういう点もなきにしもあらずですかね。
現にこのようにいろいろ考えさせられていますし・・・

ビミョーですね(苦笑)

ところで今度はこちらからお願いしますが、

読解力不足で肝心な部分がよく理解できませんでした。
「たいしたこと書いてない」などと仰らずに教えてください。

>人の評価と厳しめの自己評価を鏡にして、いつも自己確認を怠らなければ、不恰好な姿を人目に晒すことがないし、自分ではとりあえずの納得がでる、と考えてしまうところはないでしょうか。
「怖れ」を煙に巻いてしまう自己否定。
それで、他人の無知は許せても、ご自身の「存在」は許せないのかなぁ。

この部分がよく理解できませんでした。
よろしかったらご説明頂ければうれしいです。

お礼日時:2007/08/26 23:06

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